キーボードのある景色 Scene 4
IkeShop Users Group Magazine MacTalk no.16 (1990.4.20)


みなさんこんにちは。桜の季節をいかがお過ごしでしょう。しかし、るじるしさんの次にぼくの原稿を読むとのーみそが肩凝りのようだなあ。と、前号のるじるしさんとエールの交換を終えたところで、今回は「究極のワープロ」がテーマ。

ここ一年でMac用ワープロソフトが多く誕生した。大手の市場参入があるかと思えば古参ソフトもバージョンアップに余念がなく、この春ますますにぎやかである。そこでそれらのワープロソフトを一同に会し、一等賞を決める大会企画がもちあがる。もちろん「スクロールがとっても速いで賞」や「段組みが多いで賞」といった各賞も用意してあって、大会は盛況のうちに幕を閉じる。これが筋書である。

しかしすべてが滞りなく行なわれるかといえばそうはいかない。エントリー各社ともにここだけは他社に負けない。この機能を比較してほしい。こういった条件で試していただきたい。と、競技ルールの設定で大会運営側はまず頭を悩ませることになる。

ある会社は「うちは入力時のスピードが売りなんです。そこを比較せずにスクロールスピードだけを問題にされるのでは困ります」と言う。またある会社はこう主張する。「5000字程度の文章量で競技するなんて論外ですよ。最低5万字のテキストを編集したり、検索しなければ本当のパフォーマンスなんてわかりません」。さらに、「機能の数を比べること。これこそが純粋な機能比較というものです。うちのソフトは他社さんがサポートしていない機能を15も盛り込んであります」。あるいは、「機能の数が多ければいいってものでもないでしょう。それぞれの性能が問題ですよ。わが社のソフトの段組み数はメモリーが許す限り無制限ですからね」。はたまた、「各社さんなかなか健闘されていますが、MS-DOSワープロとのファイル互換性を考慮されているところはうちだけでしょう」。さらに、「簡単なデーターベース機能、スケジュール管理、電卓機能、それにこれがお薦めなんですが占星術というものがあるんです」。そんなこんなで、「占星術とはワープロを何と考えているんでしょうかね。わが社の特徴はシークレット機能です。文書ごとにパスワードを設定できるんですよ。これは親展機能としてもご利用できます」。「ファジー編集という機能があるんです」。「オートダイヤルできるんです」。あれやこれやと、「カラー印刷に対応しています」。「会話式に作文できるんです」。「ギャグを自動的に作るんですヨーグルト」。・・・。

Macユーザーにとってワープロ談義は必ずしも楽しいものではないというのが今までの状況で、どちらかと言えばタブーであって、98ユーザーには触れられたくない話題なのだ。確かにEGWordはパーソナルワープロソフトとして輝かしいデビューを飾った。しかしそれは過去のことで、今の98ユーザーには通用しない。だからこそここのところの新製品ラッシュに対するMacユーザーの関心は高く、期待も大きい。そこで勢いワープロ格闘技戦も華々しく盛り上げたいというのが人情である。でもこの盛り上がりを一歩引いて冷静に見つめるとあの知的でセンシティブでリリカルでジャージーなMacユーザーがワゴンセールを漁るおばさんのようで、見てはいけないものを見てしまったような悲しさがある。

この悲しさ、この表現が適当でないとすればこのやりきれなさとでも言っておこうか、そのやりきれなさの原因はどこにあるのだろう。そもそも究極のワープロというテーマがMacの肌と合わないのだろうか。DTPという言葉さえその言葉が一般に普及すると同時に手放したMacである。Macユーザーが取り組むべきテーマはワープロという今や庶民的な語感のものではなく、ハイパーテキストとかマルチメディアという先進的な響こそがふさわしいのではないか。

ここは重要なポイントである。Macにとってワープロはとるに足らないテーマであるのか。それともワープロもまた他機種のそれを一歩も二歩もリードすべき大いなるテーマなのか。

結論から言えばワープロはそれなりに重要なテーマに違いない。将来、いや現在においてワープロ、ワードプロセッシングという呼び名が適当かどうかはわからないが、かたちとして文書を作成するという作業をパソコン上で展開することは奥深い何かを予感させる。

ではなぜワープロ論議が物悲しいのだろうか。どうして「今どき十数万円のパーソナルワープロの方が印字もきれいだし、ハガキにだって、原稿用紙にだって印刷できる」という指摘に窮しなければならないのだろう。どうして98用のワープロソフトをへこますために言い訳けのような理由を見つけなくてはならないのだろう。

それはきっと悲しいかなMacユーザーが純粋にワープロに関して遅れているという事実を物語っているのではないだろうか。これをMacユーザーは(日本のMacユーザーはと言うのが誤解がないかもしれない)謙虚に受け止めるべきなのではないだろうか。要するにワープロというものを論ずるだけの環境がMacユーザーにはなく、だからワープロ文化がきちんと消化されていないのである。決して98用ワープロが文化を語れるほど優れているとは思わないが、Macユーザーもそれ以上にワープロに対しては無垢であるとは言えないだろうか。ワープロソフトが良い悪いという以前の問題として、ワープロとは何ぞやという部分があやふやなわけだ。それでワープロ論議が次元の低いものとなり、空しい結末だけを用意してしまう。

少しMacユーザーに元気が出るたとえ話しをするならば、Macユーザーはマウスというインターフェースについて語れるだけの経験があると思う。これは98ユーザーが何と言おうと自信をもって意見が言える。98ユーザーがマウスは使い物にならないと言えば「あなたたちはマウスを使いこなしていない」と言えるし、98ユーザーがマウスの良さを力説すれば「あなたたちはマウスの限界を知らない」と少々意地悪にも対応できる。

しかしワープロについてはそういうレベルでは語れない。先にも言ったようにMacユーザーはワープロについてもっと謙虚になる必要がある。あれこれ不満を述べるのもいいが、それ以前に自分が知っていることを整理する必要がある。機能の多さだけがワープロの良さを決定するとは誰も信じてはいないだろうが、紙と鉛筆ではなくワープロソフトを選択したという意味をどこに見つければよいのかはきちんと考えなければならない問題である。Macにとってワープロが重要なテーマであるかどうかはそこにあるわけだ。

こんなワープロを実験的に考えてみる。「タイプした文字を編集できないワープロ」。こんなものはワープロと呼ばないかもしれない。でもよく考えると、人が喋るという様子はこれと同じである。喋ることはコミュニケーションの重要な手段なのだから、編集できないワープロでも使い方がある。言い訳だらけの文章になるかもしれないけど、それで確実に何かが伝わる。

次に「バックスペースだけが使えるワープロ」を考えてみる。バックスペースが使えるだけでも編集できないワープロと比較するとずいぶんでき上がりの文章が違うだろうなあと予想がつく。

「セーブできないワープロ」はどうだろう。そんなワープロは実用にならないと思われる。では砂に書いたラブレターに意味を見い出せませんか?同じ文面を珊瑚に刻むのと砂に書くのではずいぶん趣が違ってくるでしょう。

「バックスペースだけが使えるワープロ」に1つだけ機能を増やせるといったらどんな機能があると便利だろう。ぼくならば「挿入」を追加する。バックスペースと挿入だけでずいぶん文章作りの効率が上がることは言うまでもない。

「置換」という機能がある。この機能の使い方は知っていても実際にお世話になることは少ない。確かにある語句を一括して変更したいことはある。しかしそれはまれなことであって、必須アイテムというほど重要な機能とは想像し難い。そもそもこの機能はどういった目的で誕生したのだろうか。予想するに置換機能はラインエディタの名残であろう。1行単位でしか編集できないラインエディタで置換機能は多いに威力を発揮する。

書体を選ぶこと、サイズを指定すること、アンダーラインを引くこと、字間を設定すること、行間を決めること、タブを設定すること、表組みをすること、ヘッダを使うこと、フッタを使うこと、そもそもワープロで文章を書くこと、これらにどんな意味があるというのだろう。

それがわかれば98ユーザーときちんとワープロの話ができるに違いない。それがわかればMacのワープロがこれからどう進化して行けばよいかがわかるに違いない。5年後にMacのワープロがどんなかたちになっているか、それを決めるのは自分たちなのですよ。


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