砂に書いたラブレター
うまくしゃべれないことは誰にでもある。話すほどに言い訳のようになり、そんなつもりはないのに相手の機嫌を損ねてしまう。すきなひとを前にすると用意していた言葉はすっかりどこかに飛んでしまい、きのうのサッカーの話とか友だちのドジ話しか出てこない。

調子に乗ってついついしゃべり過ぎることもある。人の悪口、自分の秘密、根も葉もないうわさ、守れない約束、すぐばれるウソ、みごとに広げた大見栄。ちょっとした失言が大きな波紋を呼び、翌日には辞表を出すはめになる政治家や企業のトップは少なくない。

感じるときに言葉はいらないが、何かを考えるためには言葉がいる。人は自分と話すように物事を考える。人とうまく話すためにはうまく考えねばならず、うまく考えるためにはうまく自分と話さなければならない。いかに話すことが難しいことか。

そこで、間違いや誤解があってはならないこと、確実に相手に伝えたいことは文書にする。しかし、書くことも容易ではない。はじめから、よい文がスラスラうまく書けるとは限らない。うまく書き上がっている文章というものは、書いては消し、消しては書いてという作業を経ているものだ。読み直し、言葉を選び直した箇所もあるだろう。たった3行の文章に1時間も悩んだかもしれない。延べ800行も書いたのに、削除して、削除して、50行しか残らなかったのかもしれない。書くという行為もまた自分を最初の読者として、自問自答するように書くものである。

ワードプロセッサというものを今一度考えてみよう。もしワープロに文字を削除する機能がなかったとしたらどうだろう。ぼくはいったい何枚の新規文書を作らねばならないだろうか。もし、削除機能がバックスペースしかなかったらどうだろう。ぼくはいったい何回バックスペースを押さなければならないだろうか。もし、コピー&ペーストの機能がなかったらどうだろう。ぼくはいったい何回同じ文書をタイプすればよいのだろうか。

ああ、ワープロってなんてよくできているの。ワープロがあるからぼくはこうやって少しはまともな文が書ける。気楽に次の文字をタイプできるってものだ。

パソコン指南書をひねったかと思えば、へなちょこ企画をありがたい言葉で飾ることもできる。ロボテックな事務的文書も可。プリティなレターだって書けるわ。

しかしここにきて、マルチメディアなるものが台頭してきて、テキスト文書だけではダメという時代がやってきた。パソコンにはマイクが標準で付いて、これでしゃべって音声ボタンを文書に付けろという。マルチメディアなるネットワークではテキストメールではなくボイスメールを送れという。ナイスな文書はとっくに上がっているのに、口上を述べようとするとどうしても途中で声がひっくり返ってしまってやり直し。

そこで登場する強い味方がボイスプロセッサである。ボイプロを使えば、どんなに長いスピーチでも切った貼ったでラクチン編集。失言はおろか、発音チェックで外国語もミスなし。ベルベットなボイスも、ラップなトークも自由自在。

そう。こうやってぼくたちのコミュニケーションは編集済みメッセージの交換となっていく。文書も音声も絵も映像もコンパクトにまとまったマルチメディアでリアルなコミュニケーション。

デジタルというメディアが、ためらいや恥じらいや動揺を行間にデリートしてしまう。砂浜に「スキ」と書く。そんなローテクなメッセージは相手に届く前に波に洗われてしまうだけ。


ASCII MacPower 1994.12月号掲載
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