熊楠の星の時間

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) - 2016/5/11 中沢 新一 (著)

猫楠」に描かれていた、明治政府による神社合祀に熊楠が大反対していたという件。この本を読んでその事情がよくわかった。毎週調査に同行させてもらっている鳥類のカウントコースは、人里に浮かんだ島のような古く深い丘陵で、そのコースのどこにも小さな神社やお宮がある。多様性に富んだ生き物の森をかかえた小さな神社がなくなったら、フィールドから切り離された、道徳や威厳を示すシンボルである大きな神社だけになってしまったら、人々のこころや地域のつながりはどうなってしまうのか?熊楠が危機感を募らせた気持ちがわかるな。

野鳥の会に入って27年。最初は鳥を見ていたが、鳥が何を食べているのか注意するよう教わって、虫や植物のことも気になるようになってきた。そして、昆虫について教わるうち、その生態の複雑さ、生存戦略のニッチさ、菌類とのかかわりに驚き、菌類の奇妙さに惹かれるようにもなってきた。あらゆる生き物のかかわりを象徴的な理屈で整備しようとする人間の働きがある一方で、そのようなものを越えた説明できない細部が周囲にどこまでも延びていく感覚、追いつけないという感情もある。

中沢新一の文章は、やっかいな問題を扱いながら、目の前の人に話しかけるようにやさしい。粘菌については、それを実際に見ないと理屈だけではよくわからないと思うし、これを読んだからと言って何がどうなるというわけでもないが、人間が考えつく理屈を象徴する世界と、現実の生物の世界は重なり合うも同一ではない、そう考えていた巨人がいたというのを知って、何か安心するというか、それでいいんですよねとつぶやいてしまう感じというか。。。

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熊楠は、詳細な夢の記録をつけていたらしい。
今朝の私の夢

神社の社務所のような建物の廊下を進んで行った。廊下の左側のすりガラスの引き戸を開けると昔住んでいた家のようだが、押入れだった場所が漆喰で塗られていた。知っている場所に似ているが、違う場所なのだと思った。
奥に進むと人が住んでいた。玄関から勝手に奥まで入って来てしまったので、どうしようと思いながら中の人と事情を話していると、かつて飼っていたのとそっくりな猫が通った。丸々と太りくっきりとした色。ここで可愛がられて飼われているらしい。
私はシャミ!と声をかけていた。それまで名前を忘れていたのだった。シャミにわたしだと分かるように、私たちのやり方でささやきかけ鼻をつけて、あいさつした。一瞬私がわかったようだが、シャミは何か自分のことで忙しいらしく、スタスタと行ってしまった。住んでいる人が、私たちの普通でない間柄に気づきどうしたのか尋ねたので、実は以前の飼い主です。と答えた瞬間、シャミはすでに私が看取ったことを思い出し、いえ似ている猫を飼っていたのでと言い直した。

起きている間はおぼえているのだが、夢の中ではシャミの名前もすでに亡くなったことも忘れていた。

私は18歳の時、親代わりに育ててくれた祖母に突然先立たれた。その後20年ぐらい祖母が夢に出て来ていた。それは日常の風景で、夢の中で祖母は普通に暮らしていた。10年目ぐらいから、夢の中ですでに祖母が亡くなっていることを思い出すようになり、祖母が夢に出ることが減って来た。

わたしの夢に出てくる愛する者たちは、どこか遠くの特別な場所にいるのではなくて、普通の生活の場にいて普通に静かに暮らしている。しかしもうわたしのことなど目に入らず、わたしが誰かわからないようだ。亡くなった者に対する無意識のうちのとらえ方が、ギリシアの墓碑彫刻に似ている。このような夢を見るのはわたしだけなのだろうか?
アッティカの墓碑

最近、帰省した際に、昔住んでいた家を見に行ったこと、今住んでいる方とお話ししたこと、子供の頃よく遊んだ神社に行って見たことなどがごっちゃになって出て来たのかもしれない。

覚醒時の記憶と、夢の中の記憶は細部の部品は共通だが、組み立て方が違っている感じがする。