digital OSHIGET! キーボードのある景色

キーボードのある景色 Scene 2
IkeShop Users Group Magazine MacTalk no.14 (1989.11.5)


10月の末にニューヨークに行ってきた。早寝はするもので、寝たと思ったら電話がかかってきて、「土曜日からニューヨークに行ってくんない?」と言う。「ノーギャラだけど・・・」と聞くよりも早く「行く行く」と答えて、R子さん(うちの奥さん)に「土曜日からニューヨークだよん」と言って笑った顔のままそのまま寝てしまう。

ニューヨーク(以下NY)の用事というのはE社のラップトップのTVコマーシャルの撮影で、僕の仕事はそのラップトップの液晶画面にボヨヨンと浮かぶボールを出すこと(と思って出かけたら、実際には秒読みなんかもやって、それはそれで面白かったけど)。具体的にはマンハッタンの夕焼けをバックにブルックリン橋の上に大きな切り株を置き、その上にラップトップを置いて撮るというもので(実際にはもうちょっと凝ったテクニックを使ったが)、一応この企画どおりの映像を2日かけて撮り終える。

しかし、CMを見た人はわかるように、このテイクはボツになる。映像が芸術の域まで到達していないというのがディレクター判断だが、予想以上に橋が揺れるし、往来する人や自転車を通行止めするのが結構大変だったりして、それに夕焼けが本当に美しいのは15分程度ということもあって、納得できるものを作るにはそもそも無理がある状況だったわけだ。

理由はさておき、このまま帰国するわけにはいかないので、スタッフは別のロケーションを探して翌日はNYをうろうろする。しかし僕はこれに加わらずに単独の自由行動。NYはハロウイーンを迎えようとしていて、どこのショーウインドウもオレンジ色だ。気候もインデアンサマー(小春日和)というやつで、歩き回ると汗ばむほど。怖いもの見たさに乗った地下鉄は拍子抜けするほど清潔で東京より快適だった。そういえば落書きが簡単に落とせる日本製のステンレス車両を今年に導入したというニュースがあったように思う。それでもNYらしかったといえば、ホームレスの若い黒人女性が車両を回りホームレスの実態を訴え募金を集めていたことだろうか。浮浪者は東京にも少なくないが、俗に言うレゲエおじさんとホームレスは同じではない。ホームレスは言葉どおりに住む家がないのであって仕事をしていないのではない。もちろんNYにも浮浪者はいるわけで、両者の違いを通りすがりの外国人が正しく区別できたかは自信がないのだが。

地下鉄に比較しイエローキャブと呼ばれるNYタクシーはガタガタである。これはタクシーに限ったことではなく、そこらじゅうを走り回っている車がガタガタなのである。そりゃあ新車もあるし、ばかでっかいピカピカのリムジンも走っている。しかし、大半はスクラップ同然だ。ガタガタなのは車だけではない。道路がいたるところ工事中で、年度末の日本を見るようである。すごい運転でガタガタの道を疾走するタクシーに乗っていると「このコースはバンピーだからね」というF1レーサーのコメントを突然思い出したりする。

そして、こんな中をニューヨーカーは車が目に入らないかのように信号を無視してズンズン歩く。歩行者優先という権利を命を張って主張しているかのようだ。自転車も半端ではなく、毎日がロードレースのようである。こちらは車と違ってピカピカの新鋭車種が目に付き(買い物自転車は皆無で、スポーツ車かマウンテンバイクのどちらかである)、サイクリング用のボディスーツにサングラス、ヘルメットという本格的なレーススタイルが主流だ。信号は比較的守るが、スピードがすごい。これだから接触事故は日常茶飯事らしく、一週間の滞在中に軽い事故を2回目にした。

NYのパソコンショップは、Macが置いてはあるもののやはりIBM PCが主流で、このあたりが西海岸とは違うようだ。店によってはEPSONのIBM PC互換機を見ることができ、ポータブルMacを期待してラップトップコーナーを覗くと必ずTOSHIBAのロゴが目に入ってくる。そういえば行きの飛行機の中でもJ3100を使っている外人がいた。また、撮影のNY在住の現地コーディネータはコモドールを使っていると言っていた。そこで僕がそんなオモチャをと冗談を言ったら、「その認識は間違っている。それは昔のことで今は違うよ!」と本気で怒っていた(ちなみに彼もMacはいいねと認めていた)。

さて撮影のほうは、ブルックリン橋のたもとからマンハッタンを見る場所とバッテリーパークの歩道の2箇所が新しいロケ場所に決まり、やはり夕方のNYを背景に大きな切り株の上に置いたラップトップを撮ることになる。結果はTVで見ていただいているとおり。天気に恵まれたこともあって、たいへん美しくドラマチックな映像を収めることができた。

CMの意図というかコンセプトというのは、聞きかじったところによると、殺伐とした都市の中にこんなほっとする空間があってもいいんじゃないだろうかというものらしい。映像もちょっとアンバランスで不思議な空間を作り出したかったということだ(ビッグアップルNYにE社のラップトップ、これだけで十分にアンバランスだったけど)。

CMの狙いは別としても、都市とコンピュータを対比させることは面白い。というのも両者の進化の過程がよく似ているからである。都市をはるか上空から見た図を想像して欲しい。これは何かを連想させる。そうコンピュータ基盤だ。道路図が配線図ならば、高層ビルはICチップ、高速道路はバスライン、河川に架かる橋はジャンパー線、飛行場や港はデバイスのコネクタ。郊外の高層マンションの団地群はさしずめ拡張メモリといったところだろうか。

田舎の様相が一世代前の回路図ならば、大都市は集積化が進んだ基盤である。コンピュータ基盤に流れるものが電子ならば、都市を行き交うものは人間である。つまり、都市とは人間をキャリア(carrier)とする情報処理ハードとみなすことができる。

ひとたびこう考えると都市生活の中のさまざまなことがコンピュータ技術と重なってくる。バスや電車は通信パケットのようであり、信号機はスイッチ、一方通行はダイオード、映画館などの劇場はコンデンサーにも似ている。企業や官庁などの建物が集積化されたICで、都市が一枚の基盤としたら、その基盤が刺さっている国土が1つのコンピュータになるのだろう。

国がスタンドアローンのコンピュータならば、当然これらをネットワークする方向にシステムは進化する。通信網によるネットワークはいわずもがなで、飛行機などの交通手段もネットワーク化の現われである。

開発当初からネットワークを考慮してあればシステム構築は容易だが、そうでない場合、プロトコルやソフト互換性の問題が生ずる。国語すなわち開発言語もまちまちなので技術が一向に蓄積しない。それに都市開発にはクロスコンパイラによる開発のような状況が多々あって、よそで作ったものをいきなり差し込んでみたりもする。必ずしも常によい開発環境がそろっているとは言い難いわけだ。

各国がネットワークで接続され、巨大なコンピュータシステムを作り上げるとき、それはどのような方向に進むのだろうか。分散処理システム、中央集中処理システム、あるいは最新の並列処理システムだろうか。面白いのは、マクロ的に見たときにシステムの開発を進めているのがシステム自身であることだろう。これはいわゆるニューロコンピュータの目指している姿である。国家というコンピュータに走るソフトウエアのデータ同士が関係を結んでいく様子や皆がメッセージを交換しあう様子はまさしくAIそのものである。

世界全体が1つのコンピュータシステムだとするとこのシステムが処理している問題とはいったい何なのだろうとも考える。経済モデルを試行しているというのは面白味がないし、平和や愛を分析しているという答えもブラックユーモアのようで笑えない。

本当は、都市の進化の過程やアーキテクチャがコンピュータのそれに似ているのではなく、コンピュータのほうが都市のそれを真似ているといったほうのが真実なのだろう。地球がコンピュータのようなのではなくて、コンピュータが地球システムに近づいているのだろう。しかしそれならば、目の前のパソコンが抱えるさまざまな問題がいっそう象徴的でもある。

システム開発途中にはさまざまなバグが内在する。机上デバッグで発見されるエラーもあればコンパイルして見つかるエラーもある。その程度のバグならば日常にごろごろしている。メモリの増設で温暖化が進んだ僕のMacには安物のファンが詰め込まれていて、ときどき画面が揺れるのはそのせいかもしれない。でも、それでちゃんと夏場をしのぐことができた。時代遅れとなりつつあるMac Plusにもアクセサレータという基盤差し替えの荒業がある。システムバージョンもこの調子で次々とアップするのだろう。だからそれでうまくいくに違いない。

だけど、僕のMacはそれでよいけれど、地球というコンピュータシステムが老朽化するとどうなるのだろうか、各地で爆弾が出たらどうなるのだろうか。チベットの奥深くにリセットスイッチがあって、それを誰かが押すというのだろうか。もしかして、地球のカバーをすっぽり取り去ると裏側に開発者のネームが刻まれているとでもいうのだろうか。

誰かちゃんとユーザー登録カードを出しましたか?


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