弁護士の主人公が手がけた事件のオムニバス。ドイツが舞台。レバノン、トルコ、東欧からの移民が多いのですね。故郷から切り離されたことで起きるさまざまな心の葛藤が通底にあります。それが犯罪になるまで切羽詰まっている。すでに登場人物たちの立場はぎりぎりなので、描写のタッチは淡々と調書のようでも、ええー?で、どうなるのか?と読ませる力十分です。
いろいろな犯罪のディティールが生々しく、途中で気持ち悪くなってしまって、半分しか読んでないのですが。。。
世界中に散らばっているフェルメールの絵を見に行く企画。カタログとしても。
何点かの絵に共通して出てくる家具、服、小物、窓の位置などを比べて見ると、ドールハウスの内部の写真を見ているような気がしてくる。にしても全作品のうち、2点だけ背景が真っ黒なのはなぜなんだろうか?若桑みどりの「人体表現における南と北」を思い出す(そのうちの1点は「真珠の耳飾りの少女」だけど、だいたいあの少女は誰なのか?)。
シンメトリーとは、ラテン人にとっては、個と個、個と全体、空間内における人体のシンメトリーであった。それゆえ風景なしに人体はありえない。クラナッハやグリーンのように(デューラーすらも)背景を黒でうめるという事は、イタリアには決してないのです。(現代思想 臨時増刊 1980.7 総特集=地中海)
「フェルメールセンター銀座」オープン: オランダ政府観光局ニュース≪業界版≫
2012.07.22まで
カリフォルニア文化について集中して読んでみました。文化というほどの文化はないのですが。。。今までさんざん西海岸の音楽やアートについて、雑誌や映画やドラマでふれてきたものの、その本質は全くわかっていなかった。それはつまり、ドラッグとハイテク、どちらも軍需産業の落とし子なのですね。
ところで、この海野弘という人をamazonでチェックすると多作ですね。広く浅くヨーロッパの文化一般を独自の視点から網羅しています。サブカル版渋澤龍彦?
自由報道協会の活動は、ネットで知っているとおり。震災・原発事故に際して、協会に属するフリーランス記者がどのように活動したかの記録。第2章の「ルポ12選・震災を追い続けた"多様な視点"」、第3章の江川紹子さんの「被災地を取材すればするほど難しくなる災害報道」にこの本の価値があると思う。
自治体という立場で、公害の一種「核害」にどう対処するかという問題が簡潔にまとめられている。
2章からなり、1章目は被災自治体に起こる問題。今まさに起こっていることそのもの。自治体ごとの帰還か移転か、さらに「核処分場シナリオ」という過酷な選択も加わるようになる。帰還シナリオにともなう第2の安全神話の危険性。乳幼児や若い人に必要な配慮など残留自治体の心得。核害を克服するか風化を待つか。克服自治体のジレンマとして、今後住民が安全に暮らせるには原発関係の専門家のアドバイスが必要になるが核害をもたらした彼らを住民が受け入れがたい、安全が再確認されればさらに原発立地が進む、など。
2章目は、原発立地点の未災自治体が備えておくべきこと。著者が強調しているのは、緊急時に未災自治体が避難用のバスを自らの手で確保できること。立地自治体が自ら避難を決定するためには、自前でバスの手配ができなければならない。国土交通省などにたよっていては避難が遅れてしまう。
この本が、事故後すぐに第一次産業従事者に読まれたらよかったのになあと思う。
勝川さんの書評
書評:スウェーデンは放射能汚染からどう社会を守っているのか - 勝川俊雄 公式サイト
イラストはこやまけいこさん。以前茅ヶ崎の商工会主催で、自転車で生活する地域のシンポジウムみたいなのがあって(正確な名称を忘れた)で、小林さんが来て講演してくれた。本書を読んで、その内容をもう一度見ることができた。自転車乗りはもちろん、駅前の商店街など、郊外の大規模ショッピングセンターと対照的な商業施設の関係の人は、これを読んで、車でなく自転車で買い物に来てくれる人を呼び込んだらいいと思う。
横断歩道なしの、左折専用レーンがあるところで、自転車が直進するには?いつも悩む。具体的には134号線潮見台交差点、東行き。私は右手信号を出して直進レーンに移るけど、両脇を車に走られるとヒヤヒヤ。通行量が多いときや、すごく弱気なときは、歩道に上がって歩道橋を渡りまた車道に降りる。
警察によると、自転車は左折専用レーンを直進していいそうだけど、普通車の人でまさか自転車が直進するなんて思ってない人多いよね。クラクション鳴らされたりしてびっくりして落車、なんてなったらいやだなあ。
この本では、都内の実在する交差点の写真付きでここはこう通るみたいな具体例があるのはいいな。
厚い本で長い話なのに、一気に読んだ。おじいちゃんとおばあちゃんの物語はちょっとメロドラマぽいというか、「パリテキサス」を思い出したな。悲しいことと笑っちゃうことが紙一重なのが、なかなかリアルでよかった。行間が詰まってくるところは、チャーリーとチョコレート工場の、工場見学にあたりサインさせられる契約書のところを思い出した。映画もできたそうで、予告編を見たけど、もしわたしが監督なら、徹底的にコメディにしたいな。
町山さんがpodcastで通過儀礼について話していて、途中から三島由紀夫の「葉隠入門」について解説をしていました。それが、ルース・ベネディクトが日本人について解説していたことと全く同じ事を言っていて、おっと思った。
TBS RADIO 3/31 サタデーナイトラボ「春の推薦図書特集 feat. F.B.B」【後編】 (ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル)
21分30秒あたりから。
菊と刀の「刀」についてですね。「死んでもイイ」と思う選択の自由。死を怖れることからの解放。他人のために責任を負うこと。責任をのがれて得をすることよりも、卑怯者のそしりを免れる方をとること。それにより人生に価値があったと思うこと。欧米人にとって死とは自然の摂理と戦い破れ運命を受け入れること。に対して(戦前の)日本人にとっては、死とは自分で自分の人生をデザインしたいという欲望を満たすもの。
戦前は(武士にしろサラリーマンにしろ)そういう考え方がありました。(明治生まれの祖父母はよく「だって」という言葉を使うんじゃありません!と言っていました。そして本棚に「葉隠」があった)。しかしそこには「独善的かもしれない」という面もあります。女性や子どもからすれば「恥をしのんでも生きていてくれた方が助かる」んです。
(いつか見たドラマで、極悪人の処遇を、善良な刑事と天才犯罪者の女性のコンビが、私的な裁きで決定するというシーンがあって、刑事は悪人を「簡単には殺さずに刑務所で罪を償わせよう、その方が悪人にはつらいだろう」と主張しますが、女性の方は「私は殺すわ。だってどう考えても、死ぬ方がイヤだもの。」と言うんです。社会的生き物である男性と、本音で生きてる女性はちがう。)
ちなみにベネディクトのいう「菊」とは倫理の型に固定された心のことで、よく菊の展覧会なんかに出品されている、一鉢に一本の茎、一輪で大輪の花、それは針金で支えられている。。。あの不自然に矯正された菊の花のことですね。
よく建前と本音っていいますけど、世間の目がきびしい環境で育つと、もう自分が型にはめられていることさえ気がつかないというか、自分では心からそう思っているつもりでも、実は用意された型どおりにしているだけのことがあるということで、これは現代でもあります。
そういえば、菊花展とか菊人形とか、いつの間にか見なくなりました。昔はあちこちでやっていたようです。今では千駄木の「菊見せんべい」という店名にその名残があります。菊を見るためにものすごい人が押し寄せたという。それをわたしは「谷根千」で古老の思い出話として読んで知っているだけなのですが。(フェルメールや阿修羅像の人気を後世の人が知ったらどう思うかな。変わらず人気だといいけど。。。)
鎌倉由比ヶ浜の「港の人(みなとのひと)」という出版社からの本。
本文と各タイトルの文字の大きさが一緒で、不自然に余白が広い感じがする。。。ということは、どうしても、タイトルの下あたりに、小さなカットを落書きのように、描き込みたくなって困った。。。行間からイメージがわいてきてわいてきて。。。
著者が写真に関して久家靖秀さんの仕事から学んだことを読んで、うぐぐとうなった。とっても大事なことが書かれていた。こんな企業秘密を公開していいんだろうか?
がしかし、著者はデジタルカメラの時代になって似たような作品ばかりになると書いているが、実際は様々なプラグインが提供されていて、フィルム写真機の癖や偶然を越えるアレンジが、はっきりと意図的に選択できる。物質(道具や材料)の抵抗に合わず、人間の脳でコントロールできる、ということはいいことのようだが反面、だってカメラがといういいわけは通用せず、すべて自らで責任をとらなくてはならない、そういうきびしい時代になった。が、写真一枚を、撮った本人だけがコントロールできるという特権も危うくなりつつあると思う。写真を編集する技術は誰でも簡単に使えるよう日々進歩し(誰かがあらかじめ作って置いてくれた加工のテンプレートを選択するだけですむし)カメラマンはフィールドから素材を採集するだけの仕事になってしまうかもしれない。
著者がおばあちゃんこなこと、(元クウネル編集長岡崎絹枝さんによると)怒るとむっと黙ってしまうこと、そして写真に○○が写ってないと好きになれないという台詞。うわわ。耳が痛い。
坂を登るでもなく、駆け下りるでもなく、尾根道の途中に立って、両側から引っ張られてバランスをとっているというか、でないにしても、これを登るのか。。。と見上げて立ちすくんでいるというか。あのとき読者を置いてフランスに逃げたように、自らは手を出さないというか。。。
エネルギー・コンサルティング会社「フェアウィンズ・アソシエイツ」へのインタビューをまとめたもの。
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事故が起きた福島第一の1~4号機と、地震と津波を乗り切った福島第一の5,6号機+福島第二は、どこがちがったのか?それは後から建てられて、災害対策が厳重になっていたから。海水冷却ポンプが建屋で覆われていて浸水はしたものの、津波の衝撃に耐えた。
そこまでの津波対策は必要ないとされても、事実、後から建てられた施設には費用のかかる工事が採用されていた。つまり危険性は認識されていた。ところが先に立てられた施設が、その基準で補強されることはなく、ほったらかしだった。
原子炉の耐震リスクは建設当時の基準のまま。その後、事故や新しい発見により、リスク基準が変更されても、古い施設には適用されない。これは日本に限ったことではない。原発はタイムカプセル。
それはなぜかというと、対策費用が被害予想額を上回るため。コストがかかりすぎて採算が合わない。リスクの算出方法まで自身で決定する裁量が与えられているため、コストに対してリスクを合わせることが容易にできる。
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3号機の爆発で飛び散った核燃料の一部が環境を深刻に汚染してしまう前に、早く発見&回収する必要がある。格納容器の底に溶融して張り付いた核燃料を取り出す技術の開発に10年、それを実行するのにさらに10年が必要になるだろう。その間、訓練された人材を補給しなければならず、被曝量は増え続ける。人的にも費用的にも莫大なコストがかかる。
取り出した核燃料、廃棄物などの保管も困難。日本ではプルサーマル計画があったため、長期保存についての具体的な場所が決まっていない。日本政府は保管場所がないと気づいているため、廃棄物について正面から議論することを避けてきた。アメリカでも最終処分地は決定していない。
原発の安全性を高める費用で、代替エネルギーを研究開発した方が安価。原発の本当のコストが無視され、代替エネルギーと比較され、原発が安価に見せかけられている。
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健康被害について
チェルノブイリにおいても、スリーマイル島においても、住民の健康被害についてデータが正しく集められず「もみ消された」印象がある。政府は食品の規制値を適切にし厳密に検査するなど管理を徹底すべき。
日本の人々が、この問題を自分たちだけのものとして内在化しないことを訴えるのが個人的な目標のひとつ。今はインターネットによる情報共有が存在するので、市民にとって有利。「わたしたちは皆、電力を使ったのだから受け入れるしかない」という考え方をあらため、立ち上がって口を開こう。
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避難と除線の遅れ
事故当日の夜に半径30km以内に避難勧告を出すべきだった。避難命令を発する権限を、現場監督者より高い地位の人間に与えるべきでない。現場は事故の度合いを数時間のうちに理解する立場にあるので。
スリーマイル島では、事故2日後になって女性と子どもの避難勧告が出たが、その時すでに15万人が自主避難していた。アメリカと日本では土地に対する愛着度が違う。科学的な観点から居住に適さない地域に住民を戻してはいけない。
福島原発第一の敷地から地下水を通じて汚染が広がらないよう、地下の岩盤まで達する遮蔽壁を敷地の周りに作る必要がある。可能な対策が、東電の経済的な決断により後手に回ってしまう事を憂慮する。それを許している日本政府は、放射能汚染の解決策は、封じ込めではなく希釈と認識しているのか?
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スリーマイル島も、福島第一も、現場の危機感をよそに本社が決定を下すシーンがあった。経営者の関心は、公衆の健康と安全ではなく、会社の収益。管理職のトップは原子炉のパワーの実感がない。学ぶのに25年かかるが、原子力分野のキャリアは、現場監督のポストで頭打ちになる。本社で求められるスキルは金融。
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著者はかつて原子力産業に従事していたが、原子炉の危険性について内部告発を行い、監督機関であるNRCからもはしごを外され、業界から干された経験がある。
アメリカでは内部告発者を保護する制度は整備されているが、実質的には原子力業界で二度と職を得ることはできなくなる。技術者や管理職による内部告発はあったが、著者のように役員クラスでは他にいない。昇進するに従って失うものが増え、業界の文化に染まっていく。
著者が仕事を失ってから、妻が大学に戻ってパラリーガルの資格を取得して、フェアウィンズ・アソシエイツを設立。著者が原子力業界に立ち向かい、後に起業できたのは、彼女が法律や用語に精通していたおかげ。
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著者は内部告発をしたけれど、科学技術そのものには期待していたので、規制が徹底されることが重要と信じ、安全に稼働させるなら原発もやむを得ないと思っていた。福島第一原発の事故が起こるまでは。
自然の力は人間の力を越える。どんな完璧なシステムも、運用次第で機能しなくなる。福島原発事故の結果はそれほど恐ろしい。日本では何年も前から科学者が地震や津波の被害について警告していたが、コストダウンが優先された。原子力業界では部外者は相手にされない。
原発の職員からの内部告発には単独では協力せず、他の技術者と提携して事実関係を検証し、地元の議員や弁護士を通じて当局に報告する。そうした策を講じても、扇動者と思われる。
日本でもアメリカでも社会的に弱い立場に置かれた人々が原発の現場で作業にあたる。高レベルの被曝をするのは下請け労働者。
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脱原発の立場であっても、推進派を悪魔とバッシングするだけでは意見交換が成り立たない。科学的で建設的な議論を交わすことが重要。イデオロギー的な不毛な争いは無意味。
リスクを分析するほど、安全管理を徹底しても、原発が効率的と主張するのは無理との結論になる。40年間で日本が原子力によって節約したはずの金額は、1日で消え去った。日本がGEを訴えてもおかしくない。
福島第一原発だけを国有化する提案は間違っている。東電の資産はそれ以外にある。会社全体を市場価格で売却し、被害者への賠償や事故の対策費用に充てるべき。火力や送電などを分離して整理するのがベスト。
東電に原発を任せられないと感じるのなら、監督の人員を増やす事が先決。電力が足りる範囲で、古い原発はすぐにでも閉鎖し、新規建設の代わりに投資対象を変える。
今後の課題は蓄電。
貧しい地域の生活水準を上げるために、再生可能エネルギーに投資の機会を与える。再生エネルギーにも環境汚染はある。完璧な発電方法はない。しかし莫大なリスクが集中する原発よりはいい。
各国の事情にかかわらず、どこでも業界が規制をコントーロールしている。でなければコストを抑えられない。かつて原発が安価だったのは、健康や環境へのリスクを除外してきたから。
日本の技術はすばらしい。技術が進歩した今、時代遅れの大規模集中型パラダイムからシフトし、代替エネルギーの開発で世界をリードしてほしい。
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あの日、それぞれの施設で何が起こっていたのか?時々ニュースで見る、今になってわかった新事実、やっと公表された情報、その意味は?で?に答えてくれる解説。こういう素人にもわかりやすい説明を、なぜ日本人がしてくれない?日本語に翻訳される過程で、理系の言葉から文系の言葉にも翻訳されてるからか?このインタビューをまとめた、訳者の仕事はすばらしいな。
第二次大戦中、アメリカ戦時情報局、海外戦意分析科勤務の文化人類学者、ルース・ベネディクトにより提出されたレポート。日本における倫理の型の研究。その後一般向けに「菊と刀」という名の書物に書き直されて出版される。「本土の人間は知らないが...」の中にあった、「菊と刀」は日本の文化がアジアの他の国々とは異なる特殊なものであると日本人に思い込ませ、中国をはじめとするアジア諸国と外交的に離しておくために、アメリカが意図的にばらまいたプロパガンダだという説。あれは、本当なんだろか?と読み始めた。
「菊と刀」は元々は敵国研究だった。それを前提に、占領した国民を効率よく治めるには?というアメリカ側に立った視点で読んでいくと、興味深い。著者は日本に一度も行ったことなく、さまざまな書物や在米日系人、日本兵捕虜からの取材でこのレポートを書いたらしい。
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まず日本人の倫理体系が恩に対し義務で返すという構造であることの説明があり、天皇と国民の関係の特殊性についてえんえん説明される。1,2章のすべてが、ひとつの結論にいきつくよう、念入りに設計されている。つまり
・日本人の倫理観の最高位は天皇
・天皇は他のものでは取り替えられないが、中間の為政者は交代可能。
・もし天皇を他国の支配者グループが冒涜すると、想像を絶する事態に陥る
・汚名がそそがれるまで国民一人ひとりの判断により永遠に攻撃が続く
・運命を受け入れてあきらめるということはなく、為政者によって制止することもできない
・日本人の倫理的態度は天皇にかかっている
・天皇制はたまたま戦時中は軍事に利用されているが、本来その力は他のことにも流用可能
・今(当時)は天皇制を維持した方が占領側にとっては得策
・天皇が日本人の倫理価値のトップに今後もずっといるわけではない。過去には主君や将軍だった時期もあり、将来的には変容していく可能性がある。
ベネディクトは日本と欧米の倫理観の全く違う点、文化人類学的な共通点を織り交ぜながら、予想される反論の芽を丁寧に摘みながら説いている。ここまで60ページ。
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あとはオマケな感じで短い章が3つ
複雑で厳しい倫理上の責務を全うしながら日常生活を送るために、日本人は自己鍛錬を必要としている。一点集中により無我の境地になることで、無用の恐怖を感じず無敵になれる。
日本人は子どもの頃から人様の目から見て自分の行為の是非を破断するよう徹底的に訓練されるので、傍観者としての傷つきやすい自我を抱えている。精神修養によって、そのわずらわしい自我を排除できる。
キリスト教の精神修養やインドにおける行の目的が、神秘的な体験を経て特別なパワーを獲得することであることと対照的。
(ここで、はっと思い当たるのはカスタネダの「呪術師とわたし」。ドラッグと禅ってその目的は一緒?傍観者という言葉も最近目にしたよ。。。。)
(そして偶然、目を通していた日経ビジネスオンラインにも似たような記事が
現代人が駄目な原因は、反省の過剰さにある。:日経ビジネスオンライン)
日本人にとって完全に無我の状態を「死んだつもりで生きる」ともいう。障害と自意識を排して全力を尽くす、という意味。それは「あらゆる不安を取り除くこと」を意味する。(安全神話。。。?)
日本の厳しい倫理基準を維持するための精神的な負担はさまざまなかたちで表面化する。幼いうちから多くの厳密さを受け入れ、徹底して慎重な行動に専念しているため(自重)、日本人は愛情面で空虚さを感じやすい。きちんと暮らしていくために、大儀、変節、予言者、危機などを必要とする。1900年から30年代にかけての近代文学ではかならず倦怠について述べられている(対照的な例:アメリカにおけるヒーロー像)。
なんらかの大儀という刺激がないと、教養ある階層の日本人は倦怠と欲求不満に悩まされやすい。この不安定さは西洋文化の導入による混乱のせいとされてきたが、同じような影響は中国人にはおよぼしていない。中国には宗教的な予言者が存在したためしがないが、日本はカルト天国。(反原発も大儀の一つ?)
日本人は高度に形式化された礼儀正しさと倫理観では対処できない状況を怖れており、その謎を解き明かすためには、あらゆる努力を惜しまない。「規則」がわからなければ、安心感を得られないと日本人は教育されている。未知のものを支配したいという願望はこれによる。
日本人特有の独善性
自分に多くを求める人々には、世界を「救う」という使命感から独善性と固定観念に陥りやすいという傾向がある。救済しているつもりが、相手に受け入れられない場合「屈辱」に変化し報復に出る。自らの倫理観の正当性について疑うことはない。(例:大東亜共栄圏)この独善性は戦後の世界における大きな脅威となるだろう。
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侮辱と報復か。。。パソコン通信の時代、あるフォーラムの管理人からのお達しに、「ほう」と思ったことがある。それは「名誉を挽回するのはあきらめてください」というもの。ネット上の発言でやってしまったことや、小さな誤解は、ほとんどの場合他人にはどうでもいいもの。汚名をそそぐためにしつこく長々と書き込みをされてはかえって迷惑。時間がたてばみんな忘れちゃうし、他人はそれほど興味持ってないんだから。それ以来「ネットではあきらめが肝心」を忘れないようにしている。またblog炎上が話題に上っていた時期は「ネット上の評価は自分ではコントロールできないと割り切ること」も追加された。
自己鍛錬については、よく話題にされる「強いコントロール願望」と関係があるとおもう。それは特にネット時代特有のものというわけではなく、もともと日本人の中にあるものなのか。どう見ても物量的に無理な戦争を精神力で乗り切るとか。近年では、高レベル放射性廃棄物の問題が解決していないのに次々原発を作っちゃうとか。「普通の家族がいちばん怖い」という本が話題になったけど、言葉と現実が乖離してるってあるよ〜。
あと、世間の目について。自らの属する集団だけでなく、外側の集団からも認められなければならない。外の集団に侮辱されると、内部集団によりきびしく罰せられるか。。。いつも不思議に思う、テロ組織に人質になった人が無事解放されると、なんだかんだ因縁付けられて非難されるって構図は、このためか?または国内でヒットを出すために、先に無理矢理海外の評価を作る風潮ってあるよね。
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最初の疑問に戻って、「菊と刀」はアメリカによる対日プロパガンダなのか?という点。このレポートからは、著者の、アメリカ当局が日本人の倫理体系を理解できないためにドツボにはまるのを防ぎたい、という政治的な意図を感じる。世界の中のアウトサイダー日本を偏見の目から救い、公正に扱うことで、平和を実現したいという。そして市民レベルで相手をよく知ることができるようにと、アメリカ人の一般向けに書き直した「菊と刀」を世に出した。
著者は、日本的な倫理基準では、個人の幸福を追求する民主主義は急には根づきにくく(日本人は自由・人権・個人の幸福などは完全に見下していて、それよりも責任を全うする・人から必要とされる人間になる・などの方に重きを置く)、終戦直後は、まずは社会主義的なシステムにするのがのぞましいと言っている。また人種の偏見を取り除く啓蒙パンフレットを作成するなどの活動もしていたために、当局から共産主義者ではないかと疑がわれた時期もある。
日本の文化がアジア諸国と違うかと言えば、霊的な存在である絶対権力者(天皇)と別の為政者(政府)が存在する権力の二重構造は、似たようなシステムがポリネシア諸島(マオリ族)にある。侮辱と報復、貸し借りの精算に関する教えが道徳体系の基礎と成っているのは太平洋諸島メラネシア、ニューギニアなど。日本において多少変化はしたが、仁、忠、孝などは中国から伝わったもの。日本文化の独自性は、欧米のキリスト教文化に比べてであって、アジア各地にはその原型と思われるものがある。
結論:ルース・ベネディクトは日本の文化がアジア諸国と際だって違うとか言ってないし、むしろ欧米と徹底的に違う点を強調している。彼女の望みは、異なる文化の種族間でも互いの違いをよく知れば平和に共存していけることを示すこと。
わたしにとっては、特殊なものとされる日本の倫理基準が、南太平洋の島々と共通するところがある、というのが印象に残った。
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以下メモ
●日本人は宿命論者なのか?
日本人には「アラーの意志」のような考え方はない(例:源氏物語)。進路の分岐点では、個人の責任で進むべき道を選ぶ。避けがたい未来という宿命観を日本人は認めない。個人で責任を取る形式が行き届いていて、現在の事例をその都度解決すべきで、歴史の前例は適切な手本にはならないとされる。敵に対して180度態度を変えて、相手から学ぶようになることも(例:幕末における薩摩・長州藩)。
パッと見、日本人は従順で抑圧を受け入れるように見えるため宿命論者かとおもわれがちだが、実は逆。日本の政治は専制的な規則より、行動指針のキャンペーンにより成り立っている。日本人は心から納得しなければ意欲を抱けない。軍隊においても、戦闘時の方針は単に上から押しつけられるものではない。(例:農民一揆)
日本人にとって死とは、欧米人のように運命を受け入れるということではない。どのように死ぬか個人の意志によってコントロールされるべきもの。切腹は究極の選択ではあるが、周到に計算された自己主張。
●日本人の責務体系
恩:親や教師や目上の者から受けた献身的な情け。日本の倫理体系は善意によって売られた恩を献身的に返すという根本原理に乗っ取っている。欧米社会では自己犠牲の精神によって救いの道が開かれ務めを果たすことで心の充足が得られるとされるが、日本人にとっては務めを果たすこと(恩に着る)は充足を永遠に放棄することを意味する。(例:夏目漱石「坊ちゃん」)
義務:天皇の臣民として自動的に負う務め。どの程度果たすかは個人の判断でなく、強制による。
忠:天皇への義務
孝:祖先や父親に対する務め
任務:仕事に対する務め
義務の体系は儒教に遡るが、日本に伝わって変化が起きている。中国に比べて日本の家族は小規模なので孝の適用範囲が狭い。例:寡婦とその子たちを祖父・父親・兄弟が扶養するのは"孝"(目下の者の面倒を見ることで目上の者への務めを果たす)。おじやおばが引き取るのは"義務"の範囲ではなく"義理"。さらに縁の遠い人が援助する場合は"仁"。
権力の二重制度:天皇の代弁者たる統治者はいるが、臣民一人ひとりは天皇に対して直接忠誠を感じている。国民は政府の政策に反対することができるが、それは自分の方がより愛国心があるという主張にすぎない。
忠と孝が衝突する場合は、孝は道を譲る(例:平重盛)
義理:日本固有のもの。義務がよそよそしいものなのに対して義理は熱烈に尊ばれた美徳(例・四十七士)。一方、婚姻で結ばれた両家が互いに負う務めにも義理という言葉が使われ、日本人には重く煩わしいものと思われている。また一般的に、本来の個人の希望と対立する、世間への責務。義理は受けた恩と同じ量を返せばチャラになる。受けたのより多く返してはいけない場合も。年月が経て利息がついて多めに返さなければならない場合もある。無限の務めである義務とは対照的。
義理は他人にたいする責務だけではない。名に対する義理も存在する。もし侮辱を受けた際は復讐によって汚れを落とさなければ元通りにならない。名誉を重んじる人=義理を知る人=恥を知る人であり、恥は徳の根幹にある。侮辱、中傷、敗北に報い汚名を晴らすのは、侵害ではなく、美徳。こうした責務体系は世界でもっとも厳しく、形式ばった部類に属する。この体系ゆえに求められる厳しい規律を日本人は美化している。
神道に聖典はなく、日本の仏教は文字による教典を認めないことで知られている。そのなかで明治の軍人勅諭と教育勅語はまさしく聖書。軍人勅諭は日本のさまざまな責務を定義して、その序列を定めるもの。すなはち義務(特に忠)を重んじ、義理は軽視。
しかしながら、この当局の教えに反して、日本人の行動は義理に左右される。本来個人の間で交わされる義理が、国家間の関係にも向けられる。日本人は他の大国から侮辱を受けたと感じると、国家として対応し、借りを精算しようとし、性急な攻撃性を結集させる。全ての臣民が心を一つにして外部の世界に立ち向かい、たがいの力を補強し合う。このことは日本の統治者にとって大きな意味を持つ。日本では従来、この義理の作用が領主間や将軍と外様大名のあいだで武力衝突を引き起こしてきた。
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解説1(福井七子:訳者)
このレポートが提出された事情。1944年12月ニューヨークで日本に対する戦後政策をめぐって「日本人の性格構造」と分析するための臨時会議が開かれた。40人を超す学識者が集まって討議がなされたが、それに参加し、欧米人の倫理観では日本人の行動は矛盾に満ちていて理解されにくいと感じたベネディクトは、日本人独特の倫理基準を説明する必要があると考えた。
日本研究にベネディクトが選ばれたのは、日本となんの縁もしがらみもなく、公正で自由な立場からの研究を期待されたから。彼女が日本人の複雑な倫理体系を構築できたきっかけは夏目漱石の「坊ちゃん」を読んだときだったらしい。
戦後の占領政策は、ベネディクトのレポートが勧めるとおりになされ、成功した。天皇制を残すこと、日本人を侮辱しないことで、一億層玉砕を防ぎ平和をもたらすことができた。文化人類学が現実の和平のために尽力できた例。
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解説2
ルース・ベネディクトの生涯
高等教育を受けた才媛ながら、母子家庭に育ち、幼少期の病気による難聴、男性中心の職場で女性、同性愛者、ベネディクトは保守的な社会からの偏見と差別に悩まされていたと想像する。彼女が出会ったのは、文化人類学という新しい研究分野。従来常識と思われていたものを、外側から客観的に観察して、新しい知識と理論を構築しようとする学問だった。
1930〜40年代アメリカで主流だった「文化・パーソナリティ学派」の中心の一人。文化相対主義の提唱者。優劣の基準で文化をとらえる「自民族中心主義」と対立するもの。異なる文化も平和的に共存できるとの理想をもつ。彼女が師事したボアズ(ドイツ移民)が弟子たちに残した学問的遺言は「けして人種差別をゆるしてはならない」というもの。ベネディクトはこの信念を受け継いだ。
エネルギー問題に関して文化系の出版物が出てくるにつれ、ああまたか、もういいや、自分には関係ない、という気持ちがわいてくるのを感じる。こういう機会に、社会的な問題にメスを入れるのは大事だとはおもうが、肝心な問題から遠くなると言うか、とらえ方は人それぞれだよな、という方向に落ち着いてしまう。すると、原発事故で地に落ちた科学信仰が、いや科学の前では人は平等だし、人々に共通する問題を扱えるのは科学しかない、科学ってありがたいなとおもえてくる。その科学を語っているのは、社会的な生き物、ヒトであり、ヒトの言語なのだけど。
この本をパラパラと見て、ああーまたちっちゃいことをウジウジと。。。どうでもいいジャンと読み飛ばし、ふと気になった箇所は、終わりの方の「原発に反対する人がオカルトに惹かれる理由」。TBSラジオのLifeで「好き好き大嫌い★アメリカ西海岸」のustを見ていたというのもあるとおもうが。。。
著者は一応、反原発原理主義とオカルトの関係を考察しているのだけど、著者の思い込み、または独走した推測?、そうかなー?という感じだ。にしても、反原発、脱原発を訴える人でオカルトまたはカルトの人が多いのも事実。単にそういう業界が、人々の不安につけ込んで顧客層を拡大しようとしているだけなのか?
本当に脱原発を実現したいなら、デモをするにしても、変な音楽や服装は抑えた方がいいと思う。普通の人に「あの人たちは自分らとはちょっと違う」と思われると逆効果なのでは?アクセサリ、ファッションとして身にまとわれたカルチャーは、あきたら捨てられる。過去にも反原発運動があったらしいが、自然に消えていったのはなぜか?
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ところで、今日この記事を見てまた震え上がってしまった。
朝日新聞デジタル:4号機、工事ミスに救われた 震災時の福島第一原発
あのとき、わたしは逃げなかったけど、甘かった。本当は逃げていた方が正解だったのだ。。。
救急処置の絆創膏なのだけど、患部のかたちや大きさによって、自由に切って使えるんだ。数年後読むと、あのとき世の中はこういうものを必要としたと、参考になるだろう。
「政・官・財界のリーダーの方たちへ」向けたメッセージ。普通のまともな国民が、政府や社長さんにこうあってほしいという願いそのものが書かれている。「そうだ、そうだ」と声を上げたくなるが、逆にここまで耳をそろえて書かれると、それを読むだけで安心してしまうのでは?とまた不安になったりもする。
こうしてほしいと書かれていることを、リーダーと言われる人が実行に移すのは大変だろう。とはいえ、いまだ確認できない炉心の状況、解明されない人体への影響、どうやって事故処理するのか?これからのエネルギー政策は?あまりに問題が大きく、事態が混沌としすぎて思考停止状態に陥りそうなとき、基本に戻るよりどころが活字になってあるというのは、いいかもしれない。
いや、著者に言われなくても、決断する立場にある人は、すでにちゃんとわかっているよね。これは実はリーダーを選ぶ有権者向けのガイドブックかもしれない。
説明が具体的で、一般向けに細やかに配慮されている。「内部被曝の真実」の児玉先生と、本質的には同じ事を述べているが、逆のことを言っているような印象。題名も真実対決だし。チェルノブイリの内部被ばくで、がんの発生率に影響があったのは、小児甲状腺がんだけと解釈している点が違う。どちらが真実か、それはこれから解明されていくだろう。(チェルノブイリの小児甲状腺がんの原因は、牛乳に濃縮された半減期8日のヨウ素の摂取だった。福島は事情が違うので同様の事態にはならない。)
この2冊、セットで両方読むとバランスとれると思うが、どっちか1冊というと、とりあえず今の生活をどうするべきか、家族や仕事のことなど切実に考えあぐねている人には中川先生の方をオススメ。一方もう少し引いた立場で将来のこと、これからのエネルギー政策を考える人には、児玉先生の本を読んでほしい。
「内部被曝の真実」の児玉龍彦先生の1997年の著書。かなり専門的な内容を素人向けにわかりやすく解説してくれている。各国の研究者がしのぎを削る血管研究の最前線(当時)。今まで漠然と抱いていた血管の印象が変わった。腸(第2の脳)皮膚(第3の脳、またはもう一つの臓器)についで、自分自身の体ながら、そんな大変なことをしていたんですか、いつもおつかれさまです、お世話になります、と頭を下げたくなりますね。血管を大事に一緒に生きていこうとおもいます。
仕事の資料を探していて、偶然出会った本。探していた資料とは、似ているようで全く違うジャンルだった。パラパラ見ているうちに、そのシンプルな写真に、写っている奇妙な風景・建物・オブジェに、ときどき登場する人物に魅せられて、その本と寝起きを共にするうちに、すっかりわたしの心の中に居着かれてしまった。猫をひろってしまうときに似ている。こちらが選ぶのではなくて、向こうが決めるという。
デレク・ジャーマンは「ガーデン」という映画を撮っているらしい。マイナーでごく少数の熱烈な支持者が居るタイプの、始まって15分で寝ちゃって今度こそとおもうがまた寝ちゃって結局最初の15分しか見たことないような、またはとても苦労してDVDを(もしかしてVHSしかないかも)手に入れたはいいが手元にあるとおもうと安心して絶対観ない、そんなタイプの映画じゃないかなと思う。そのうちどこかで出会うかもしれない。
というわけで、「内部被曝の真実」を読みました。あの国会で「7万人が自宅を離れてさまよっているときに、国会は一体、何をやっているのですか!」と言った人ですね。幻冬舎だし、ウケ狙い的な本かなと思ってあまり期待していなかったのですが、読んでよかった。その参考人質疑の完全収録なんですが「何をやっているのですか!」の部分はカットされてました(^^)。ご本人は感情的になってしまった部分が放映されて不本意なのではと思いますが、結局話題になったことで、内部被曝に関してちゃんとした研究があることが知られてよかったのではと思います。
2011.07.27衆議院厚生労働委員会「放射線の健康への影響」参考人としての発表資料
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内部被曝に関してネット上に公開されている著者の文章
pdfファイル
Vol.28 チェルノブイリ原発事故から甲状腺癌の発症を学ぶ―エビデンス探索 20 年の歴史を辿る
(医学のあゆみ Vol. 231 No. 4 2009. 10. 24 AYUMI ESSAY 逆システム学の窓)
pdfファイル
Vol.41 "チェルノブイリ膀胱炎"―長期のセシウム137低線量被曝の危険性
(医学のあゆみ Vol. 238 No. 4 2011. 7. 23 AYUMI ESSAY 逆システム学の窓)
チェルノブイリで長期の低線量被曝について研究された福島昭治氏、1960年代成層圏内の核実験中止に貢献された猿橋勝子氏について。
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また著者は、農産物に含まれる放射性物質の測定について、今使われている旧式の測定器にかわり、ライン化したところで多数のものを測定する仕組みが必要と。今日twitterでそのような機器を富士電機が開発したという記事を見かけた。
時事ドットコム:食品の放射性物質、12秒で測定=新型検査機器を公開−富士電機
今度は除染と測定事業バブルか。。。とも思うが、まあしかたないよね。
仕事が一段落したので、イタリアへ妄想旅行。写真がすばらしいです。フィレンツェの修道院、シエナの大聖堂(あの広場とつながってる道で迷子になった。ゆるい坂道登ると、目の前開けてドーンとね、あのシマシマがね。。。)、ピサの洗礼堂(堂内の1箇所にとっても音が響くポイントがある)、ラヴェンナのモザイク。。。パルマの大聖堂は行ったことないけど、いいなこの写真。山の中の石造りの修道院も。。。ああ「薔薇の名前」また観たいな。
そして、ジャーン、アッシジのサンフランチェスコ教会。清貧を説いた聖フランシスコの教会なのに、没後に作られた聖堂がゴージャスすぎないか?とよく言われるそうだけど、わたしは見た。教会前の広場には、各国の神父さんがいて、希望者にはそれぞれの言葉で中を案内してくれる。わたしたちがその広場で、日本人の神父さんを待っていると、同行していたとっても素敵なマダムに、イタリア人の神父さんが用もないのに、しきりに話しかける。そのきれいなご婦人にだけ。神父なのに、しかもこの教会の前でナンパするとは!イタリア男おそるべし。
イタリアで忘れられないのは、鐘の音。夕方、平野の上にポツンと置かれた石のようなアッシジの街に、赤い陽が当たる。坂道を観光客が帰って行って静かになる頃、ガラーンガラーンとまずサンフランチェスコ教会の鐘が鳴る。同時にサンタキアラ教会の鐘、どこか別の教会の鐘と次々に重なって、赤い夕陽に音が吸い込まれるようだった。平野の向こうには同じく石ころのようなペルージャの街が見える。
わたしたちが訪れた数年後、大地震が起こって、アッシジは圧死寺になってしまった。あれから修復進んでるのかな?あの夕陽が見える断崖のホテルのおじさんは元気かしら。
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ジオットの画は、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂でも見た。わたしは中1の時、ジオットの絵が当時は革新的なスタイルだったということについて書かれた本を読んで、いつかはその画を見たいと思っていたので、感慨深かったな。
「ジョットという名の少年―羊がかなえてくれた夢」は、絵を描くのが好きな羊飼いの少年ジオットが、高名な画家チマブーエに才能を見いだされ、修行をして画家になったという言い伝えをストーリーにしたもの。絵本なのだけど、レイアウトや絵が、当時の祭壇画のスタイルになっていて、物語を読みながら自然に、中世〜ルネサンス初期の美術様式を知るようになっている。現代の基準からすればうまい絵ではないのに、なんていうか、とっても愛着を感じてしまうのだな。
TBS RADIO 2012年01月27日(金) キラ☆キラ オープニング - 小島慶子 キラ☆キラ
TBSラジオ、小島慶子 キラ☆キラをポッドキャストで聞いていたら、小島さんが気になる2冊を紹介していました。小さなお子さんをお持ちの親御さんは、氾濫する情報から「で、どれが本物なの?」と、切実な思いで毎日を過ごしていると思います。小島さんも二人のお子さんをお持ちのお母さん。事故後、ラジオから母親の視点で情報を流し、呼びかけてくれた人です。
児玉龍彦「内部被爆の真実」
中川恵一「放射線医が語る被ばくと発がんの真実」
このお二方は、表面上は異なる見解を持っているのだけど、どちらにも研究者が今現在できるかぎりの誠実な対応があると。どちらかを真実、もう片方をウソと決めつけず、それぞれの本をよく読むと、データが少ないためにまだ正解はわからないながら、立場が異なる研究者が自分の専門を生かしつつ、それぞれ現地で人々のために尽くしていることがわかると。
大事なことをおっしゃってると思います。あのトンデモ本といわれる「人はなぜ放射線に弱いか」でさえ、トンデモ部分に気をつければ、全体としては放射線入門としてすぐれた本でした。ムカッと来る情報のなかにも真実はある。あえて両方に目を通すことは大事だと思います。あと、その一冊だけでなく、著者の他の本も読んでみると、問題に対してどういうアプローチをする人かわかります。
にしても、普通に子育てをするために、普通に健康に生きるために、こんなに情報を精査しなければならないなんて、やはり負担が大きすぎる。たとえ原発と引き替えに豊かな生活があるとしても、今のような状況は間違っている。
出ました。グールド、バーンスタイン、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。わたしは村上春樹の小説を読んで、よかったなあと思ったのは、最初の3部作だけで、その後の作品はなんか後で気持ち悪くなってしまうんだな。
インタリュードのひとつ、「レコードマニアについて」を読んで、ああだからかあとちょっと思った。音楽好きを自称する人で、自分で歌ったり演奏したりしない人は信用できないな。グールドについてえんえん語りながら、ゴールドベルク変奏曲の出だしだけでもちょっと弾いてみようとは思わないのか?
自転車でもそうなのね、乗るのは好きだけどレースを見ない人。レースを見るのは好きだけど乗らない人。ふつうどっちかが好きなら、プロの妙技を見ようとか、ひいきの選手がやってる競技をちょっとは体験したいとか、おもうやろ?バレエ習ってるときもそうだった。自分で踊る派か、劇場に通う派か、まっぷたつ。なんでなんだろか?
というわたしも、実はマニア・オタク道まっしぐらなとこあるけど。この本も一気に読んでしまったし。けどね、これ読んでも小澤征爾の音楽はわからんよ。音楽は本読んでも無駄だから。聴くしかない。それに応えるには自分で歌ってみたり演奏してみたりするしかないのニャ。
魚の汚染が気になる。。。著者は事故後、水産物に関する情報が少ない中、twitterで貴重な情報を流してくれている人。魚は大丈夫なのか?知りたくてフォローしたが、そのうち日本の漁業について知らなかったことがいろいろと。。。最後の1章が、水産物と放射性物質についてで、ていねいでわかりやすく解説されている。
著者のサイト
http://katukawa.com/
著者のツイッター
https://twitter.com/#!/katukawa
NHK ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」の岡野先生。今回の事故に限らず、身近な自然保護の活動においても、とにかくフィールドに出て毎日計測し記録を残す、そういう地道な活動をされているご高齢な人を、ほんとうに尊敬する。自分には知識も技術も根性もなく、無理だーとおもうが、もしかして年齢を重ねればできるようになるのだろうか?だって、あたし若いときはものすごく忘れ物、無くしもの、落とし物が多く、何かについて物事をじっくり考えると言うことができず、その場その場の反射だけで生きていた気がする。それが今ではいくらか落ち着いて、こうやってblogまで書いている。。。アホはかわらないけど。
エーコの3部作を発行順の逆に読んで「美の歴史」。のちに「醜の歴史」「芸術の蒐集」に収められる項目もあり、やっぱりこれから読めばよかったな。
着衣のアドニス現代版はジョージ・クルーニーなのかあ。
パラパラとページをめくると終わりの方に現代の醜として「キッチュ」の次に「キャンプ」の項が。出た!1984年頃、ananだったかoliveだったか少女向けのファッション誌で、「古今東西のキャンプ大事典」が発刊されたという記事を読んで、この本ほしいと思ったのをおぼえている。キャンプにわたしが愛してやまないバレエ(白鳥の湖とか)が入っていることは知っていた。けどそれ以外になるとわからん、そういうことに興味を持ち語り合ってくれる友もいなかった。インテリぽい人がキャンプについてあれこれ書いていることを読む機会はあったけど、何言ってるのかさっぱり理解できなかった。あれから時代が変わって、キャンプは相変わらずキャンプなんだろか?もしかして内容がちっとずつ変わってきてるんじゃ?キャンプではないものを探すのが大変だったりして。。。
2009年「デモクラシー以後」のプロモーションのため来日した際の講演、対談、取材などを集めたもの。断片ながら、そのつど著者の主張が要約されているので、わかりやすい。(わかった気になってしまって、ほんとはわかってないかもしれないという危なさはあるが)
以前「世界像革命」を読んで、「世界各国の家族制度のあり方が、その国の人々の人権と平等にたいする基本的な考え方を決定する」という、そりゃそうだけど今まで誰も気がつかなかった事にガーンとやられた。ドイツ・スウェーデン・日本・韓国・・・は長子相続で権威主義の不平等社会。スペイン・イタリア・フランスなどは平等に相続する平等主義核家族・・・しかし、平等な社会には、それから除外される階層がある。白人以外の人種(アメリカ)、奴隷(古代アテネの民主制)。
トッドの予想は、自由貿易で労働と資本のグローバル化が進むと、世界規模で存在する不平等のレベルが各国の内部に導入される。先進国の中に第三世界並みの貧困層があらわれ、第三世界の富裕者はその国の一般人からかけ離れていく。自由貿易の世界は、本性からして万人の万人に対する闘争を組織する。
わたしは若い頃バリ島に行ったとき、カフェで会ったフランス人から、為替の矛盾について議論をふっかけられて、困って逃げたことがある。天安門事件直後の中国の田舎に行ったときも、若いわれわれが両替した大金を持っているのを恥ずかしく思ったことも。同様に働いているのに、手にする額が違うのはなぜ?日本に生まれたと言うだけで恵まれているのはなぜ?
グローバル化はこういう問題を地面をならすように自然に平らにしてくれるのか?とおもっていたけど、今まわりを見ると、仕事や収入の減少は国民全体に平等に訪れるのではなく、弱い所から(うちみたいな)沈んでいくみたいだ。つまり、グローバル化によって、国ごとの格差がなくなるのではなく、世界に存在する格差が国境を越えて侵入してくるのでは?
地理的に、政治的に近い場所で、貧富の格差が大きい社会は、もめ事が多そうだ。人間の社会とは、完全に平等にすることは無理で、せめてエリアを区切ってここまでは平等、とするのが精一杯なんだろか?
5人の対談形式のブックレット。この国民投票を実現させようという試みはネットで知っていたが、正直「だいじょぶなのか?」「望まない結果が出たら逆効果では?」とちょっと及び腰だった。今読み終えて、やってみる価値あるかもと思い始めている。
以下メモ
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飯田 哲也
富を分け合う政治からリスクを分け合う政治へ
危険社会―新しい近代への道 (叢書・ウニベルシタス) [単行本]ウルリヒ ベック (著), Ulrich Beck (原著), 東 廉 (翻訳), 伊藤 美登里 (翻訳)
社会、経済、科学技術の複雑さが増すとともに、政治家も国民も誰もが素人であり、ある分野ではプロである。従来型の代議制民主主義だけで、そうした現代社会に広がっている多様なリスクにかかわる問題を決めるのは無理がある。新しい時代の政治が求められる。それをベックは「サブ政治」と呼んでいる。
宮台 真司
有力議員、有力経済人、有力官僚のトライアングル既得権益者が、住民自治化プランと衝突する。人々が依存から自立へ、共同体自治が進むと、エネルギーの共同体自治にそぐわない電源は否定されるようになる。自動的に脱原発へ。電源の技術的合理性よりも、政治文化・制度の改良に注意を集中するべき。
飯田 哲也
1980年、スウェーデンでの国民投票の際は、投票まで1年間かけて18歳以上のすべての国民が徹底的に学習した。国民投票においては、結論よりもこうしたプロセスが重要。
今井 一
日本で最初に住民投票が行われたのは、新潟県巻町
r2: デモクラシー・リフレクション―巻町住民投票の社会学
当初、住民投票に反対する人たちは、「住民投票は衆愚」「住民エゴ」と批判を展開したが、今はそういう批判がなくなった。衆愚に陥ってはいない事実の積み重ねがあったから。議員よりも多くの市民が問題について深く学習して議論し、十分な判断力を身につけたから。
過去に日本で原発の住民投票を実施した地域は、三重県海山町、新潟県刈羽村、同巻町。原発反対派が圧勝。しかしその前後の選挙では反対派が敗北。吉野川の可動堰、名護市辺野古のヘリポート基地建設でも同様。各地の反対派は選挙では勝てないけど住民投票では多数を制している。住民投票後の選挙で負けても、これらの自治体では未だに原発も可動堰も作られていないし、プルサーマルも導入されていない。住民投票時に示された主権者の多数意志は今でもちゃんと尊重されている。
宮台 真司
宮代先生の3つのスローガン
・<任せて文句を言う社会>から<引き受けて考える社会>へ
・<空気に縛られる社会>から<知識を尊重する社会>へ
・<行政に従って褒美をもらう社会>から<善いことをすると儲かる社会>へ
若桑先生、お久しぶりです。また芸術と世界観の有限性についての話題に巡り会いました。この話題について考えるときは、先生が後ろに立っていてくださる気がします。(わたしは単なる一読者。先生とお会いしたこともお話ししたこともありませんが。)
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実用的リスト(有限)と詩的リスト
「終わりなき」増加への嗜好。
ポール・ヴァレリーの博物館批判、その3「その貪欲さが重苦しい」(博物館組織は私的コレクションから生まれ、私的コレクションは略奪から、戦争の戦利品から生まれたという理由による。)
ジョゼフ・コーネル、アルマン、ダニエル・ハーストらの作品は聖遺物の世俗版。使い古しのもの、ほこりまみれのものに対する同一の嗜好。狂気じみた集積に対する嗜好をあらわしている。
・城壁で囲まれ、広場を中心に持つ古代都市=フォルムの都市
・ロサンンジェルス(メインストリートから無限に拡大可能)=リストの都市
「リストの都市」は「開かれた迷路」のような様相を帯びる。
古典時代と中世の全般を通じて、リストはほぼ「一時しのぎ、応急策」であり、その下に常に、可能な秩序のアウトラインが、フォルムを与えたいという欲求が、透けて見える。変わって、近代世界になると、リストは「奇形」への趣味から構築される。バロック時代は、驚異的なものに対する趣味に導かれ、あらゆる分類がリストへ。中世の偉大な「大全」によって認められた世界秩序に最初の打撃を与えるためにリストは使われた。
マスメディアの視覚リストのテクニック
セクシーな美女の無尽蔵な連なり。世界の秩序に疑いを投げかけることを意図していない。反対に、その目的は繰り返し言うこと。あらゆるものが利用可能な豊富と消費の宇宙は、秩序だった社会の唯一のモデルを表現していると
マルクス資本論より
「資本主義者の生産モードが浸透する諸社会の富は、それ自体が商品の莫大な集積として現れる」・店のショーウインドウ・見本市・パサージュ
子どもの頃、同居していた父の妹、桐子ねえちゃんは、奄美大島名瀬の人と文通していた。おねえちゃんと同年代の若い女性で、その人が大分に遊びに来て、わたしたちは家族総出で別府温泉地獄巡りとか定番の観光めぐりでもてなした。そしてしばらくすると、今度は桐子ねえちゃんが、奄美へ遊びに行って、わたしにお土産よと、貝殻の標本や海岸で拾った珊瑚のかけらをくれた。見たことのない珍しい色やかたち!それがわたしのビーチコーミング好きのきっかけになったのです。奄美はぜひ一度行って見たい場所。
奄美にはアマミノクロウサギをはじめ、アマミノとつく特有の生き物がいる。6千万年前から180万年前、南西諸島は大陸と地続きだった。150万年前に、朝鮮半島&種子島&屋久島の南側、中国大陸&台湾の北、が水没。琉球列島が半島のように孤立した。つぎに、その半島の西側が水没して島に。さらに水位が上がって奄美大島、沖縄本島、徳之島になった。ハブが生息するのはこの3島だけ。一番高い山を持つ奄美大島には特に固有種が多い。
著者の両親(島尾敏雄・ミホ)は1980年頃、茅ヶ崎に住んだこともあったのですね。駅から扇状に広がる海への道のひとつで、車1台がやっと通れるくねくねした道、まばらながら人通りの絶えない道。ああ、あの道ですね。カトリック茅ヶ崎教会をのぞいて、ダークな茅ヶ崎案内。茅ヶ崎は「いいね」って言われること多いけど、まあ住民としては町おこし的な理由からもいいことにしておきたいが、ほんとはそんなでもないってわかってるのか?ふと不安になることも。こうやってズバリ言ってくれると、ちょっとスッキリするね。
よその国の遊びと生活様式を真似してる若者の暮らしが、この地域の歴史から培われた景観との調和などお構いなしの。。。って膝打って笑ったね。でも歴史っていったって、戦災で焼けなかったから古く見えるけど、実は何もない砂丘だったんだよね。。。真似されるほど強いイメージのライフスタイルの方が勝ちってことか?南欧風の家なんか建てちゃって、おまえら負けてんだぞってこと?
著作物を読むと著者は暗い人のような印象を受けるが、中華図案シリーズの写真は明るくて大好き。podcastでしまおまほちゃんの話を聞くと、お父さんはおもしろい人らしいし。まあ美術やる人って、辛口な人多いんですよ。
話は変わりますが、園子温監督は「愛のむきだし」で、なんで茅ヶ崎カトリック教会をロケに使ったのでしょう?映画見てて驚きましたよ。えっあの尖塔は!「エルマンボ」の方角から見た図書館の前の教会やん!またまたなんで、カトリック教会はあんな映画(わたしはいい映画だとおもいますが)のロケに使うことを許可したのか?いやいやカトリック教会すげえ、ともおもいますけど。
気がついたら昨年、原発関連で40冊以上も読んでいました。日本国内にとうとう放射性物質拡散により人が住めないエリアができてしまった、という現実。友人、知り合い、お世話になった方にも東北地方出身の人がいて、ときどきはっとさせられる日々。今まで無関心でいた後悔。。。昨年は好きな本をがまんして半ば義務として読んでいました。
読んだ本の感想は「読んだ本」または「books」というカテゴリーに入っています。原発について知りたいけど時間がない方に、概要だけでも。。。ああでも大した事書いてないし、本当に個人的な感想・自分用のメモなので、一般論とはほど遠い。。。恥を忍んでご案内します。
また、どれを読んだらいいか?という方には下記の本をおすすめします。新たに検索してみると、事故前に出た名著の復刊、新装版、増補版が半年の間に出ていました。岩波書店の本は電子出版でも読めます。
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・チェルノブイリ―アメリカ人医師の体験 ロバート・ピーター ゲイル (著), T. ハウザー (著), 吉本 晋一郎 (翻訳) 岩波書店(現代文庫版) amazon(現代文庫版) r2 (岩波新書版上・下)
事故直後に自ら日本にやってきたゲイル博士とは誰?何しに来たのか?知りたくて読み始め、わたしが原発本を読まなくてはというきっかけになった本。「技術的なことに関して完全には理解できていないからといって、意見を述べることを畏れる必要はないから、自らの考えをしっかり持ち、発表してほしい」「党の政策や一時的感情によってでなく、知識に基づいて投票することが、民主主義の国の国民の責任である。」という著者の言葉に触発されました。
・原発と日本の未来――原子力は温暖化対策の切り札か (岩波ブックレット) 吉岡 斉 (著) 岩波書店 amazon r2
・原子力の社会史―その日本的展開 (朝日選書) 吉岡 斉 (著) 朝日選書(新版) amazon(新版) r2(1999年版)
「原発と日本の未来」は事故後、図書館の原発関連のコーナーをうろうろしていて偶然手に取った本。これが事故の一ヶ月前に発行されていたことに衝撃を受けました。それまで原発本は、反原発派の人の「こわい」「あぶない」が連呼されているものしか知らず、客観的な立場から原子力政策を解説したものを初めて読みました。吉岡 斉(よしおか ひとし)の著作は片端から読みましたが「物理・化学から考える環境問題―科学する市民になるために」に、原発推進派の科学者がとらわれている「パラダイム」についての説明があり、そういうことだったのか・・・と一瞬霧が晴れた感じがしました。
・プルトニウムの恐怖 (岩波新書 黄版 173) 高木 仁三郎 (著) 岩波書店 amazon
・原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書) 高木 仁三郎 (著) 岩波書店 amazon r2
高木仁三郎の本も目に入るものすべて読みました。すでに他界した人ですが、素晴らしい仕事を残してくれていて感謝しています。前者は原発についての技術的な解説と警鐘。後者は原子力ムラに対する批判、原発のみならず個人として職業人としていかに社会と接するかという問題も扱っています。わたしはあえて、文化系の人に前者を、理系の人に後者をおすすめします。
・内部被曝の脅威ちくま新書(541) 肥田 舜太郎 (著), 鎌仲 ひとみ (著) 筑摩書房 amazon r2
・プルトニウムファイル〈上〉〈下〉アイリーン ウェルサム (著), 渡辺 正 (翻訳) amazon〈上〉 amazon〈下〉 r2
市井の被爆者を長期間にわたり診てきた医師の報告と、それを裏付けるアメリカ政府の極秘文書からの報告。この2冊の内容については意見が分かれるかもしれませんが、読む前と後では「放射性物質を扱う」ということについての感覚がかなり変わります。「プルトニウムファイル」は絶版で古書価格が高騰しているようです。(特に日本人が)原子力政策について判断するに当たり必読の書だと思うので、ぜひ文庫か電子出版で復刊して欲しいです。
・知られざる原発被曝労働 ---- ある青年の死を追って ---- 藤田 祐幸 岩波ブックレットNo.390 岩波書店 今の一冊/編集部だより amazon r2
原発被曝労働者30万人。原爆の被爆者手帳保持者30万人(1995年)。国内に同じ規模の2つの被爆者の集団。しかし国から受けることのできる権利は雲泥の差。原発のシステムの一面が見える本。昨年11月に復刊されました。
・隠される原子力・核の真実―原子力の専門家が原発に反対するわけ 小出 裕章 (著) amazon r2
講演会の収録。話し言葉でわかりやすいです。エネルギー消費量と平均寿命はある時点から相関関係がなくなる。生命維持に関係ない無駄なエネルギーが膨大に消費されているこの社会構造への批判。汚染食品とどう向き合うか?事故が起こってしまった今どう生きるべきかヒントをくれる本です。
・脱原子力社会の選択―新エネルギー革命の時代 長谷川 公一 (著) 新曜社(増補版) amazon(増補版) r2(1996年版)
アメリカ、サンフランシスコのサクラメントにて、住民投票により原発が廃炉にされた。そのいきさつ。日本とは事情が違うところもありますが、脱原発を現実にした例。具体的な手法が学べます。
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コレには真実があると思えた本は、読む過程が著者と寝食を共にする旅のようでした。著者の人生、ある事象に対し彼(彼女)がどう行動したか、その課程でどのように考えが変わっていったかをなぞる旅。厚い本を読むのは時間がかかりますが、ネットでスキャンした情報とは質が違う気がします。
「スローフード」「エクソシストとの対話」の島村奈津さん著。幽霊案内人という人が何人か出てくる。幽霊ツアーが観光、事業、町おこしに利用されているのね。幽霊さんも忙しい。カタコンベ、人体標本館、過去(中世)に陰惨な事件のあった場所、なんだ、あの話かと思いながら読むと、ふと暗闇に引き込まれる一行に会ったりする。リミニの城の幽霊ツアーに参加した話の最後のところとか。
「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか関連で、沖縄の本を。
人口の推移、失業率などのデータが載っていて、じんわりくる。表紙の裏の地図「沖縄の位置=太平洋の要石(すとーん・オブ・パシフィック)」を見ると、那覇を中心とした半径1500kmの同心円上に、東京、平壌、広州、マニラ、サイパン、グアムが並ぶ。その500km外側には、青森(三沢基地)、北京、西安、ハノイが。「本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること」の、「ペリーはまず西側から、浦賀に来る前に先に那覇に来ていた。」を読んで、あわてて世界地図を見直したが、またまたこうして地図を見直すと、いかにふだん東京を中心に考えすぎているかを思い知らされる。
岩波ブックレットは同時代の問題を扱い、内容濃く簡潔な文章、580円と手頃、すぐ読める。おすすめ。
著者は難民支援活動家。それがある日一転、難病を発病し、自分が治療難民になってしまった。自分が難民として生きてみると、外から難民の生活を見ていただけではわからなかったことが見えてくる。いかに仲がよくても血がつながっていても、人の好意や支援には限界がある。大事なのは法の整備。ところが、当事者になるまで、人はそういうことに無関心。ある日突然足を取られてから、あるはずの柵や手すりにつかまろうとするが、ものすごく昔につくられて手入れされていなかったヤツとか、あるいは何もないこともある。法の制定には時間がかかる。困ってからどうこうしてといっても遅い。
あと、イケメンや美しい人は存在するだけで周りの人を幸せにするって、わかるな。高校時代、卒業生が教育実習に来た。その実習生が授業をすると、いつも眠そうな生徒たちが目をらんらんと輝かせて授業に集中してる、特に女子!!とオッサンの先生はぼやいてましたね。くま先生も嫉妬したんでしょうね。こんなに自分が面倒見てんのに、そっちの方が100倍回復効果あるのかい!とね。
自分の価値はなんだろか?がんばって何か結果を出さなければ認められないのか?子どもの頃から親の関心を引くためにずっといい子でなければならなかった人は、そういうライフスタイルが身についている(チェーザレのように)。
病気でも、何もできなくても、ただ存在するだけで愛してくれる、そんな人は貴重だ。がんばらなくていいんだよ、元々いいところがたくさんあるんだから。そう言われたら、すがってしまうな。それでも、この人といたら自分はダメになると思ってしまう時も来るんだけど。
この前に「リトルフォレスト」を読んだけど、この主人公イチコちゃんと、大野さんが重なって見えちゃう箇所もあった。
endogenous soul 大野更紗のブログ
著者のblog
311以降に出版された本は、すでにwebで見た情報をまとめたという感じで、断片的な印象もある。単なる情報の寄せ集めと、1冊の本にすることを前提に書かれたものとでは、読後に残るものがちがうな。やはり紙の本って大事よ。少なくとも人生の初期には書籍をしっかり読む体験が大事。webの情報ですますだけでは教養は身につかないと思う。
これまで読んだ原発関係の本は、発行部数の少ない学術書、または報告書ぽいのが多かった。これはサブカルぽい匂いのする本。こういう本があるのは、いいことだと思う。あらゆる読者に対応した、原発関連本があるべきなので。
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ノイマンはコンピューターを核兵器の爆縮(プルトニウムを爆発物で均一に囲って一気に臨界にする)の計算のために開発した。長崎では間に合わなかったが、水爆の開発で必要だった。そして先制攻撃されて報復するとき通信手段を確保するため、パケット通信、今のインターネットの元になるものが開発された。
ジョブズ亡き後、いろんな人がいろんな言葉を発表したが、そのほとんどは「あっそう」と通り過ぎ忘れてしまった。そのなかでオバマ大統領の弔辞「ジョブズの名前はその製品によって世界中に知られた」というその言葉はわたしの頭に残っている。アップルの開発を支えたのは国家予算ではなくて、ジョブズの神話に吸い寄せられた個人消費者と、無名の技術者たちだった。
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わたしは、スカリーの時代のアップルに短期間だが勤めたことがある。当時は日本に、販売・ユーザサポートを担当するApple Japanと、システムのローカライズを担当するUS本社の子会社Apple operations and Technologies Japanの2社があり、わたしは元Apple U.S.のエンジニアにしてKanjiTalkの開発者、ダン・ストリビの手下となって、Ops and Techに送り込まれた。
当時は製品のラインナップがとても多く、誰が使うんだ?というような首をかしげるようなのもあった。それが日本語環境で動くよういちいちテストしていた。社員同士でも「来月この会社ないかも」とささやきあっていた。当時のAppleを「学級崩壊状態」と回想する人のblogを読んだが、その通りだった。社内は業務についてのケンカが多く、いつもどこかで怒鳴り声がしていた印象。
そんな会社でも、ジョブズの伝説に魅せられていろんなエンジニアが転職してきた。なかには日本の大企業で有名な携帯システムの開発をしていた人などもいた。けどAppleは子会社の日本人にはソースを公開しない。ジョブズ伝説に吸い寄せられる優秀な頭脳を使い捨てていたと言っていいと思う。
当時やっていたのは、TrueTypeの開発だった。わたしはそれ以前に小さなデザイン会社に勤めていて家電製品や業務用大型冷機の表面に貼るプレートやシールなども作っていて、なにかと近所の小さな写植やさんに行って、文字を紙焼きしてもらっていた。いつも大量の印刷物を腕利きの職人さんが忙しくさばいていたその工場で、うちの発注は少量でほとんど儲け外だったとおもう。わたしが行ったときは、社長自らがサンダル履きで出てきて、ちょこちょこと焼いてくれた。事務所の隅の木の椅子に座って仕上がるのを待っていると、お茶を出してくれ、社長の趣味の無線の話などをした。
DTPの出現は、デザイナーにとっては夢のような技術だったが、それによって写植やさんは仕事がなくなった。安価でトラブルなしのTrueTypeの開発によって、DTPは格段に普及した。一方それはFont業者の過去の遺産をも徹底的につぶすものだった。
万人に対してシンプルな使いやすいものを提供するために、既存のものをすっぱり切り捨てる非情さ。美しさ・フレンドリーさと、非情さは表裏一体。伝説と便利さに魅せられてApple製品を購入することでその一部になったような幻想を見ることはできるが、向こうはこっちを仲間とは思っていない。という現実もあるとおもう。Appleの製品はすばらしい。けどそれを使わせてもらうだけでいいのか?
あとね、当時契約社員が正社員に昇格する最終試験は、自社製品について重役たちが居並ぶ前でプレゼンすることだった。役員になった人は、自社の社員によるプレゼンをすっごくたくさん見たんじゃない?
アメリカ人にしょっちゅう言われていたことそれは「〜〜するためには、〜〜するだけでいい」しんぷるいずべすとっちゅうことだけど、ランス・アームストロング(アメリカ人)がツール7連覇後にインタビューでそう応えていたときは「あーっまたか」とげんなりしたわ。
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本の内容とは関係なくなったけど、ちょうどこの本を読んでいたときジョブズが他界したので。
地震考古学―遺跡が語る地震の歴史 (中公新書) [新書] 寒川 旭"
古墳は巨大な地震計。らしい。過去に起こった大地震の痕跡が古墳に残っているそう。
2003年12月、東北電力は新潟県巻町に予定していた原子力発電所建設計画を撤回した。32年越しの紆余曲折、全国で初めて原発立地を問う住民投票が行われて7年目。そのいきさつ。
巻町が住民投票を実施するにこぎつけた理由は
・工業化に遅れて過疎傾向にあったが、新潟市のベッドタウンとして宅地開発が進行。従来の地縁血縁のない人々が流入。原発の恩恵に無関係で快適な住環境を求める住民の増加。
・行政や電力会社への不信。原発建設に関わる情報の開示・住民自らによる判断材料への要望。
・政策決定に住民の意志が反映されていない事への不満。
・女性たちの政治への参加。
等があった。
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小出裕章氏は、原発を研究するうち、これは都市には建てられない。過疎地にのみ立地可能とわかって、原発の矛盾に気がついたと言っていた。巻町の場合、計画当初は過疎傾向の土地だったのが、周辺都市のドーナツ化現象によって、いつしか立地に適さない場所に変わっていた、というのもあると思う。町の税収も昔からの農業従事者、事業者からのものより、近隣都市に通勤する住民からの方が大きくなってきたんじゃないだろうか?
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この本は4人による共著。「政治社会学・社会運動論」「農村社会学・社会学史」「ジェンダー研究・文化社会史」「メディア研究」と、それぞれちがう分野を専攻している4人が、巻町という「場所」で起こった社会現象を、様々な角度から分析研究している。これぞ「トコロジスト」活動ではないだろうか。できれば経済関係の研究者もいればよかった。
幅広く多角的な視点から、ある狭い地点を研究する人、またはグループは、環境問題を考えるとき欠かせない存在になるだろう。
ワシタカ類の渡りの季節なのですね。ココ↓を見てチェックしてみました。
シーズン到来!「タカの渡り」特集 デジスコとバードウォッチングの専門店、ホビーズワールド。
鳥の羽図鑑を見ていたら、鳥の換羽のシステムについてはこの本を読むようにと書かれていた。鳥の羽はほぼ1年に1度抜け替わるのですが、一度に全部抜けちゃうと飛べなくなるので、少しずつローテーションで抜けるグループと、覚悟を決めて暇なときに一度に集中して換羽するグループがいるそうです。
わたしが読んだのは1996年刊。2011年増補版も出ているようだ。アメリカ、サンフランシスコのサクラメントにて、住民投票により原発が廃炉にされた。そのいきさつ。
トラブル続きだった、サクラメント電力公社のランチョ・セコ原子力発電所。スリーマイル島の事故後、反原発運動が始まるが、メンバーは25人ほどしかいなかった。チェルノブイリの事故後、自然発生的に原発に危機感を持つ人が増え連帯していった。
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反原発派が住民投票で多勢になれた理由
・ベイエリアと比較して保守的なサクラメントで多数を制するため、急進的な反原発運動に対するアレルギーを刺激しないよう、反原発一般でなく、1箇所の原発の閉鎖に的を絞る戦略をとった。その動機は安全性と経済性のみに照準を合わせた。そのため、カウンターカルチャー的な運動スタイルを持つサンフランシスコ周辺の反原発運動の参入を断ったことも。
・住民投票は有権者の範囲が小さいほど住民側の危機感が投票結果にストレートに繁栄されやすい。
・有権者の居住空間と電力サービスの受益者の範囲が完全に重なり合った。
・サクラメントは、環境グループ・社会運動組織の拠点があり、生活者としてサクラメント市民。運動ノウハウや資金などを供給した。
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廃炉決定後、廃炉そのものにも膨大な費用が必要だった。原発なき後、サクラメント電力公社はいかにして経営を立て直したか。
・省エネは発電に相当する 真夏の電力ピーク時に、電力会社からリモコンで家庭のエアコンのスイッチを切ることができる契約を導入。
・省エネ家電への買い換え運動。
・電気自動車の普及 夜間に充電することで 時間帯による消費電力のバラツキを補正。 電力会社の安定収入に。
とってもいいことが簡単に実現できるようだが、問題もあると思う。電気自動車や省エネ家電の開発・生産に必要な電力は家庭消費の数倍。それらは地元にない。電力需要の輸出によって実現したことにならないか?製造業地帯に問題を押しつけたとは?
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原発推進派と反原発運動派はそれぞれ違うロジックで動いているため、議論が平行になって歩み寄るのが難しい。そこで有用なのが、政策提案型のNPO。と著者は書いている。こんなわたしでも原発について考えてみようかとグラッと思ったのは「ミツバチと地球の回転」という映画を見て、今までとは違うエネルギー政策のありようがあることを知ったときだった。そういうNPOが存在することもそのとき初めて知った。その後福島の事故が起き、一気に切実な問題になったが。
わたしはだれが総理だろうが、大臣だろうが、暴言吐こうが、浮気しようが、どうでもいいと思う。正しい政策が実行されれば。大臣は誰でもいい。委員会に偏った人事采配を行わず、正々堂々議論が行われる場があれば。人物批判する時間がもったいない。それよりも同じ時間・紙面が、政策について検討されることに使われたほうがいい。
ヨーロッパ科学史の旅 (NHKブックス) 高野 義郎 (著)
文字を読みすぎたので、写真や地図からも見直しておきたくてパラパラと。グラビア印刷の写真でも建築物の外観・内装の威厳に圧倒される。特にイギリスで田園風景のような水辺の環境が細心の注意を払って自然に見えるよう保存されているのを見ると、それを維持する人たちのものすごい教養の力を感じてしまう。
memo
コペルニクスの地動説の最初の信奉者にジョルダーノ・ブルーノがいた。彼はローマのカンポ・ディ・フィオーリで火刑に処せられた。そのほぼ300年後の1915年、同じ場所古本市で一人の少年がお小遣いをはたいて一冊の物理学の本を買った。エンリコ・フェルミだった。
digのpodcastで、福島と同じ構造だとして「フクシマ論」とともに推薦されていた本。
写真で見る米軍基地の観光ガイド。基地の背景について28項目の説明がある。その最初の「ペリーはなぜ、最初に那覇に来たか」を読んで驚いた。そのうえで、No11「アメリカの対日政策」を読むと、ガーンとくる。ベネディクトの「菊と刀」、ハンチントンの「文明の衝突」などの著書は、日本の文化がアジアの他の文明と異なると日本人に思い込ませるための工作。そんなこと初めて知ったわ!
いや知ってましたよ、日本と中国を相対させておくのがアメリカさんの政略だということは。けど具体的なモノが出てくるとショックやわ。次世代では東アジアに儒教を中心にした勢力ができる、ただし日本人が中国に寄り添うのは心情的に難しいかもと予言したローレンス・トーブの言葉に、たしかに難しいだろうなと思ったわたしはやはりまんまとやられているってことですよね。
そしてさらに、みんな大好きな司馬遼太郎批判。「街道を行く」になぜ基地が出てこない、こんなにいっぱいあるのにという。。。たしかに。
ある時代のリアルな感情というのは、信頼できる人の体験談からしか理解する方法がありません。
memo
日米同盟の正体~迷走する安全保障 (講談社現代新書) 孫崎 享 (著)
コレ読んでまた泣いちゃったんだよ。子ども向けに書かれた本。私にはこれくらいでちょうどいいです。てか、これ以上技術的な説明が詳しくなると無理です。全ての漢字にはふりがながふられている。こどもには理解が難しいかなとおもわれる単語が容赦なく使われているが、それでいいと思う。物語と内容があれば、読んでいるうちにわかるようになるだろう。言語ってそういうものだものね。科学といえど、それを語るのは言葉なのだ。
memo
「セーフホールドモード」緊急時に時間を稼ぐ仕組み。安定した状態に持ち込んで、時間を掛けて本格的な対策を考えるため。
memo
中和神社(ちゅうかじんじゃ 岡山県真庭市 中和器の神様 ^^)
飛行神社(ひこうじんじゃ 京都)
飛不動尊(とびふどうそん 浅草)
やるべきことをすべてやったか運用チームが自問自答するためのお札
内田樹氏がいつか推薦していた本。
・カースト
・性
・年齢
の3つの視点から人類の歴史を解き明かそうとする試み。
著者は東京在住の外国人。このカーストのモデルは、古代ヒンドゥーの神話からヒントを得たものだそう。
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カースト交代のプロセス。
旧カーストの支配する中心地域である第一世界の辺境、旧カーストの力が及ばず、いまだ旧カーストのさらに以前のカーストの力が残っている地域(第二世界)において、革命が起きる。
第一世界での新カーストの台頭は、革命でなくおだやかな発展的な道のりをたどる。旧カーストは、上昇カーストにしか動かせない新たなシステムの必要性を生み出す。下降カーストは、新システムを機能させるために上昇カーストを雇い入れ、やがてこの新カーストはボスを解雇し、あるいは引退に追い込む。(またもや思うガンジーの言うとおりだ)
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文明の成長過程が、ヒトの年齢による成長と似ている、とはわたしも思っていた。ので即理解。
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男女の性を陰と陽に分けて解説。わたしは恋愛対象は男性の女性だが(美しい男性には興味あるが、女性には興味なし)、頭の中、基本的な考え方・感性などは男性に近いところがある。これは父親によって後天的にそう訓練された&影響を受けた教師や上司がみな男性だった、ところによると思う。いやでも、あたし他の女子となんかちがうとはっきり意識したのは小学校5、6年だったからなあ。両方の性別の考え方がわかるので、かえって違いがよくわからない。りっちゃん、なんかちがうよね、と言われても、自分では自分のことがよくわからないのだ。
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日本は今「労働者カースト」の時代で、次に来る「精神・宗教の時代Ⅱ」を迎えつつあるらしい。その精神とは儒教。極東の日本・中国・朝鮮による儒教ブロックができて栄えると。儒教ブロックは大東亜共栄圏と同じ場所をカバー。ただし戦前に日本が支配していた偽装「商人カーストの時代」とは違うモノ。「労働者カースト」の平等主義と連携の精神による。ヨーロッパのEUのようなもの。精神的中心=中国(EUにおけるフランス)、経済の中心=日本or韓国(EUにおけるドイツ)ぽいんじゃないか?日本にとっては順応が難しいかも。日本人は他人と対等な関係を結ぶのに慣れていない。個人対個人でも、国対国でも。
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儒教ねえ。そうよね、日本語に敬語があるのも儒教の影響よね。おばあちゃんの机の上には漢語の本が並んでた。昔は教養と言えば四書五経だったのね。
儒教の影響があまりに体に染みついているので、日本人である自分にはよくわからないのかもしれないが、わたしにとって日本とは、稲作の国だわ。イネという植物がヒトを養い、イネに寄生する動物ヒトは稲作に適応した社会を作ってきた。天皇制とか。日本人のチームワークがいいのは、その名残り。
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巻末に4つのカースト・性・年齢のモデル、各時代におけるカーストの勃興図など、図表があり、それを最初に見ておくと内容を理解しやすい。
「物理・化学から考える環境問題―科学する市民になるために」で吉岡 斉によるパラダイムの説明を読んで、へーそうでしたか。。。と思ったわたし。「科学革命の政治学―科学から見た現代史」を図書館の棚に戻したとき、隣にあった本。パラパラめくると、クーン「科学革命の構造」についての項があって、つい借りてしまった。
よく目にするパラダイム論の原典「科学革命の構造」が出版されたのは1962年。(非常に地味な「科学論」という分野ながら、世界的な大ベストセラーになった。)クーンは、物理系の大学院生だったとき、文系の学生に講義するに当たり、歴史的な観点でやってみようと思った。そしてアリストテレス力学をニュートン力学で説明しようとして無理なことに気がつく。両者には互換性がまったくない。
歴史を通じて一つの科学が存在し、時と共に発展してきたとふつう思われていることは間違い。科学の歴史は、一貫した連続的な進歩の歴史ではなく、非連続な幾つもの系の連鎖として理解すべき。その一つ一つの系が「パラダイム」。
メモ:参考図書
・科学革命の構造 トーマス・クーン (著), 中山 茂 (翻訳)
・科学革命における本質的緊張―トーマス・クーン論文集(トーマス クーン)
・パラダイムでたどる科学の歴史 中山 茂 (著)
・パラダイムとは何か クーンの科学史革命 (野家 啓一)
・マートン科学社会学の歩み―エピソードで綴る回想録 R.K.マートン (著), 成定 薫 (翻訳)
つぎつぎいろいろ出てくる〜。
2010年12月刊行。
「放射能汚染の現実を越えて」と同じく過去の講演会の収録。話し言葉だけにわかりやすく心に響く。
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日本では原発の廃棄物は再処理工場に運ばれ、地元に残ることはないと説明されてきた。しかし再処理工場の稼働の実現が疑問視される今、特にプルサーマル燃料の再処理工場はさらに不可能のような見通しの中、現実には核廃棄物は原発の敷地内に貯めていくしかない。(この本の刊行後起こった福島の事故で、その事実が明らかになった。)
著者はそのこと自体には反対ではない。なぜなら、原発を誘致するなら、やっかいなゴミはどこかに行ってくれると思うこと自体が誤り。原発を受け入れるなら、永遠の毒物をも含めて受け入れる覚悟が必要。
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「11章 再処理工場が抱える膨大な危険」より
「十分な希釈・拡散」とは広範囲に汚染を広げること
六カ所再処理工場は、クリプトン、炭素、トリチウムの全量を環境に捨てる。経済的な理由を惜しんで本来為すべき処置を取らないのは故意の犯罪。
チェルノブイリ事故時、日本は汚染食品の輸入制限をした。しかし汚染食品そのものが無くなったわけではない。それらは、原子力からは何も恩恵を受けない貧しい国の人々に押しつけられた。
六カ所再処理工場が動けば、放射性物質が放出される。周辺の環境・食品が汚染される。汚染食品を消費者が拒否すれば、生産者は破綻。それを回避するには再処理工場の稼働を許さないこと。
もし稼働を止められなかった時、汚染食品とどう向き合うか?一人ひとりの生き方の根本が問われるだろう。(福島の事故が起きてしまった今、まさに個人個人のスタンスが問われている。)
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「12章エネルギーと不公平社会」より
エネルギーと寿命
1890年〜2006年までの日本におけるエネルギー消費量と寿命の相関を表すグラフによると、エネルギーが絶対的に不足していた時期1947年あたりまでは平均寿命40歳ぐらい、長生きできない。エネルギー消費量がわずかに増加した時期1962年頃までは、寿命が飛躍的に伸びた。その後、エネルギー消費量は2006年に1962年の3倍以上になったが、寿命は延びていない。つまり今の日本では、生きるためでなく贅沢をするためにエネルギーが使われている。
エネルギー消費の格差
世界の人口をエネルギー消費量によって4つのグループに分けると
人口 エネルギー消費量
先進国:16億人 :68%
開発途上国:16億人 :17%
第三世界:16億人 :10%
極貧の第三世界:16億人 : 5%
生命維持に関係ない、単に贅沢をするためだけに、一部の人だけが膨大なエネルギーを浪費している。特に日本におけるエネルギー消費の拡大は異常。このスピードでエネルギー消費を続けると、そのような環境で生きることが難しくなる。
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原発は小回りのきかない発電方法で、季節時間に関係なく通年需要用の一部にしかならない。原発に石油の代わりができるのは、エネルギー消費量の1割のみ。
家庭用電力は、エネルギー消費全体の13%でしかない。家庭で節電しても効果は少ない。一方、個人が浪費を押さえれば産業界のエネルギー消費が減り、家庭以外の電飾消費が節約される。
個人のエネルギー消費を問題にする以上に、エネルギーを膨大に使ってしか成立しない社会構造、産業のあり方の変革が必要。エネルギー中毒社会から抜け出すために、自分でできる方法を見つけること。自分がどのような未来を選択するかに関わる。
代替エネルギーを探すなどという生ぬるいことを考える前に、まずはエネルギー消費の抑制に目を向けなければならない。
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小出裕章さんは、エレベーター・エスカレーター・クーラー・テレビは絶対使用しないことを自らに課しているそうです。先日ラジオに出演されたときも、9時就寝と決めているので、特別に録音での出演だった。番組のアシスタントの女性アナウンサーは、この著書の最後の章を読んで涙が出たと言っていた。それを聞いて、わたしもこの本を読もうと思ったのです。
昨日、そのアナウンサーさんは、別の放送で「汚染食品や海水浴を怖がるのと、原発を容認することが別々に考えられている。それらは直結しているはずだ。汚染食品を怖いとおもうなら、原発も容認すべきでない。」とビシっと言っていました。「個人的には」というレベルではなく、公人として仕事の場でも言う勇気ある人だ、小出さんのメッセージはこの人の心に届いたのだなあ、魂があるってこういうことか。
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汚染食品とどう向き合うか?あなたはどうしていますか?今まで原発は安全とだまされていた、こちらに責任はないから断固拒否する、ですか?わたしは原発は危険だと実は知っていました。原子力資料情報室のメルマガを取っていたし、広瀬隆の「危険な話」も読んでいました。ただ、どこか遠くの国の出来事のように思っていた。今回の事故後も、うちには子どもがいないから、我々自身はもういいな、ぐらいの気持ちだった。つい先日「放射能汚染の現実を超えて」で、先進国が拒否した汚染食品が弱者である第三世界に押しつけられるのは不公正というのを読んで、申し訳なかったと思ったけど、まだまだだった。今朝、この記事を読むまでは。
東日本大震災:汚染牛問題 給食の牛肉使用、茅ケ崎市の小学校が見合わせ /神奈川 - 毎日jp(毎日新聞)
弱者とは、自分が住む街の小学校の給食だった!
これはかなりショックだった。記事を見るうち、タイトルの上に「ツイートする」20というのがあって、これはこの記事を引用してtweetした人が20人いるという意味。20をクリックしてみると、その内容がtwitterのタイムライン上に出てきた。そのうち単なる引用ではなくて、自分の言葉を書き添えてあるtweetを見ると、茅ヶ崎在住の人だった。その人のblogからリンクをたどると
【放射線防護】 7.21 茅ヶ崎市長との面談記録:オリーブの林をぬけて。:So-netブログ
珍しく茅ヶ崎市が本気出してるとおもったら、このお母さんたちのおかげでした。
保育園給食に使用する食材について|茅ヶ崎市公式ホームページ
毎日の記事にあった「服部信明市長は「牛肉の生産、流通関係者に配慮したい思いはある。しかし子供たちの保護者の関心も高いので、食を提供している市として食の安全に万全を期したい」と説明した。」とはこのことか(市長の仕事とは各方面からの圧力を調整することだけなのか?その根幹に哲学や将来への展望はないのか?)。で、茅ヶ崎市が拒否した牛肉はどこへ?
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メモ:江守正多『地球温暖化の予測は「正しい」か?不確かな未来に科学が挑む』2008
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今まで読んだ原発関係の本で、これは参考になったと思う本を、リストにしてみました。
荒波を前にして足がすくんで震えている小さなわたしのお守り - これからの世界を決めるガイドブック
大事なことだと思うので、新たにエントリーを作った。原発は発熱量の2/3を海水で冷却、つまり海に捨てている。環境への影響が心配されるのは、それによって海水温が上がり生態系に影響が出るのでは?という点。
しかし再処理工場の場合、排水そのもに放射性物質が含まれる。ここが大きく違う。
基本的に放射性物質は外に出さないという前提から、一線を越える事になる。
自然界には存在しない物質を出し続けてオッケーということになる。これは絶対あってはならないと思う。
p.256
原発立地について
地元住民による原発建設反対運動
欧米の場合:デモ・ロビー活動・公聴会・法廷闘争などによって争われるのが常
日本の場合:地権者・漁業権者の不同意(土地とカネ)しかないと言っていい。特に漁業関係者の反対が頑強。土地や海が公共のものという意識が希薄。言い換えれば、反対運動の重荷を地権者が負う。大間の熊谷あさ子さんなど「最後の一人」にかかっている場合も。
この本の発行は1994年。1996年に新潟県巻町で原発建設の是非を争点に全国初の住民投票が実施されている。
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漁業権と言えば、最近読んだ本。再処理工場からの放射性物質を含む廃液の海洋放出についての情報を伝える本。読んでいるうちに、これはターゲットが漁業関係者だとわかった。海洋の汚染は素人にはなかなかわからないので、一般市民にとっても貴重な情報源。
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メモ
第5章 公共利益の観点からみた原子力研究開発政策ー高速増殖炉サイクル技術を中心に(吉岡 斉 著)
そのなかの6節「成功しそうにない技術」になぜ固執するのかという項目。
高速増殖炉サイクル技術という存在は、いまだ夢の技術なのか?それとも衰退期の技術なのか?そのイメージによって、原子力開発自体の未来展望が左右される。ので、原子力関係者にとっては死活問題。
科学技術の花形分野として特別待遇を受けてきた原子力研究者の既得権益の確保という現実的問題もある。そのためこの研究には強い生命力がそなわっている(しぶといってことね)。しかしそれでも世界的には衰退の道をたどりつつある。
科学者・技術者は政策決定の場に欠かせないが、公共政策の判断を全てまかせてしまってはまずい。科学者の協力には限界があることを、科学者自身も、政策決定関係者(国民を含む)も知っておくべき。
その限界とは、研究者の能力・利害ということだけではない。彼らが本質的に「前進主義」的な傾向を持つことにあること。問題の解決に当たり、知識の不断の前進という目標を実現するのが、彼らの職業上の思考方法。
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メモ
科学者の問題解決の努力は「パラダイム」による。(詳しくは第7章)パラダイムの説明を読みながら、ああーと思う。
パラダイムを基礎として進められる科学は「通常科学」と呼ばれパズルのような性格を持つ。解答が必ず存在すると信じられていて、正統とされるルール(概念・方法論など)があらかじめ決まっている。その特徴により、累積的発展=解決済みの問題が増えていくという発展パターンを示す。
(ものごとには必ず正解があり、時間がかかってもいつかは解決されるはず。。。って科学者に限らず信じている人は多い)
しかし時間が経つうちに、既存のパラダイムでは説明しにくい変則例が積み重なってくる。次第に多くの研究者が既存のパラダイムを疑い始める。が、研究者は容易には既存のパラダイムを放棄できない。ほとんどの科学者は既存のパラダイムで変則例を説明することを目指す。(ダーウィニズム→ネオダーウィニズムみたいなの?)
それが困難な場合、科学者に与えられる選択肢は3つ。
・転職
・他分野に転身しそのパラダイムに従う
・同じ分野で新たなパラダイムに乗り換える
パラダイムの基本的性格
・プロの科学者集団・制度化された専門分野に属するかぎりパラダイムは絶対的存在
・パラダイムの根幹の中心的信念を決定的に反証することは困難
・科学者は合理的思考を好むが、パラダイムを疑う方向には働かない
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感想
なるほど。有名な大学の組織の中に居た人が定年退職後、足かせが取れたように自由な発言をして、それが話題になりベストセラー。。。養老孟司、武田邦彦氏が思い当たる。
在職中にパラダイムを疑い転身。。。菅谷昭氏。
「合理的思考を好むが、パラダイムを疑う方向には働かない」典型例で一般人からトンデモと言われる人。。。「人は放射線になぜ弱いか」の著者、近藤宗平氏。
ラジオデイズ - 澤田哲生×モーリー・ロバートソン「原発論議、日本に理屈を閉じ込めないで対話を進めよう
この東工大の先生なんかも。なんじゃ、この人?と思っていたが、そういうことか。。。
理系出身の夫は原発推進派の科学者について「だって、理系の性(さが)だからしようがない」と言う。科学者というのは、とことん開発したいし、その過程で出てくる問題も、さらに科学の力で解決しようとする。だって科学者だから。。。らしい。
科学だから正確で間違いはない、科学の力は絶対、というのは錯覚。科学者は科学を道具として使うけど、パラダイムに固執するという人間くさい動機も持つ。それをわれわれ国民は前提として知っておくべき。
そして高速増殖炉サイクル技術が、俗人には理解しがたい非常に高度な技術だからといって、科学者にしかわからないと、普通の人が政策決定に参加するのを放棄してはならない。(また言われた。ゲイル博士も高木仁三郎もそう言っていた)
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わたしの私見
しかしながら、パラダイムに固執するのは科学者だけかというと、様々な職業、特に営業職、製造業、任意団体、愛好会など、価値観を同じくし同じ目標を掲げる団体に属する人は、多かれ少なかれパラダイムに縛られていると思う。環境問題で課題になる、それら立場の違うグループの利害を調整するにあたり、コーディネーターの役割を果たすと期待されている人々がいる。
それは「トコロジスト」と呼ばれるアマチュアの博物学者。トコロジストは場所についてのアマチュア専門家。自然・歴史・伝承・開発予定などあらゆる分野でその土地に通じている人。カバーする分野は極力広く、場所は狭いほどいい。一人では難しい場合は、複数人でグループを形成する。大磯・照崎のアオバト観察会「こまたん」のメンバーと元平塚博物館館長の浜口哲一氏によって提唱された。
今回の原発の事故の前にも、大気汚染、河川の汚染、交通事故の増加、大規模公共事業による環境破壊、食品添加物の問題、などいろいろあり、そのたびに、起こってしまった不都合は、新たな開発により上から蓋をするかたちで解決する、という方法が取られ続けてきた。あーあまたか・・・という気持ちになるが、人々の感覚が変わりつつあるなと思う瞬間もあるようになってきた。とおもうよ。まとまらないけど終わり。
ノーベル賞への批判。科学の発見が軍需産業と二人三脚であることを忘れてはならない。
この本には書かれていないが、以前、伊東乾氏のコラムで読んだ話。原爆の開発にも寄与した物理学の発見にノーベル賞を贈るに際し、被爆国である日本人にも賞を授与してバランスを取った。川端康成の自殺はそのことと無関係ではない。
それ以来、外国人が「美しい」とか「秩序がある」とかほめてくれるたび「ふぅぅーん」と思ってしまう。ノーベル賞ってったって、しょせんヨーロッパの人の価値観による彼らの賞なのだわ。ツール・ド・フランスと同じ。それを越境して認められることにはとても価値があるのも事実だけど、それがすべてではないと知っていることも大事ね。
科学の研究は、それ自体がただちに何かを生産するものではなく、産業的には自立しにくいので、研究を続けるためには国家規模の巨大な権力・資本の庇護下にある必要がある。そのため、基本的に科学は国家戦略と共に歩むことになる。もともと科学とは「御用」なのであり、研究内容より、予算を獲得できる研究者が偉いという組織枠の中で行われている、という前提からの出発。
どこかバレエ、オペラなどの大がかりな総合芸術と似ている。宗教もかな。歴史的に長く存続できた宗派には政治の庇護があった。科学と宗教は対立することが多いけど、あれは似たもの同志、キャラがかぶるので仲悪いんじゃない?
科学・芸術・宗教などは、政治や産業など俗世的なものから独立した孤高なものという印象だが、現実の姿はかなり違う。それを歴史的に検証し、これからの進むべき道を考えようという本。典型的な例はやはり核兵器の開発。各国における原爆の開発(日本も終戦前までやっていた)その派生物である原子力発電について。
「「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか」と同じく、地方からの視点で取材したルポ。津波と原発で避難している人々、原発で働く作業員など、現地に訪ねて取材した話。家族や土地の歴史、どのように原発が入ってきて暮らしが変わったか、原発の前にあった別の大資本による事業、災害・飢饉・中央資本に翻弄されながら、たくましく生きてきた人々の話。(新宿2丁目でバーを経営していた人の節税術には、そんな手を!と舌を巻いた。)
p175
日本に原発を根づかせた正力松太郎について。彼自身は原発についての科学的知識は全くなかった。正力が興味があったのは、大衆が好むもの=野球・テレビ。原発もその一つ。わたしたちは今も彼の作ったシステムの上で、テレビで野球を見、新聞で結果を確認するという安穏とした日々を送っている。その暮らしは正力が導入した原発から送られた電気でまかなわれている。今回の事故はそのような正力の巨大なてのひらから脱することができるかどうかの試金石。
著者は「「フクシマ」論」の開沼博にも会って取材をしている。「「フクシマ」論」は大変興味深く、貴重な著書だと思うけど、元々が論文なので、取っつきにくいところがある。重くて持ち運びにくいし。時間がない人にはこちらの「津波と原発」をオススメ。
原発問題とは何なのだろう?最初はエネルギー問題かと思っていた。そのうち、どう考えてもこんな利益に比べてリスクもコストも高すぎる割に合わないものはないと知り、あたしが知ってるぐらいだからエライ人はもっとよくわかってるだろう、原発を続ける理由は他にあるのか?軍事問題とか?日本がアメリカの植民地だからか?と思っているうちに、文明と科学技術についてまた一から考え始め、ただいま吉岡斉祭りなのだけど、ある日ラジオで、別の視点からの本のことを聞いた。
Dig | TBS RADIO 954kHz 放送後記 7月14日(木)「原子力ムラは、今」
この本は原発を受け入れている地方からの視点。
読後の感想。それでもやはり原発は、搾取の手段だと思う。高度経済成長時代は終わったのだし、これからは産業も文化も電力も地方地方で独自に小じんまりとやったほうがいいと思うな。
以前は推進派だった人たちも、最終的には原発はやめた方がいい、と言い始めている。まるで、自分は最初からそうだとわかっていたような口ぶりで。(ガンジーの言うとおりだね。「やがて、彼らはあなたの主張を取り込み、以前から自分たち側のものだったように装う。勝利はまず、嫌な以前の敵方のものになり、今では、彼らはそれがもともと自分たちのものであるようにして取りこんでしまい、次にそれは歴史に属するようになる。」)
けど、急にやめるのはどうか?などとまだ言っている人は、現実がわかってないんだろう。
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以下メモ
内国植民地の征服 地方←→中央 「資本論」「オリエンタリズム」
マクロアプローチ
原子力の3つのとらえ方
「エネルギー問題」
「核・軍事・外交問題」
以外の問題
1戦後成長の基盤(経済)
2地方の統制装置(政治)
3幻想のメディア(文化)
「原子力の社会史ーその日本的展開」吉岡斉
「脱原子力社会の選択」長谷川 公一
(70〜80年代アメリカにおける脱原発の分析)
メゾアプローチ
「巨大地域開発の構想と帰結―むつ小川原開発と核燃料サイクル施設」舩橋 晴俊, 飯島 伸子 , 長谷川 公一
ナショナル←→ローカル
受益権←→受苦権
地域開発による、地域・環境に対する問題の背景
ミクロアプローチ 近年増加、地域の多様化
「デモクラシー・リフレクション―巻町住民投票の社会学」
伊藤 守, 松井 克浩, 渡辺 登, 杉原 名穂子
「住民投票運動とローカルレジーム―新潟県巻町と根源的民主主義の細道,1994-2004」中澤 秀雄
「日本の原発地帯」鎌田慧
「六ヶ所村ラプソディー」鎌仲ひとみ
「ためされた地方自治―原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年」山秋 真
「原発」は「沖縄」の共通点
強欲・国策・電力会社・地元権力 VS 地域社会・社会運動、という二項対立構造ではない。抑圧、変革に帰結する構図からの脱却。
中央の欲望がムラを抑圧
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ムラもまた欲望している、がゆえに抑圧されている。
当事者の「経験」への注目。ラディカルな歴史が立ち上がる可能性。
1895~1945 外へのコロナイゼーション
1945~1995 内へのコロナイゼーション
1995~ 自動化・自発化されたコロナイゼーション
1992年刊。講演録で口語なので、わかりやすく誰にでもすぐ読める。科学技術のカースト制に関係なく、すべての人に共通する問題からの切り口。原発問題を論ずるなら、まずコレを読んでからその上で始めよう、と思わずにいられない本。
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吉岡斉祭り続行中。同時に「3つの原理」も読んでいるので、それぞれの内容を比較しながら考え込んでしまい、なかなか進まない。ああ、美術とか自然とか本当に好きな本を読みたい。
「ミツバチの羽音と地球の回転」の上映会のセッションなどと、ほぼ同様の内容。全54ページ。
自然エネルギーで火力や原子力の代わりになるのか?とよくいわれる。わたしもそう思っていた。鎌仲監督は「都市の油田は省エネ」と言った。話半分にきいていたが、実際に事が起こってみると、節電の効果はけっこうあった!日本人すげえとマジ思ったよ。
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小出裕章先生を見習って、エレベーターを使わないようにしていたのだけど、今日荷物が重くてとうとう使ってしまった。早寝早起きは無理。毎晩テレビでツール・ド・フランス見てた。。。掃除機は使っちゃうな、アレルギーなので。食洗は、うちは人力が1台ある(ときどき文句言うけど笑)。311以来炊飯器は使ってない、圧力鍋。電子レンジも極力不使用、特にオーブン機能、パンはガスの魚用グリルであぶる。エアコン、ドライヤーは元々使わない。押入の除湿機は必要。
内容は
を見てのとおり。「人はなぜ放射線に弱いか」に書かれていた、良性の甲状腺腫瘍もすべて被曝のせいにして不要な手術をした、というのは間違いと確信。ちゃんと検査して悪性のものだけを治療している。チェルノブイリの事故の影響により、子どもの甲状腺悪性腫瘍が増加したのは事実。ただ、ベラルーシは内陸で、恒常的にヨウ素が不足しているため、海産物をよく食べる日本とは事情がちがうとも著者は書いている。
この本は、人としての生き方の選択について書かれた本でもある。注目したのは、著者が「自分が受け入れられたのは、(甲状腺手術の)スペシャリストだったから。ピンポイントで必要とされる高度な技術を持っていたからで、でなければ かえって受け入れ先の負担になるだけだったろう」と語っているところ。
非情に狭い分野で何かを突き詰めて追求するという生き方でも、それがかえって不特定多数の多くの人を助けることになる、長くつらい修行の先にあったものが、たくさんの人を助けるというご褒美だったとしたら、最終的にその人生はなんと恵まれたうらやましいものか。
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チェルノブイリの経験を生かして悲劇を回避せよ----松本市長/医師・菅谷昭《下》(1) | インタビュー | 投資・経済・ビジネスの東洋経済オンライン
海と魚と原子力発電所 ー漁民の海・科学者の海ー
水口憲哉 著
農山漁村文化協会(農文協)
一晩寝たら、また変わっていた。わたしはぁテクノクラート派ですなどとよくもしゃあしゃあと言えたもんだ。過去の自分のblogを読むと、わたしが反戦派なのは、戦争を体験した祖母に幼少時言い含められたからであり、憲法9条を支持するのは、小学生の時かわいがってくれた担任の先生の影響だ。
合理性や経済性を使って他人を説得する作業は割とうまくできると思う。けどその前に、すでにどの方向に論を導くか、腹の底は決まっている。その動機は、幼少期にそう教えられたからだ。つまり自分が感じる「まっとうさ」に操られている。それは言葉にできない。
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祖母は明治の家父長制と戦争に振り回され傷ついた経験から、権威と贅沢を嫌い、どんな境遇の人にも平等に接しやさしかった。
「道で摘んだ花は、人の勝手な気まぐれで連れてこられたのだから、せめて命つきるまで毎日お水をかえてお世話するのよ」
「まあ、毛虫がこわいなんて、小さな小さな生き物じゃないの。これに一体何ができようか。鉄砲撃ったり爆弾落としたりする人間のほうがずうっと怖いよ」
「人を一度でも裏切ったら、信用というものは取り戻せないよ。そりゃそのときは許されるよ、けど同じ事が起きたとき、あのときああだったから今度もまた。。。と思われてしまうものなのさ」
「男と女の仲とは不思議でね、あるときは皮と骨がなかったら溶けてくっついてしまいたいとまで思うときもある、けどまたあるときは相手がものすごくいやになって顔も見たくない時もある。ずっと同じって事はない。いつも心は揺れ動くものだよ。」
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小学校の担任の先生は特攻の出撃予定日の数日前に終戦し、先に死んだ級友の霊とともに生きていた。
「先生がいなくなっても、きみたちが自分で勉強しつづけられるよう、方法を考えて教えておきたい。」
「きみたちがおおきくなるころ、一家に一台コンピューターがあるだろう」(当時コンピューターはタンスより大きかった。障子を外して縁側から入れるんだろうか?と思っていた)
「きみたちがおおきくなるころ、よのなかに情報があふれて、そのなかからほんとうのこと、役に立つことをえらぶちからが大事になるよ」
「本や教科書に書いてあるからといって、そのまま信じてはいけないよ」
私は小学生の頃まったく作文というものが書けなかった。先生はどんな子でも作文を書ける方法があると教えてくれた。カードに思いついたことを書き、順番を考えて並べ変えればひとつのお話になる、というものだった。学生になって、梅棹忠夫の本を読んで、これだったんだ、先生もこの本を読んでいた!と感動した。
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そんな小さないろいろなエピソードがセットになったものが、自分にとっての良識・譲れない線となって体内に存在する。反戦や9条だけをこのセットからピンセットでつまみ出す事はできない。強固な固まりだから機能しているのであって、解体してしまったら、自分が自分でなくなる。
そしてもっと深く思い返すと、その人たちが自分を理解しかわいがってくれたという、センチメンタルな思い出がある。アタタタ。
子どもの頃の体験は自己完結していて、大人になってから他人とシェアするのは無理だ。
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このごろ、ラジオやテレビやネットで、いろんな人がいろんな事を言う。そのとき話の途中で、「個人的には」と頭につけるひとには何かうさんくささを感じる。だって、ということは、それまで雄弁に語っていた、個人的な考え以外のことは、ウソのタテマエなのか?ということになる。
高木仁三郎の著書の中にあった言葉、「わが国は」で始まる論文に注意、そういう言い回しは、個人の良心による責任を回避することにつながる、というのが忘れられない。
吉岡斉 翻訳ということで読み始めたが、著者は何が言いたいのかいまいちよくわからない。あきらめたところで、ふと巻末の訳者あとがきを読んで、本書の内容を知った。
エイモリー・ロビンス提唱「ソフト・エネルギー・パス」とは
1.小規模分散型エネルギー供給
2.需要の質に見合った種類のエネルギー供給
3.徹底的なエネルギー利用効率の向上
の3つの原則を徹底させることにより、便益を減らすことなしに一次エネルギー消費大幅に削減する路線。将来的には再生可能エネルギーだけで、すべてのエネルギー供給を賄うことを目指す。この路線にとって原発は好ましくないもので、廃止すべき。
感情やイデオロギーを振りかざす「反原発」に対して、合理的で経済効率でも優れているという主張の「脱原発」に近い考え方かな。
それを著者はまっこう批判しているというのだ。どっちかというと過去に存在した「反原発」派の主張に近い。
「効率という考え方は広く人々の同意を獲得しているので、それはときどき、もっと挑戦的な政治的争点をこっそり持ち込もうと考える人々によって、概念的なトロイの木馬として用いられる。」
(ちょっとわかんなくなってきた)
このくだりを読んで、訳者はギクリとさせられた。というのは訳者自身が、「現在日本で行われている原子力政策論争において、ロビンスと同様の「カウンター・テクノクラート」ーーテクノクラート的な論法を用いて、政府の従来の誤りを立証し、それと異なる政策の採用を提唱するものーーの立場をとっているからである
訳者、吉岡斉いわく。日本の原子力政策は、公共利益の観点から論理的・実証的に堅実な手続きによって策定された試しがない。むしろ原発利権を有するインサイダー集団、文部科学省、経産省、電力業界、原子力メーカー、原子力学会関係者などの利害調整の結果として、政策が決定されてきた。関係省庁や業界の利益にはかなっていても公共利益の観点からは落第点。とくにプルトニウム利用に関する政策は、合理主義的な論理によっては弁護不可。
そのため原子力分野の政府審議会報告書は、論理的・実証的に堅実なものでなく、ファジーな論理を多用して無理やり、インサイダーにとって都合のよい結論を導くものとなるのが常。日本ではたいていの政策領域について、同じことが言える。テクノクラート的合理主義に基づく論議によって、ファジーな議論を論破することは、さほど困難なことではない。
だが、こうしたテクノクラート的合理主義が、万能でないことは明らかである。一般的にいって民主主義の方が、合理主義よりも上位に置かれるべき価値基準であり、民主主義と合理主義の双方とも満足できるような合意形成には、唯一の正解というものはなく、最適の解答が時代と場所によって、微妙に異なると考えられるからである。
政策決定に関与する者は、この問題に無神経であってはならない。一人ひとりの市民も、社会の主権者である以上、無神経であってはならない。しかし少なくとも、政府に任命された委員会のメンバーが公共利益の観点から最善の政策を提案するという方式を採用した場合は、合理主義的なルールに則ることが妥当。それが責任ある態度。
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ううむ、著者であるウィナーには悪いけど、わたしもやっぱりテクノクラート派ですね。冷たいように思われるかもしれないが。だってイデオロギー、人種、宗教、文化の相違による争いは泥沼になる。もともとすべての人に共通するものではないのだし。
ある社会の構成員全員、または通信や交通の発達によってますます狭くなる地球の構成員にとって、共通する真実は、技術的な合理性と経済性だとおもう。
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脱原発の国:ドイツ、イタリア
原発大国:フランス
で、思い出すのがエマニュアル・トッドの「世界像革命--家族人類学の挑戦」
長兄が家督を継ぎ他の兄弟たちとは差別される家族制度と、兄弟全員が平等に扱われ等分に相続する家族制度。育った家庭環境が、元々人間とは平等な存在か、不平等なものなのか、後の社会観を決定するという。。。(あるものはコミュニストに、あるものはファシストに)
さて、日本は。。。? 原発の運用をしている側の人たちは、自分たちが利益を受けるのは当然、それで他人が迷惑を被っても仕方ない。という立場にあるように見える。東電や保安院の対応を見ていると。原発の技術はどうかわからないが、運用する人があれじゃあいやだな。日本は温暖化に比例してだんだんラテン化している(笑)とわたしは思っている。
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今日聞いてて笑った、そして大手メディアにも良心があるのかと胸をなで下ろした番組。
Dig | TBS RADIO 954kHz 6月27日(月)「なぜ菅総理じゃダメなのか?」
吉岡 斉(よしおかひとし)祭り。
核燃料再処理事業について。電力業界はコストがかかりすぎるという理由で、及び腰の姿勢をとり続けてきた。そういえば、のらりくらりといつまでも建設中なようだ。
かといって、事業から撤退もできない。なぜかというと、再処理事業を稼働するという前提で、青森県に使用済み核燃料・高レベル放射性廃棄物を引き受けてもらっているから。
青森県は、いずれは最終処分地に移送するまでの暫定的な処置ならという前提で受け入れていて、永久的な貯蔵は認めていない。再処理事業が中止になると、高レベル放射性物質の受け入れ先がなくなる。
再処理事業中止の場合、現在原発がある自治体も、永久貯蔵施設になるのを怖れて、原発の敷地内に中間貯蔵施設を建設するのを拒否する。
廃棄物の行き場がなくなる。→形だけでも再処理施設を建設し続けるしかない。
なんという。。。どうかんがえてもおかしくない?このシステムを維持しているのは官僚のみなさんだが、官僚は任期さえ無事済ませればいいので、先のことは考えない(のか?)肝心の政治家は官僚に牛耳られている。
「人は放射線になぜ弱いか」に記述のあった、
ベラルーシで子どもの甲状腺腫瘍が増えたのは、検診のしすぎ。「死体解剖をして甲状腺を調べると数個の腫瘍がみつかることがふつうであるといわれている、甲状腺腫瘍は悪性なものはまれである。したがって、がん検診が有害である場合の証拠がチェルノブイリ事故の調査の影の部分に存在すると思われる」(p248)
というのはやはり間違い。という意見。
Twitter / @ShinyaMatsuura: 読む。 甲状腺微小癌の話:六号通り診療所所長のブログ ...
これを見ると0~14歳の小児の甲状腺癌は、 被曝後10年くらいにピークがあり、 15~18歳時の甲状腺癌は、 被曝後15年にピークのあることが分かります。つまり同じ甲状腺癌でも、
その発症の仕方には幾つかの違いがあるのです。こうした経過は、
検診のバイアスにより生じたものとは、
説明し難いものだと僕は思います。
原発の矛盾について知りたいなら、とりあえずこの1冊かな。大きさも手頃で、移動中に読みやすい。
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ラジオで脱原発を決めたドイツの事情を聞いた。
放送後記 6月7日(火)「ドイツの原発政策」
Podcast iTuneアドレス
日本のこの行き詰まったエネルギー政策を変えるためには、現電力会社による市場独占をやめて、電力を自由化しなくてはならない。有効な手立てはもうわかってるんだ。送電分離、電力固定買い取り制度。数年前にもその試みはあったが、原発利権議員たちに法整備を妨害された。彼らだって、今のままではだめだってわかってるはずだ。ただ急な変化を望まず、もう少し時間をかけてとおもっているのかもしれない。そうこうしているうちに、抜き差しならぬ事態になった。非情さを持ってきっぱりやるしかない。わたしをふくめて、老人はもう贅沢しなくていいよ。それより、若い人たちにまともな世界を残したい。電力業界を自由化してくれるなら、どこの党だろうが、だれが総理だろうが、その真の目的が何だろうと、とにかく実行してくれる人を、わたしは支持する。本当に結果を出してくれる人を望む。
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DIGでは「大震災からの命の守り方(2011年4月)」もオススメ。
Dig Choice「大震災からの命の守り方(2011年4月)」をポッドキャスティングで聴く
海の近くに住んでいる人はぜひ聞いてください。合い言葉は「てんでんこ」。
高木仁三郎祭り。著者はすでに世を去ったけれど、いい仕事を残してくれてほんとうに感謝する。プルサーマル計画が非常に無理のあるものだというのはわかった。そのうえ、「もんじゅ」のような高速増殖炉は、軽水炉と比べて、さらに地震に弱い構造をもっている。運転温度が高温になることから、まっすぐの配管にできない。また熱変化の衝撃耐えるため、配管をとても薄くしてある。。。って地震が多い日本には向いてないじゃん!今回の事故でもネックは配管だった。一日に何度ニュースで配管が・・・って聞いたことか。
今、電源開発(現J Power)が、青森県大間に建設中のフルMOX燃料の原発が稼働し始めるとさらにやばくなるんじゃないだろうか?うむむむ。
胎内被曝(妊娠中に胎児が被曝)にはしきい値があり、原爆放射線の場合、20ラド(約200ミリシーベルト)以下なら無害。
「DNAに傷ができても、p53タンパク質分子が認識して、細胞の自爆スイッチを押してアポトーシス死に追い込む。こうして、胎児組織からは放射線の傷が完全に排除される」(p238)。
胎児の場合、あるレベルまでの放射線による損傷は、細胞が自分でリセットするので、障害児が生まれるのを恐れて中絶する必要はない、という話。
著者は「プルトニウムファイル」にも出てくる、あのオークリッジ国立研究所に留学していた。ああ、あそこか。。。
放射線と分子生物学の基礎を理解するにはいいかも。説明が丁寧で図が多くわかりやすい。
しかしどこか投げやりなところがある。
「チェルノブイリの汚染地区で奇形児の出産が多いのは、放射線の影響というよりは、アルコールによるもの。妊娠中のアルコール摂取による催奇性はよく知られている」
。。。え?それだけ?他のことは懇切丁寧に資料を示しているのに。
ベラルーシで子どもの甲状腺腫瘍が増えたのは、検診のしすぎ。「死体解剖をして甲状腺を調べると数個の腫瘍がみつかることがふつうであるといわれている、甲状腺腫瘍は悪性なものはまれである。したがって、がん検診が有害である場合の証拠がチェルノブイリ事故の調査の影の部分に存在すると思われる」(p248)
ええー???
本著には、文献や論文の引用はたくさんでてくるが、実際の患者に接した話は出てこない。自分でも、ずっと「象牙の塔」の中にいたと書いている。語り口調はやさしく思いやりにあふれているようだが、被曝した生身の人間を観察し、訴えに耳を貸した話は出てこない。
ホルミシス効果(ちょっとなら放射線を浴びてもかえって健康によい)はわからないでもない。体に少々のダメージを与えると、自然治癒力が反応して一時的に体調がよくなるという経験があるので。プロのスポーツ選手は、わざと負荷のかかるトレーニングをして、ダメージから回復するタイミングを試合の日に合わせることがある。わたしは久しぶりに山に登って全身が疲労した数日後40肩が治っていた。家人は初めてフルマラソンを走った翌日、長年の慢性の足の痛みが回復。風邪を引くと免疫が更新されて回復後はすっきりする。別に放射線によるダメージに限ったことではないと思う。そして大事なのは回復する期間があるということで、たとえば内部被曝によってずっとダメージ受けっぱなしではまずい。
この本が出版されたのは1998年。当時被曝といえば、原爆・核実験・チェルノブイリの爆発事故。放射線被曝=一時的に大量の外部被曝、という認識なんじゃないだろか。内部被曝については詳しく書かれていない。元々普通の人の体内にはカリウムがあるのに、少々放射性物質を摂取したからといって、気にすること無いのでは?ぐらい。イラクに行って白血病のこどもたちを見てほしい。
分子遺伝学について書かれていたけど、著者はネオダーウィニズム信奉者なのかな?生物は適応しながら選択的に進化する(負け犬は淘汰されて当然)という。池田清彦氏と対決させてみたい。
あと、最後に「21世紀の原子力エネルギー新政策と安全線量の自己管理」という節がある(p250)。これはまずい。せっかくここまでいい話に持ってきたのに、これですべてがオジャンだ。ああ、これが言いたかったのね。このために話を合わせたんでしょ、となる。そして、わたしはオークリッジだからな。。。と思ってしまう。
意図的にそうしたのではなく、時代の風潮がそうだったのだから、自然な流れかもしれない。科学といえどもそれを扱うヒトの意識、社会構造などの影響から完全にフリーになることはできない。
科学者の立場から社会的なメッセージを発するのはむずかしい。うまく説明できなくて唐突な印象を与えると、せっかくの研究全体が否定的に見られてしまう。その点、ゲイル博士の手練手管は上級。
この本はためになる。とてもわかった気にさせてくれる。ただ、他の本もセットで読んだほうがいい。
「内部被曝の脅威」肥田 舜太郎 (著)
「プルトニウムファイル」アイリーン ウェルサム (著) 渡辺 正 (翻訳)
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少々の放射線なら害はないので怖がる必要はない。というのは理解できる。問題は、少々とはどの程度か?今自分はどれぐらい被曝しているのか?わかりにくいことだ。高価で入手困難な機器がないとわからない。
BSEのように、感染しているかどうか確かめる手立てはなく、長い潜伏期間を経て発病したら秒読み開始、治療法はないという、ロシアンルーレットのような怖さがある。
食品添加物や放射性物質は、煙草やアルコールに比べて、自分が摂取した量がどれぐらいなのか個人で判断できないので、檻に閉じこめられたようなストレスを感じる。恐怖と言うよりは、自分で自分の身を守る自由を奪われた憎悪。下々の者よ、君たちの目に見えないけど怖れる必要はない、と放射性物質製造元(オークリッジ研究所)に言われると、かえって怒りが増幅する。そっちが作ってばらまいてんのに!
原発のゴミはどこにいくのか―最終処分場のゆくえ 西尾 漠 (編集)
どう見る、どう考える、放射性廃棄物 鳥井 弘之 (著)
放射性廃棄物はもうどうにもできない、これ以上核のゴミを出すともう無理ってかんじだ。
原子力事故と東海村の人々―原子力施設の立地とまちづくり
(シリーズ臨界事故のムラから (1))
斉藤 充弘 (著)
東海村に原子力施設ができるとき、土地利用の整備構想としては安全面から、施設の半径2km以内は緑地。6km以内は工場など居住地以外の施設。その外側に居住地。となっていた。しかし現実は、まず2km圏のすぐ外側に社宅や住宅ができ、年月が経つうちだんだん施設のすぐそばにまで住宅が建つようになってしまった。
JCOの臨界事故はなぜ起こったのか?くわしく調べられている。「プルトニウムファイル」にも、突然の臨界事故で作業員が被曝するシーンが書かれている。最初は決められたマニュアルどおりきっちり手順を踏んでいても、慣れとともにだんだんいい加減になっていく。どこの国のどの各研究施設も同様のようだ。とすれば、人とはそういうものだからという前提でいろいろやっとく必要が?で、わざとハード的にめんどくさくしておくと、ああもううるさいとかって、とっぱらわれて、なんでこんなことしたんだ?って後であきれられたり。。。
当時の作業員の被曝限度を見ると、きびしかったんだなーという感じ。タイムマシンで今こんなだよって見せたら、びっくりするだろうな。わたしたちもすでに慣れてしまっている?地震には完全に慣れてしまったね。。。
はあ、長かった。量的にも重さ的にも。著者は空軍の廃棄物処分場の浄化について調べていた。そこで偶然プルトニウム人体実験の書類を目にする。人体実験について調べるとすでに報道はされていたが、被験者についてはコード番号しかわからない。どんな人たちだったのか?実験後どうなったのか?著者は一人ひとり探して遺族から話をきく。
被験者は、最初は末期症状の患者などだった、しかしだんだんエスカレートしていって、若い妊婦たち、4歳の幼児、問題のある子どもを収容している学校の生徒たち、健康な若い兵士たちが何も知らされずに犠牲になっていく。
もうこいつら(実験した科学者)どうしようもないのか?
巨額な研究費と、戦争をきっかけにした医学・科学の進歩が、人体実験やりたい放題のムードを医学のほぼ全分野に生んだ。(上巻p237 )
医師も学生も慈善病院の患者をつかって研究していました。当たらずといえども遠からずですが、私たち医学生も指導教授も、自分は患者と別の階級だと思っていました。(上巻p243 )
救いようがないなと思いながら読んでいると、政権が変わり急展開。1994年クリントン政権下にエネルギー省長官になったアフリカ系アメリカ人の女性ヘイゼル・オリアリーによって核実験が中止され、長年極秘に行われてきた放射能の人体実験は情報公開される。
ローレンス・リヴァモア研究所の前所長ジョン・ナッコルズは、その会議でオリアリーの司会ぶりに仰天したという。「核実験がなぜ必要かという議論になったとき、自分の祖母を説得できないからだと言ったよ。あれはどうやっても忘れない。いいかげんな頭でばあさんを説得するなんて話じゃなく、国家の安全がどうこうと言ってくれりゃ納得もしたのに、女史はあの問題を、技術なんかまるで知らない人間を説得できるかどうかで判断したんだ。真顔だったからたまげたね。」(下巻p254 )
彼女はゲイル博士の本を読んでいたんだろうか?「技術的なことに関して完全には理解できていないからといって、意見を述べることを畏れる必要はないから、自らの考えをしっかり持ち、発表してほしい」と読者へ願っていた。。。
某議員が彼女を「なまいき(uppity)だ」と言ったらしい。「それ知ってます?すごい南部方言。言ったのは議員様よ。自信家で、ものをあけすけに言い、誰にも頼らない、という意味ね。女のくせにそういう態度をとるのは身のほど知らずだってわけ。もっと腰を低くして穏やかないいかたをしろ、他人に頼れ、とね。まあたしかに私は、他人に許しを請うようなことはめったにしなかったから。」(下巻p255 )
同じ事を最近よく聞いた。たしか、菅直人に対する非難の言葉と一緒ですけど。。。
だがもっと大事なことがある。核実験や放射能漏れ、原発事故のたびに政府が出す「無害・安全」宣言はあやしい......と国民がうすうす感じていた、その予感が裏書きされたところである。(下巻p263 )
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物理の研究者は机の上の思考には秀でているが、実験など体を動かして何かを操作するのは苦手な人が多い。きちんと安全上の手順を踏むことも難しかった。研究施設は新設されてから時間が経つほどに汚染されていく。核施設はどんなに厳重に管理しても、年月とともに次第に放射能汚染されていくものらしい。
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このレポートの著者も、核実験を中止し人体実験の情報公開に踏み切ったのも、女性。
祖母は生前よく言っていた「一人ひとりはいい子でも、男の子だけでグループになると悪くなる」と。原発について家庭内で語るとけっこうけんかになったりするらしい。先日河野太郎国政報告会でも、奥さんにどうなってるの?と詰め寄られてけんかになることがあるって言ってた(笑)。
製薬会社による人体実験を暴く夫婦の話、ジョン・ル・カレの「ナイロビの蜂」に
「女たちがアフリカ唯一の希望なんだよ」「女は家庭をつくり上げ、男は戦争を生み出す。アフリカ全土が男女の戦いなんだよ」
という台詞が出てくる。
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「スゲエの見つけたんだぜ。これをそこらへん歩いてる奴らに当ててみようぜ。あいつらぜったい気がつかないし、弱そうなヤツだったらだいじょぶだって。」
「あんたたち、いいかげんにしなさいよ!家に帰って手を洗って、ごはんを食べて、寝なさいっ。」
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そうそう、肝心の実験結果なんだけど、放射線に対して弱い人も居るし、ずっと不調を訴えながらも長く生きながらえるひともいるし、かなり個人差があるんだな、という感想。
今日は読みたい本。好きな本を読めるのはうれしい。著者は子どもの頃、親に連れて行ってもらった海で貝殻を拾ったのがきっかけで、大人になってもそれが趣味に。潜って採った貝や、お金で買った貝には、よろこびを見いだせない。浜辺を歩いて偶然の発見があって一喜一憂。。。ってあたしと一緒やん〜♪
浜辺に落ちている貝殻は最近のもあれば、古代から残る化石状態のあるのですね。縄文時代(貝塚など)と、明治以後(モースの調査など)と、現代と、落ちてる貝がちがってきている。それは温暖期や氷河期やいろいろ環境が変わったため。日本と大陸が地続きだったころ、黄河の河口は済州島あたりだった。日本の干潟の貝の伝播ルート2つ。大陸→九州→本州。東南アジア→八重山諸島→沖縄→九州→本州。沖縄は両方のルートが入り混じっているため貝の多様性が高い。など。。。
先史時代の自然環境―縄文時代の自然史 (考古学シリーズ (21)) [単行本] 松島 義章 (著), 前田 保夫 (著)
高木仁三郎さんの遺作。本書は著者が病床にて残した録音テープを書き起こした物。やさしくお話をしてもらっている感じ。
ーーー
以下メモ
原子力は産業技術指導方ではなくて、むしろ国家主導型というか、政治主導型で始まっていった。
↓
議論無し、批判無し、思想無し、の三ない主義。
アメリカの場合、原子力導入の過程で大きな議論になったのは、大事故の際、一企業が損害賠償をする範囲を遙かに超えるのでは?という問題で、電力会社の原子力への抵抗は強かった。
日本でも同じ問題を抱えていたが、きちんと議論されなかった。大事故の責任までとりきれるのかという議論を真剣にせずに、事故が起これば<国まかせ>ということで突き進んでしまった歴史がある。
原子力の社会史―その日本的展開 (朝日選書) [単行本] 吉岡 斉 (著)
ーーー
原発側の雑誌「原子力工業」に寄稿している研究員の論文はだいたい「我が国は」と始まっている。必要以上に国を背負っている。
↓
個人の欠如=何回事故を起こしても個人個人の責任が自覚されない。モラルというものが確立する前提がない。
放射能をきちんと知らないで原子力を利用して生きていこうというのは無理。大事故が起きるか起こらないかはわからない(著者は2000年に死去。本書はその2ヶ月後に刊行)。我々はどんな核汚染にさらされるかもしれない。放射能とはどういうものか、どのように人体に影響を与えるのか、もっときちんと知らなくてはならない。賛成、反対以前に、ます正確に知らなくてはならない。推進派の原子力屋さんは、そもそも放射能を閉じ込めることができるという基本的立場に立っているから、非常に楽観的に考えている。
物理分野の研究者と、化学分野出身者では、物への接し方のセンスがまるで違う。物理出身は、机の上で緻密に計算できるが、予想外の現象を起こす物質というものの扱い方、接し方の土台がない。マニュアル通りでないとか、教育が足りないとか、モラルの問題ではなく、物を扱う経験の不足。
ーーー
島田雅彦と高橋源一郎の対談をテレビで見て、小説家にとっての「パブリック」な立場について考える。私小説だけでもよくないし、社会派だけでもよくない。これは小説家だけでなく、自分たちのことでもあると、瞬間的に思った。パブリックな意識のなさというのは、いま我われ日本人の中に蔓延している。
技術の場合にも同じ事がいえる。自分の仕事にパブリックな意味があると自覚しているか?自分のやっていることの公的な性格や普遍的な意味、地球の未来に自分がどうつながっているかというようなことが見えなくなってきてしまっている。
仏師の公共性
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自己検証のなさ
寄せ集め技術の危険性。日本では大きなプロジェクトは各社に少しずつ仕事が回るように
国策的に割り振られることが多い。そのようなプロジェクトは多くの場合、思わぬ欠陥が露呈したり、1社でやるよりコストが割高になりがち。失敗した国家プロジェクトの例:H-2ロケット、原子力船むつ、高速増殖炉もんじゅ、再処理工場開発、六ヶ所村ウラン濃縮工場、新型転換炉ふげん、すべて多企業寄せ集め型プロジェクト。
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隠蔽から改竄へ
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技術者像の変貌
もともと西洋的な工学技術が日本に受け入れられる段階で、受け手の側は技術という物の持つ本来の公的な性格を見失っていた。他方で、日本古来の職人的な技術が持っていた公的なものがあったはずだが、そういうものを受け継ぐようなところもなかった。
新しい時代の技術者の倫理綱領が必要。アカウンタビリティーや責任と言うことと、ITの関係。インターネットで流れるような情報にもきちんとしたアカウンタビリティーが確立され、その背景にはそれに責任を持つ個人というものの存在がはっきりとしないといけない。
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技術の向かうべき所
技術の極地はパッシビズム。人為的介入が無くても、事故がおさまるようなシステム。流水や太陽熱など自然な法則にしたがい循環の中でエネルギーを賄えるシステムが、安全への懸念を解消する。
人間が自然の法則に逆らって自然界を制御するという考え方、システムのあり方は、これからは古くなってくるかもしれない。
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最終章を読むのに2日かかってしまった。この本が刊行されたのは2000年。JCOの臨界事故後。大事故が実際に起こってしまった今、原発推進派vs反対派の図を冷ややかに見るだけだった我われの意識も変わったし、技術者のみなさん、特に当時原発の開発に携わった方たちには大きな衝撃だったと思う。
福島原発暴発阻止行動プロジェクト | Skilled Veterans Corps at the Fukushima-Daiichi Nuclear Power
原発「決死隊」126人が志願 ボランティアの退役技術者たち(J-CASTニュース) - livedoor ニュース
Peace Philosophy Centre: 福島原発事故についての緊急建言
チェルノブイリから何を学んだか
佐藤 幸男,和田 あき子
岩波ブックレットNo.395
全編対談で、おだやかな口語です。チェルノブイリ事故後、ソ連の政府を通さず、市民対市民の勝手な国際援助活動が多数発生した。日本国内だけで約100団体。それぞれ勝手に援助先を見つけて、または縁あって、なんとなく頼まれるままに医療品を運ぶうちにやみつきに。。。という表現。わかるその気持ち。
しかし今度はこちらが大変だ。福島のこどもたちはどうなるんだろう。
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YouTube - プロジェクトX 挑戦者たち チェルノブイリの傷 奇跡のメス

知られざる原発被曝労働 ---- ある青年の死を追って ----
藤田 祐幸 岩波ブックレットNo.390
フクシマと同じ沸騰水型原子炉の浜岡で働いていた青年。
原子炉は古くなるほど汚染されていく、技術者の被曝量も増える。
放射線医学の大家が、原発労働者の健康よりも会社の利益を優先に考えている場合がある。原発被曝は80年代に減少。企業努力により定検作業の一部が自動化されたため。
しかし90年代からまた増加傾向。原子炉の老朽化により長期点検、部品交換、事故対応など大がかりな作業が増えたため。
電力会社社員の被曝は全体の5%。95%は下請け労働者。
下請けに3種類。
1.制御系・保安系。データの計測、装置の維持管理。年間を通して勤務。最も技術力が要求され、被曝リスクも高い。
2.メーカーの部品の保守管理。原子炉系とタービン系。バルブ、ポンプなどの溶接配管なども。定期点検時のみの派遣。短期間の被曝
3.放射能を除染する清掃労働。農村・漁村からの出稼ぎ、都市の失業者など。定期点検時のみ。
上の関町祝島の元原発労働者への取材。祝島には各地の原発に出稼ぎに行っていた人たちが数十名いる。祝島で原発反対運動が高まったのは、その人たちが原発の現実を村民に伝えたため。原発労働体験者は今も皆体調に悩みをもっている。
原発被曝労働者30万人。原爆の被爆者手帳保持者30万人(1995年)。国内に同じ規模の2つの被爆者の集団。しかし国から受けることのできる権利は雲泥の差。
一般人の許容量1ミリシーベルト/年
原発労災認定5ミリシーベルト/年
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35年間で10人労災認定 原発労働者のがん - 47NEWS(よんななニュース)
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追記2011.11.25岩波書店のサイトによると復刊されたそうです。
3.11以後,福島の原発については,日々報道されています.その現場で,きびしい状況のなかで働いている人が,たくさんいらっしゃることも,報道されています.そして被曝もされていることも,またしばしば報道されています. この本は,1996年に刊行されたものですが,ぜひ読みたいという声が寄せられ,今回,復刊いたしました. 副題にもあるように,ここには,原発労働者として働いていた青年が亡くなったことについての,労災認定をめぐっての軌跡が書かれています.同時に,ほとんど知られていなかった原発労働の実態も描かれています. 長いときを経て,いま,この本が必要とされる時代がきたことを,複雑な思いで受け止めながらも,多くの方に読んでいただければと思います. なお,この本は,電子書籍にもなります.各電子書店サイトからお買い求めいただくことができます.(2011.8)
このたびのフクシマ後、twitter上でいろいろな意見が交わされている。
「理屈はわかんないけど怖いのはいやだからとにかく全部すぐやめて」
「みんな騒ぎすぎだよく考えろ」
「自分の家族は避難させておきながら」
「科学という物を知らないバカめが」
「知ったかぶりはヤメテ!」
「オレはわかってる」
あーもういやんなる。
科学技術が専門的になりすぎて、人間サイズの感覚と合わなくなってるのね。著者は最先端の科学に、生活者としての視点がないことに危機感を抱き、そこをなんとかせねばと思っていた。
科学技術はどんどん巨大化し、強力化し、精巧化する。しかし、時に思わぬもろさが露呈する。犠牲になるのは無力な市民や野生の生き物たちだ。巨大な科学技術の開発に振り向けられた頭脳や経費のおそらく一万分の一も、そのネガティブは影響を評価したり防いだりすることのために向けられていない...(p6)
私は、立ちつくす市民(以下、住民、生活者、民衆、公衆などの概念を含むものとして市民という言葉を使う)途中略 や他の生き物たちの立場に立ってものを考えるという視点が、現代科学技術の開発の現場にはまったく欠落していることに根本の問題があると考える。(p6)
今ほどこの言葉に深くうなずく時はないだろうと思う。
巻末に、新しいタイプの科学者を育てるプロジェクトの紹介がある。市民運動を支えられるオルタナティブな科学者、NGOの養成。一般人向けの科学の批判・解説を刊行する。など。
以前読んだ、「フリーマン・ダイソン科学の未来を語る」への答えの一つでもあるかなあ。
r2: フリーマン・ダイソン科学の未来を語る
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原子力資料情報室(CNIC) - Citizens' Nuclear Information Center
イベント情報 : 大間原発反対現地集会 [2011/5/22]
この温排水が環境に与える影響の実験は、電源開発茅ヶ崎研究所の水理部で行われた。こういう実験を、開発当事者がやったって、どういう結果を出さなきゃならないかはわかってることだ。完全な第三者機関が早く必要ですね。
高木 仁三郎氏の本を集中して読む予定。ここに書かれていることは、衝撃の事実!いや日本の原発開発を巡る生々しい現実というべきかもしれないが、読んでもそれほど驚いてないんだな。原発について、みんなだまされてたって言う。けどほんとは知ってた。少なくともわたしは。本当は知ってたんだ。
本書の内容とは関係ないが、新疆ウイグル自治区で、若い女性だけが何万人も強制移住させられているとi-morleyできいたけど、あれは民族的なジェノサイドじゃなくて、核実験によるものだったのか?とふと思った。その事実があるのかどうかも知らないが。
高木仁三郎という人はどんな人なんだろうかと手に取った本。「あんぱんまん」の作者、やなせたかし氏の項がよかったな。あとがきに、青森県の六ヶ所村や大間(おおま)で、土地の買収に応じずただ1軒残って抵抗した人たちのことが書かれている。(大間はマグロの漁場として有名)
彼女が土地を売らなかったのは、津軽海峡に面している「絶好の漁場を守ることだ」とわたしに語った。 男たちが、ものわかりのいいフリして、屈服していったのを尻目に、夫に先立たれていた熊谷さんが最期まで抵抗し、人生をまっとうしたのは、特筆に値する。
これを読んで、20年来中国電力に抵抗している祝島の女性たちを思い出した。
鎌仲ひとみ監督の「ヒバクシャ」という映画をWOWOWで偶然見たわたしは、そのドキュメンタリー手法のファンになった。映画にも出演していた肥田舜太郎先生の著書。巻末に鎌仲監督との対談がある。
以下メモ
「原爆はこうして開発された」(山崎正勝編著 日野川静枝編著)
「原爆犯罪-被爆者はなぜ放置されたか-」(椎名麻紗枝)
・原爆ぶらぶら病
「死にすぎた赤ん坊―低レベル放射線の恐怖」(E.J.スターングラス)
・ベトカウ効果
・ホルミシス説(近藤宗平)
・フリーラジカル(近藤元治)
・バイスタンダード効果
・カクテル効果(市川定夫博士)
「低線量内部被曝の脅威―原子炉周辺の健康破壊と疫学的立証の記録」J・M・グールド
・ケイシー・ルード(ハンフォードエリア監督官、スペースシャトルの事故により内部告発を決意)
「プルトニウムファイル」(アイリーン・ウェルサム)
著者はヒロシマで自らも被曝し、直後から治療にあたった医師。ゲイル博士のように事故後しばらくして現地に入り少数の重症患者に技術的に高い医療を施して帰ってしまった人ではなくて、市井の被爆者を長期間にわたり診てきた人。
ヒロシマ後、アメリカの調査機関がやってきて、人体への影響を調べた(治療はせずに)。被曝の症例は口止めされ封印された。貴重な実験結果を東側に知られないため。被爆者は、自分の被曝と体調の不良に関係があると思っていても、表向き言うことができない場合があった。
肥田医師は多くの症例を見るうちに、低線量の被曝が健康に関連していると思わざるを得なくなってきた。そして調べるうちに、核兵器による物ではない被爆者が世界中にたくさんいることがわかってきた。。。
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体内に入った低線量放射線は酸素分子を、活性酸素に変える(フリーラジカル化)。フリーラジカルは数が少ないほど細胞に損傷を与える。数が多いとお互いぶつかりあって元の酸素分子に戻って非活性化する。
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アメリカ政府は内部被曝の存在を認めていない。しかし原爆開発の初期からプルトニウムを経口や注射で人体に入れる実験をしているのでわかっているはず。ゲイル博士も著書で「われわれは(博士とソ連の医師たち)内部からの被曝が存在すると考えざるを得なくなった」と数行だけだが書いている。
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ブックマークに「人体実験」というフォルダができてしまった。。。今回のような原発の事故は、症例集めの絶好の機会でもあるのだな。どんな医療もそのような側面があるとは思うけど。
事故から時間が経って次第に、そもそも原発の問題とは、エネルギー問題なのだろうか?という気がしてきた。ゲイル博士が著書に書いていたように「核廃棄物の問題が解決するまで、原発を新設するべきでない」と切に願う。すべては出ちゃった核のゴミをどうするか?ということに起因するのでは?大体、核の抑止力とかいってさんざん怖がらせといて、同じ物を役に立ちますよ安全ですよったって、無理だって!!同じものなんだから。
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Peace Philosophy Centre: 必読:内部被ばくについて
Peace Philosophy Centre: 沢田昭二『放射線による内部被曝』-福島原発事故に関連して-
原子力資料情報室(CNIC) - 連載・低線量放射線の影響をめぐって(その1) - 被曝・放射線 - 資料室
原子力資料情報室(CNIC) - 連載・低線量放射線の影響をめぐって(その2) - 被曝・放射線 - 資料室
原子力資料情報室(CNIC) - 連載・低線量放射線の影響をめぐって(その3) - 被曝・放射線 - 資料室
チェルノブイリ―アメリカ人医師の体験〈上〉 (岩波新書) [新書]
チェルノブイリ―アメリカ人医師の体験〈下〉 (岩波新書) [新書]
ロバート・ピーター ゲイル (著), T. ハウザー (著), 吉本 晋一郎 (翻訳)
政府が定めた規制値ってどうなの?甘いの?きびしすぎるの?いろんな学者がいろんなことを言う。チェルノブイリで治療活動をした経験がある人同士でも、見解が違う。R.P.ゲイル博士は楽観的な方。この人はどういう人なのか、チェルノブイリでどんな治療にあたったのか?1988年刊の著書を読んでみた。
残念ながら医療関連の具体的な記述は少ない。事故処理に当たった消防士など重篤な患者19名にのみ骨髄移植を施したが、生存したのは2名。事故の2年後に書かれた本書は、当然ながら10年後20年後の、後遺症に関しても書かれていない。
だが下巻のp144に
ソ連側から提出された最も確実とみられる推定によると、チェルノブイリ事故の結果、これから50年間に世界全体で5万人もの人々がガンで死亡するものと思われている。その他の可能性として考えられることは出生欠損や遺伝的異常が考えられることだ。問題はこうした悲劇のほとんどすべては、統計的に予想できないことだ。西半球だけでも、これから50年間に6億人がガンで死亡してゆき、遺伝子異常の症例が1億に達するであろう。
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骨髄移植の世界的権威であり、アメリカ人である博士は、チェルノブイリに自分から医療援助に行こうと決心した。当時はまだ冷戦下。このプロジェクトを事実上可能にしてくれた知り合いの事情通の富豪は「博士がまずソ連側から信頼されることが最重要」「しばらくは報道陣に話さないこと」とアドバイスする。
博士がソ連政府や現場のロシア人医療スタッフに受け入れてもらえるよう、苦心惨憺する様子が書かれている。それは博士が批判したり糾弾したりするためにやって来たのではなく、純粋に援助したいだけなんだとわかってもらうため。
当時の博士の言動を読むと、いい人なんだなという感想。それを念頭において彼のフクシマに関するインタビューを読むと、部外者である自分が、事故処理にあたっている日本サイドに失礼な言い方をしないよう、無用に批判をして相手の心を閉ざさないよう、細心の注意を払っているという気がする。
相手が外国語を話す人の場合、また論文でなくインタビューの場合、本人の考えが100%伝わっているかどうかは疑わしい。インタビュアーの署名入り記事かどうか、掲載誌がどのような読者層に向けて出版されている物か、そういうことも判断基準に入れておいた方がいいな。
たとえば、数字的には全く同じ事を言っていても、相手が生身の人間であるからして無用に怖がらせないようにと心配ない風に表現する人、情報を正確に伝えなくてはという使命感からきびしく聞こえるように言ってしまう人、いろいろあるかもしれない。
で、だいじょぶなんですか?という大雑把な問い方だと、まあだいたいだいじょぶ、ぐらいしか答えられないかもしれない。この値だとこれから何年の間に何人ぐらいの被害が出ると考えられますか?その何人かに自分がならないためにはどうすればいいですか?と、専門家には具体的な数字を出してもらう、それを元に判断は各自行うのがいいと思う。
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著書の最初30ページほどに、アメリカの原発開発のいきさつ、原発のしくみの解説があり、簡潔でわかりやすい。
事の始めは、ナチスに対抗してウラン原子の核分裂エネルギーの開発を急ぐよう、アインシュタインがルーズベルト大統領に書簡を送ったことからで、それがマンハッタン計画、ヒロシマ、ナガサキ、そしてチェルノブイリへとつながっていく。
下巻において、ゲイル博士は熱心なユダヤ教徒ではないが、自分のルーツが(アインシュタインと同じく)ロシア系ユダヤ人だということにページを割いている。わたしが日本人で日本を愛するが故に、イラクやアフガニスタンに負い目を感じることと共通の何かを感じる。
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そしてGE社製の初期の原発の安全性と問題点。最悪のケースはこうなるという。。。今その通りになりつつあるんですけど。。。
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巻末で、博士は原発の是非に関して、「現在の原子力エネルギーの危機に対処するため、採りうるいくつかの処置がある」という言い方で、きびしい提言をしている。
(1)「大したことない」と言われる故障や安全装置の不調について業界内で十分情報交換をすること。
(2)もしも原発が技術的に完璧だとしても、運用するのは感情や体調に左右される生身の人間であるということを踏まえて、要員の選抜・訓練を改善すること。
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(7)核廃棄物の問題が解決されるまで新たに原発を作るべきでないこと。
(8)太陽エネルギーの開発。
そして、著者からの読者への心からのお願いとして、「技術的なことに関して完全には理解できていないからといって、意見を述べることを畏れる必要はないから、自らの考えをしっかり持ち、発表してほしい」とある。
党の政策や一時的感情によってでなく、知識に基づいて投票することが、民主主義の国の国民の責任である。と。
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あと、tips。ヨウ素は半減期が短いので、葉物野菜は冷凍保存、ミルクはチーズやバターにしておけば、無駄にしなくてすむとも。
The ArrivalとTales From Outer Suburbia
『アライバル』 ショーン・タン著 : 書評 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
NHKの週刊ブックレビューで、イタリアのスローフード運動を日本に紹介した島村菜津さんがお薦めしていた本。なんか大分県の取材が多いなあと思ったら、著者は大分出身。そして国東半島の姫島と、山口県の祝島が地理的にも文化的にも非常に近いことを知る。
息抜きのつもりで読んだのに、祝島はずっと気にかけている場所。毎日、中国電力vs原発建設反対運動の動静を息をのんで見守っている場所であります。こんな大事故が起こってしまって、もう原発推進はないだろうと思っていたら、政府と電力各社はまだまだやる気のようですね。。。
国東半島の付け根には宇佐神宮があり、宇佐から奈良への海上の道の要衝が祝島なのですね。その道は遠く朝鮮半島へもつながっていて、藁積みや、農作業の小屋や、漆喰の塀などの作り方に共通点があるそう。農業、土木の技術を伝えた渡来人の道でもあるのでしょう。
山口県上の関町〜祝島〜姫島〜大分県国東半島〜宇佐神宮と船の旅をしてみたいなあ。
はーおもしろかった。昭文社の「山と高原地図 丹沢」とGoogleMapsを手元に、山伏になったつもりで、エア丹沢の山中をうろうろ。今は廃道になっている修験道を等高線を見ながら探索。修験道は基本尾根道だそう。カシミールによる俯瞰図などあって、地図マニアにはうれしい。
著者は地元秦野出身の元高校教諭。行者のルーツとか、丹沢の山を胎蔵界と金剛界の曼荼羅に見立ててあるとか、修行の行程など興味深い。行者たちによる一山支配は北条氏の支配下までは栄えたが、江戸幕府の直轄地になると、山伏たちは山を降りはじめ、まあ落語にもある大山詣りのガイドなんかしつつ、そして明治時代に廃仏毀釈令で完全に葬られた。
江戸時代に大山が女人禁制になったのも(しかも夜だけ)妻帯する山伏たちを追い出すため。昼間来ても良いけど、住んじゃダメってことらしい。知らなかったな〜。
山に対する信仰は弥生時代以前にはなかったそう。稲作に何よりも大切な水をもたらしてくれる地として、山は崇められてきたのね。雨を降らせ、沢に集め、川筋になって平野に水をもたらしてくれる山。この本を読んでから、丹沢についての印象が変わった。山々の名前や位置関係も自然とおぼえたし。。。
地図にない窪地、行者のキャンプ地「すりばち広場」に行ってみたいな。
物資の流通を見れば、相手の本当の意図が見える。戦術を立てるには物流の調査が必須。
また戦術を立てる士官が物流を理解しているとは限らず、同一の指揮系統だと物流的に無理でもゴリ押しされて結果作戦が破綻することがある(グルーポンのおせち事件)。
日露戦争までは、作戦部門と物流部門は独立していて、物流担当が作戦担当に「それ無理」とダメ出しをすることができた。
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日露戦争で出動した陸軍
総員 1,100,000
戦死者 0,047,000
傷病者 0,352,700
脚気患者 0,211,600
脚気死者 0,027,800
戦死者数の半数以上が、脚気による病死だった。
海軍では脚気の原因が白米に偏った食事内容にあると判断し(兵卒一人が消費する白米は1日6合!)、脚気患者を激減させた。海軍の軍医はイギリス留学組で経験主義、理論の裏付けが無くとも結果が出ればOKだった。
対し、陸軍の軍医はドイツ留学組(東大学閥)、自分たちが学んだ医学が世界最高と信じていたために、海軍の対処法を医学の裏付けがないと批判、結果無駄に死者を増やしてしまった。(のちにビタミンというものが発見されるが、そのとき森鴎外はすでに他界していた。)
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今日、農水省が今期の南氷洋の調査捕鯨を中止すると発表した。シーシェパードの妨害によるものと発表されたが、鯨の捕獲量、在庫量と消費量などの数字を見れば、また違うストーリーが浮かび上がってくるらしい。
Togetter - 「帰港した調査捕鯨船日新丸船団の捕獲数を分析する」
Togetter - 「佐久間淳子(フリージャーナリスト)が調査捕鯨をめぐる日本の対応方針を予測(最新鯨肉在庫量の紹介含む)」
この佐久間さんのツイートをまとめたのが
調査捕鯨船団、早期帰港の本当の理由 | 国際環境NGOグリーンピース
ってかんじだ。
シーシェパードの船長、取材されていたけど、浮かない顔だったなあ。相手がいなくなると興業ができなくなるもんね。
年末に漂着物学会のメーリングリストで話題になっていた本。海岸の漂着物には実とタネも多いのですね。そして鳥見にとっては、野鳥のグルメ本。どこにいつどんな実がなるか、食べログ野鳥版を作っておけば、だいたい集まる鳥も予想がつくというもの。
先日髙麗山に行ったときも、鳥が集まっていたのは、沢沿いの水場と、実のなる樹。人間と一緒やな。なぜか盛り場は川沿い、食べ物屋が集まるところに人も集まる。
散布方法別に載っています。風散布、おとなしく雨を待つ水散布、精密機械仕掛けの自動散布、そして狡猾な動物散布。この項がおもしろい。特に目立ってきれいな赤い実のみなさん。パッと見はおいしそう、けど食べると渋い。ペッペッこんなの食えるかー!と飛び立つ鳥。そこまでが計算ずくらしいのです。一度にたくさん食べられて、その場でフンにまざって落ちてしまっては困る(野鳥の消化時間は短い)。ちょっと食べて、遠くに飛んでいって落としてくれなければ。。。いろいろ苦労があるんだなっていうか、すごいな、植物といえども客あたりの単価や、店の回転率を考えているわけです。
あと、実の大きさによって来る鳥が限られる。ムラサキシキブなどの小さい実ならメジロとかかわいい鳥が来てくれる。大きい実しかならない樹にはうるさいヒヨドリばっかりなんてことになる。
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大山で見たあのマムシグサもありました。見た目が毒々しくて好きになれないマムシグサも、実を付けるのに、根に貯めた数年分の養分を使ってしまう、ときくとなんか「あなたも大変なのね」という気持ちになります。
大山と言えば、先日の浜口哲一さんのシンポジウムで、神奈川県植物誌調査会の佐藤恭子さんが「花ごよみ調査」について講演されました。「花ごよみとは四季を通じて同じ場所で観察を重ね、植物の開花状況を記録したもののこと」だそうです。その具体的な記録としては平塚博物館発行の「湘南花の道」という冊子があります(きれいなおねえさんがいる博物館の受付で買えます)。
佐藤さんはあるとき「月に1回、大山〜不動尻を歩きながら、標高差による植物の開花時期の違いを調べ、それを1年間続けてはどうか」と思い立ち、浜口さんに相談されたそうです。すると浜口さんは、「それはね、わたしも考えてやってみたことがあるんだよ」と引き出しから記録を取りだして見せてくれた。それは下社〜見晴台〜大山山頂〜蓑毛のコースで月3回1年間の記録だった。という逸話を紹介されていました。

図書館にてふと手に取った冊子。かつて相模川河口は渡り鳥の一大中継地点だったそう。自然探偵と消えた干潟(平塚市博物館のページ)わたしたちが行徳から越してきたとき、すでにもうその面影はなかった。神奈川の海って鳥いないなあという印象だった。
これは相模川河口の干潟の保護に取り組んだ活動の記録。どのような活動が行政を動かすのに効果を上げるか、多くの市民に知ってもらうには、など、参考になることが。下水処理水の排水口を河口の外側に変更してもらうなど成果も上げるが、結局、上流にダムなどができた影響で流砂が減り、砂州そのものが海側からの波の浸食に負けて、地形が変化してしまった。
読んでいくと、ここまでやったのか!それなのに。。。と悲しい気持ちにもなるが、今後の自然保護活動の貴重な参考になるのではと思う。藤沢の辻堂市民図書館に1冊。茅ヶ崎図書館に1冊ある。平塚図書館にはなし。相模川河口は平塚市なので、平塚の地方資料なのだけど。
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浜口さんのシンポジウムで、学芸大学の小川潔さんという人が寄せられた「浜口哲一さんと同時代に生きて」という追悼文に、浜口さんが学生時代、新浜保護運動のメンバーだったとありました。
一面の干潟&葦原として「あおべか物語」にも出てくる浦安〜行徳一体は、わたしが住んでいた1980年代はすでに埋め立てられていました。ある日、行徳野鳥観察舎の蓮尾純子さんが書かれた本を読んで、1960年代に新浜一帯の保護運動があったこと、あっけなく敗退したことを知った。それでも蓮尾さんは静かに活動を続けられ、野鳥観察舎が残った。浜口さんは平塚博物館に勤務しながら、たくさんの自然保護活動家に影響を与え、アマチュアの自然愛好家を育てた。
小川さんの文には「保護運動はたかだか2年で負け戦のまま終息してしまいましたが、私たちが一生、自然保護を背負って生きていくことを決定づけたのです」とありました。19~20歳の多感な時期に出会い、成果は出なかったけれど、その後の生き方を変えた、干潟の保護運動。浜口さんは、どんな思いで相模川の河口の保護に取り組んでいたのでしょうか。
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「相模川河口の保護運動を振り返って」という浜口さんの文を読むと、中西準子さんの名前が出てきます。自然保護・環境問題について考えると必ず、海(漁業)ー河口(護岸)ー中流(下水)ー上流(ダム)という水のつながりと人の営みの問題が出てきて、中西さんの名前が出てくる。
浜口さんの著書によく出てくる、自然はみんなつながっているという言葉。それはいくら河口の自然を保全しようとしても、上流の土木工事、建造物によって大きく影響を受ける、それらの前では無力に等しい、ということと無関係ではないのではとも思います。
とはいえ、浜口さんはこのことに関して、「河口の自然の保全のみに力を注ぎ、下水の問題までは目を向けなかった。その方向から働きかけるやり方もあったかもしれないが、結局上段からかまえて大事にしなくてかえってよかった」という風に振り返って感想を述べられています。また、市民運動にして大騒ぎにするよりも、行政の担当者個人と直接会って話した方がうまくいく場合もある、とも。

前職の平塚博物館にて、編集にかかわられた小冊子を購入。
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今月27日に野鳥の会神奈川主催で、追悼する講演会があります。
シンポジウム「生きもの地図を未来へ~浜口哲一さんの足跡と、これからの道」
「よく言ってくれた」と思う。加藤陽子「それでも日本人は戦争を選んだ」に出てくる水野廣徳の「日本は戦争をする資格の無い国」説と同じくらい、真実だとおもうな。
私は司馬遼太郎が好きで「街道をゆく」シリーズやエッセイ集はほとんど読んでいる。その司馬遼太郎が「坂の上の雲」で、日露戦争の頃の日本が絶頂期と書いているというくだりが出てくるが、果たしてそうかなと思う。確かに国としてはあのロシアを負かしてすごかったかもしれない。けど一般の人たちは本当に幸せだったんだろうか?司馬さんが今生きていたらどうだろう?
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とここまで書いて、ハワード・ジンの「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」を読み始める。TUP-Bulletinで岸本和世さんの「君はハワード・ジンを知っているか?」を読んで、一読しておこうと思って。
「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」は「民衆のアメリカ史」を子ども向けに書き直したもので、字が大きくわかりやすい内容になっている。たしかにリベラルサイドから見たアメリカ史は、こうやって体系化されたものを読んだことがなかったので興味深い。が、子ども向けだからすぐ読めるだろうと思っていたら、これがなかなか退屈で。。。
歴史教科書だから眠くなるのか?歴史じゃなしに、個人の物語として描かれたものならたくさんあるよな、アリス・ウォーカーの「カラー・パープル」とか。。。と思ったら、アリス・ウォーカーはハワード・ジンの教え子だった!
wikiによると「学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史」にも出てくる、ペンタゴン・ペーパーを受け取った識者とは、この本の著者ハワード・ジン本人だったとも。昔は急進派でとんがっていたのかもしれないが、今はおじいちゃんになっている(2010年1月87歳で逝去)この人のお話をYouTubeで見ると、懐かしい感じがする。君たちは何よりもかけがえのない存在だと教えてくれた人が、いつも口にしていた言葉を思い出す。
内田樹の「9条どうでしょう」だったか「疲れすぎて眠れぬ夜のために」だったかにあった言葉。憲法9条を守りたいという気持ちはどこから湧いてくるのか?それは理屈ではなくて、大切な人にそう教えられたから。懐かしくその思い出を大事に思う気持ちゆえだと。それを読んだとたんわたしの目から涙があふれ出た。その涙におどろいて、そうだったのか。。。と思ったのだった。
「冬の犬」にも書いたが、大切な人には、大切なもの。その人を守ってくれる大事なことを慎重に選んで残さなければならないとおもう。

BORN TO RUN 走るために生まれた~
ウルトラランナーVS人類最強の"走る民族"
クリストファー・マクドゥーガル (著)
近藤 隆文 (翻訳)
はーっ!おもしろかった。前半はちょっとつらかったけど、ページが残り少なくなってくるにつれ、勾配が急になり山頂ゴールってかんじだ。
タラフマラ族という言葉をきいて、踊り好きな人なら「きいたことある」とおもうはず。あの「パパ・タラフマラ」ですね。wikiによると「タラフマラ」はアントナン・アルトーの著書『タラフマラ』に書かれているメキシコの秘境「タラフマラ」から取られたらしい。そしてアルトーについて調べると、彼はまた別の目的があってタラフマラ族に近づいたことがわかる。
すごーくシャイで他民族と接触せず、険しい山中に隠れて暮らす人々、文明人が失った運動能力や呪術的な文化を持っている人々、彼らに何かを求めて(たぶん勝手な期待)接触を図る人々は昔から居たわけだ。
この本の中でも、あのカスタネダの呪術師はヤキ族ではなくて本当はタラフマラ族だったという著者の説が出てくる。カスタネダが本を出すに当たり、シャイなタラフマラに迷惑が及ばぬよう、多少タフなヤキ族にしておいたのだという説。
この本では、植物由来の薬物の話はない。走ることで出てくるβ-エンドルフィンがあるし。
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人類がネアンデルタール人を抑えて繁栄した理由を「走り始めたから」とする説もおもしろい。ヒトよりも速く走れる哺乳類はたくさんいるが、長時間走れるのはいない。体毛がなくなったのは、発汗による最強の空冷システムを得るため、など。人類が2足歩行を始めたのは水中生活の時期があったためとする説以来の衝撃だ。
なぜ長時間走るようになったか、それはエサの動物を追い詰めて疲労死させるため。。。という推論だが、わたしはエサをとるためというよりは、エサにならないため、の方が自然な感じがする。最近読んだ本「ヒトは食べられて進化した」の影響かな?
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本書の最後は選ばれたウルトラランナーたちとタラフマラ族の非公開マラソン大会なんだけど、誰が勝つかなんてもうどうでもよくて、わたしもレースを見物している子供の一人になった気分で、ただただ楽しんだ。
著者は文章を書くのが少し不器用で、装飾過多だったり何を言いたいのかよくわからなかったりする。読む方も忍従が必要。けどゆるく長ーい上り坂を登っていると、最後に急に話が展開して読むのが楽になる。そのとき、分泌されていたβ-エンドルフィンの存在を感じられるだろう。読書にもランニング・ハイはある!
本を読み終えたときは、旅の仲間と別れるようで寂しかったな。
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わたしは走るのはあまり好きではなくて、有酸素運動では自転車の方がいいんだけど、今年の春高麗神社〜湘南平の起伏の多い山道を歩いたとき、帰りは行きと同じ風景で飽きたので、早く帰りたくて小走りに走ってみた。すると、けっこう楽しかったんだ。平地を走るようにドカドカではなくて、バランスを取りながら両手をひらひら使いながら、ふわふわと。サーフィンしてるみたいだった。
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カバーヨ・ブランコのサイトより
BARRANCA de COBRE TARAHUMARA
レモン大好き。このごろ国産のや、防かび剤を使ってないのが、普通のスーパーにも並ぶようになってうれしい。1日1個は料理に使ったり食べたりする。黄色い外皮をむいて、果肉と白いわたの部分をパクパク食べる。残った外皮はリモンチェッロにしたり。
レモンはパキスタン発祥、ユダヤ人、アラブ人によって、地中海沿岸各地へ栽培法が伝えられた。大航海時代を迎えると航海中の壊血病予防のため船に積まれて新大陸へ。地中海と気候が似ているカリフォルニアで大量に栽培されることになったそう。ちなみにシャーベットはアラブ人の発明(!)
庭にレモンの木があってその下に食卓があったら最高だな。鉢植えでもできるそうだけど。。。潮風はなんとかなるとして、うちのベランダは夏至の前後2ヶ月ほど直射日光が当たらないんだけど、日射量足りるかな?
著者のサイトがあり、この本に収められているレシピのいくつかは見ることができる。
スローなファーストフード-MitsuyoKitamuraOfficialSite/北村光世公式サイト
半藤 一利, 中西 輝政, 福田 和也, 保阪 正康, 戸高 一成, 加藤 陽子の6氏による対談。加藤さんの名前があったので読んでみました。衝撃だったそれでも、日本人は「戦争」を選んだが下地にあったので、読みやすかった。いきなりこれを読んでいたら、少ない発言量で加藤さんは何を言っているのかよくわからなかったと思う。ちょっと無理をしてでもゴリゴリ読んでおくべき本というのはあるのね。この本は、最後の10ページだけでも、へーっと思う。NHKの龍馬伝を見た人ならすーっと理解できるだろう。
この表紙がかわいかったので、一つぐらい作ってみるかという気に。シャミの毛皮の微妙な色のグラデも、抜け毛が一緒くたに混ざった固まりになると、あんまりきれいじゃない。耳としっぽだけでも焦げ茶にしたいが、耳としっぽをブラッシングして毛を集めるのはほぼ不可能。むずかしいぜよ。

理想的な自転車の指南書。ちなみに著者は北海道出身HONDAの技術者で、他に「実用 スノーボードの科学」というシリーズ、「スキー上達に効く!知識のサプリメント」という著書などがある。
ママチャリをロードのように速く走れるようにするには。。。など、ほほーと思った。
茅ヶ崎在住ロケットライター、松浦晋也さんのblogで紹介されていた、漁師にして小説家、小菅文雄さんのエッセイ集。
・江戸っ子が食べた初鰹は腰越で揚がったもの
・文壇バーならぬ文壇釣り船みたいなのがあった
・関東大震災のときの津波
・津波と記録には残っていないが突然大波が来て多くの漁師が犠牲になったことがあった。
・戦後の食糧難の時、地引き網にスナメリがかかることがあり貴重なタンパク源だった、など興味深い話が。
「昔は、大山千軒、須賀(平塚)三百軒、南湖(茅ヶ崎)三百軒、と世帯数が決まっていた」というのも印象に残った。一次産業が土地から収奪できる限界がわかっていたということなのか。
片瀬周辺の地名がたくさん出てくる。地図を片手に地形を確認しながら読むと非常におもしろいです。

かながわ野鳥ライブラリー 1
大磯町照ヶ崎海岸におけるアオバトの生態
1992
調査・編集:こまたん
発行:日本野鳥の会
浜口哲一さんの遺された著作を平塚市図書館で検索して目を通している。「こまたん」(髙麗山・花水川探鳥会)は大磯の高麗山周辺をフィールドにする、趣味で野鳥を見る人たち。1992年に野鳥の会の会報でこの報告書が発行されると知って購入した。あのアオバトが丹沢からやってきていたとは。。。そのルートは。。。なぜ彼らは山奥から毎日大磯まで来るのか?浜口さんの協力があったとはいえ、素人だけでよくここまで調べたなあ、リスペクト!!だったのですが、その後、このような立派な本にまでなっていたとは知らなんだ。
鳥を調査するというメインテーマだけでなく、素人集団のそれぞれ得意な面を生かしての活動っていうのが、楽しい。登山が趣味の人、木登り名人、語学が得意な人、雨の日も風の日も早朝定点観測できる人(これが一番大変かも)。。。アオバトという鳥について知りたいそれだけのためのプロジェクト。このせちがらい世の中で、「だって知りたいんだもん」のパワーだけ。
そしてこれを読むと、いろいろなことが付随的にわかってくる。丹沢と周辺の山の植生の違い、人間は道路や線路で土地を区切って認識しているが、鳥の目線からするとまたちがう空の道があるということなど。
3章までは退屈だが、4章からはお待たせ、いろんな恐ろしい捕食者が紹介されます。トラやヒョウなどのネコ科。オオカミやハイエナなどのイヌ科。クマ、ヘビ、オオトカゲ、ワニ、サメ、猛禽類。。。古生代、つい最近の19世紀あたり、そして今も、霊長類は他の動物にとっておいしい獲物。捕食者別に襲撃方法、食べ方などを解説。
これを読んで、ふとおもう。ヒトと縁の深い犬と猫。彼らとの関係は、昔はわれわれ自身が彼らのエサだった。今は自身の肉を差し出す代わりに、快適な住居と安全と他のエサを与えている。犬や猫は狩りの大変さを味わう事なくエサを手に入れている。形はちょっと複雑になったが、ヒトはイヌやネコにとって今でもエサだ。。。
また、ある分野のある偉い先生が、異性を選ぶ基準として、男性は女性の顔、女性は男性の背の高さを絶対的価値と見ると言っていた。なぜ身長が?と不思議だったが、これを読んでからは、納得がいく。体が大きい動物は捕食されにくい=生存確率が高い。現代の生活では、人間が他の動物の餌になるなど考えられないのですっかり忘れているが、本来はヒトは常に狩られる側なのね。。。
後半は、西洋人は肉食だと自分でイメージしているけど、実際のところは。。。という話だったような気がする。アジア人としてはあまり興味が持てず、適当にスキャンして終わり。
加藤陽子さんのベストセラー。この前に日経のレビューを見て「戦争の日本近現代史」を読んでいた。が、日露戦争までは話が単純でついていけたが、満州事変あたりからわからなくなって挫折。その数年後に出版された本著は、同じ内容で対象を東大生から高校生へ変更。シラバスでなく講義の内容が口語で納められている。
最初は何て楽なんだーと思いながら読んでいたが、読みやすいので理解していないことも理解した気分になってしまい、内容をほとんどおぼえていないことがわかった。ので、途中からメモを取り始めた。それは「続き」に。
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私の感想
業界に参入するなら早め早めだね。遅れて行って利益を上げるためには、抗争、博打等手荒なことも覚悟しなければ。戦争は博打。負けた分を取り戻そうとズブズブはまっていく。日本は勝って植民地を手に入れたときもあったが、それはチャラになり、千島列島と国民300万人を失った。
国民を扇動するとき、あんなわからずや、言って聞かせても無駄や!遅れているヤツラを教育してやらねばという感情が利用される。
戦争の真の動機は経済問題だが(一丁儲けたい)、結果として敗戦国は社会変革を迫られる。負けが混んできたからといって好きなときに戦争を終わらせることは出来ない。どちらかがスッテンテンになるまでやられる。結果、もう博打には手を出しませんとか、心を入替えて更生しますとか、念書を書かせられる。憲法の改正など。
著者は日本軍は(他国からの搾取でなく)一貫して安全保障という戦略的利益を優先させていた、というが、一体何を守ろうとしていたのか?
16世紀、南米を回った後、日本に来たイエズス会の宣教師は本国に報告していた。「日本には資源も広大な穀倉地帯もなく、国民は高度に教育され貧しいのに気位だけは高く自意識過剰で、維持に経費がかかるだけなので、植民地にする価値はない」と。若桑みどり「クアトロ・ラガッツイ」より。欧米にとって日本は、自分たちの邪魔さえしなければ、変な野心を抱かず中立でおとなしく正気でいてくれれば、つまりカタギでいれば手を出す相手ではなかったのでは?それを日本は自分から、しかも遅れて帝国主義業界に参戦して行ったわけだ。米・中・ロシア等大国と無理をして肩を並べる必要があったのか?
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ところで思い出したのだが。
若桑みどりの「クアトロ・ラガッツイ」で忘れられない記述がある。秀吉が天下を統一した後、諸国大名に絶対服従を徹底させるため、大坂城の築城を命じた。その費用も労力も大変な負担で、服従させることが目的なので、労働を人足に肩代わりさせず、武士たち自身に石垣の石や材木を運ばせた。あまりの重労働に耐えられず自殺する者が多数出た。
イタリア人宣教師はそれを見て、驚くべき日本人の特質としてバチカンに報告している。そんなつらいなら、普通自殺する前に抗議ぐらいするだろうと。刀を抜いて一応反抗してみないのか?どうせ死ぬなら差し違えるぐらいのことはしないのか?あんなに勇敢に戦った武士たちが!
わたしはそれを不思議に思っていたが、最近ある記事が目に留まった。
じゃ、なに?ヒトは社会が安定期に入ると、退屈で死んでしまうのか?行き続けるためにはアドレナリン全開になるものが必要ってこと?
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日本という国は、内部から変革して行くのはとても困難なようだ。ある方向に走り始めたら、もう止らない。とことんやる。次に外から異物がやって来るまでは。それをあっという間に取り込んで、次の方向が決まり、また走り始める。帝国主義路線が多大な犠牲を払ってやっと終わる。次の工業化路線を突っ走る。その終点は原発かな。なぜこんな地震国に原発を作ったのか?老朽化して解体することを予想もせずに建造し始めるなんて、どうかしてたんじゃないのか?と後世の日本人に言われるのだ。そして「それでも日本人は原発を選んだ」みたいな本が出るのか?
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「続き」
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百万人単位の膨大な死傷者が出ると国家は国民に対して新しい社会契約を必要とする。(「歴史は数だ」byレーニン)
アメリカの戦争犠牲者
南北戦争______________0,184,594人(リンカーンの演説)
第二次大戦太平洋戦線________0,092,540人
第二次大戦ヨーロッパ戦線を含む全体_0,294,597人
日本の戦争犠牲者
第二次大戦太平洋戦線________3,100,000人
中国の戦争死傷者者
日中戦争、第二次大戦(軍人)____3,300,000人
日中戦争、第二次大戦(民間人)___8,000,000人
日本の戦争犠牲者__戦死者数 国内政治に与えた影響
日清戦争_________08,000人 普通選挙・政党内閣
日露戦争_________80,000人 戦費のため増税(地租)の必要。議員の構成が地主から実業家へ
第一次世界大戦____01,250人 政党内閣誕生。(社会不安。関東大震災)
世界的には3つの帝国崩壊、共和国誕生。国際連盟。帝国主義・植民地獲得競争への反省。
第二次世界大戦__3,100,000人 憲法改正
攘夷を掲げて明治維新を行ったので、他国に負けない強い日本を主張しなければ、政権の正当性を維持できなかった。(坂の上の雲に出てくるエライヒトはみな薩摩弁)官僚は薩長出身者で占められ、新たなポストは台湾総督府など外部の植民地に作るしかなかった。
西欧諸国による植民地獲得の動機は、過剰人口のはけ口。対して日本は一貫して戦略的利益(安全保障)に合致。
インテリのはずの東大生へのアンケートで「満州問題に武力行使は正当」と大多数が回答。満州事変の前後でその値は変化していない。満州事変の前からすでに国民の間にある気運が充満していた。
命とお金をかけて戦った戦争、やっとのことで勝って締結した条約、その条約に書かれていたはずの権益、これを死守しようという発想が日本側に強かった。条約のグレーゾーンを、中国は条約を守っていない、日本は被害国、無法者の相手に道理を分からせる必要があるという主張。(グレーゾーンとはそういうもので中国は悪くない、てゆうかこっちが侵略したんだし)
英独仏に権益を主張するために、早急に既得権益を作りあげる必要があり、その突貫工事のために陸軍が活躍した。陸軍にとっては大切な生命線。
満州事変を計画した石原莞爾の主張。戦争によって戦争を養う(対米戦、対ソ連戦のため、中国を根拠地とし中国の資源で戦えば、日本のように資源がない国でも、20年30年と戦争を続けられる)。石原は第一次大戦後ヨーロッパに留学してドイツの敗因を研究。長期間の総動員戦を支える財政力が問題と認識。
ずれていく満蒙に対する意図
国民への扇動:日本が苦労して獲得した条約を、中国が守っていない。所得の激減もそのせい(実際は世界恐慌のためで中国は関係ない)。
陸軍の本音 :将来の戦争のために資源供給地として満蒙が必要。
満州事変は関東軍の参謀たちが強い決意を持ち、3年の歳月をかけて綿密に準備された。陸軍の独走に対する勢力があったが
・内閣が連立政権だったため一枚岩でなく、内部分裂。弱腰にならざるを得なかった。
・治安維持法により共産党員の大量検挙の結果、戦争に反対する勢力が激減。
・「帝国主義反対」をスローガンにする全国農労大衆党があったが、兵士の待遇改善問題を考えると陸軍に逆らいにくかった。
陸軍のスローガンに魅せられる民衆
普通選挙は行われても、国民の約50%を占めていた農民の希望は政治に反映されない。特に世界恐慌のあおりを受けて貧苦にあえいでいた小作農に政府は冷淡だった。それらの人々の不満を吸収したのが陸軍の掲げるスローガンだった。
陸軍も、第1次世界大戦でドイツが敗戦した原因を研究した結果、長期の総動員戦を支える食糧と兵力を供給してくれる農民層が疲弊しないようにするのが大事、という認識だった。
日中戦争はお互い宣戦布告なしに、なしくずし的に始まった。戦争が始まるとき、国民はこれが戦争だと自覚していないことがある。中国側の読み:2.3年負け続け、海岸線が占領されれば、各国が介入してきて日本は自滅する(胡適)。
太平洋戦争開戦時の市井の人々の本音。日中戦争は弱いものいじめのいやな戦争。強い英米と堂々戦うことになってスッキリした!アメリカと日本の国力の差は、十分認識されていた。政府も隠そうとしなかった。むしろ物的な差を精神力で克服しようと、危機感を持たせて扇動するために強調された。
松岡洋右はソ連と中立条約を結んで対中国武器援助を阻止。日独伊+ソという4国同盟を実現させて安泰かと思われたが、独ソ戦勃発でおじゃんに。するとこの際ドイツと戦っているソ連を背後から攻撃するという案を出す。参謀本部はもともとソ連と戦いたかったので、大乗り気。
それにあわてたのが、陸軍省軍務部と海軍。日中戦争終戦の仲介をアメリカにやってもらえるかも思っていたのに、外務省と参謀本部の北進論を抑えるために、南部仏印進駐を唱え実行。それに迅速に反応したアメリカが、在米日本資産凍結、石油の対日全面禁輸を実行。
アメリカはヨーロッパ戦線の武器庫だが、戦闘機の生産が間に合っていなかったので時間がほしかった。アメリカはソ連がドイツ戦に冬まで耐えるよう、ソ連軍の気力を持たせるために何でもやった。外務省が北進を唱えなければ、海軍が南進を実行しなければ、太平洋戦争は勃発しなかったかも。
軍事費・特別会計
日中戦争に3割。残りは将来の対英米戦(海軍)、対ソ戦(陸軍)の準備のために使われていた。太平洋戦争開始までに使われていた金額は256億円。現在の価値で20兆4800億円。まだ準備の整っていないアメリカを不意打ちにして叩けば勝てるかもという期待に囚われていた。太平洋戦争開始時、日本の航空母艦艦載機生産数 日本:米=100:107 終戦時 日本:米=100:1509。
奇襲
日本は奇襲先制攻撃してくるという認識がアメリカにあった。なのになぜ無防備だったか。淵田美津雄著「真珠湾攻撃総隊長の回想」によると、高度100mから落とされた魚雷は深度60mまで一旦沈む。真珠湾は水深12m。日本の海軍航空隊の操縦技術をみくびっていたアメリカは、魚雷で攻撃されることはないとタカをくくっていた。実際は「月月火水木金金」といわれるほどきびしい訓練を重ねていた。真珠湾と似ている鹿児島湾で魚雷の落とし方を訓練していた!モデルは1年前の英国軍によるイタリア・ターラント湾(水深14m)急襲作戦。真珠湾攻撃のアメリカ海軍の戦死者3077人、戦傷876人、陸軍226人戦傷、戦傷396人。
ドイツ
中ソ米英に比べて日本と同じく資源力に乏しかったドイツは経済合理的に考えて、中国へ武器輸出をしていたが、反共の立場から、ソ連をけん制するために日本を支持に転換。武器を供給されなくなった中国はソ連に接近。国内の共産党軍をけん制するためにも国民党が先にソ連に近づいた。資源力がない日独伊は長期戦は無理。奇襲と地政学による挟み撃ちなどしか作戦がない。
「日本は戦争する資格がない」
水野廣徳(みずのひろのり)いわく。日本は輸出できる物は希少品でも生活必需品でもなく、せいぜい贅沢品の生糸ぐらい。日本と貿易が途絶してもどこの国も困らない。武力では勝てても、経済戦・持久戦では勝てない。島国でめったに国境線が脅かされなければ、国家の不安材料は経済問題だけ。外国との通商関係の維持が、日本の国家としての生命線。それは他国に対して非理不法を働かなければ保障される。だから日本は戦争する資格がない。だが彼の言葉に耳を貸すものはいない。
「かくの如く戦争が機械化し、工業化し、経済力化したる現代においては、軍需原料の大部分を外国に仰ぐがごとき他力本願の国防は、あたかも外国の傭兵によって国を守ると同様、戦争国家としては致命的弱点を有せるものである。極端に評すればかくの如き国は独力戦争をなすの資格に欠けるもので、平時にいかに盛んに軍備を張るとも、ひっきょうこれ砂上の楼閣に過ぎないのである。」
太平洋戦争全体の戦死者数のうち、9割が最後の1年に集中。地方紙の地方版に戦死者数が載っても、全国規模で情報が集積できないしくみになっていた。英語が出来る人が逮捕覚悟で短波を傍受するという手はあった。終戦の情報が民意に流れていたとわかるのは、株価。
引き揚げ
終戦時満州にいた日本人200万人。そのうちソ連侵攻後の死者24万5,400人。移民を送り出した政府の政策責任は?移民は長野県南部に多かった。世界恐慌で生糸の原価が暴落。養蚕業の人々の暮らしを直撃。飯田市歴史研究所編「満州移民」によると、初期に移住した村民から故郷に情報がもたらされる。政府から聞かされていた話と実情は違って過酷な環境、移住志願者が減り始めると当局は「満州分村移民」という制度を導入。村ごとにまとまった人数で移民すると村に特別助成金が支払われる。助成金目当てに移住者を送り出す村多数。その中で見識のある指導者は、助成金で村民の命を容易に扱おうとする国や県を批判。過去に事実を知っていると現代社会の見方も変わる(基地や原発の誘致など?)。
死亡した捕虜
独軍の米国兵捕虜死亡率:01.2%
日軍の米国兵捕虜死亡率:37.3%
自国の軍人さえ大事にしない日本軍の性格ゆえ。「飢死した英霊たち」(藤原彰)
国民の食糧を軽視。農民に徴収猶予がなく、農民の中にも技術者はいることに政府が気づいたのは44年。ドイツは食糧だけは絶対減らさない方針だった。
日本の炭坑では捕虜の中国人、朝鮮から徴用された民間人が劣悪な環境で労働させられ多数の死者が出た。その記憶は国民自身の悲惨な記憶に上書きされ落ちてしまう。
2,005年読売新聞の調査、戦争責任は議論されてきたか?という問いに5割以上の人がされていないと回答。当時の天皇・内閣・軍部の指導者の責任を問いたいという姿勢と、自分が当時生きていたら、助成金欲しさに分村移民を送り出そうとする県の役人、村長、村人側になっていたかもと想像してみる姿勢が大切。
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いかに寒いかが熱く語られる。読んでるこっちだって寒いんだよ。手が凍えてページをめくるのもやっとなのに、その語り口調がしつこく熱い。読者は主人公の2倍疲れて、連れて行かれた地の果ての結末がそれかい!
犬も犬じゃ。アリステア・マクラウドの「冬の犬」の犬の爪の垢でも煎じて。。。
と、思い出した。昔、母に映画「グラン・ブルー」を見せたとき、「ラストがやりきれない」と涙ぐんだのを見て、わたしはあわてて話を付け足した「あの後、イルカさんたちが来て助けてくれたに決まってんじゃん」。あの犬にもそれを期待する。
すっごくいい!鳥の巣だけでなく、山の中の一軒家の暮らし、四季の移り変わりが描かれています。最初と最後のページの山全体を俯瞰した絵、ポスターがあればほしい。またはこの絵本そのものをカレンダーにしたのがあればなあ。
これもおもしろかった。カワガラスの巣がそんなすごいものとは。集めた巣を飾っておけるアトリエを土台から自分で作るため、採石場に石を買いに行った話、鳥類学会の重鎮のお屋敷にお宝の巣を見せてもらいに行った話、友人だった星野道雄さんの話など。
この鈴木まもるさんって、たくさん本を出しているなあとリストをながめていて、ふと「おてつだいねこ」のシリーズが目にとまりました。ああ、これ、姪っ子がちいさいときクリスマスプレゼントに贈ったわ。。。あと「黒ねこサンゴロウ」っていうシリーズもあるのですね。こんどみてみよう。
いつだったか、イタリア料理店で「フジツボ」とメニューに書かれているのを見た。おそるおそる頼んで見たけれど、あいにくその日は入荷なしだったんだな。
海岸で貝を拾っていて、あっ桜貝!とかけよると、アカフジツボのカケラだったりして、ちょっとがっかり。。。
そんなフジツボではありますが、実はとってもかわいいのね。てゆうか、フジツボを研究している人たちってかわいい。研究に関係なく、フジツボの幼生の足跡を観賞する会があるらしいし。この本にもペーパークラフトやパラパラマンガまでついていて、ものすごーくフジツボに対する愛情を感じます。
ロダーリの「猫とともに去りぬ」と同じ、光文社古典新訳文庫・イタリア人作家・短編集、プッツァーティの「神を見た犬」。
犬や猫や子どもがかわいそうな目に合う話は、わたしの弱点。わたしがこの世で最も恐れているのはアニメ「フランダースの犬」の最終回(マジ)。テレビでお笑い案組を見ていて、ネタとして突然出てくるとパニックになる。そんな変わり者のわたしにとって、この作品はドキドキの綱渡り。ロダーリほど安心しては読めない。けど、スパイスがきいていて味わい深い。あーイタリアだなあって感じがする。
通勤電車で読むとすると、ロダーリは朝。プッツァーティは帰りの電車がおすすめ。家に帰る途中でちょっと一杯やりたくなるかも。
児童書のコーナーで手に取った本。何かについて研究するとはどういうことか、具体的な手法がわかりやすく述べられている。が、事実に迫るとは、物事の理屈を知るとは、生物としてのオキテの容赦のなさを知ることでもある。。。
ネコの毛の色を決める遺伝子と、アドレナリンの分泌量を決める遺伝子には相関関係があり、猫の性格はだいたい外見で判断できる。。。というのを別の本で読んだとき以来のショック。
この本の研究テーマは、猫の繁殖についてなんだけど、ぶっちゃけ、どういうオスがメスにもてるのか?という研究。そもそも野生のネコを観察して生態を研究するなんて時間と手間がかかる研究はあまり例がないのだけど、今回も従来通り、体が大きくてケンカが強いオスがメスと交尾する機会が多い、という観察結果になった。
ところが、このごろはDNA検査というのができる。それで子猫たちの父親を調べたところ、意外と強いオスほど子猫をたくさん残しているというわけではなかったのである。
発情したメスの周りには、オスたちがスタンバイしている。強いオスほどメスに近づける位置取り。オスの序列が優先権を決定する。ので、公的には、目撃される限りでは、強いオスほどチャンスがあるように見える。しかし!メスは序列順に囲んでいるオスを振りきって、密かに気に入ったオスとあっという間に交尾している可能性がある、ということが明らかになったのである。
そのメスがオスを選ぶ基準とは。。。アウェイのオス。よそ者が好きなのです。転校生とか、本社から来た人とか、外国人とか、スナフキンとか。
オスがホームにとどまる限り、やはり体が大きいヤツがケンカに強い。しかし、知らない土地に流れて行って、他流試合となると、体が大きくてもなかなかケンカに勝てない。アウェイは不利らしい。でも、メスにはモテる。
オスたちが戦っているあいだ、メスは自分の基準で選んだ好みのオスとちゃちゃっと。。。ですよ。
DNA検査ができるようになって、初めてわかった事実です。長年、ネコのオスも、ヒトの研究者もだまされてたのですね。以前、猫のマッサージ本にあったんですけど、その著者は若い頃、実験用のネコを繁殖させるアルバイトをしていた。最初単純に考えて、オスとメスと1匹ずつケージに入れてみたが、全く子猫は生れなかった。そこで、ネコたちを大部屋に放すと、オスの間に序列ができ、トップのオスがすべてのメスを妊娠させて、あっという間に部屋は子猫だらけになった。。。と。r2: 猫とスパイと源氏物語
あの人もだまされていたわけです。オスのみなさんは、無駄に戦い合って消耗するよりも、自分を気に入ってくれるメスを探して旅に出た方がいいですね。地元(国内)に居てもモテないのよ。
昨夏、30年ぶりに高校の同窓会に出て再会した友人から「りっちゃんに星新一を教えてもらったよね」とメールをもらった。すっかり忘れていたけど中一時代の私は星新一エバンジェリストだった(狭い地方出身なので、国公立ながら中高大学と面子はほぼ同じ)。星新一なら、ふだん文学に興味ない人でも、理系の男子でも、誰でも楽しめる。
同じ理由をもって、わたしはロダーリをおすすめしたい。この表題作はたった14ページの短編。すぐ読めて、フっと笑えて、カラッとした後味。ラテン系のノリ。辛気臭くない。この感じは知ってるなあ、なんだっけ?そう、落語です。この短編集をネタに、誰か落語家さんに演ってもらいたい。落語に詳しい方は、この作品は誰に語らせようとか、リストを作る遊びもできるかも。
楽しめてほろ苦い。苦い部分も含めて笑える。40歳以上の方にオススメ。
「April in Paris」「The Nearness Of You」をiTuneで聴きながら読んだ。本を読みながらその曲が出てくると10秒で探す。そしてまた物語へ。これはいいことなのか?それとも?
Rumiちゃんのネコ寿司を思い出して、手に取った。だいじょぶ、ネコは寿司ネタにはならないので、ネコ好きなかた、安心して見てください。とにかくおもしろい。
これをみて思い出したのが、話題のこの本(読んでませんが)
フリーといっておきながら、この本が無料でないのはなぜなのか、ちょっと納得いかないんですけど。
この夏に自転車ロードレースファンの間で話題になっていた洋菓子店「オーボンヴュータン」
そのオーナーによるレシピ本。図書館で予約して受取にいって、意外と大きな本だったのにびっくり。ずっしり重い。1.4kg。内容も格調高く美しい。これ一冊あれば何でもつくれちゃう!。。。わけない。シンプルなマドレーヌでも、生地を型に流し込んで1日置く。。。読めば読むほど、これうちで作るのは無理だわ。。。もう作り方はいいの。へーこんなお菓子あるんだ、きれい、食べてみたい。。。ひたすら観賞。
毎日RSSでスキャンするサイトから、ここに目が留まって。
de loin on dirait une ile / bruno munari | ふじもとさとこ
yo氏のコレクションと一緒だな。図書館にはこの本はないのかとムナーリで検索すると、訳:須賀敦子という本があった。そうかムナーリはイタリア人なのですね。
ムナーリという人は、こどもの美術教育にも力を入れた人らしい。巻末に、石畳の広場で子どもと先生と家族100人が集まって、紙製の木を作るイベントをやった写真がある。広場の地面いっぱいに大きな木を作って、子どもたちはわくわくしたでしょう。集まったけど少し離れて見てる感じのお母さんたちの立ち姿、ちょっと昔のファッションもいい。そして、訳者紹介の須賀さんの写真が若いのです。
隣にあった本。「ものをつくる」という、言葉で説明しづらいことを、一冊の本に。もしもこのテーマで、あなたが書けと言われたらどうする?目次と図版の入れ方をパラパラと見ただけでも、形にしにくいことに形を与える、それにはこんな方法もあるという、見事なお手本の本になっています。
「さよなら、サイレント・ネイビー--地下鉄に乗った同級生」の著者による記事。
<私は貝になりたい>サリンBC級戦犯:日経ビジネスオンライン
その文中にあったリンク(リンク先はpdfファイル7MB)
廣瀬君はフォト・ジャーナリスト、藤田庄市さん(62)の依頼で、大学生向けに「カルトへの入会を防止するための手紙」を書いています。読者の皆さんには、どうか、もしよろしければ、上のリンクをクリックして、廣瀬君自筆の手記に目を通していただきたいと思うのです。
このファイルが置かれているのは、カルトからの脱会者によるサイトのようです。
「疲れない体をつくる「和」の身体作法」の著者による本。だいたい同じことを言ってるんだけど、今回の収穫は横隔膜は2つある。ということ。
この本を読んでエクササイズの内容を理解できても、1回2回やったくらいでは、効果は出ない。体が変化するまでに続けるには、先生について、頭経由でなくて、直接体にお稽古してもらう必要があるとおもう。大事なのは師との出会いでしょう。
なんとか最後まで読んで思い返すと、一番のヘルは冒頭のまだ事件が起こる前の部分だった。逃避行が始まってからは、状況的には最悪への道をまっしぐらなんだけど、逆に主人公の心はだんだん解放されて行く気がする。
作中に、様々な「女の敵」のサンプルが出てきて、興味深い。善人の側には「日本で修業した僧」というのも出てきて、笑った。登場人物のうち、見た目が善人の悪人ほど物語を創るのが上手いんだな。この作者はどんな人なんだろ。ダートが地獄で書いているのか?ファンタジー文学のファンをコケにしていると思うけど、そういうのをミステリーファンは喜んで読んでいるのか?
読み終えてほっとしてるけど、何も読む物がない真っ黒な夜には、ノラとの旅がちょっとなつかしい。
ゾウの時間 ネズミの時間の、または歌う生物学で有名な、本川達雄先生の本。冒頭で出てくる、ナマコの形態についての特性は、いつぞやテレビで見た事があります。(きれいな女子アナウンサーさんが素手でナマコをつかんで実験してくれた)
「ホヤと経済学」より
ホヤの群体の大きさとエネルギー消費量の関係を計測してみると、群体が大きくなっても全体の消費量がそれほど大きくなるわけではない。ということは、群体が大きくなるほど、構成する個体の消費量は小さくなる。これは企業など人間の組織でもいえることではないか。という内容。
毎度おなじみ〜で楽譜がついている。お風呂で読みながらついつい歌っちゃうんだな。
ヒトデ、ナマコ、と来て、ウニ学というのも出版されたんだけど、これが高いんだな。よろしく図書館。
さすが、幻冬舎。マーケティングがしっかりしてるなあ。にしてもやはり山田詠美さんは文章がうまい!大抵の人は主人公の二人を「キモッ」と思うのかな。わたしは好き。このボンクラ具合が。他人事でない感じで(笑)。人間万歳ですよ。これを読んだあとでは、渡辺淳一にも優しくなれる気がする。
読んで行くと、ところどころに関所がある。そこでプッと笑ってしまったら、ハイもう仲間ですよ。
漢字全てにルビがふってあり、著者が隣に座って話しかけてくれているような演出の「よりみちパン!セ」シリーズ。これは、装飾・ジュエリーから、世界史を語った本。著者はケルト芸術の研究者。興福寺の阿修羅は造形的にすばらしいだけでなく、その肌を飾るネックレス、リボン、スカート、髪形なども非常にオシャレ。それらの装飾品はシルクロードで西方より伝わった。きらきら光る美しいものを求める心は世界共通。各地に残る遺物の旅。イタリア、ラヴェンナのモザイクもこういう視点で見たことなかったな。この著者の別の本、専門のケルト美術について知りたいと思い始める。
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救いようのない話の最後にかすかな希望が。
かかわってしまった人からは、のがれられない。その人が幸せでない限り、たとえどこに行こうと自分も幸せにはなれない。そのことを受け入れながらいきてかなきゃならないんだよ。
というのを、谷根千ウロウロさんの記事で読んでなつかしくてたまらず、もうイベントは終了していましたが、谷中にぶらぶらしに行きました。私がちょうど東京に出てきた頃、この谷根千が創刊されました。以来季節ごとに谷中に散歩に行っては買い続けました。今みると34号まで手元にあります。
湘南に越してからも、上野の美術館や東京文化会館には何度も行っているので、ついでに寄れないことはなかったのに、なぜかいつも時間がなくて、行けませんでした。
日暮里で降りて、まず駅がきれいになっているのに驚愕。オロオロしながら西口へ。おせんべいやさんや飴やさんがまだあるのにほっとし、谷根千ウロウロを見て、一番行って見たかったガラスやさんnidoへ。
それから路地から路地へ。普通の家の軒先にも不思議なものがいっぱい。民家の玄関先に、凝ったディスプレイのように見えて、近づいてみると、おもいっきりジャンク!だったり
まあ趣が。。。とよくみると水草まで全部ビニール製だったり
盆栽のようなサボテンがあったり
分かれ道の大きな木の下のパン屋さんは、まだあった。
谷中に通っていた頃、わたしは千葉の行徳という埋め立て地のはずれに住んでいました。そこはそこで、蓮畑が広がり、野鳥がたくさん来るいい所でしたが、駅からアパートまでの道は碁盤目状に整備され、建物はすべて新しく、人工的な風景でした。
谷中に来るとお寺の境内に高い木があり、道は必ず勾配がついていて微妙に曲がり、古い民家がたくさんありました。わたしは子どものころ祖父母と同居していましたので、おじいちゃんおばあちゃんが道を歩いている風景がなつかしかったのかもしれません。
谷中から上野へ。お祭り中の芸大の中を通って、博物館へ。法隆寺宝物館で静かなときを過ごし、染付展を見て帰宅。
冒頭30分で、カズオイシグロの小説「わたしを離さないで」を思い出した。あの小説を映像化するとどうなるんだろう?と思っていたのを。
宣伝で恐縮ではございますが、家人の労作が出版されました。この夏、フラッシュのアクションスクリプトができるようになりたい!とお思いの方はぜひ。「初心者にもわかりやすい。すぐに試せる実践的なサンプルを満載。」です。内容は逐次webでも公開中です↓(太っ腹!)。自力では挫折しそう。。。という方にはセミナーもございます。ぜひごらんください。
ActionScript3入門ノート CS4
「Adobe Flash CS4 詳細!ActionScript3入門ノート・完全改訂版」サポートページ:大重美幸
うちの広報宣伝部長もがんばってます
ぶ、ぶちょう!
やっと上巻の順番が回ってきた。1日で読了。てゆうかスキャン。下巻を先にじっくり読んでいたので、もう上巻は教科書を読む気分で目を通しただけ。
巻末に、地中海沿岸各地に遺された「サラセンの塔」の写真がある。ジロ・デ・イタリアの放送を見ていると、人里離れた海岸線にポツンと円筒形の要塞みたいなのがあって、なんてかわいい!海辺に小さいお城が。。。なんて思っていたが、あれは海賊の来襲を見張るための塔だったのね。
JMMの海外レポートも合わせて読むとおもしろい。
図書館で予約していたら、下巻が先に来てしまったので、下巻から読み始めました。最初の4行でブル〜〜っと来た。その4行で、いろいろ考えることがあり、意識はあっちこっちへと。。。
町山さんのポッドキャストを聞いて、アメリカっておもしろい社会だなあと常々思っていて、そのネタは町山さん本人が「師と仰ぐ」という越智道雄という人の著書にあるのではないか?と勘ぐった私は、越智道雄氏の本を続けて読んでみました。秘密結社とか、WASPとか、キリスト教右派とか、CIAとか、もうたくさんというほど読みました。その中で、これは軽い。キリストと同じ時代の物を食べて健康になろうという、地中海式ダイエットの本。
巻末の解説がおもしろい。それによると、最近はキリスト教右派の勢力も、無知蒙昧な人々ではなくなりつつある。ジャンクフードで健康を害するなど、
産業主義の弊害に目覚め始めたアメリカ人の多くは、今、懸命に自分の方向修正を図りつつあります。例えば、ガソリンによる汚染と温暖化への反省から起きた「スポーツ汎用車(SUV)反対運動」に則して書かれた「イエスは普段、どんな車に乗るのか?」、あるいはスクール・シューティングなど異様な行動に走る子どもの登場に怯えて「イエスは普通、どんな子育てをするのか?」など、似たような主題の本が。。。
ここまで読んで私はブハっと吹き出したが、スミマセン、それってホント?
昨晩、NHKの爆問で歴史人口学の話を聞いていた。それによると、日本の人口は奈良時代に爆発的に増えた。旧来の狩猟採集から稲作に移行して食糧が増えたといっても、縄文時代の人口から自然に増えるには無理がある数値。ということは大陸から多くの移民が来たと考えられる。その数は、全人口の8割(って言ってなかった?)。奈良時代の日本は超移民社会。今のアメリカと、奈良時代の日本って似てない?どうだったんですか?阿修羅像にきいてみたい。
阿修羅といえば、今発売中のBRUTUSは仏像特集ですね。
BRUTUS「仏像特集」メイキング〈阿修羅像撮影編〉 (フクヘン。- 雑誌ブルータス副編集長、鈴木芳雄のブログ)
読む順序を間違えたみたい。「いち・たす・いち (脳の方程式)」から読むべきだったのか。。。それでもよく理解できないかもしれない。いいんですよ、わからなくても。「天才は冬に生れる」が絵本なら、この本は叙事詩かな。
本書でほうと思ったことは2つ。
1.局部麻酔と全身麻酔では、薬が効く仕組みが違う。そして全身麻酔の理屈はいまだによくわかっていない。
2.生物の形態や機能は、外部の誰かがデザインしたのではなく、自分自身の物質としての性質による。
ダーウィンの進化論は、進化の要因が、環境とか生存競争による淘汰とか、やはり外側にあるという点で、むしろカトリック教会の教えに近い?
先週の爆問の先生、中田力氏。この人の研究の内容について、肝心なことが全くわからんかった。図書館で著書を検索して、とりあえず在庫があったのを読んで見た。
コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ハイゼンベルグ、ラマヌジャン、ノイマン、ホーキング。なぜか天才は冬に生れているという序章。けどそれがこの本のテーマではないことはじきわかる。
「哲学のなぐさめ」と同様の構成。歴史的な科学者の生い立ちと業績について、難解な用語を使わずに、簡潔に述べられている。科学史の絵本ともいえる。その絵とは1ページを使って表わされる公式だけど。明解で美しく、ほっとする。あっという間に読み進むうち、科学と世界の関わりについてなんとなく感じる仕組みになっている。
印象に残ったのは「核兵器の拡散に最終的なブレーキをかけたのは、アインシュタインの手がけた平和運動ではなく、ノイマンのゲームの理論だった」という部分。
昨年末に初めて知ったショックな事実を思い出す。広島はともかく、長崎への原爆投下はデータを取るための実験だった、という。
ノーベル賞を勘違いした日本人:日経ビジネスオンライン
(以下はコラムニスト伊東 乾氏の推測)ノーベル財団は、核開発に関わった科学者にノーベル賞を授与するにあたり、被害国の日本人にも与えてバランスを取った。川端康成の自殺はその事と無関係ではない。
岸本佐知子翻訳。のっけからして、ええ?そそんなって。。。という設定。ぐっとつかまれたところで、孤児になった主人公が灯台守にもらわれてきた夜のこと、はじめて内部に入った灯台の暗闇の描写に、ああ、やられた。。。もうダメ。骨抜きになった。
はずみがついたところで、著者の自伝的小説「オレンジだけが果物じゃない」を読んでみた。かなり風変わりな育ての母親との格闘と自立の物語。 映画「キャリー」を思い出すんだけど、主人公は超能力で親や世間に復讐することもなく、淡々と自分の道を歩み始める。
主人公は思春期の多感な時期に、他人から見れば大変な状況になってしまうのだけど、その自分の置かれた状況を1歩下って客観的に眺めているような、事実を受け止め、やるべきことをやる冷静さに共感が持てる。これは岸本さんの訳だから?このニュアンスは原語だとどんな感じなのかな?「灯台守の話」の闇の描写も英語で読んでみたい。
主人公も、母親も、周囲から「イカレテル」と言われながらも自分の信念を通す。自分の判断を信じ、努力を惜しまず、かなりやり手だ。信じるものは違っても、そのスタイルは同じ。
小さいころから、母親にカルト宗教の伝道師となるべくたたき込まれた、そのやり方によって、主人公は親から独立した。主人公は、親の望む姿には成長しなかったが、生きる力は親からしっかり受け継いだ。
親って大変だな。私の年齢のせいか、または自分も親の期待を裏切ってがっかりさせた類だからか、つくづく思う。子どもが最終的にどういう人間に育つか、親には選べない。基本的な生き方のスタイルしか叩き込めないんだな。
宮本常一、12人との対談集。丸谷才一の芭蕉に関する考察。杉本苑子の平家落人村伝説はいかにして生成されるかについての仮説。中西陸の牛の分布から、当時の街道や交易の範囲がわかるという話。などがおもしろかった。
「愛される事、快楽に対して貪欲」なのは女性の特質、らしい。それはそっくりうちの猫にもあてはまる。猫のような気性を持った人は、男性にも女性にもいる。子どものころは誰でも「愛される事は死活問題」だし、ヒトの基本的な性質だけど、大人になっても愛に貪欲な事を自覚していない、またはコントロールできない人の方が生命力にあふれていて、結局長生きだったりするんだな。
女性が愛に貪欲なのに対して、男性が執着するのは権力。と著者はいうが、じゃあ、女性が権力に無関心かというと、けしてそんなことはないと思う。あの韓流ドラマだって、ラブロマンス風につくってあるけど、実は権力闘争の物語で、女性たちはそれを喜んで見ている。チャングムでも篤姫でも、男性は権力を手に入れるための道具でしかない。
この長年女性たちが巧妙に隠してきた真実を暴いた本が「できそこないの男たち」。この著者の訳による「Yの真実」も読むとわかりやすい。本を読む時間がない人には、本人がラジオに出演して著書の内容を話したものを、ポッドキャストで聞ける。
TBS RADIO 11/14(金)コラムの花道 (小西克哉 松本ともこ ストリーム)
アクセス特集・田中康夫+福岡伸一・12月8日(月) - アクセス
ベストセラーの「生物と無生物の間」のダイジェスト
TBS RADIO 12/10(水)スペシャルウィーク・賢者の花道 (小西克哉 松本ともこ ストリーム)「コラーゲンがお肌に効くというのはウソ」という衝撃の発言が。
Yahoo!ポッドキャスト - サイエンス・サイトーク - 2007年11月25日:生きているとはどういうことか
「生物と無生物の間」も「できそこないの男たち」も固い内容だけど、著書のところどころに挟まれる、同業の研究者の生き様に関するエピソードがじわ〜っと来る。
LOHAS TALKによると、福岡先生が2008年の「今年一年のロハスな本」に選んだのは「銀むつクライシス」だったそう。あたしも読みましたよー。
表紙がいいです。中身もQ&A形式でわかりやすい。カフェインレスコーヒーはどうやって作るのですか?の答えに、ホエー!と感心しました。
にしても、ネットのニュースに「コーヒーに何々病を予防する効果がある事がわかった」みたいな記事が定期的に出てくるのはなぜなのか?コーヒー、バナナ等プランテーション作物の業界は情報操作に大金を投じてる?
情報といえば、わたしはELLE a tableという雑誌のメルマガを取っているのですが、先日そのメールのタイトルに度肝を抜かれました。
【ELLE a table mail】#174 排卵期に駆けつけたい"生肉"の名店とは?
片岡義男によると、日本語とは、時間や空間を越えて人類に共通な何かを求める道具としては適していなくて、どっちかというと、空気を読んだり相手を思いやったりという微妙な作業を伴いながら、とりあえずその場の利害関係を調整するのに向いているらしい。そういう言語を使うからそういう思考様式になるのか?そういう世界観だから、そんな言語に発達しかのか?ニワトリと卵のようだけど。
すると日本語を使っている限り、日本の政治はずっとこういうものでありつづけるしかないってことか?
この本が出版されたのは1997年。第一次湾岸戦争の後。当時、職場の同僚のアメリカ人と論争になった。私がブッシュ(父)の政策を理解できないというと、同僚は「大重さんは平和主義者なのよ」と言い、「ダンの弟だって(前線に)行ってるしね!」と決めゼリフのように言い放った(ダン=われわれの上司)。それがなんで決めゼリフになる?ずっと不思議だった。この本を読んで、アメリカ人の戦争に対する心理構造がちょっとわかったかもしれない。「job」と「home」という言葉に代表される。。。
ある言語には、特有の思考様式がある。母国語の中にいる限り、その呪縛から逃れられない。著者は日本語と異質な言語として英語をあげているけれど、その英語も、英語を母国語としている人が話す英語は参考にならないという。第2言語として習得した人の話す英語が、母国語の外に出るヒントを与えてくれるそうだ。具体的には、ダライ・ラマやネルソン・マンデラが話す英語がイケテルという。
片岡義男が述べている事を、わたしは日本語で読んで「人から聞いた話」として自分にインプットした。
移民・難民・亡命者の物語と故郷の味。なつかしさとせつなさと。著者はパリで小さな独立レーベルを経営していた経験があり、自身もバンド活動をしていたそう。ル・モンド・ディプロマティークの翻訳スタッフとしても名前を見かけます。
わたしにとっての故郷の味は。。。それは子どものころ母が作ってくれたハンバーグ(笑)。以前、WIREDで、日本人の本当のソウルフードはカレーライスだという、日本に留学経験のあるアメリカ人による記事を見た事があります。自分で思っているイメージと真実は違うことってあるよね。
あと、懐かしいのは高千穂の釜炒り茶。義母が毎年送ってくれていました。実家は宮崎市内なのですが、実家のご近所さんがそのお茶の卸売りをしていた縁で、実家のお茶は釜炒り茶でした。今はそのご近所の奥さんが引っ越してしまったので、もう手に入りません。
あるとき、中華街で飲んだ台湾のお茶が、味といい葉っぱといい、そっくりだった。調べると、釜炒り茶は中国からお茶が渡来した当時の製法で作られるらしい。高千穂には神話やお神楽も残っているし、九州の山奥に、大陸からやって来た当時のものが、そのまま、まだ残っているとは。
大分のわたしの実家の母は、健康食オタクで常に新しいものを追及する人で、昔ながらの定番の味、というのはあまりありません。祖父母と同居していましたが、祖母は東京出身だし料理が出来ない人だったので。ちなみに、祖母はキャベツのことを「カンラン」と言っていました。
能のエクササイズって、バレエと共通なところが多いとまたまた実感。「すり足」が深層筋をつくるというのを読んで、バレエレッスンでロンジャンアテール(片足を軸にし、もう片足をすり足で回す)をやる意味がわかったし。
そして、この本を読んだ収穫は、姿勢を決めるスイッチが指先にある、とわかったこと。図解の通りに、親指と人さし指を軽く合わせる、能の「カマエ」の形をすると、自然に骨盤の角度、体の重心の位置が決まるではないですか。それをバレエの指の形(広隆寺の半跏思惟像の右手の中指だけをふっとのばした感じ)にすると、自動的に重心が20cmほど上に移動する。そして元に戻すとまた重心が下る。指の型のスイッチを変えるだけで、自動的に!
無理にダイエットしなくても、必用な瞬間だけ痩せて見える方法がある、それは体を縦に伸ばす、姿勢をよくするってことなんですが、姿勢をよくするっていったって、具体的にどうすればいいのか素人の人には難しい。
わたしは子どものころからずっと姿勢が悪いと言われ続けていました。今も気を抜くと、いやほとんどの時間は気を抜いてますが、猫背です。バレエを習って初めて、いい姿勢とはどんななのかがわかりました。これは自分ではなかなかわからないものだと思います。
生まれつきの身体上の弱点も含めて、外見について情け容赦なく指摘され、くせを直され、それを自分でも認めることができて、やっとわかったのです。(オオシゲさん、あなたはカオがダメ!って何度も言われた^^;)人はなんとなく、そうは言っても自分はイケテルと根拠なく思い込んでいるところがあると思います。それを打ち砕かれるのに、相当な時間と投資が必用でした。
それがですよ、体幹を意識するなんて難しい事をしなくても、指の型だけでも、ある程度はできる。そこにもっと早く気がつけばよかった。
指の型が決まっているといえば、仏像ですけど。あれはやっぱり仏像のモデルさんが、長時間同一のポーズを続けられるよう、指のスイッチを入れてたんだと思うな。
今度、国立博物館の法隆寺宝物館に行くことがあったら、指の型と体の重心の位置の関係を見てみよう。あの暗い部屋に小さな仏様がずらりと並んでいるのを見ると、圧倒されて吐きそうになるけど。いや、あそこはすごいですよ。
日経ビジネスオンラインで連載中の「中国"A女"の悲劇」を読んで、むむ〜!と思った私は筆者の近著であるこの「中国動漫新人類」を読んで、またまた「えーそうなの!うーむ」とうなった。
著者は中国育ちで、日本に帰国後理論物理学を専攻、大学教授となったが、80年代に中国から大量に留学生が来るようになると、自分の過去の経験を生かして留学生たちの世話をするようになった。その数、数万人単位。たくさんの中国の若者に接するうち、ある年代から急に変化が見られるようになったと感じた。
それは、日本のマンガ・アニメの影響を受けているということらしい。一方で、その同じ若者は江沢民の愛国教育による激しい反日感情も持っている。反日と、日本アニメ大好き、その相反する感情が一人の中に矛盾する事なく同居する、これは一体どういうことだろうかと調査した結果がこの本。
調査はすべて著者自身による直接インタビューという形で行われた。対象は中国人留学生から、本国の大学生、街頭の人、海外に住む華僑、中国共産党幹部、などなどありとあらゆる分野の人たち。著者の顔の広さと根掘り葉掘り本音を聞きだす話術に脱帽。66歳になる著者は、調査のために孫とその友人から「スラムダンク」全巻を借りて読破したそうだ。
前半は、知られざる中国のアニメ事情。中国の子どもたちに日本アニメを浸透させたのは、安価な海賊版だった。たかが子供向けのマンガと政府が見逃していた間に、子どもたちは、上から押し付けられたものでなくて、自分のお金で自分の好きなものを選ぶという資本主義の基本を学んだ。という説。
後半は、江沢民の愛国教育が反日暴動に至った事情。共産党がやばくなったので国民の目をそらすために政府が裏で糸を引いてたんでしょう、という単純なものではない、という著者の解釈。特に第6章に書かれている、反日の発火点はサンフランシスコ、クパティノの反共華人からなる人権保護団体による署名活動だった、というのには驚いた。
中国の人権問題に向けられるのと同じ視点で、旧日本軍による慰安婦問題が告発されたという事実。チベット問題などで中国の人権の状況を非難するのと同様に、世界は日本の慰安婦問題も見ている。自分はシリコンバレーとは無縁ではないと思う人は、この章を読んでおいた方がいいんじゃないかな。
あと、なんで中国はああなのか?と平行して、なんで日本はこうなのか?という疑問に答えてくれる一撃な回答を得た。それは「日本人は、アメリカに負けたと思っていても、中国に負けたとは思っていない」。言えてる。戦後、アメリカは日本に対してメディア戦略をして「アメリカに負けた〜」「絶対かなわない」と強く印象づける事に成功した。著者はここで「日本テレビとCIA」という本を参考に挙げる。
近所に要塞のようなあやしい家がある。あるとき、その家の前に黒い街宣車が停まっているのを見た。それ系か!なんとなく納得したのだが、その後、またまた謎は深まった。ときたま電動のガレージが開いて家主を乗せた車が出てくるのを見るのだが、それがものすごくウエスタ〜〜ン♪なのだ。でっかいオープンカーのハンドルを握る年配の家主さんは、ヒラヒラのついたバックスキンのジャケットにカウボーイハットで、助手席にはでっかいお犬様たち。街宣車系の人って、国粋主義者じゃないの?外出時には羽織袴、乗り物はTOYOTAじゃないの?右翼にしてアメリカ大好きって本人の中で矛盾しないのか、不思議。反日でアニメ好きな中国の若者より理解しがたい。
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この本を読んで、またまたクアトロ・ラガッツィを思い出した。若桑みどりさんも、この本の著者、遠藤誉さんも、専門は別分野ながら、語学に秀でていて、根気よく集めた1次情報から、異文化の交流について考察している。そしてそのテーマの根底には、若いころの衝撃的な体験があり、今、時代の変換期にあたり、自分の使命を果たそうとしている年配の女性。
人は、今現在自分に起こっている事はなかなかわかりにくい。なんでなんだろう?と苦しみ悩んでもやもやした状態に耐える。時間がたてば、ああ、あの時の自分はああだったんだな、とわかることもある。それが、他人を横で見ている時は、それはこういうことだから、こうすればいいのに、と歯がゆくおもったりする。
国際問題も、同時代の他国、または他国から見た過去の自国を取材する。すると、今現在のことなのに、遠くから俯瞰するように自国を客観的に理解できることもあるんじゃないかなと思う。
私は最近「"現代家族"の誕生―幻想系家族論の死」という本(女性の著者によるインタビューから構成された本で、別名「親の顔が見てみたい調査」)と「中国"A女"の悲劇」(日経ビジネス オンライン)の
第8回 私が出合った<A女>たち(1) 〜年収2000万円相当、人柄最優先、でも結婚は"怖い"
第9回 私が出会った<A女>たち(2) 〜「漢民族の男とは結婚したくない!」を読んで、自分、母、祖母について考えてしまった。
「戦争とジェンダー」のアマゾンのレビューで、家父長制が戦争の原因なら、それがなくなって平和が来るのはいつの時代のどこなんだ?というのがあったが、わたしはそれは今の日本じゃないかと思う。
平和はいいことだ、でもそれはそれで男性にきびしい状態なんだろうか?
「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
ならさ、男性たちが非生産的な戦争なんつうものに行ってくれれば、その間に女性たちに仕事のチャンスが回って来るとも期待できるよね。
もし今の社会が戦前の日本のような家父長制で女性に経済力が無ければ、女性はあんな人イヤこんな人イヤと言わずに、生きるために誰とでも結婚するんだろうか?
三砂(みさご)ちづるさんは、i-morlyのインタビューで、「女性の高学歴と社会進出には、娘たちにそうするようにとの母親たちの強い希望があった」とおっしゃっています。「自分たちの結婚生活がよっぽどイヤだったんでしょうね!」と。
女性から経済力を奪えば、多くの男性に結婚のチャンスが来るだろうか?いいや〜、経済力を持つ少数の男性が愛人を何人も囲うだけだと思う。で、愛人がいる男性の家庭がうまくいくはずもなく、家の中は地獄。そんな家庭に育った息子はグレて(わたしの祖父)娘たちは、結婚を恐れて修道院へ(わたしの大伯母たち)。
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ジェンダーとかフェミニズムとかの本を読むと、女性VS男性という構図しか見えない事が多い。でも、生物的には、男性のY遺伝子は大して情報を持っておらず、男性の役割は女性が持っているX遺伝子を運ぶ事だ。結婚は男女で1組だけど、遺伝的には、女性と、男性の母親との遺伝子交換になる。
男性は、その母親である女性の出先機関、遺伝子を残すための手先。だから、男対女の戦いは、実は女対女のたたかいでもあると思う。息子に出世してもらいたい、お金持ちになってもらいたい、功徳を積んでもらいたい。それは他の女性の遺伝子(を運ぶ男性)に勝つためだ。
遺伝子そのものにまるで意志があるかのような言い方はまちがっている、と福岡伸一先生はおっしゃっているけど。
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なんか、全然まとまりなく何を言いたいのかわからなくなってきた。あの911以後、女性が書く異文化の本が変わってきたなと思う。かつては自慢系、説教系が多かったと思う。こんなに素敵な外国生活、それにひきかえ日本はダメねえ、みたいな。
私は911とそれにつづくアフガン空爆、イラク戦争、自衛隊の派遣を絶望的な気持ちで見ていた。そういうときにこそ何かを発言してくれるはずの地誌雑誌「ナショナルジオグラフィック」が文明の衝突問題に及び腰なのを見て、定期購読をやめた。
その一方で、地道な仕事で、使命を果たそうとした人がいた。若桑みどり、本書の遠藤誉、それからblogやメールメディアで情報を(無料で)発信してくれる女性たち。その仕事を読む事の出来る幸せを今かみしめている。
それにくらべると、男性が書いた本は相変わらず主観と幻想にたよっているものが多いと思う。
ーーー
ところで、秋葉原の事件の記事を見るたび、「このことについては町山さんに聞け」と思ってしまう。
EnterJam 町山智浩のアメリカ映画特電
第10回 2006/12/06up『ザ・ワールド・イズ・マイン』
そうそう、AEDについて調べたんですよ。器具の使い方はなんとなくわかった。しかし、新たな心配事が。。。それは、AEDを使用する場合、胸部をはだけるので、特に救助されるのが女性の場合、人目をさえぎらなければならない。やじ馬を遠ざけ、目隠しを設置する係を任命すること。らしいのです。だよな、そうだよな、「あ、そこのあなた!人目を遠ざける係をやって」とテキパキ言えるだろうか?それに誰を選んだらいい?やっぱり腕っぷしの強そうなカリスマ性のありそうな人か?それも女同士じゃないと。。。むずかしいなあ。電車に乗るたびに、この車両の中で任命するとしたらこの人だ、と10秒で決断する訓練をやっとくか。。。アホやな。
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その後の「中国動漫新人類」 〜「中国同人事情----オタク、何やってる?」:NBonline(日経ビジネス オンライン)
で、長谷の鎌倉文学館で折り返し。
まだまだ続く、若桑みどり祭り。「薔薇のイコノロジー」を借りてみた。これは好きな人にはたまらない本だとおもう。わたしは挫折の予感。
3ヶ月読んでいたことになる。最後のページをめくると、旅が終わってしまった時のような寂しさでがっくりしてしまう。空港から家に帰るために普通の電車に乗ったときのような。
かつて少年使節だった4人のそれぞれの最期。。。国外追放、病死、棄教、殉教。棄教した一人は、キリスト教か仏教かという以前の問題として、宗教に対する信仰心そのものがなくなってしまった。彼はわたしだ。と思う。
16〜17世紀の80年間に、日本にカトリックの布教の波が来て引いて行った。それはカトリック国スペイン・ポルトガルによる世界帝国の拡大と、やがて覇権がプロテスタントのオランダ・英国に移って行った事と関係している。そうです。
やはり宗教と経済は切り離せないと思う。しかし日本では、隠れキリシタンという、世界でも類を見ない信仰の形が残った。
神父の追放令が出たとき、ある神父たちは本国スペインの軍事力で威嚇し武器をとって戦おうとした。またある神父たちは、信者たちを見捨てるわけにはいかないと国外に逃げずに地下に潜って活動を続けた。
前者の神父たちの行動は、時の権力者のいっそうの猜疑心を呼び起こし、弾圧に拍車をかけた。後者の神父たちは全員処刑され教会が破壊されても、民衆の心に信仰を残した。
違う文明が出会い影響を与え会うということ、自分たちの文化を分かってもらうということについての、失敗事例と成功事例がここにあると思う。
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文庫もあります。
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青春と読書 本を読む「クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国」
少年使節がヨーロッパに行っている間に、キリシタンを保護した信長は暗殺され、秀吉の天下となった。
信長は、当時としては非常に珍しい、近代的な合理主義者だったと著者は分析しています。がゆえに暗殺されてしまった。明智光秀のバックにいたのは誰だったかについても書かれています。信長暗殺のいきさつを読み、その夜フリーチベットの集会の中継の再放送をオーマイニュースで見、うーむ日本は呪術によって保護支配されている島国だなあと感じました。
日本に最初に布教に来たカトリック宣教師たちが属するイエズス会は、司馬遼太郎の「南蛮の道」を読むとよくわかるが、スペインバスク地方出身の元城主、元騎士団の隊長などで結成されたエリート集団だった。
もともと支配階級の軍人たちだったので、日本で布教をするにあたっても、まず領主に会い許可をもらってできればその人物を改宗させ、そうすれば領民も自然と改宗者が増えるだろうという、垂直型伝播方式をとった。それに対して、その後に来たフランシスコ会は、まず社会の底辺の人から布教を始める、水平型伝播方式だった。
イエズス会がトップダウン方式だったのは、元々自分たちがエリートだったからで、人は知らず知らずのうちに、振る舞いや判断において、生まれ育った環境の影響を受けるものだと著者は語っています。
そういう彼らだったので、日本の諸国の武将たちは、宣教師たちを外国人であっても自分と同じ職種・階級の者だと感じ軽んずる事はしなかった。宣教師は当時の日本の権力者にやすやすと近づく事ができ、日本社会の序列の外に居たので対等な立場で、倫理や宗教という深いテーマについて話をし、彼らの世界観を知る事が出来た。
それらは逐一ローマへ報告され、当時の文書は今も残っていて、現代イタリア語で読めるそうです。その筆致は、冷静で客観的で、キリスト者というよりはジャーナリストに近いと著者は言います。
さて、信長が死んでしまったので、国内で安全に布教をできるという許可が無効になってしまった。それで宣教師たちは、秀吉に面会して許可をもらう。秀吉は、信長のアジア戦略構想をそのまま引き継いだ。しかし、信長に比べていくらかは信心というものを持っている、普通のタイプの人間だった。
宣教師のうち、コエリョとフロイスという2人は、秀吉が九州を平定するのに苦慮していると知ると、協力できる事を示して取り入ろうとして、大友、有馬などキリシタン大名を動かしましょうと請け合う。それどころか、朝鮮半島に討って出るときは、ポルトガル船を用意しましょうとまで言う。
それを聞いていた、日本人というものをよく知っているオルガンティーノ、ヴァリニャーノたちは、2人が非常に危険な発言をしていると思って焦った。秀吉は上機嫌な顔をしながらも、キリシタンが戦力になること、いつかは自分を脅かす勢力になるかもしれない事を、その瞬間に確信したと悟って。人間関係を「支配」「被支配」という形でしか結べず、自分に自信がない支配者だった。。。と著者は秀吉を評しています。
猜疑心の固まりで、いつかは自分を越えるかもしれないものを許す事ができない。宣教師たちは、そのような性格を秀吉に限ったものでなくて、当時の日本の武将たち全般に感じていた。というのも、当時の日本では、家臣による裏切り、寝返り、だまし討ちが横行していた。例外は高山右近などキリシタン大名で「デウスを信じるものは、主君に忠実で正直です。キリシタンの家臣は絶対に裏切りません。」というのが、宣教師たちのウリ文句だった。
秀吉はキリシタンの家臣を利用して九州の島津を征伐した。しかしその後。。。つづく。
内容(「BOOK」データベースより)
戦争の足音が忍び寄る昭和九年、軍部の暗躍から実用自転車を使用した前代未聞の本州縦断レースが開催される。多額の賞金を狙い寄せ集めチームを結成した響木、越前屋、小松、望月の四人は、各々異なる思惑を秘めつつ、有力チームと死闘を繰り広げるが...。一攫千金を目論む出場者の悲喜劇、ロードレースの戦略や駆け引きを、日本推理作家協会賞作家が圧倒的なリアリティで描く、感動の自転車冒険小説。
「復讐なんてあなたのような人がすることじゃありません」か。「復讐は人をダメにするんだよ」カンフーハッスルで大家のオバサンも言ってたな。
本日より、シャミ先生は、ふわふわのジャグジーではなくて、アマゾンの段ボール箱でお休みになるようになった。あったかくなったのね。
少年使節は修業の旅を終えて日本に帰って来た。でもまだページが半分残っているので、これからがまた大変なんだろなあ。
使節を派遣したイエズス会の宣教師は「日本で布教をするなら、神父は日本語を習得し、日本の慣習や日本人の心情を理解しなければならない」と考えていた。
一方、そうは思わない神父もいて「われわれは後進国の未開人にありがたい教えを授けてやっているのだから、こっちが日本語をおぼえるのではなくて、日本人がこっちの言葉を理解する努力をするべき」という態度だった。
どっちが布教の成果を挙げられたか。そりゃ前者だった。
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今朝、シドニー(*じゃなくてキャンベラだった)の聖火リレーに中国人1万人が集まったというニュースを見て「負けた」とつぶやいた私。聖火リレーなんてどうでもいいじゃんと思っていたのに。なんていうか、その生物としての力に圧倒されたというか「ひえーこりゃかなわんわ」というか。その10秒後に「なんて下品な」とつぶやき、その5秒後に「っちゅうのも負け惜しみやな」と自分を嘲笑する。
北京在住のふるまいよしこさんが、JMMのコラムで(日本人が中国人に対して反感を持たないよう配慮しているのだと思うけど)、中国にも反仏デモとか国内の行きすぎたナショナリズムに危機感を持っている人がいると紹介しつつ、このごろ中国人がストレスに思っている事について書いています。
それは「マナーマナーってうるせーよ」。。。これは私の曲解ですが。オリンピックを前にして政府から「民主化」だの「グローバル化(全球化!)」だの欧米由来のスローガンを押し付けられてその上、その西欧から「なっちゃいない」と批判されてキレた状態。
その気持ちはわかる。私も高校時代に先生や世間に対して「受験受験ってうるせーよ」と思っていたから。そして告白すると今は「エコエコってうるさいよ、言われなくてもわかってんだよ」と思っている。。。
長野の聖火リレーの映像には、中国政府への抗議をするにせよアルファベットではなくて、「慈悲西蔵」みたいな漢字が映っててほしい。「人権」とか欧米のスローガンではなくて。(漢字の教養がないので、もしかして「偶然だぞ」事件みたいなことになる可能性もあるが)ああ、明治生まれの祖母なら、いい言葉を教えてくれたのに。おばあちゃんの机の上には、カナがない漢字だけの本が並んでいた。
今日テレビで中国・台湾・香港・韓国・日本・共作の「墨攻」という映画を見ていたら「兼愛」「非攻」という言葉が出てきた。これってどうなんだろ?検索してみると。。。「兼愛」=「人類愛」、対するのは特定の集団に対する愛、たとえば「愛国心」、か。え?「兼愛」は孟子には否定されてるの?それじゃ博愛を説くキリスト教とはぶつかるな。てことは、それを下敷きにした「人権」なんてものは儒教に反する?ああわかんない。今日はもう限界。
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「ふだんはおとなしい人たち」が一線を越えるとき、それは自分の子供や身内の弱者が飢えているのに、隣の家で宴会をやっていて「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの」と言われたとき、じゃないかなと想像する。「ベルサイユのばら」で、オスカルが無断欠勤している部下(平民)の家を訪ねると、餓死した子供の死臭がして、その体験が、恵まれた貴族である自分の境遇に気づき、革命で民衆の側に立つことになった、という場面があった。。。(と記憶してるんだけど、時々勝手にストーリーを作り変えて記憶しているので)
西蔵自治区で食糧が足りてないんじゃないのかな?拘束されたチベット人たちは食事を与えられてないっていうし。中国国内の食糧の値段が上がっている。オリンピックを前に問題が起きないよう地方に大勢の軍隊が配置されている。軍に回す食糧の確保か、輸送が追いつかなくて、または誰かが横流しして、現地の食糧が不足または高騰している。とか。
私はダライ・ラマの「チベットのみなさんへ」という声明を読んで、西蔵自治区の実質的な責任者は誰なんだろうと思った。この張慶黎と言う人は軍閥らしい。
asahi.com : 国際 : AAN
アジア関連書籍の紹介です
『胡錦涛ーー21世紀中国の支配者』
チベット問題は宗教や民族というよりは経済の問題だと思う。やっぱり中国に、労働に見合った対価が必要だと思う。一部の沿岸の人たちが豊かになったとは言え、それは鹿鳴館でしかないと思うし。私は10年以上前バリ島で出会ったフランス人に言われた言葉「日本円で○○円がインドネシアで○○ルピー、それっておかしいと思わない?」が消化されずにずっと残っている。
想像してごらん、国境のない世界を
「それは中華世界だ」と中国人は言うだろうか?「グローバル化された世界だ」とアメリカ人も言うかもしれない。成功しているのはEUだろう。民族も宗教も違うのにトルコはEUへの加盟を切望しているし。どこが違うんだろう?言葉や宗教は各国そのままで、人の往来と通貨だけを統合してるから?そうだよ、通貨の統合。世界中の。ダメ?
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こんな寄り道ばっかして、全然ページが進まない。。。
で、不思議なのが、中国ってなんでああなの?てゆうかああせざるを得ないの?この本は手っ取り早くそんな疑問に答えてくれる本。「週刊こどもニュース」大人版て感じ。(著者には同じシリーズで「街場のアメリカ論」というのがあり、アメリカはなんでああなのか?という似たような問題に答えを出そうとしています。)
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ところで、今の中国政権とアメリカのブッシュ政権は似ていると思う。アメリカがイラクに対してとった行動と、中国がチベットに対してとっている行動は、そう変わらないと思うけど(どちらも資源目当てに、いらん世話を焼くふりをして、罪のない人たちを弾圧している)。
日本ではそれぞれに対して抗議行動をする人たちが重ならない。イラクは見殺しだったのに、チベットでは抗議するのはなぜ?またイラクで気勢を上げた人たちがチベット問題に距離を置いているのはどうして?
著者は、日本人保守派の人々の、米国に対する屈折した感情を述べています。太平洋戦争で負けて、本来なら相当憎んでいいはずなのに、無意識のうちに抑圧されている。首相が靖国に参拝したなら、まずアメリカが抗議するはずなのに、そうならないのはなぜか?などについても書かれています。
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印象に残ったのは、著者の父親の話で、戦時中、中国に居て終戦を迎え、現地の中国人にひどい目に遭わされるかと思ったら、逆に帰国の日まで親切に面倒を見てもらった。しかし、その後、その中国人たちは、日本人に親切にしすぎたという罪で処刑されてしまった。戦後、中国を訪れたお父さんは思い出の街並みを歩きながら「街は当時と変わっていないが、あの人たちだけが居ない」と語ったという。
ひとたび負けを認め、自分たちの作法に従うものには篤い保護を与えるが、内部の裏切り者には苛烈な罰を与える。。。(イラクで人質になった人たちを非難する日本人を欧米人が不思議に思ったという事実を思い出します。)
イエズス会の宣教師は中国人と日本人について、世間知らずの割りに異様に自尊心が高い、とローマに報告したらしい。中国人と日本人って世界から見れば似ているのでは?
この本にはローレンス・トーブという東京在住の未来学者が書いた「性・年齢・最後のカースト」という本が出てきます。トーブ氏はベルリンの壁崩壊やイラン革命を予測した事で有名だそうです。その彼が、2020年に東アジアに儒教圏ができると予測しているそうです。ヨーロッパのEUみたいなものでしょうか。
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著者は、13億人の巨大国家をまとめて運営して行くには、シンプルで力強い幻想が必要、それはシンプルなほどよい。と述べています。
先日NHKのETV特集「ロシア」についての番組で、亀山郁夫氏がインタビューしたロシア人の学者が「民主主義っていうのは投票による数の原理でしょ?わたしたちは夢がないと生きて行けないのです」と言っていたのを思い出します。
中国人の人たちが、みな判で押したように同じ事を述べるのは、自分で考える力が無いからとか、情報を統制されているからとか、ではなくて、むしろ積極的に幻想を共有しようとしているからなのでしょうか?
中国近代史は、日本や欧米に分割統治されるなど不幸な事だらけで、全国民で団結して成功した幸せな思い出が、抗日戦線での勝利しかない。ので、内部の結束が危うくなると、その思い出を反芻する。日本の政権内部はその事情を分かっているので、まああまり苦情も言わない。と著者は解釈しています。
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著者は「文明の内容そのものは時とともに変わっても、文明が崩壊・再生されるときの方法は変わらない」という梅棹忠夫の「文明の生態史観」を紹介して述べているのですが、中国の場合は、政権の交代はクーデターなどではなくて、疲弊した農民の反乱から始まる。人口が増えすぎてその土地が養える限界を越えると、農民の反乱が起き、流民化し、地方にカリスマ的な指導者が現われ、王朝が交代する。それを「易姓革命論」と言うそうです。その際、飢餓や戦争で人口調整もおこなわれる、その繰り返しだと。
(日本の場合は、王朝は天皇家しかありません。為政者は変われども、王家は一つです。)
今、中国では農民の不満が高まっています。チベット問題とは民族間の争いという問題ではなくて、政府vs農民の問題なんでしょうか?チベット以上に非道に弾圧されているウイグル自治区の現状は、あまり話題にならず、知る人も少ないようです。中国全土で起こっている事が、チベットに限って報道されているだけなのか?
先日テレビでアメリカの南北戦争を題材にした映画をやってまして、それを見ていた家人が「この単純すぎる戦い方は何?戦術も何もない。三国志を読んだ事がないのか」とあきれていましたが(彼が読んだのはマンガ三国志だったのですが)、中国の現政権が交替すると、三国志のような乱世になってしまうのか?
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毛沢東が文革で医者や教師など専門職の人を迫害したのは、オールラウンダーな人材を育成したかったから、と著者は書いています。組織が巨大になると、人材が専門化してしまい、全体に対して責任ある考えを持つ人がいなくなる、それが不満だったと。
幕末〜明治にかけて、日本がすばやく近代化できたのは、多くの小藩がそれぞれ政治的にも経済的にも自治権を持っていたからだと著者は言います。いずれは藩主になるために、子どものころから経営者としての帝王学を学んだ人がたくさんいたから。
教育の権限を中央に集権化せず、現場の判断に任せた方がよい、とする(たびたびblogで読む)著者の教育論は、そういうとこから来ているのか。。。
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と、ここでまた出た、若桑先生のあれですよ。個と全体が調和している世界にいると感じる場合と、始まりも終わりもなくとらえ所のない茫漠な世界にいると感じる場合の、人間の感覚の差。
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梅棹忠夫の「文明の生態史観」を読んでみました。気候風土によって、文明は2つのタイプに分けられる。日本やヨーロッパなど大陸の端っこに位置するものと、インド・中国・ロシアなどユーラシアの真ん中の乾燥地帯を含む地域。
文明にも、生物のように生態がある。という考え方。わたしも文明の盛衰は人の成長過程に似ているのでは?と考えた事があった。こんな突拍子もない事を考える人はいないだろうと思っていたのに。しかもこの本は前の世代ではベストセラーだったらしい。
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チベット騒乱の背後に地下資源問題:NBonline(日経ビジネス オンライン)
2007年10月21日の第17回中国共産党全国大会において胡錦濤国家主席は、過去5年間の政権運営の活動報告を行った。その冒頭で胡政権が抱える"困難と課題"を列挙し、その第1番目が「資源・環境・格差」であった。資源は国家の最重要課題なのである。
チベット問題で抗議の声は上がっても、中国での事業から引き上げるとか、中国製品をボイコットしようという声は聞こえてこない。われわれが安い中国製品にたよって暮らしているという事実が、周り回って中国の底辺の人々に対するしわ寄せになっている、ということも忘れてはならないと思います。
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以下、怒りのオプショナルツアー
人権問題と、捕鯨問題って似てるなと思います。イラク戦争の時、世界のリベラル活動家はアメリカに反対した。けど、その意見は聞き入れられなかった。そこに利権があったから。金の亡者とは呼ばれたくない、けど「いらないの?じゃ、オレがもらう」と他人がむざむざ持って行くのはもっとイヤなわけで、結局みんな派兵した。日本を含めて。
利権に直接は関係ない貧乏人である大半の人たちは「そんなの関係ねえ」「金より道理だ」と仁侠心を見せるかと思えば、逆にナショナリズムに踊らされた。
捕鯨問題が起きとき、わたしはマンガに影響されて、鯨は日本の伝統食だと思い込んだ。今、鯨が伝統食だと言っているのは水産庁のホームページだけだ。正当性のない主張を、無理やり一般的なものにしようとするとき使われるのが、ナショナリズムだと思う。「私たちは一緒ですよね」と。
どうしてグリーンピースは「クジラってかわいいでしょ?」なんてトンチンカンなキャンペーンをやるんだろう?日本人には逆効果なのに。。。と思う。でも報道される日本人の行動は、「クジラが座礁したのを多くのボランティアが集まって助けた」(そのとき手に手にノコギリと包丁と皿。。。は持ってなかった)「水族館でこどもがイルカのショーを見て喜んでいる」(おいしそー。。。とは言わない)行動から見る日本人は、みんなクジラを愛でているようだ。が、なぜ外国人に言われるとムキになるのか?
このごろ、水産庁は捕鯨に関して路線変更をたくらんでいるらしい。これまでの捕鯨推進は最近退職した官僚一人の独断だったというシナリオにして。それは、ホエールウォッチングがお金になるとわかったからです。鯨がかわいそうとか、伝統食だとか、そんなの本当は関係ないようです。
真に人を動かすのは、怒りや悲しみではなくて、「ポジティブな」ステータスへの欲望。ルワンダの元ホテル支配人ポールはそれを利用して困難な仕事を遂行した。
ジェノサイドの丘〈上〉(フィリップ・ゴーレイヴィチ著 柳下毅一郎訳)p.162
ステータス。お金でも、権力でも、その他の場合でも。(ポールが使ったのは高級な酒でした。)
われわれ無力な人間の主張を、ちょびっとでも確実に世間に反映させる方法は「投票」と「消費」しかありません。
もう寝なきゃ。ネコ温度計はラサにしました。
ーーーーーmemo
個人競技でありながら、チームワークがなければ勝てない自転車ロードレースの光と影。元々陸上選手だった主人公は、勝つ事の意味を見いだせず競技から去る。その後出会ったのが自転車だった。そしてエースではなくてアシストという役回りに自分の存在意義を見いだし、この世界で成功していく。そのチャンスをくれたのは。。。
前半に小さな疑惑とチクチクした心理描写が続き、後半に大事件が。ついつい、ストーリーの盛り上がり度をロードレースの高低図にたとえてしまうんだけど(この高低差は映画「アダプテーション」に似てる)。
淡々とした筆致に浪花節なストーリー。これはミステリーに分類されるんですか?どっちかというと昼メロぽい。絶対向いてるとおもう。ぜひ昼メロでやってほしい。イケメンのみなさんで。
ジャニーズのみなさんで「シャカリキ」も撮ってるらしいし。
Web R@dio Station"くりらじ" "BICYCLE21PODCAST"
自転車選手が現実にはどういう仕事か、何を考えているのかは、ここを聞くとよくわかります。特に今週はおもしろかったです。
Web R@dio Station"くりらじ" "Massas Channel"
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ツバメ初認。
ー天正少年使節と世界帝国ーという本を読んでいます。若桑みどりさん渾身の1冊。16世紀の日本文化とヨーロッパ文明と接触した際の克明な記録。当時の日本が元スペイン・ポルトガル領の南米の国々のように植民地化されることを免れたのは、イエズス会の宣教師が「当地は非常に貧しく占領する価値はない」と母国に報告したからだったらしい。
アフリカを出て大陸で生存競争をしながら移動してきた極東の地、この先は太平洋でどこにも逃れる場所はない、ここでどうにか生きなくてはという場所。チベットもアイスランドも同じような環境だったと思う。生産性が限られた厳しい土地で、淘汰してくれる天敵もいない人類が、殺し合わずに生きて行くというシステムを作り出した、チベット仏教はすごいと思う。
モノがなけりゃどっかから獲ってくればいいじゃないか、いらなくなったらそこら辺に捨てときゃいいじゃないか、いやになったら出て行けばいいじゃないか、生き残るために他民族から略奪するのは仕方ない、というスタンスのキリスト教に比べて。
西欧文明と接触するたびに影響を受けて、日本も何度か大陸に略奪に出かけている。秀吉の朝鮮出兵とか、明治以降の植民地政策とか。だから日本人だって善人というわけではない。それに宣教師から見てどうしても許せなかった日本人の悪徳についても書いている。
この本は重く厚く読み通すのが難しいと著者自身思ったのか、ちゃんと飴とムチで読者を誘導してくれる。その飴は「当地は占領する価値はないので無敵艦隊を寄越さないでほしい」と報告した宣教師は、中国人と日本人は野蛮な未開人ではなく、西欧と同等の高さの文明を持つので、暴力で支配したり子供扱いして指導するには適さないと判断した、という部分。
550ページ中、今やっと160ページ。まだ天正の少年使節はユニット結成もしていない。少し読んではいろいろ考える事があってなかなか先に進めない。昨日今日はチベットの暴動のニュースを見てまたオプショナルツアーに出てしまった。
ラサにはもう行けないんだろうか?西川一三の「秘境西域八年の潜行 上・下・別巻」、木村肥佐生の「チベット潜行十年」を読むとチベットだっていい事ばかりじゃないらしいけど、いつか行って見たいと思っていたのに。そういえば、西川一三さんって今年までご存命だったのですね。チベット式: 【訃報】西川一三さん、チベット暦元日に逝く
ダライ・ラマとは特別な人なのか?図書館で著書をパラパラと立ち読みした事がある。めぼしい記事には当たらなかったが、これは?と思った一言があった。それは「あなたは他人が一目見てあなたが何者であるか判断できる身なりをしなければならない、でないと人は後であなたが第一印象とは違う人物だとわかると、だまされたと思って憎しみを抱くから」というもの。難しいです。こんなことは他の宗教家は言ってなかった。
まず自分が何者なのかわからなくてはならないし。普通の人は「ほんとの自分」より「なりたい自分」を服装で演出してると思うし。「本当の自分」って何?ときかれれば、自分を全く知らない初対面の他人が情け容赦なく観察した結果が「本当の自分」だ、と思っている、自分の事に関しては他力本願な私には特に。
昨日今日とチベットのニュースを見てると、ふとあれはもしかして公安のスパイのことを言っていたのか?そんな具体的なことやったん?とも思えてきた。
日本は資源のない貧しい国。今までどこの植民地にもならなかったのは、その価値がなかったから。もしもすんごい天然資源が発見されたら。。。チベットみたいに他国の餌食になっちゃうのかな。それはいやだ。そのとき、アニメを愛する世界のオタクが抗議行動をしてくれるだろうか?
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所からのアピール/日本の皆さまへ
1章と2章は「現代思想」1987~1990に「日常の図像学」というタイトルで連載されたもの。懐かしいトピックも。これを見てもういいや。。。と思うかもしれない。
そう思いつつ、3章に進み、ちょっと眠くなりそうになるのを、お茶を飲んだり声に出したりしながら最後まで読むと、えもいわれぬ幸福感に包まれます。この本は絶版ですが、3章はCiNii - 東京芸術大学音楽学部年誌 5 に「人間的空間の系譜 : 人文主義的文化における建築と都市の理論」というタイトルで収録されていて、幸いな事に、インターネット上で読む事が出来ます。
都市のイコノロジー―人間の空間 という本を読んだ。人が幸福感に包まれて暮らすには建築や都市計画はどうあるべきかということについての本。図書館で見かけてパラパラと見て、その巻末にあった小論文「人間的空間の系譜」に感動して、ぜひ手元にほしいと思った。だがすでに絶版。ネットで古書を手に入れた。
その小論文は当時芸大に勤めていた著者が、旧奏学堂を保存するために、関係者を説得する目的で書かれたと後書きにあった。しばしば研究者に引用されてきたが、一般には知られていなかったと。そしてその小論文で引用されている、更なる元ネタ「視覚芸術の意味」(E・パノフスキー著)という本を読みたくなったが、これも絶版。
amazonのマーケットプレイスで5600円より(元々の定価は7500円)。一度どこかの図書館で立ち読みしてから購入するかどうか決めよう、と県立図書館の横断検索をやってみた。県図書は貸出中、あと在庫しているのは厚木市と小田原市の図書館。この本は岩崎美術社の「美術名著選書」というシリーズだった。そのシリーズごと開架している小田原の「かもめ図書館」というところに行ってみる事にした。
初めて降りる鴨宮(かものみや)という駅。私の前を歩いていた若いカップルは「何もない。。。」と絶句していた。駅から「かもめ図書館こちら」というプレートに沿って歩く。本当にこの道なんだろうか?こんなさみしい。。。と思っていたら、目が合った。
住宅街の中に突如あらわれるきれいな建物。
閲覧席でふと脇を見ると、目が合った。
目的の本の「第2章 様式史の反映としての人体比例理論史」35ページ分をコピーさせてもらって、安心して談話室(休憩室)でコーヒーを飲んでいると、隅に座っていたおじいさんがナイフでリンゴをむいて4等分し、そのリンゴを素手で持って、その場にいた人に配り始めた。周りにいたおじいさんたちは、当然のように素手で受け取って食べた。私の近くに座っていた若い男性は逃げて行った。私の所には来なかった。リンゴは4切れしかなかったのだから、もしどうぞって渡されたらどうする?なんておびえなくてもよかったのに。
図書館を出ると砂嵐だった。帰り道でまた目が合った。
鴨宮の駅のホームで遅れた電車をずっと待った。強風のためではなくて、電車が小動物と接触したためらしかった。小動物って何だろう?西湘バイパスで「鹿飛び出し注意」の看板を見た事あるけど。大磯まで線路沿いの山側に梅が見えた。花は5分ぐらい。まだ咲いていないのか、風で散ってしまったのかはわからなかった。
カルチェ・ラタンで思い出したが、小林秀雄の有名な言葉「花の美しさはない、美しい花はある」は、バルザックの「ゴリオ爺さん 」からの引用だ、というのを読んだ。
丸谷 才一・三浦 雅士・鹿島 茂、三氏による、もし今文学全集を作るとしたらどういうのにする?という対談。作家を目指す若い人が、これを読んでおけば息の長い作家活動を続けられるのではないか、文学作品を書く技術、基礎体力をつけるなら、という選考基準。前半が世界文学編で、後半が日本文学。文学賞メッタ切りぽくバッサバッサ。各人の個性が出ていておもしろい。
ロシア通、バレエ通の三浦雅士さんが挙げるロシア文学は、読んだ事がなくてもバレエ作品になっているものは大体見ているので、その世界がワーっと蘇って、採用されるとうれしい。
三氏とも理屈に関係なくこれは絶対入れたいと合意したのがリルケ。三浦氏は「ありがとうございました」とまで言う。バーチャル全集なのに!
そして人気なかったのが三島由紀夫と小林秀雄、埴谷雄高。堀辰雄に至っては「恥を知れ」とまで罵倒されている。堀辰雄はわたしもいらないと思うけど、立原道造は入れてほしかった。。。人に何と言われても好きなんだもん。いやでも、この文学全集の意図を考えると、ハンパに立原道造風な詩人が出てきたらいやだな。簡単に真似されたくない。
去年の秋、大分(豊後)に帰る直前、高校時代を同じ大分で過ごした友人から司馬遼太郎の「街道をゆく 中津・宇佐のみち」を読んだという話を聞いて、私もそれを読み、飛行機に乗った。
私の祖母の祖父の家は、中津藩の御抱えの両替商だった。「うちは武家ではなかったけれど、お殿様から名字帯刀を許されていた」とちょっと自慢気に祖母は語るのだけれど、高校生のとき日本史の教科書で「これはまさにそのことだ」という記述に出会った。
江戸末期になると地方の小藩は財政が悪化し借金地獄・リストラなどで武士は大変困窮した。その一方、低い身分の商人が金の力に物言わせ、のさばり、借金のかたに名字帯刀の権利をもらって武士の物まねをして悦に入る馬鹿者まで出現した。。。とまでは書いてなかったが、あーこれだったのか、トホホ、と思ったのでありました。ま、そんな祖母の家も廃藩置県で全てを失い、江戸に上京しています。
中津藩からは福沢諭吉が出ています。小学校時代に同じ大分県の出身ということで、先生が話してくれました。「君たちの先輩の福沢諭吉は、オランダ語を勉強して第一人者になったのに、これからの時代は英語だとわかると、それまで学んだ事を全て捨てて、一から英語を勉強し直したんだ。君たちも一度身に付いた知識にしがみつかないで、必要ならまた一から勉強する勇気を持つんだよ」
大分には有名な銘菓「ざびえる」があり、駅や空港でその単語をたびたび見かけた。それから南下して宮崎に行き、姪がスペインに旅行するという話を聞き、スペインという単語がすり込まれた。というわけで、茅ヶ崎に帰ってきてからなんとなく司馬遼太郎の「街道をゆく 南蛮のみち」を手に取り読んでいました。
若い頃のフランシスコ・ザビエルは神学とは無縁で、将来は哲学の研究に捧げようと思っていたのに、カルチェラタンでイグナチウス・ロヨラに出会ったばっかりにイエズス会に入り、ポルトガル王の支援で日本に伝道に来る事になった。。。人の運命って数奇なものだなと思います。司馬遼太郎一行はザビエルの出身地、スペインのバスク地方を訪れ、実家のお城を見学します。
茶道の所作は、キリシタンの司祭のミサの所作に影響を受けているのは?、とか、秀吉以後、港湾部に首都を作るようになったのはリスボンをモデルにしたのでは?、とか、当時のスペイン・ポルトガルが日本に与えた影響について語られます。
歴史や文明についてはすばらしい文章を書いている司馬さんですが、食べ物の事になるとちょっと。。。料理研究家の長尾智子さんはバスクに魅せられ、何度も訪れ郷土料理などを記録しています。そのとき必ずバッグに入れて持ち歩いていたのはこの「街道をゆく」だったそうです。
猫グッズのコレクションや、味のあるイラストがページをめくるごとに出てきて楽しいです。
ほうと思った事2つ。一つ目は、著者の飼い猫が、捕ってきたネズミは食べるが、ヒミズ(小さなモグラの一種)を食べない事。ヒミズは死んでいるが目立った外傷がない事。そういえば、うちのシャミもそうだった。シャミは簡単に捕れるというヒミズしか持って帰らなかったけど。ヒミズは本当に死んでいたのだろうか。
二つ目は、たとえば猫が机の上を歩くとき、置いてあるノートやペンケースは踏まないよう律義によける。けど、本やキーボードの上はかまわず歩く。踏んでいいものといけないものの境目はどこにあるのか?ある期間動かずに同じ場所にあればいいのか?足の裏に不安を感じないものなのか?
シャミは台所のカウンターに飛び乗る。カウンターには皿とかまな板とか包丁とかボウルとかいろんなものがあり、毎回配置が違う。床からはカウンターの上が見えない。とりあえず飛び上がり、着地するまでの一瞬にどこに脚を着けるか判断するようだ。置いてあるものを踏んでしまう事はない。すごい能力だと思う。
あるとき珍しく何かの袋の端に脚が着いてしまった事がある。そのとき、シャミは「しまった、大変なことをした!」という感じでそそくさと隅の方へ行きしばらく遠くを見て時間が過ぎるのを待っていた。私に「コラ」としかられても全然へーきなくせに、シャミ自身によるルールには弱い。
シャミは自分で自分に複雑な規律を課している。椅子に乗る時はまずその周りを左回りにグルグル回るとか。わざわざ必要のない約束事を果たす事で、昨日の世界と今日の世界が同じ事を確かめているのか?
ああ、耳が痛いです。いつだったか冷蔵庫が故障して数日使えなかったとき、冷蔵庫の中身を全部出してみて、いろんな物を発掘した身としては。それを戒めとして、今ではちゃんと食材を循環させているけれど。それはクックパッドのおかげもあるかなあ。つまり、レシピのレパートリーが大事なのです。今ある材料を使ってちょうどいいものを作るっていう。ほんと助かりますよ、クックパッド。
本書は、本を読むというよりも居酒屋で先輩の話をきいているような、ライブで曲を聴いているような感じです。軽快な語り口なんだけど、著者は「昔はよかったなあ」式の懐古主義者でもなく、「あいつらにはわかんねえ」式の国粋主義者でもなく、現実を経済的な裏付けから分析し、消費者としての自分の感情も客観的に観察している、非常に合理的な精神の持ち主だと思います。
皮膚は臓器。
皮膚は電気システム。
皮膚は脳。
著者は医者ではなく民間企業の研究員です。「皮膚は考える」は概論。「"第三の脳――皮膚から考える命、こころ、世界」はさらに図解で詳しく書かれ、著者の私的な考察もついています。著者の研究は、何か具体的な病気の治療に役に立つとか、目の前の何かをどうにかしたいというものではありませんが、人間って、生き物って面白いなあと思えます。
最先端の研究なので、目次だけ見るとトンデモ系かと誤解されるかもしれませんが、著者はそうならないよう注意深く言葉を選んで誠実に書いています。内容が非常に面白く、文章の手触りも繊細で心地いい本です。
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お風呂から出て私は暑いと思っている、扇風機の前に立って冷風を浴びると1秒後にくしゃみが出る。わたしはまだ暑いので体を冷やしたい。でも体は「ダメダメ」とくしゃみを連発させる。花粉の季節には体の中で嵐が起こる。頭はぼうっとして判断力が鈍る。自分の体の免疫システムに自分自身を乗っ取られる感覚。
ーーー
わたしは子どものころ、慢性扁桃腺炎でお医者さんから患部を切除するしかないと言われ、手術の日取りも決まっていた。その前日、母がノドの腫れに効くお灸をしてくれるおばあさんがいるという話を聞いて、わたしをおばあさんの家に連れて行ってくれた。おばあさんは鍼灸医ではなくて無料のボランティアだった。両ヒジのくぼみに小さなモグサを乗せて火を点け、アチッと思った一瞬に終わった。家に帰って熱を計るとすっかり下っていた。
翌日、手術前の診察でわたしのノドを見た先生が「あれ?すっかり腫れが引いてる。切らなくていいかもしれないよ」と言った。ほんとですか!手術が怖かったわたしはうれしくて余計な事を言った「やっぱりお灸が効いたんだ」その言葉を聞いた先生は「またあのバアサンか!」と険しい顔になって、手術は決行された。後で看護婦さんに「あーあ、先生はああいうの信じないからね」と同情された。
何ヶ月も薬を飲み続けて改善されなかった症状に、お灸が劇的に効いた。その効果には医者も驚いた(認めなかったが)。お灸を据えた場所はノドとは関係ない場所だったのに。熱を加えたのはほんの一瞬だったのに。
ずっと不思議に思っていた事のしくみが明らかにされるのを読むことができるのは楽しい。
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Yahoo!ヘルスケア - ニュース - ストレスで皮膚の抗菌能が弱まる
「墓の彫刻―死にたち向かった精神の様態」というタイトル。著者はE・パノフスキー。ということは「あれ」が見れるのではないか!と期待して手に取った本。
人は何を価値あるものと感じるのか?パノフスキーの「イデア」と澤柳大五郎の「ギリシアの美術」は、そういうことを考えるということはどういうことか、という実例を教えてくれた。特に「ギリシアの美術」のアッティカの墓碑の章は、それを読み終わった後、感動で長く長くため息が出た。
前5世紀半ばから4世紀末までに、アッティカ地方で作られた墓碑。それは石の板に彫られた浮き彫りなのだが、そこに掘られているのは、死者の生前の姿。故人の業績を記念する姿でもなく、死後の楽園に暮らす姿でもなく、日常の生活の一場面。
その場面には、まだ生きている家族や従者も一緒に登場することもある。しかし、その人物たちのうち誰が死者なのかは、表情を見るだけですぐわかる。死者は周りの誰の声も聞こえず、誰の顔も見えず、視線を遠くに投げ、静かに死を受け入れている。生者の人物たちはそんな死者を見つめたり手を握ったりして愛情を示している。
エジプト人のように死後に旅に出るでもなく、キリスト教徒のように天国(または地獄)に暮らすでもなく、日常の中に永遠が、死と生が同時に存在するというギリシア人の死生観。それは故人の本質とは何だったかを記録し永遠に残そうとした、墓碑の彫刻を見ることによって、私の心に刻まれた。岩波新書の数ページに小さくモノクロで印刷された写真ではあったが。
「美とはどういうことだろうか?」「それは、ある人にとっては美だが、ある人にとっては美ではない、というものであってはならず」「ある時は美しいが、またある時はそうでない、というものではあってはならない」。。。という会話によって定義されていく、プラトンのイデア論を読むよりも。
この「ギリシアの美術」を25年ぶりぐらいに読み返してみて、墓碑の章の次章に鉛筆で傍線が引かれているのを発見した。自分で引いた以外に考えられないのだが。
しかし全期を通じてギリシア人にとってはこころと身体とは一つであった。こころは眼に見えるものであった。また顔と身体は一つであった。
ギリシア人にとっては眼のみならず、全身がこころの窓なのである。
「全身がこころの窓」という言葉にあっと思った。今、同時に読んでいた別の本とつながったからだった。それは「岩波科学ライブラリー 皮膚は考える」にて。。。
パノフスキーの「イデア」は新訳が出たんですね。少しは読みやすくなったのかな。
町田 康の猫との生活と愛情の記録。猫たちのキャラに爆笑しながら、猫との別れでは自分の経験を思い出して不覚にも落涙。ヘッケと子猫の頃のシャミはそっくりだ。拾われた時の状況も、名前の由来も、おもちゃをくわえて持って来る所も。幸いシャミは私が拾った猫では珍しく長命だった。シャミチャン、ひしと抱き寄せる。愛とは悲しく苦しいもの。
「暮しの手帖」で推薦されていて読んでみました。食品報道だけでなく、情報一般とのつき合い方を啓蒙してくれる本です。わかりやすく食情報を提供してくれるおすすめサイトのリストもあり。
ああ、おもしろかった!私はさきに「ゴシップ的日本語論」を読んでゐて、その最後
「どこかエロな所はないかと探しながら小説を読むのでいいんだ」
みたいな(詳細は忘れた)文が気に入っていました。この本「輝く日の宮」は全編エロです。
その上、ハーレクインロマンス風あり、チャンバラものあり、怪談あり、小津映画風あり、文学の楽しみの「物尽くし」にもなっています。説明が面倒くさそうな源氏の解釈については、女流研究者同士が壇上で対決というコメディの戯曲風に仕立ててあって、読者を退屈させません。松尾スズキにお芝居にしてもらいたい。紫式部と道長の部分は花組芝居がいいな。ちょっとキモイ感じがちょうどいい。
主人公の恋の行方はどうなるのか?意外なライバルが現われたりして、ありゃーますますややこしくなってきたよ。と思っていると、最後の章は。。。最初の1行を読んで、この章は作者からの贈り物だと瞬間わかって、感動でちょっと涙ぐんでしまいました。ほんと期待を裏切らない。至れり尽くせり。
そしてすべては語らず1番おいしい所は読者にまかせています。ここまで来たら、もう安佐子と紫式部の生霊が読者に乗り移っているので、その続きを想像するのは難しくないでしょう。てゆうか、気がつかないうちにすでに作者が全部説明してくれているんです。こっちが自分で想像したと勘違いできるぐらいに。まったく町山智浩さんかと思っちゃう。
ゴシップ的日本語論は、泉鏡花の解釈とか、柳田国夫と折口信夫の業績とか、源氏物語をめぐる瀬戸内寂聴との対談などが載っていて、ある意味「輝く日の宮」の解説書ともいえると思います。
「日の名残り」のカズオイシグロの作品。限定された境遇を受け入れながら生きるということについて。この小説の場合の主人公たちの境遇は「提供」という言葉が出た時点で薄々わかってしまう。その秘密は、読み手を物語の最後まで連れて行ってくれる動力になっているが、読み進むうちに、彼らが過酷な運命の中に生きていることを忘れてしまう。主人公たちの子供時代、思春期と物語を読み進み、主人公の心にぴったりと寄り添ううちに。
以下は本作を読まれた後に
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この小説の中には登場人物の容姿についての記述がないのです。欧米の作品を読む時、うっとうしく思うのが、髪は、目は、何色で。。。というくどくどとした表現なのですが、この作品では登場人物の具体的な外見については語られません。
彼らにとっては外見は単なるコピーでしかない?外見には意味はないのか?
もしこの作品を映像化するとなるとそこら辺が問題だろな。この作品を読んだ人は電器羊(ブレードランナー)とかを思い出すんでしょうか。私はメアリ・スチュアート・マスターソン主演の映画「恋しくて」です。
それから、三角関係といえば、古いけど、やっぱり私には「冒険者たち」ですね。アラン・ドロンのあの最後のセリフ・・・。
キシモトワールドです。最初の犬の話で、やめとこうかと思ったが、次の心臓移植の話で、もう少し読んでみようと進むうち、またまたドップリ浸かってしまい、一気に読了。不公平で不条理な現実世界に対する、皮肉とささやかな復讐。
ところで、「ひにく」はどうして皮と肉なのか?とすれば血と骨は?ん、そういえば「血と骨」ってありましたな。
これも打ちのめされるようなすごい本より。ミステリーです。クライマックス近く、ある一文を読んで、いやある形容詞を見た瞬間、ウオオオオ!!!恐怖が背筋を走った。読者に対して、念入りにしかけられていた罠。まんまとはまりましたよ。ああ怖かった。
「気をつけるのよ」
「愛を必要としすぎないように」
その言葉の意味も最後まで読むとわかります。そしてそれは特別なことではなくて誰にも起こりうると考え直すと、またうっすら怖くなる。。。でも気をつけろって言ったってさ、気をつけようがないよ。落石注意の標識か。。。やはりメロドラマは苦手です。
打ちのめされるようなすごい本から本命、丸谷才一の「笹まくら」。図書館で借りた新潮現代文学全集63巻。「笹まくら」「年の残り」「思想と無思想の間」「横しぐれ」と一気に読んだ。「打ちのめされる」というよりも「吸い取られた」感じで消耗した。
「恋と女の日本文学」に書かれていた、「恋愛という個人的な事と、社会との関わりという公の事、どちらかだけを描くのではなく、双方が密接にかかわり合い切り離せないストーリー」(私のつたない解釈による)そのものですね。
過去と現在が交互に同時進行するスタイル。素晴らしいラストシーンは香港映画「ラヴソング」を思い出した。わたしの印象に残ったのは、その少し前、陽子が実は。。。で、主人公が妻の寝顔を見るシーン。主人公はその時初めて、妻を女としてでなく同じ人間として見た、と思う。普通の人には理解できない(と主人公が思っている)特別な孤独と悩みを持つ人間として。
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徴兵忌避というと思い浮かぶのは、イラク戦争への従軍を拒否して裁判になっている、米国陸軍将校、ワタダ中尉の事件だ。中尉はハワイ出身の日系人。
暗いニュースリンク: ワタダ中尉の従軍拒否に関するタイムズ紙報道
太平洋戦争時、日系人の部隊は戦闘の激しい前線に送られた。日系人がアメリカ市民として社会に受け入れられるため、収容所に入っている家族や同胞のため、命令通り戦い戦死者も多数出た。
一方、その子孫であり生まれた時からアメリカ人として育ったワタダ中尉は、状況を自分で判断し、行いを自分の意思で決めるというアメリカ人らしいスタイルを通した。どちらもアメリカに忠誠を尽くしアメリカ市民であるための行動だ。
もし日本国憲法第9条が変わったら、徴兵制が復活すると思うけど、そのとき夫や息子が招集されたらどうするだろう?ワタダ中尉の母のような立場になったら?
あらゆる情報が国境を越えてネットであっという間に世界に知れ渡る今、個人個人の信条や判断を認めないことで成り立っている軍隊という組織は維持するのが難しくなるだろうな。軍需産業は衰退して行くだろう。これからの国家規模の公共事業は戦争から他のもの(たとえばゴア式環境ビジネスとか)に変わっていくのかな。
「笹まくら」で主人公は「国家は何のためにあるのか」という問いに「戦争をするためさ」と答えている。「スイスなど特別な例を除いて」。著者がこの文を書いている時は、その例外に日本も入っている。9条のような憲法を持つ国は希有な存在だ。世界の宝だとおもう。
軍事産業が縮小されるとすると、在庫品をどこで処分するかが問題になる。アフリカとか中央アジアとか世界の目が届きにくい所が選ばれるんだろう。意外と極東の日本ということもありうる。経済的にはともかく、言語によるコミュニケーションという点では世界から孤立しているから。
ゴミ箱にされるのを慎重に避けなければならない時に、わざわざ戦争を出来る国に変えたりするなんて、不法投棄のトラックが出入りしやすいように、山の中に舗装路を造るようなもんだ。
「打ちのめされるようなすごい本」に紹介されている本から、すぐ読める軽い本をパラパラ見る。「ネコのこころがわかる本--動物行動学の視点から」は犬猫のマッサージで有名なフォックス先生の本。著者は動物の行動の研究のため猫をたくさん繁殖させる仕事をしたことがあった。最初単純に考えて、オスメス1匹ずつのペアをそれぞれケージに入れておいたが、子猫は全く生れなかった。そこで大きな部屋に猫たちを放すとオスたちの間に階級が生じ、トップのオスがすべてのメスを妊娠させてあっと言う間に子猫だらけになったという。
数ある中から選べることが大事なのね。そしてメスのみなさんの「ミーハー力(りょく)」もあなどれない。「彼ってよくない?」「えー、あたしもそう思ってたの」。。。結局、サッカーにしろ音楽にしろ宗教にしろ女性のミーハーの力によって維持されているのだ。
。。。という部分を読んだところで、丸谷才一の「恋と女の日本文学」に移る。いやあ、著者の言葉は非常にわかりやすい。しかし気持ち良く読んだ後、自分で消化しようとすると言葉が見つからない。それはつまりわかった気になっているけど本当はわかってない。んだろうな。中西準子さんの本を読んだときも思ったけど、上手い人が書いた文章を読むとものすごーく納得する。でもそれを誰かに伝えようとすると、あれ?うまくできない。自己開発セミナーか?「とにかく○○さんに会ってみて」「そんなにいいなら今自分の口で説明してみてよ」「。。。」「できないでしょ、内容じゃなくて言い方にだまされてんのよ」ってことになる。
というわけで、納得したつもりになっていることを説明できないが、平行して思いついたことがあった。わたしは911以後、人は権力とどう関わりながら生きていくのか?ということに興味を持つようになった。そのサンプルを並べて見せてくれたのは「ナイロビの蜂」だった。
ル・カレといえば、「パナマの仕立屋」が映画化された「テイラー・オブ・パナマ」を先月テレビで見た。(手嶋龍一の「ウルトラダラー」にも「パナマの仕立屋」のパロディが出て来る。勇気あるなあ。)配役からしてもうゲラゲラ笑いながら見た。私は最高だと思ったけど、007モノが好きな人にはウケないだろうな。
と脱線してばかりだけど、「恋と女の日本文学」の後半に収められていた「女の救はれ」は非常に興味深かった。そうか、源氏物語のオチはそこにあったのか!恋の煩悩から解き放たれた快感。女人成仏 nyoninjobutsu 。それある。世間体とか向上心とか自分探しとか女の道はプレッシャーだらけだ。祖母は晩年いろいろなことから解放されて本当に幸せそうだった。シワが増えたり体が衰えたりしてもそれとひきかえに手に入る幸せもあると思ったのでした。丸谷先生ありがとう!
アリステア・マクラウドの名前は池澤夏樹のメルマガで知った。響きから女性の作家なのかと思っていたが、実は男性、しかもかなりガテン系の経歴のある人らしい。この短編集に収められているのは著者が子どものころの思い出、家族や家畜の生と死にまつわる話、農民だった祖父母や父母の物語。飾りのない簡潔な言葉で語られるその話のあらすじのみを取り出すとかなり激しい話ともいえる。なのに読後に思い出すシーンは繊細でかけがえのないもの。
1冊読み終えた後は、お遍路の旅から帰って来たようだ。何も持たず誰とも会話せず自分の心の中と向き合うとき、最後に残るのはやはり自分が子どものころに関わった人たちの物語かもしれない。それは強い印象を残し、後々大きな物事について判断を迫られたとき影響を及ぼす。成長した後に得た情報はそれを裏付けるための補強材に過ぎないのだと、このごろ思うようになった。結局人は愛され大切にされた記憶と共にあるものを選ぶ。だから大切な人には大切なものを残さなくてはならない。
名著です。野口晴哉は70年代に亡くなっていますが、この人が今生きていたら、アレルギーに対してどのような対処をしたんだろう。養老孟司と対談しだたろう事は間違いない。
武闘は舞踏。バレエダンサーも体中の筋肉を細かく使い分けています。筋肉の総量は少ないけれど、たくさんのパーツを使い分けることで、ダイナミックな動きができるのです。
どうしたら、細かく使うことができるか?それは運動神経、つまり脳を鍛えるしかないのですけど、私が思うに体の各部分を独立して動かせるようになる速い方法は、ストレッチだと思います。静かに息を吐くと、全身の力を抜くというのはわりと簡単にできます。
ある動作をしながら息を吐くと、動きに必要ない個所がふっと緩むのを感じます。ある場所を選んで力を入れるというのはなかなか難しいけれど、全身に力を入れた後、緩んだ個所を感じるのは誰でもできますから。
江戸時代までは「敵討ち」が認められていた。ただしそれにも決まりがあった。たとえば、父、兄など目上の身内の敵を取るのは許されたが、子供や弟など目下の者の敵は許されなかった。「敵討ち」は、支配層が武士である社会では全く禁止するわけにもいかない存在だったけど、大人数の戦闘になったり、復習の連鎖が無限ループしたりしないよう、最低限の流血ですむようなシステムになっていたらしい。
非常に興味をそそられたのは、冒頭に出てくる「後妻打ち」。妻を離縁した夫が、1ヶ月以内に後妻をもらった場合(たいてい先妻より若くてきれいな後妻だとおもうけど)屈辱と嫉妬の炎に燃えた先妻が親戚や知人の女たちを連れて、後妻宅を襲撃するという行事があった。
その作法は、「何月何日何時ごろ、何人で伺います。武器はこれとこれを持って行きます(たいていは竹刀や木刀)」と書状で通達し、その際の両家の使者は男性だが、あとは全部女性だけ。先妻チームは相手の家に乗り込み、台所用品や障子を破壊。その後双方の代表者で言いたいことを言い合ったのち引き上げる。流血なしのストレス解消劇。当時は女たるもの一生のうちに2,3度は参加経験があったという。ヒェ〜。
後妻にとっては理不尽なことだと思うけど、正妻だというだけで、すでに先妻に勝ってるんだから、まあしようがないか。いきなり銃で乱射されるよりはいいかも。
「24」と「エイリアス」と「NUMBERS」(数学デカ)と「ミディアム」(霊能者デカ)をミックスしたような展開。
ドラマ化を望む。
まだぼんやりしていて言葉にならないが忘れそうなので記録。
ちょっと昔までは、有名な科学者や思想家といえども、物事の結果には必ず原因があるという考え方が一般的だった。悪い事が起こるとその影には何か陰謀が潜んでいるのでは?と考えずにはいられない人はまだ多い。(私がメルマガをとっている「田中宇の国際ニュース解説」もそうだし。一応目を通すけど、氏の国際情勢に関する予測はけっこうはずれる。
しかしそれは、万能の救世主のような存在を望まずにはいられない人間の善の部分と対になっている。(私家版・ユダヤ文化論より)
人種、文明にかかわらず多くの人が似たような考え方をするというのは、ヒトの脳がそういう風にできているからだと思われるけど、今ふと思いつくに、ある文明における成長と衰退の過程は、人間の成長過程に似ていないだろうか。
子どものころは親の存在が全てで万能な親に生活の全てを支配される(中世暗黒時代)。思春期を経て親から独立する頃、言動が暴力的になりケンカが強いと思い込む(大航海と植民地支配時代)。30を過ぎる頃多少落ち着き、自分は何もかもわかってるもんねといい気になっている(現代)。
または車の運転だ。教習所では教官に頼らざるを得ず一人で路上に出るなど怖くて考えられない(中世暗黒時代)。免許を手にして1年ぐらいは、車を自由に操る万能感に浸ってスピードを出しすぎて事故を起こす(大航海と植民地支配時代)。自分はベテランドライバーだといい気になって初心を忘れている(現代)。
さて問題は老人期なんですが、どうなるんでしょう?イスラム、インド、中国文明に学びたいところだけど。。。
私家版・ユダヤ文化論を読むと、ユダヤ人って、いじめられっ子の転校生みたいだなあと気がついたんだけど、ユダヤ陰謀説など「根拠はないけど、もしかしてすべての根源はアレでは?」という人類に共通した感じ方はいじめの構造と関係あるのか?
・身の回りで起きる不快な出来事はすべて時の権力者のせいだ
・天災や政変の際にUFOが現われる
なんかも、いじめの構造と関係があるんだろうか。
ノンフィクションです。永江朗氏のブックレビューを聞いて読んでみました。
TBS RADIO 小西克哉 松本ともこ ストリーム powered by ココログ: 12/13(水)ストリーム・ブックレビュー
地下鉄サリン事件の実行犯の一人、豊田亨は教団や元教祖の批判はするが、自己弁護は一切行わず被害者への償いとして自分の死刑を望んでいる。著者は豊田の元同級生で現代音楽家。普通の人だった同級生がなぜあのような団体に入って犯罪を犯したか?
著者はマインドコントロールについて検証するうちに、これは特殊な例ではなくて、誰にも起こりうることだと思い始めた。母校に戻り若い学生を指導する立場になった著者は、後の世代がまた同じ過ちを繰り返さないよう、事件の詳細を保存する必要を感じる。
そのために、黙して語らない豊田に接見し、あのとき何があったのか話してほしいと懇願する。黙っていなくなるより、情報源として生き続けてほしい。個人が裁かれ事件が世間から忘れられるのを防ぐため、著者は数年かけて原稿を二つ用意した。一つは最高裁に提出する上申書。もう一つが社会に出すためのこの本。
著者はわたしと同じ60年代生まれです。読後に残ったのは、著者の不器用さ、かっこ悪さ。それを隠さず訴えてくる必死さ。amazonを見ると「著者の自己顕示欲が。。。」というレビューもありますが、わたしはそうじゃないと思います。
無味無臭の人が語る言葉より、生い立ちや家族のことまで明らかになっている人が語る言葉の方が心に残ります。著者が豊田に「取るに足りないと思われることでもいいから話してほしい、なんでもない小さなことが大事なんだ」と語りかけるシーンがあります。本質は思いもかけないところから訴えてくる、それを逃さないためには語り手自身が取捨選択しないことが大事だと著者は述べています。
それを著者自身も実行しつつ、もしかして自慢?ともとられかねない事も総動員して、読者を説得にかかっているんだと思いました。その点で著者は村上春樹の「約束された場所で—underground 2」を批判しつつ、同じ手法をとっています。
この本には「相棒」というキャラクタが出てきて著者と会話しますが、その仮想読者に親しく普通の言葉で語りかけることで、難しく抽象的になりがちな話しの内容をわかりやすく伝えています。
この本の題名「さよなら、サイレント・ネイビー」は、「個人が黙って責任を取ることで事件を忘れるのはやめよう。全てを明らかにして、後の人が同じ過ちを繰り返さないようにしよう。」という意味らしいです。
人口密度が高い日本では他人の主張がストレスになります。客観的な言葉より感情や空気が優先される。けどそれはその場、その瞬間のものだけで、時間が経てば消えてしまいます。国家的な犯罪の責任者が言葉による詳細な記録を残さないと、後の世代は過去から学ぶことが出来ずまた同じ過ちを繰り返すでしょう。
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■マインドコントロールについて
新興宗教、マルチ商法、自己啓発セミナー、違う分野のはずなのに、なぜか勧誘してくる人の口調はとっても似ている。先日、ある人から、それらには共通のモデルがあると聞いた。アメリカでベトナム戦争の帰還兵を治療する必要から、大量のセラピストが養成され、マインドコントロール法が授けられた。戦争が終わり、失業した彼らはその手法を使ってビジネスを始めた。というわけだ。ほんまかいな?と検索したらこんなのがありました。
Folklores of LGAT: 自己啓発セミナーの都市伝説自己啓発セミナーの周辺では、「自己啓発セミナーは、
ベトナム帰還兵のリハビリテーションに起源を発している」
という都市伝説があります。
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いつだったか親友がくれた手紙にあった言葉を思い出す。
「一体自分はどうしたいのか、それをいつも自分でわかっていないと、他人を傷つけてしまうの。」
ああ、ほんとに。でもむずかしいよね。自分は何を恐れ、何を欲しているのか?客観的に観察し事実を認めるのは。いつも幽体離脱して上から見てるわけにはいかないし。
川柳や4コマ漫画を趣味にするってのもいいかもね。宗教の敵は「お笑い」って「薔薇の名前」でも言ってたしね。
金属類のリサイクルは有用だが、ペットボトルや紙のリサイクルは、かえって環境を悪化させるという説。著者は材料学の研究者です。
で、ほんとのところどうなのか?私にはわからない。
ただ、リサイクル出来るからと安心して、資源やエネルギーを使い続けることに疑問を抱かないでいるよりはいい。
材料をリサイクルできたとしても、そのためにかかるエネルギーがそれを一から製造するよりもかえってかかっているとしたら?
白熱電灯を禁止しても、それに代わるものや器具を製造するエネルギーが必要だし、車をハイブリッドに買い替えたとしても、そのハイブリッド車を製造するために、古い車に乗り続けるよりも多大なエネルギーが使われていたとしたら?
自分は環境にいいことをしていると思い込んでいても、見えないところでは実際どうなのか?そもそも楽してしかも環境にいいなんてありうるのか?
この人のサイトに掲載されている文章より。「へーなるほど」と思っちゃいました。
一夫多妻の論理人間がいかに自分に都合が良いように解釈するかという見本のようなものに「一夫多妻」がある。世の男性に「一夫多妻はどうですか?」と聞くと、ほとんどの男性は「うらやましい」と答える。妻1人でも大変なのにとも思わないでもないが、それが人情というものだろう。そして婦人団体は眉をひそめる。
この「一夫多妻」に対する男性の反応こそ、「人間は事実をそのまま理解するのではなく、必ず自分本位に解釈する」ことの典型的な例である。
一夫多妻というのは1人の男性が複数の女性を妻に持つということである。そして男と女は結婚年齢に達した時にはほぼ同数である。ということは、例えば一夫多妻が男性1人に妻10人とすると、男性10人の内、たった1人が妻を持ち、子供を持てるのであって、残りの9人はあぶれる。
だから男性に一夫多妻を聞けば、9人は「イヤだ」と言い、1人だけが「うらやましい」と言うはずである。それをほとんどの男性がうらやましいというのは自分が10人の内の1人になると錯覚しているからである。
一夫多妻制度は男性には厳しく、女性にはまだましな制度である。男性は10人のうち1人しか子孫を残せないのに対して、女性はとにかく全員が子孫を残せるのだから。
自分に都合の良いことが真実であり、実際には不利であっても錯覚の限度一杯に錯覚しようとする、そんな可愛い存在が人間なのだ。そしてその性質を利用してズルをしてやろう、儲けたい、自分が当選したい・・・などと考える不埒な奴もいるから困る。
おわり
名古屋大学 武田邦彦
マニアックな本です。ワシ・タカ類は見分けるのがむずかしい。それ以上に撮影するのはほんと大変。なのにこの写真はよく撮れてます。その写真をじっと見ていると、あることに気がつきます。それは、この撮影されているワシ・タカのみなさんがカメラ目線なこと!こっちが鳥を見ている以上に鳥はヒトを見ているのですね。
ノードとリンク。何を見てもそう見える〜。今まで読んだ本の背表紙に隠されていた新しいページがバタバタと開いたイメージ。アリの社会も、構造主義進化論も、みんなこれだったんだよ。
「スモールワールド・ネットワーク」と重複する内容が多いが、こちらの方が私のような一般ピーポーにはわかりやすい。図書館で「スモールワールド・ネットワーク」は社会学に分類されていたが、「新ネットワーク思考」はPCの棚にあった。アプリケーションの使い方とか、web2.0とは何かとか、そういう実用書の類いに分類されていたというのも、読んだ後で納得した。この本が発するメッセージは「理系」のなかに留まらず、人の生活に直結していて、具体的。
経済、言語、物理、生物の細胞、あらゆるものに現われるネットワークのモデル。西洋文明「ネットワーク」に出会う。かな。本の後半になるにつれ、「ツボと経路」とか「因果応報」とか感覚的に持っている東洋人であるわたしには、ええー?今更何を言う?というところもあったけど。
芸術の批評の分野では個々の人間性(作家の内面)に重点を置く価値観の次に来るのは、「ネットワーク」だろうと思われてきた。だからなのかよくわからないけどコンセプトがどうのこうのというアートがたくさんあって、装置があるのはいいけど「それが何か?」(by オオマエハルコ)みたいな感じがしちゃうんだけど。
ところで、「ハケンの品格」を見るたび「木枯らし紋次郎」を思い出すのはわたしだけでしょうか。
木枯し紋次郎 - Wikipedia
(お若い方はDVDや時代劇チャンネルなどで)
「スクールボーイ閣下」を読み終わってから、ジョン・ル・カレは私にとって一級の小説家になった。スパイ小説というジャンルであるにもかかわらず。あれから20年。またル・カレと出会った。
私の亡くなった祖母は言った「男には社会的立場ってものがあるからね。言いたい事を言えないんだよ」「平和を守るのは女の役目だよ」と。子どものころから大事に教えられて来た事が、今踏みにじられて(日本はイラクに派兵していて、イラクでは人がたくさん死んだ)それをわたしはただ見ている。
ジャスティンはテッサが死ぬまで不正を知らなかったことになっている。でも本当は知っていたのかもしれない。きっと子どものころからそのようなことを見続けてきたんだとおもう。そしてそういうことに悩むことから自分を守る術も身に付けたにちがいない。
物語の終わりの方に出てくるセリフ。「女たちがアフリカ唯一の希望なんだよ」「女は家庭をつくり上げ、男は戦争を生み出す。アフリカ全土が男女の戦いなんだよ」男性は女性のように強くは生きられない。でも女性だってむずかしい。実際テッサは死んでしまったし。
ル・カレの「Absolute Friends」がはやく翻訳されないかな。されてるかもしれないけど、あと二年は刊行されないかもしれないな。
(ナイロビの蜂は映画化されたらしいけど、まだ見てないです。)
10年ぐらい前「ウイルス進化論」の文庫版を読んだとき、あとがきに書いてあった事を思い出した。ウイルス進化論とは、遺伝子が血縁の無い個体同志で水平方向にも伝わる事がある、それを介するのはウイルスだという、新しい進化論。今では遺伝子組み換えなどバイオテクノロジーでウイルスが使われているように、実用化されている。
「ウイルス進化論」が書かれた当時はまだ新しい理論だったため、いろいろな研究者から著者に問い合わせが来たそうだ。あるとき、生物学とはまったく無縁の研究室から参考にしたいという問い合わせがあった。著者がおどろいて会って見ると、それは交通システム、具体的にはカーナビのシステムの研究室だった。そして「ウイルス進化論に基づく制御充足問題の解決」というタイトルの発表が情報処理学会で行われたといういきさつが書かれてあった。
まったく別の分野にまたがる問題。それまでの学問体系にはなかった分野。「スモールワールド・ネットワーク」は著者が「SYNC」の著者 スティーヴン・ストロガッツと共に、その存在に光を当て、模索したドキュメンタリーでもある。(SYNCにもスモールワールド・ネットワークについての章がある)
ネットワークのモデルは「ベーコン数」が有名だが、そのような現象を理論によって説明できる、いやしようとする試みがすごい。ネットワークを理論化するという試みは、昔は仮説を立てても検証のしようがなかった。それが今は巨大なデータベースを瞬時に処理できるコンピュータというものがあるおかげで可能になったそうだ。
世の中のすべての問題はすでに解決済みで、残されているのはとてつもなく難しく人類には取りつく島も無いような気がするが、世界のどこかで着々と新しい分野の研究が、というか分野が開拓されつつあるのだと思うと、いやあ、世界っておもしろい。
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ウイルス進化論―ダーウィン進化論を超えて 中原 英臣 , 佐川 峻 |
アーノンクールは一体何考えてるのか?著書を読んで見た。何が言いたいのかよくわからない。「音楽と言語」を読んで勉強しなおしか。言語が。。。となると、日本語しか話さない日本人に西洋音楽が理解できるのか?というところに行き当たってしまうのかな。
それでも食いつけそうな単語を見つけてはその周辺をかじっていくと、ヴィヴァルディやモーツアルトについて研究した具体的な成果については、ほほうと思う所があった。でもそれはどちらかというと雑学の類いで、周りをグルグル回っているだけでアーノンクールという人にはちっとも近づけない。
寝る前に2、3ページ読んではパタっと閉じて「あ"〜〜」。そんな日々を過ごして2週間。そして昨日アーノンクール指揮のマタイ受難曲を聴いた。「ああ、そういうことか!」言葉で説明できないけど納得してしまうのはなぜ!?不思議。ということでこの本終了。
数年前ポリーニがアーノルト・シェーンベルク合唱団を日本に連れてきてくれて、私は初めてマレンツィオやジェズアルドのマドリガーレを聴いた。ルネサンス期にこんな変態音楽が!いや失礼。こんな複雑で抽象的な音のための音みたいな声楽曲があったのかと驚いた。ほんとに衝撃だった。聴いているうちに上下左右の感覚がなくなり、曲が終わって拍手しなくては行けないんだけど、さて手はどこに行ったか?まずは足を地面につけなくちゃ。その感覚が忘れられなくて、CDを探して手に入れて聴いたが、あの時の感動はどこへ?ちがう。アーノルト・シェーンベルク合唱団だったから?あのホールだったから?
それから数年して、ジェズアルドの曲に似た音楽を聴いた。それはジャワの宮廷のガムランのCDだった。バリ島のガムランと違って、非常に洗練されていて。。。ていうか洗練されすぎてちょっと変態入ってる感じ。あるスタイルが洗練されてされすぎると、それはむしろ変!になる。この法則はバレエや、オペラや、歌舞伎や、巨大になりすぎた恐竜や、やせ過ぎのモデルさんなどにも当てはまるとおもう。それはそれで私は好きだが、「プリーズ・ミスター・ポストマン」はカーペンターズよりビートルズの方が好き。
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シャミの予防注射。病院の猫はこんがりトースト色。食欲不振で連れてこられていた子猫がかわいかった。
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バルサのみなさんもやっぱり行くのか秋葉原
世界を象徴的に消化=同化する自らに固有のプロセスに他者を巻き込みたいという欲望は普遍的なものである。
不条理が渦巻くこの世の出来事を自分に理解できる大きさと形にして引き出しにしまいたい、そして安心したい。できればすべてを言葉に置き換えてすっきりさせたい。なぜ生きるのか?なぜ死ぬのか?なぜ異性にもてないか?納得いく説明がほしい。その適用範囲の広さにより、宇宙全体をカバーするなら科学、文明共通なら哲学、気候風土内なら宗教や占いといろいろあるものの、人間は常にそういう活動をしないと不安で生きていけないものらしい。
著者は、その過程も言語によるもの(哲学)映像によるもの(美術)身体によるもの(カメラを構えてシャッターを押す動作とか?)様々あり、かつてはすべての過程は最終的に言語に集約されると思われていたが、映像には映像の、身体には身体の象徴化プロセスがある。。。。。って普通そうでは??
それに映像には、自分の脳内にある過去のトラウマや家族の秘密を解放すべく、つまり象徴化しようとする試みの痕跡が残るって、私が大嫌いな近代美術の研究方法、作家の年譜を調べて個人的な出来事が絵画におよぼす影響を調べるという探偵ごっこを思い出してちょっとムカっとした。まったく心理学者や占い師は油断ならない。
著者の他の本、タンタンの冒険旅行シリーズを精神分析したという「精神分析家を訪れるタンタン」には、私自身がタンタンが好きなのでちょっと興味あるけど。ああ、もうやられてる!
ロラン・バルトの「明るい部屋」やソンタグの「写真論」は、写真という映像を見る事についての本だったが、この「明るい部屋の謎」は写真を撮るという行為についての考察を述べた本。序章の6ページだけで考える事が多くて、なかなか先に進まない。
何故人は写真を撮ることに熱中するのか?対象をカタログ化して所有したい、映像の制作者側に回りたい、被写体との力関係で上位に立ちたい、いろいろあるが、著者は「様々な欲望の背後に映像による世界の明瞭化という欲望が浮かび上がってくる」と述べています。
私が何かにカメラを向ける時、それは相手が私を呼び止めるから。薄暮の中に浮かび上がる光と影の言葉を聞き取ろうとするからなのですが、それはやはり世界を明瞭化したいという欲望なんでしょうか?
(いつになるかわからないけどつづく)
読み始めてすぐ、これは「昭和歌謡大全集」の続編なのだと思った。ワカランチン同志の理由なき戦い。村上龍の小説は憎悪と暴力を隠さない。周りに趣味のいいカーテンをひいて、自己完結の世界に閉じこもるのを許さない。すさまじい暴力と爆破のふるいにかけられて、それでも残るものとは?
ああ、アレも読んだしこれも読んだ。もう読むものがない、とうとう仕事をしなくては。。。
ジョウビタキ、ツグミ初認。今年のツグミは早い。ヒメアマツバメは今日も元気。
夏に日本の神話のイラストを描いて、当時の衣装や装身具がわからなくて苦労しました。それを調べているうちに芋づる式におもしろい本に出会いましたので記録しておきます。
きっかけになったのは、サクヤコノハナヒメの話。ニニギノミコト(弥生人)と、もともと九州に住んでいた土着の部族の姫君サクヤコノハナヒメ(縄文人)が出会い結ばれ、しかしいろいろ両家の間で悶着があり。。。、女性側の親が姉も一緒にもらってくれと送り付けてきたのを返したり、女性の妊娠期間が短いので自分の子ではないのではと疑ったり、それを怒った女性が火を点けた小屋の中で3つ子を産むという話。
一夫多妻、早産、多産、産屋の風習、それらが大陸から来た洗練された文化(当時比)を持つ男から見れば、獣ぽいというか野蛮な感じに見えたんでしょうか。愛の力で結ばれた二人ですが、やはりカルチャーギャップがあり、二人の間が長続きするわけも無く。。。ショーペンハウエル先生の言う通り「遺伝子的に最良の組み合わせが、その後の生活を心地よいものにするとは限らない」であります。
「図説 地図とあらすじで読む古事記と日本書紀」は日本の神話の世界を短時間で俯瞰できます。神話のストーリーを地図と合わせて見ていると、神話の舞台が出雲や日向なのはなぜなのかなど、いろいろ考えてしまいます。大陸から来た人々は稲作に適した暖かく湿潤な平野を探していたはず。農地を探して宮崎平野にたどり着いた弥生人の先遣隊と、先住民だった縄文人との間で、いろいろあったかもとか。
古事記と日本書紀を比較対照しつつ、なぜ2つの記紀が存在するのかも解説されています。古事記は国内向けに大和朝廷支配の正当性を確実にするため。日本書紀は外国(中国)にうちはこういう国ですと提出するためだったそうです。
そこらへんの事情をミステリーというか歴史スキャンダルとして書いているのが梅原猛「神々の流竄(ルザン) 」
そして遺伝子レベルで当時起こったことに迫る「Y染色体からみた日本人」と日本におけるDNA研究を客観的に述べた「DNAから見た日本人」
日本人男性のy染色体においては2つの系統があり、それぞれを世界的なy染色体の系統図(というのを調べた人がいたのですね)にあてはめると、両者はかなり離れていた。人類はアフリカで発生し、ヨーロッパ、アジアと移動して(弱いものが追いやられて)きたわけですが、片方のy染色体はアフリカ系に近い。つまり、かなり初期に大陸を移動して、このアジアの辺境の崖っぷちの日本にたどり着いて定着した。その後かなり時間が経ってから、大陸から朝鮮半島を経由して別の系統の人たちが移動してやって来たというストーリーが推測される。
元々日本列島に住んで漁労採集生活をしていた人々(縄文人)と、農耕文明を携えて大陸からやってきた人々(弥生人)、海彦山彦の話しのように、各地で対立が起こっていたのかとおもいきや、遺跡などを調べるとそうでもないそうで、人々はじわーっと混ざり合い、いつの間にか区別がつかないようになった。日本語も混ざり合って一つの言葉になったし(動詞の2段活用が縄文語、5段活用が弥生語の名残だそうです)日本人は単一民族と疑わない人もたくさんいます。
「Y染色体からみた日本人」の著者は、このように系統的にはかなり離れていた民族同志が、諸外国で起こっている民族対立紛争みたいなことにならず、仲良く共存している事実を強調しています。これはなぜなんでしょう。大陸からの落ちこぼれ同志だから?それとも稲作と言う経済活動の力?
職場で知り合った外国人の女性があるとき「夫は私に、日本人はそうはしない、日本人はこうするんだと指図する。わたしは外国人なのに!」とガハハと笑った後ふとマジな顔になって「日本では外国人は外国人のままでは暮らせない」とさしみそうに言ったことがあります。
日本の上空にはなんていうか吸い取り紙のようなものが浮かんでいると思うことがあります。とにかくちょっとでも異質なものは何もかも吸い取ってしまう。いいものも悪いものも。そして適度に油抜きされて粒子が揃ったものが残る。その吸い取り紙状の装置とはやっぱり神社なんでしょうか?あのお払いの時にバサバサふられる紙を切ったヤツ、あれがあやしい。
やっとでき上がった大重シリーズアイコンを持って、夕方yo氏は東京へ。私は車で馬入橋を渡り平塚へ。10月1日までの絵本原画展を見に。平塚市美術館はなんとこの会期中連日7時まで開いています。すばらしい。
平塚市美術館/企画展示
世界の絵本がやってきた
ブラティスラヴァ世界絵本原画展
特別展示 チャペック兄弟、ラダ、トゥルンカ チェコ絵本の黄金時代
静かな夜の美術館。絵を勉強している風の若い人がチラホラいるだけ。たぶん昼間はお子さん連れでにぎやかなんだろうな。絵だけでなくておもちゃの展示もあって楽しい雰囲気です。
グランプリ受賞のイランの作家の絵はマチエールも陰影も深くあたたかくて素晴らしい作品でした。絵本の原画を見て毎回おもうこと、それは「小さい」。絵本の原寸なんです。そこにあんな細かく小さく何重にも技術を重ねて描けるとは。若いうちでないとできませんね。
世界の作家の原画は、作家自身のイメージでビッシリ固められています。対して日本の作家は絵の具が乗っていない余白がきいています。海外の作家の濃い味を見たあとでは、ちょっと物足りないかも?と思うのですが、印刷されて絵本になったものを見ると、それがいーい感じなのです。会場ではソファの上に原画の絵本も用意されていて自由に見る事ができます。
瀬川康男の「ひな」はコラージュのように見える繊細な表現。この方は名作「いないいないばあ」の方なんですね。
宇野亜喜良の「りゅうのおくりもの」は大迫力の飛び出す絵本。ちょっと怖いのがいいですねえ。舞台は江ノ島なんですけど、お土産屋さんなんかにも置いてあるのかなあ。宇野亜喜良の絵本ですよ。なんちゅうオシャレなお土産になることか。これは「とびだす!妖怪のえほん」シリーズだそうです。
◇仕掛け絵本プロジェクト2004 ■第1回
日本絵本賞受賞絵本原画展
「どい かや」さんの「チリとチリリ」は色鉛筆でとってもきれいでかわいい。小さな二人の女の子が自転車に乗ってあちこち行くのがいいわあ。「チリとチリリうみのおはなし」も見たい。
そして今回わたしてきグランプリはこれ長谷川 義史さんです。
この絵の前で、ブホッと声が出て、バッグからメガネを取り出しました。ああ、これは誰かと一緒に見たい。製本された絵本も手に取りまして、じっくり見ました。これおもしろいよねえ。あたりを見回すのですが、若い人たちはあまり興味がなさそうです。オバサンさみしい。
そして第2部はチェコの代表的絵本作家のコーナー。「ダーシェンカ 子犬の生活」のカレル・チャペック、トゥルンカ、ラダなどの有名な絵。おっと思ったのは、セコラのアリさんシリーズが出ていた事。ずっと前、ユトレヒトで面白い絵本を見た。主人公がぎっくり腰のアリで、なんとジャージ着てるんですよ。その名も「アリさんあいたたた」。ずっと気になってたんです。
【polamal se mravenecek】
Josef Kozisek/著 Nakreslil Ondrej Sekora/絵
他にもブタさんの絵のお肉屋さんのポスターや、黒ビールの宣伝用のイラストなどもかわいかったです。
この企画展はこの後地方を巡回するそうです。平塚での図版は売り切れで、どうしてもほしければ出版元に現金書留で申し込むようにということでした。首都圏ですと2007年1月20日〜3月11日、三鷹市民ギャラリーでもあります。
なぜ突然シュタイナーの名前が出たかと言うと、最近読んだから。シュタイナーは学生時代に子安美知子さんの本で知りました。シュタイナー教育は大変すばらしいと思うのですが、それ以外の神秘学関連になると、全く理解できず、この人マジなのか?ちょっと首をかしげることもしばしばでした。このコリン・ウィルソンによる伝記は、私のような者にとっては大変わかりやすいです。
コリン・ウィルソンは前書きで、シュタイナーの著書が大変難解で一度はこの企画をあきらめた、と書いています。そんな正直で率直な著者が、われわれ一般ピープルと同次元から出発してくれる本。これを読んで少しはシュタイナーという人がわかりました。まだまだよくわかりませんが。
もしかしてシュタイナーは共感覚者だったのかなあ?当時今と同じくらい脳神経科学が進んでいて、共感覚についてもきちんとした説明があったら、どうだったんだろう?
そしてゾンネンシュターンに興味ある人はこんなのも買ってますのジョルジュ・バタイユ。バタイユって宗教秘密結社を作ってたんですか!ひええ〜〜。
私の実家は(形だけだが)禅宗で、親戚にはカトリックのシスターがいて、母の実家はプロテスタント、という環境だったので、宗教=清貧、何か現世のものをそぎ落とすような、創造とは反対のイメージなのだけど、主に書簡からなるバタイユの資料を読むと、このひとたち、一から何かを作るのを楽しんでるなという感じなのです。
人はなんで宗教を興そうとおもうのか?(小学生みたいな疑問ですけど)。バタイユにしたって、シュタイナーにしたって、自分と現実の社会の溝を埋める何かを創作したかったのかな?組織力、経済力、いろんな面で現実の社会と遜色ないとまでは言わないけど、かなり代わりになってくれるものを。虚構のミニ国家。
となると宗教の内容よりも、それを興すに至った動機、なぜ現実に絶望したのか?が非常に気になる。タイムマシンに乗ってあらゆる宗教家に会いに行き、なぜそういう考えに至ったのか?そのきっかけは?あなたが絶望したのは何に対してですか?そしてちょっとこれを聴いてみてくださいとR&Bを聴いてもらって、どうですか?何か感じましたか?とインタビューしてほしい。インタビュアーは村上春樹で。
アマゾンから来た「あなたはこういうのが好きですね?」メールで知った骰子の7の目シリーズの復刻。これは河出書房からの増補新版版。70年代、シュルレアリスム、高校の美術室、木炭、イーゼル、油絵の具の匂い、激論を交わした男の子。あーもうやんなっちゃう。なつかしいような、思い出したくないような。
黒人によってかかれたブラックミュージックの本。日本語訳発行は1990年。解説ピーター・バラカン。ある音楽のジャンルが死ぬとはどういうことなんだろう。作曲する人がいなくなる?演奏する人がいなくなる?それとも売れなくなる?著者はR&Bを死に追いやったのはディスコミュージックだったと断言しています。いやたしかに私もあの年代のディスコサウンドは苦手でした。だからワッツタックスでエモーションズが歌うゴスペルを聴いた時は、驚くとともに自分はえらい勘違いをしていたんだなあと思ったのです。ショービジネスでわれわれが知るブラックミュージックは全体のごく一部なのだなあと。この本は音楽についての本なのだけど、内容の真のテーマは黒人社会と他社会との関わりの変遷だと思う。音楽と社会生活が一体となっているコミュニティ、沖縄を題材にして同じテーマの本が書けると思う。
アーシュラ・K. ル=グウィンの4冊目のエッセイ集「ファンタジーと言葉」より 。猫とダンサーは自分の体の始まりと終わりを知っているという言葉になるほど、むふふと相づち。小さくて固くてキラキラ光る物が好き。カラスの美の基準がわれわれ人間と同じなのは不思議。ああ、ほんとに、あたしもカラス級です。
「物語はすでにある、ただリズムが見つからないので外に出せない」か。
日本語や日本社会というコートを脱ぎ捨てて海外に出ていける人は、才能や環境やお金に恵まれた人なんだろうか?恵まれた人にお説教される筋合いは無い?いやでもね、今はインターネットってのがあります。そして逆に、狭く深い世界に潜るほど、遠くの人と触れ合う機会が増すって事もあるよなあ。狭い業界とか、カルトな趣味とか。接点は小さくても、そこから相手の背負ってる大きな世界を知る事もあるかも。
そして1対1という多少リスクを伴う関係でなくても、blogという個人が発するメディアがある。イラクのリバーベンドという女性のblog。ある時、アメリカ人の記者が拉致された言うニュースが報道され、その際イラク人の通訳が殺害されたと小さく付け加えられていた。通訳はリバーベンドの知人だった。彼が生前どんな人だったかを日本語に訳されたblogで読んだ。下のリンクのずっとスクロールした写真の下あたりから。
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Baghdad Burning
2006年1月12日 木曜日
音楽に捧ぐ・・・
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世界中のピンクフロイドファンはこれを読んでどう思うだろう?政治家や大メディアが「イラク人」としか報道しない人。その人がどんな人かを知ったら。
この頃、いろんな知識がたまるほど、空き容量が少なくなって、新しいものへの好奇心が少なくなってるかもなあと感じることがある。古くて肌になじんだ毛布を捨てるのはつらい。このblogもレイアウトを新しくすれば?と言われるけど、なかなか腰が上がらない。エントリーを追加するのは簡単だけどレイアウトそのものから変えるのは勇気がいる。レイアウトを変えるとは根本的な何かを一から考え直さなくてはならないということで、とても骨が折れる。webもblogも最初に作った時は何か湧き出るように自然にできた。それまでが白紙だったからだろうか?自分を白紙に戻すとは、一から始めるよりも大変かもしれない。
男性によって代々受け継がれるY遺伝子。それってそんなに大事なものなんだろうか?という疑問。そんなに大事なら、その塩基配列を調べて記録を取っておけば?遺伝子が解く!万世一系のひみつによれば、生身のヒトの系統が途絶えても同じY遺伝子を持つ男性は日本にかなりたくさんいるそうだから、別に困らないんじゃない?そして世界中の同じ遺伝子を持った男性の分布状況を明らかにしてほしい。そうすれば日本人、特に代々続いている名家の男性が元々はどこから来た人たちなのかわかるだろう。もしもそういうことが明らかになると困ると言うなら、困るようなものなんだから遺伝子など元々どうでもいいものなのだということでは?
訳者は福岡伸一、、、って最近聞いたよなと思ったら、「プリオン説は本当か?」の人だった。訳者あとがきに
「遺伝子の悪しき擬人化」を見ていていささか食傷せざるをえない。遺伝子に目的はなく、淘汰も遺伝子のレベルで起こりうるものではない。
とあるのを見て、なるほどと思った。言われてみりゃその通りだ。なんとなく遺伝子に意志があるような解釈はおもしろいし、手っ取り早く納得してしまう。これから気をつけよう。
立花隆によるドキュメンタリー。重い、長い、字が小さい。これを読む事で日本の近代史の真実を手で触るように生々しく感じて欲しいという前書きだけでズッシリくる。単なるおもしろい娯楽として読んで欲しくない、ここに書かれたことは今現在とつながっていることを考えて欲しいということなんだとおもう。
実を言うと上下巻とも半分ぐらいしか読んでいない。図書館の貸出期限の2週間が過ぎてしまったので。内容が強烈でぐったり疲れた。読んでから1ヶ月忘れていて、やっぱり記録しておこうと思って書き始めて1週間。毎日書いた。そしてその文章を読んでみると、やっぱり自分の言葉ではない気がして全部削除してしまった。
この本を読んだ私の正直な感想、それは「あたしはバカでよかった!」地位とか名誉とか関係なく、自分の心に従って言いたい事を言える。逆に自分自身以外のもの、天皇制とかマルクス主義とか教祖様とかの力を借りて自分を実際の自分以上のなんか意味ある存在であると錯覚したくなったらヤバイね。。。凡人には凡人の理屈がある。そして凡人=庶民の理屈は世界共通。面子や贅沢のための戦争で父親や夫や息子を戦場に送りたくないとか。
ほうろうのバットがほしいと思っています。以前はほうろうは使いにくいと思っていました。重いし、手入れが大変だし。それがやっぱりほうろうがいいと思えてきたのは、私の料理が変わってきたからだと思います。若い時は思いついてすぐ作れるもの、切ってパッと炒めてみたいなのが多かったのです。今は自分の時間を使わずに、材料や道具に仕事をしてもらうことができるようになった。つまり漬け込むとか煮込むとかですね。ほうろうは表面がガラス質なので酸に強い。マリネやジャム作りや酢を使った煮込みはぜったいほうろう。
ただ、表面がガラス質ですから気をつけないといけないことがあります。落とすと欠けて、そこから錆びてしまいます(何度もやった)。空焚き&急冷は禁物(ピキッと不吉な音がする)。あと、水道水のカルシウムが沈着すると曇ってしまいます。別に使う分には困りませんが、せっかくきれいな光沢を維持するためには、洗ったあとと自然乾燥に任せず布巾で水滴をちょちょっとふき取るといいです。
そして、海辺でキャンプやバーベキューの時はほうろうの皿やカップが便利です。風で飛ばないから。実はわたしが愛用しているほうろうの鍋は元々キャンプ用でした。それが便利だったので、小さなミルクパンを買い足しました。ただし、そのミルクパンは今はゆで卵専用で、ミルクをあたためることはありません。ミルクは焦げ付くと洗うのが大変なので。ミルクは電子レンジにおまかせです。
辰巳芳子さんが野田琺瑯と開発した「ミモザ」は、琺瑯の蒸し器。蒸すなら焦げ付くと言うことは無いし、まあるい形、ほんのりあったかいカスタード色で、アレを使うと毎日の料理が楽しくなるかなあと思うのですが、やはり高い。そして収納場所が無い。まずはイタリアで買ってしまった大きすぎるパスタ鍋を処分しなくては。そういえば、人気料理店の店主、落合務さんの本を読むと、パスタはグルグルかきまわしたり、グラグラ沸騰させてはいけない、とあって、ああ、あたしずっとそうしてました。せっかくザラザラなパスタの表面がツルツルになってしまうと、ソースがからまないためだそうです。イタリア製の鍋は沸騰させるとお湯が外に飛び出してしまい、こんなんでパスタ茹でられるの?と不思議に思っていました。沸騰させちゃいけなかったんですね。ゴメン鍋。
今日は気分転換に1日ですぐ読める1冊。
去年の11月に発行された本。BSE(狂牛病)研究の今現在。そもそも狂牛病とはどんな病気か。これまでの研究の経緯。危険部位を除去すれば安全とする説の根拠になっているプリオン説とは?著者はプリオン説の問題点を挙げ、ウイルス説を提唱する。
病原体がいまだ未発見、免疫反応が出ないため、感染しているかどうか確かめる術も無い。潜伏期間が数十年と長く、症状が出た時にはすでに手遅れ、致死率100%。そんなやっかいな病気を一体どうやって研究するのか?というところから、一般の人向けにわかりやすく解説されている。
途中ちょっと感情に流されているのでは?と勘ぐってしまう点もあったけれど、プリオン説への反論は理屈が通っている。長崎大学医学部の実験によると、病気の末期には神経系から脳に感染源となりうる物質が蓄積されるが、感染初期には唾液腺や脾臓などのリンパ組織に感染物質が多く存在した。。。
って、それじゃあ脊髄と脳を取り除いたぐらいではダメじゃないですか?
ウイルスがいかに細胞にとりついて増殖するかとか、特異なウイルスをどうやって発見したかなどの話もおもしろい。実験結果の数値を改ざんするのは違法だが、グラフなど見せ方を変えることで導きたい結論の方へ印象づけることが出来るという話もおもしろかった。
多神教の宗教は、人間側が神を選ぶ権利を持っている。御利益がなければ、ダメな神として人気がなくなり、神も滅びる。
古代のユダヤ人は出エジプト、カナンへの定着をもたらしてくれたヤーヴェを崇拝していたが、生活に余裕が出来ていくると、他の神も崇拝するようになった。ところが前八世紀〜六世紀に、国土の半分がアッシリアに滅ぼされ、残った半分もバビロニアに捕囚されて、ユダヤ人の国は滅びた。ダメじゃん、ヤーヴェ、役立たず!と神は見放されるところだったが、そうなると神がいなくなって困る。
で、新たな状況が出てくる。それは、神は悪くない。神が民を見捨てたのは、みんなが他の神様を崇拝したからだ。悪いのは私たちだったんだ、という罪の意識だそう。この罪のシステムにおいては、神様が期待に応えてくれなくても神を信じ続けることが出来る。
罪を感じることで、相手に失望しなくてすむ、か。
わたしたちがMTBを買った有酸素運動専門店「AID STATION」の店主の著書。ここのお店のガラス戸にはいろいろ貼紙がしてあります。その中に、店主がサイクル雑誌に寄稿したページがあり、私はそれを読んでお尻が痛くなくなりました。それまではどんなサドルを使っても痛かったのに。こんな知識をタダで道行く人に提供しているとは、なんと太っ腹!ということでお礼の意味を込めて1冊購入させていただきました。
にしても、何度も修理したMTB、もう修理にはお金をかけない方がいいって言われたんですよね。そのお店には、私たちが買った当時はいろんな自転車があったんだけど、だんだんお店の路線が硬派になって来て、今、扱っているのはGIOSだけでフレームの色も青に決定、になってしまう。うーん。
「アリはなぜ、ちゃんと働くのか」の解説で知った、構造主義進化論。先日同じ著者の「分類の思想」を読もうとして、まったく歯が立たなかった。数字や記号だけがズラーと並んでいるのを見ると、意識がフッと遠のいて先に行けなくなっちゃうんだな。生物には興味あるけど統計がダメだあ。この本は講義という口語による説明がベースになっているので、ちょっとは付いて行ける。
で、構造主義進化論って何?ということだが、「生物はダーウィンが言うように競争の結果進化しているのではなくて、なるようになるべく進化している。だって生物とはそういうものだから。」らしいんだけど。。。(ちがう?^^;)
ダーウィン以前の進化論の歴史もおもしろかった。昔の人は、たとえばイヌをイヌたらしめているのは、イヌのイデアがとりついているからだと思っていた。イヌが死ぬとイデアも離れるので、肉体が崩壊しイヌではなくなる。とか。プラトンのイデアが、実体のあるものとして使われていたとは。
18世紀末、ヒトが後ろに反って(イナバウワー状態)おへそが頂点になる姿が、ヒトデに似ているので、脊椎動物と軟体動物は元は一緒だったのでは。。。という説が出て、それは言えてる!と非常にウケて、かのゲーテも支持した。ところが内部の構造がちがうんだからありないと解剖学者に反論されて、ゲーテの評判も少し落ちてしまった。とか。
近代以前の暮らしは毎日同じことの繰り返しだったので、進化という概念がなく、種は不変と信じられていた。産業革命が起きて、社会が変化することが当然な時代になったという背景があって、初めて生物も進化するという考え方が現われたそうです。
ダーウィンの進化論は、競争により弱いものは淘汰されて当然という、資本主義の新興階級のセンスにぴったりと合い支持されました。(でもですよ、弱いものは淘汰され、より環境に適したものに進化していくと言うなら、なぜ先進国で少子化が、開発途上国で人口爆発が起きるの?とわたしなどはおもうのだけど。)
科学は客観的で絶対的な真理を追究するものであるはずだけど、けっこう時代の気分を反映しているものなのですね。仮説を立てて検証することによって科学は成り立っているのですが、仮説を考えるのも、検証する道具を作るのも人間ですもんね。学術的な世界は、世俗的な政治や経済とは独立した崇高なものと思いがちですが、学問だからと言って信用出来るとは限らないということでしょうか。サイードの「オリエンタリズム」と、この「さよならダーウィニズム」は、その辺のヒントをくれたとおもいます。
ダーウィンの自然選択説はメンデルの遺伝学の登場により破綻しましたが、今は両者を融合する形で現われたネオダーウィニズムという自然選択説が主流だそうです。けど分子生物学によりこの説もじき主流ではなくなるだろうというのが著者の予測。
構造主義の考え方によると、人はあるルールを作りそれに従って生きているが、そのルールの根拠は絶対的ではない、便宜上とりあえず決まったものであるが、決まった以上はそのルールが人を拘束する。たとえば言語の成り立ちにみられるように。ルール(同一性)の根拠は恣意的なので、常に矛盾が生じる。それを修正するとまた矛盾が生じ修正する、それを原動力にして社会は動いていく。そんなことが全く起こらない完全調和な世界は死の世界だろう。うーん、東洋的。
この本は原理主義やグローバリズムについての批判の書にもなっています。ということは著者の説もまた世間の風潮に反発すると言う意味で時代の影響を受けているのです。
この本は知識を授けてくれるというよりは、考え方を示してくれる。特に構造主義について。シニフェとシニフィアンという単語が出てきた時は、うっ出た。。。とやばいものに再会した気分になりましたが、単なる知識として記憶にインプットされていた時と、それがどう使われるものか応用例を知った後とでは、印象が違います。考え方を学ぶとは、達人が作った道具を、また他の達人がどのように使いこなしているか、その応用例を多く知るということだなあとおもいます。
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(オプショナルツアー)
わたしはこのごろ、iTunesでポッドキャストとか講演とか聞いているのですが、iChatのメンバーリストに今聞いているタイトルが表示されたりするのですよね。んで、偶然クリスマスに「他者の痛みを感じられるか」になってるけど、テーマ重スギ!とか、「朝刊読み比べ」は地味スギとか苦情を受けたりするのですが、ちなみに今日はmixiのNinja tuneのコミュニティで知ったSmall Cast Radio Networks: ZEN TV Ed.を聞いていました。Small Cast Radio Networksの別のエントリーRapperShadeの"NAVIGATOR"を聞いていたら、15分15秒ぐらいからかかるホーカス・ポーカスの73 touchesという曲が気持ち良くて、Amazon.frで検索して全曲試聴してみました。残念ながらすぐに欲しいのはこの1曲だけで、listen.Japan ではダウンロード販売されてるけど、わたしはMacなので買えません。たのむ、iTMS。
で、先日保坂和志さんという作家の講義を聞いていて、このごろの若い人がノートを取らないという話に相づち。ノートとは単なる記録ではないのです。会話や文字列という1次元の情報を聞きながら、同時に分類や構築をして2次元の情報に置き換える作業。情報のパーツを拾いながら全体を推測する高度な技(ちなみにyo氏はその技の天才)。情報のカケラを集め、選び、組立る能力は子どものころに鍛えると効率的。それは物事を創造する力と関係があると思います。
この頃の若い人は先に出来上がり図をほしがる。このパーツで何が出来るか想像してまずは組み立ててみるということに慣れていないし、だいたい組立可能な数のパーツが溜まるまで我慢できないことが多い。たしかに昔に比べれば処理すべき情報の絶対量が多いので、ゆっくり考える時間がないのかもしれないけど。
以前いた職場で若い人に何かを説明する時は、ズバリ核心部をできるだけ少ない単語で伝えるようにしていました。でも、その一人とかなり親しくなって進路を相談されるようになると、わたしは彼女の将来が心配で、情報の断片だけを示して、結論は自分で考えるように促しました。(だって「ソフトの入門書にはこういうことが出来ますと書いてあるけど、何をしなさいとは書いてない」と不満そうに言うんですよ。)彼女は私のやり方を時代遅れで合理的でないと思っていたかもしれません。
そんなわたしたちのやり取りを脇で聞いていたアルバイトのコピー&お茶係の若い女性が、「その話、わたしにはわかる」と入ってきまして、「最初は意味がわからなくてもある程度知識が増えると、ある日突然それがきれいにつながって形になることがある」と。わたしは感激して思わず「そうなのよ!」と握手してしまいました。
聞くとそのアルバイトSさん(私だって派遣だったんだけど)は元SEだったそうで、わたしはその人が安い時給で働いているのはもったいないと思って、そこから引き抜いて彼女の能力を生かせる別の職場を紹介したのでした。
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そういえばわたしも小学生のころ祖母に「意味がわからなくてもいいから古典を読みなさい。読んでいるうちにわかるようになるから」と平家物語を読破するよう命令されました。意味がわからないのによんでもしようがないじゃん?と冒頭の数ページを読んで挫折。翌日また最初から読み始め、数ページで挫折。。。の繰り返しで、結局読みませんでした。ゴメン、おばあちゃん。あのときおばあちゃんが言ってたこと、今の私にはよくわかる。もう遅いけど。
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で、保坂氏はクロソウスキーという作家のことを話していて、あとでamazonで検索したら「ディアーナの水浴」という本があり、訳者は宮川淳だった。最近偶然「ありそうもないこと 存在の詩学」という本を見かけて、冒頭の「ラベンナの墓」を読んで「ああ、はまった。。。」と膝がガクンとなって訳者を見ると宮川淳だった。宮川淳が生きていたらなあとおもう。彼ならこの時代をどう見てどう思ったろう。
学生時代、一般教養の必修で音楽の時間があって、それは大講堂でただレコードを聴き感想文を提出するだけのものだった。わたしは退屈でその曲にまつわる私的な想い出やいいかげんな物語を思いつくまま長々と書いて出した。その学期の終わり頃、音楽科の教授が美術棟の美学の先生のところに遊びにに来て、そういえばおたくに面白い学生がいるねと話題になったときいた。
その音楽の教授はゲジゲジまゆ毛で耳たぶが大きくいつもダブルのスーツを着ていた。そして彼はゲイで、男子の学生にはとってもやさしいのに、女子にはものすごーく厳しいので有名だった。わたしは叱られるんだろうかと心配になった。受講生が多いから全部のレポートの内容まで目を通さないだろうとタカをくくっていたのだ。「ああ、オノ君(旧姓)ちょっと」と呼ばれてO研究室のドアの前に立った。「キミなめてんの?」とか言われるのかな。
ビビった私は先手に出た「あ、K先生、わたし音楽史を勉強したいんです。音楽科の講義を受講させていただけないでしょうか」なんであんなことを言ったんだろう。当時から口から出る言葉を制御できなかった。「ああ〜、全然かまわないよぉ」先生は見かけに似合わず甘い声で歌うようにおっしゃった。それでなぜか(K先生がこわいので)西洋音楽史の講義に出て、スカルラッティなど古楽のビデオを見た。んでまた当時の衣装や髪形がぶっ飛んでいて、ブハッと思ったけど、音楽科の生徒は誰も笑わない。一緒に受講していたH君と美術棟に戻ってから、ダハハと心ゆくまで笑った。H君はオーストラリアに留学して陶芸家になり今も向こうに住んでいる。
当時美術棟の窯芸室にはいつも留学生がいてろくろを回していた。なんで外国人は日本文学を専攻するとついでに陶芸をやりたがるんだろう?とにかく、そのときはサンフランシスコからメアリさんという女性が来ていて、修行の合い間に私たちとお茶を飲みながらいろんな話をした。ある時「私の住んでいた町はゲイの街。周りはゲイだらけ。だから私には誰がゲイで誰がそうじゃないかすぐわかる」と宣言した。われわれ田舎ものの日本人は「へーっ、そんなに潜在的にゲイがいるものなのか」と驚き「で、だれだれ?」ときくと「そりゃO先生、絶対」という。「それはわかるね、ありうる」「でも先生は自分ではまだ気づいてないね」「このまま気がつかない方がいいんじゃない?」もうメアリさんそっちのけで日本語で勝手に盛り上がって、大体他人がゲイかどうかなんて大きなお世話だし。
まあK先生とO先生はむずかしい芸術のことやなんかで話が合ったんでしょう。K先生が美術科の飲み会に加わることもありました。あるとき「オノ君、こっちおいで」と呼ばれて何かお話をしなくてはいけない状況になったときがあった。私は酔っていたのと、K先生のようにとっても偉い教授とサシでお話をするのは気まずいなあという、あまりに気まずいので気が遠くなりそうだった。そして今度もワラをもつかむ気持ちで、でもつかんだワラはなぜか
「先生ゲイってほんとですか?」
ええ、その場の空気は瞬間氷結。だけど先生はかまわず「誰からきいたのォ?ぼくはね、女の子のいるお店には行かないんだよ。あれ飲んでいいかしら、これ頼んでいいかしらって言われるばっかりで、全然楽しくない。お酒を飲むならゲイバーにかぎるよ。今度ね、僕がかわいがっている子がお店を出したんだ。どこにあってどんな内装で。。。」K先生のしゃべり方は歌のようだった。そのときの話はここで記憶がなくなっています。H君が助け船を出してくれてバカ話に戻ったのかもしれない。こいつとは話が合うなあと意気投合した男子の友人はみんな今は海外で暮らしています。なんでだろう。日本の女に幻滅させる何かを私が提供したんだろうか?
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深夜のロケット花火初認
松林のウグイスのさえずりますますさえ渡りのどかで力が抜ける
冷蔵庫壊れて2日目、冷凍食品がだいぶ解けてきた修理人が来る月曜までがんばれ
これも「共感覚者の驚くべき日常」と同様に著者の思考の遍歴がわかりやすく語られています。私はこう思う。だけでなく、いかにして私はこう思うに至ったか。の部分がおもしろい。中沢新一の「アースダイバー」に感じた、イマイチ納得いかない中途半端感が解消されてすっきりしました。
岬の突端や島が聖なる場所として信仰の対象になるのはなぜか?著者は実用的な理由から仮説を立てています。漁民が海上から現在位置を確認するために使う、陸上の目印。それをヤマというそうですが、ヤマは自然の地形の場合もあり、人が建てた建造物の場合もある。海に出ていて悪天候で陸地の方向を見失った時、ヤマを見失わないよう祈りながら海を進み、無事陸に戻ったら命を救ってくれたヤマに感謝しお参りをする。それが信仰の起源だという説です。
ちなみに「試験でヤマをかける」のヤマの語源はこれだということです。初めて知った!
興味本位で読み始めたけど、とてもいい本だった。共感覚についての研究者の日常というべきかもしれない。未知のものを探っていく神経科学者のインナー・トラベル。
よく「黄色い声」なんて言いますけど、共感覚者とは音に色が付いて見えたり、味に手触りがあったり、それをたとえではなくて、本当に感じてしまう人のこと。10万人に一人と書かれていますが、著者の研究によって、頭が変なのでも病気でもないことが公になって、カミングアウトする人が増えたのか、ある本では何千に一人などとも言われています。カンディンスキーやスクリャービン、ナボコフもそうだったそう。私が知っていたのは(フィクションですけど)ライアル・ワトソンの「未知の贈りもの」に出てくる少女。
共感覚には様々なタイプがあるそうで、聴覚→色覚が多いそうなのですが、現われ方は人さまざま。そしてある感覚からある感覚へ共感する方向は一方向で、逆はないそうです。(たとえば、ある音を聞くと視野の一部が赤くなる人が、赤い色を見るとその音が聞こえるということはない)
人の感覚という機器で測定しにくいものは、従来の医学では取り上げられなかった。それが「気のせい」や「思い込み」ではなくて実在することをどうやって証明するか。
異種の感覚を関連づけることは、普通の人が日常で行っている。「クールな音だ」とか。比喩は人の脳に特有で、他の脊椎動物では起きない。それは言語など抽象的なことを処理する「皮質」という器官で起きる。そこではある刺激は五感の全てに渡される。
一方共感覚はこの皮質を通さずに、「辺縁系」で、特定の感覚間のみで起こる。。それは共感覚時の脳内の血流を調べることで客観的に証明された。(ちなみに共感覚は共感覚者でなくても、神経系の病気の発作時やLSD服用時に現われることがあるそう。現代では法的、倫理的に実験できないが、過去に記録がある)
脳における神経伝達は直線的に起こるのではなくて、液状に広がるように起こっている。たぶん共感覚はわれわれには意識できないだけで、誰の頭の中でも起こっている。共感覚者とは、それがひょんなことから意識にのぞく人だと著者は推測し、「認知の化石」と名付けます。元々脳内で起こっている事だが、それを大多数の人は意識することがなくなってしまった感覚。
ここから、著者は人の意識について考察を重ねる。そしてコーンヒューバーという人の自己意識は幻想的であるという実験結果を紹介する。自分の意志によって決定を下したと思っていることも、実は意識外の何者かによってなされたものであり、意識は自分で決めたと思い込まされている(。。。!)
情動、確信、直感、などが無意識下において起こることは誰でもわかる。われわれには自己意識がアクセスできない部分がある。現代人は意識の部分を重要視して、情動など無意識下で起こることを軽視しがちだが、両方をバランスよく使うことが大事。
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約1ヶ月この本とつきあっているうちに、著者と旅をした気持ちになりました。「型から入る」という言葉や「暗唱」「お稽古」という教育方法を知っている、われわれ日本人にとっては、長い旅路の果てにたどり着いたのは意外と近所?な感じなのですが、旅の過程は非常に興味深く、退屈しません。ただ、2〜3ページ読むごとに考えることがあって、私的オプショナルツアーに出かけてしまうので、なかなか目的地に到達しませんでした。ああ、やっと図書館に返せる。貸出期限大幅オーバー。
著者は研究を進めるにつれ、医師としての訓練を受けた神経科学者である自分が、分析的な性格や先入観に支配されていたことを振り返るのですが、このように冷静で誠実な思索をできるのは、やはり分析的な物の見方が大切なわけで、それを言葉によって見ず知らずの世界中の他人に伝えることができ、人の心の内的探究の助けになる。それはそれですばらしいことではないでしょうか。
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オプショナルツアー1 エクソシストについて。
「エクソシストとの対話」によると、悪魔払いはカトリック教会公認で公的存在なわけですが、悪魔つきでは?と連れてこられる人の99%は神経系の病気とかストレスとか判断されて病院を紹介されるそうです。教会が悪魔つきと判断するのは、本人が知るべくもないラテン語や古い言葉で難しい教義について問答を仕掛けてくる場合だそうです。(首が回るぐらいじゃだめ)本人が知らない間に言語や学問体系を習得することが可能なんだろうかと思うのですが、イタリア人に限ると、イタリア語はラテン語に近いし、子どものころから教会で祈祷や典礼歌を聞き流しているうちに、無意識下で習得してしまうことがありうるかも。。。とこの本を読んで思えてきました。
取材されていた悪魔つきの人は、ふだんは明朗な素敵な女性で、ただ難病と肉親の死を乗り越えてきた過去がある。たぶん意識下では克服したつもりでも、無意識下では自分は何も悪い事をしていないのにひどい目に遭わされたという怒りや悲しみが深く沈殿していたかもしれない。教会に近づくと気分が悪くなり、神父に対面すると別人のようになり罵倒し吠え、後でその時の事はおぼえていない。理屈はともかく、その人はその方面において内的嵐をかかえていて、助けを求めている、それにはその線でとことんつきあってあげるしかないんじゃないか。まあ、エクソシストというのは、なりきり療法のような面もあるかも。
昔私はイタリアのパドヴァである教会に入った。そこは悲痛な表情の聖人でいっぱいだった。その晩、同じ食卓になったツアーの初老の男性が「僕はあれを見てこわくなった」と言った。それは私もイタリアを旅する日にちが経つにつれ感じていた。どこに行っても人を見下ろしている天使。壁紙や天井やあらゆるところで見張っている。どこにいても朝夕聞こえてくる鐘の音。上から網をかぶせられるようだ。路地のあちこちにいるマリア像。そういうものが人々に脅しと安息の両方を与え、支配している。そんな環境で育った人が人生の契約違反を訴えるなら、それはやはり教会なんじゃないかな。
日本にだって狐憑きとか厄年とかお宮参りとかある。理屈では説明できなくても、五感が納得する何かがあるんだろうな。ああ、でもクリスマスとお正月両方やるのは疲れる、どっちかにしてほしい。または1ヶ月以上間を開けてほしいな。
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オプショナルツアー2 「高慢と偏見」について。
リメイクされた新作は見ていませんが、ドラマ版をシネフィルイマジカ(CS)で見ました。私はストーリーよりも時代考証に忠実に作られたという衣装や髪形や変なダンスが気になって気になって。。。家人は「これゴスロリ?」と言っていました。
恋愛ではよくありますよね、意識下では反発を感じていたのに、ふと気がつくとものすごーく魅かれていたとか、ある日、なんでこんな男に惚れていたのか?と我に返るとか。恋心は意識でコントロールできない最たるものかも。遺伝子の判断にまかせるのみ。気になるのは身分も性格も違うあの二人のその後ですけどね。
わたしの油絵の先生は古くさーい近代絵画を教えてくれるおじいさんで、若かった私はいつも反発していました。その先生がかけてくれた言葉で忘れられない言葉があります。「愛や恋はやがてなくなる。最後にのこるのは思いやりだよ」。その先生が定年退官する日、教室に奥様もいらして笑っているお二人をみていいなーと思ったのでした。
相手を思いやるには理解することが必要で、それにはやはり分析的な冷静な目が必要です。本当の理解は愛が消えた後に始まるのかもしれません。
ちなみ美学の先生のアドバイスは「パートナーが出来ても自分が二人になる訳ではない、相手はあくまでも他人だということを忘れないように」でした。
二十歳の頃、ある人と話していて、「私は科学しか信じない」というと「しかしその科学も人間の頭の中で作られた言葉によって成り立っている」と言われて、うーんと思ったことなどを思い出した。自分を取り巻くこの世の中の現象を言葉によって単純なものに言い直したいという欲求。それは科学とか宗教とか哲学とか美術評論とか様々な形を持つが本質は共通している。
急速な経済のグローバル化を不安に思う気持ちが、今の世の中にあると思う。企業の買収や証券取引の活況に対して、スローライフとかロハスとかこれも実態のないものが印刷物や音声の商品になって流通している。イタリア発祥のスローフード運動は島村菜津さんの本で有名になった。彼女はイタリアで「エクソシストとの対話」という本も書いていて、その中に忘れられない一文がある。取材した教会関係の女性の言葉「このごろの人はみんなすぐに答えをほしがる。人には理解できないものもあるということを忘れているわ」(だったかな?)私はこの言葉がグローバル化への反発であるスローフード運動の鍵だと思った。貨幣のように数えることが出来ず、言葉のように表わすことが出来ないものの価値を見直そうという。
混沌とした現象を受け入れて暮らすのはとても不安でできれば避けたい。隅々まで明るく照された夜道を歩きたい。人がそう思うのは当然だ。そして極端に脳化された社会システムの中で生きていると、すべて自分の意志でコントロールできると思ってしまう。けれどかつて大文明が栄えた場所が森林資源を使い果たして荒野になり巨大遺跡だけが残っているのを見ると、この脳化社会の行く末はどうなるのかと不安になる。脳のしくみを知ることで脳の限界を知る。という学問に人気が集まるのもわかるな。
芸術と言説について
踊る人を見て、その感動を思い出す。劇場の出口で、道を歩きながら、電車の中で、家に帰ってベッドに入って目を閉じてから。思い出すたび感動の輝きは少しずつ部品が落ちていくように周りから欠けていく。なんとかつなぎとめようと言葉に記録する。しばらくたって、書かれた言葉を読むとその日の感動を思い出す。でもそれはかすかに記憶に残る元の感動とすでに少し違っている。このとき自分はこう感じたのか。。。と思う。またしばらくして読む。もう元の感動はどこかに消えている。残された言葉が代わりになる。そして時間が経つほど確実に元の感動と言葉がすりかわる。
お正月にテレビで白洲正子の世界みたいな番組をやっていて「花の美しさはない、けど美しい花はある」という言葉が紹介されていた。白洲正子は能の人。そして脳の人、茂木健一郎も同じことを言っていた。ノウ同志。
著者について
本の最後に著者から読者に贈られる言葉がある。こうやってお土産まで用意してくれるなんて、なんていい人だろう。この人はいろんな人と対談をやっていて、mp3で聞くことが出来る。これがけっこうおもしろい。
茂木健一郎 クオリア日記: (本日)いとうせいこう × 茂木健一郎
第10章 日本の都市の行方 より
和辻哲郎の風土論より日本の都市の特異性についてー日本人の共同体意識は「家」である。日本の家は、屋内は障子とふすまでゆるやかに仕切られ内部の空間が濃密であるのに対して、外側に対しては敷地が塀や生け垣で囲われ他者を廃するようにできている。玄関で履物を脱ぐのも、それを象徴している。
なるほど。家の共同体感覚は今でもまだある気がする。明治の家父長制度がなくなっても、会社がそれに代わり、それもなくなっても2チャンネルがある。
建築を見ても一つ一つで完結し、隣り合う建物との見た目のつながりを配慮するなんて事はないようだ。みんな好き勝手にメチャクチャなデザインなんだな。
都市学者、上田篤の名言よりー「日本人は自然が好きだというより自然そのものだ。」自身が自然そのものなので、都市対自然、という二元論的対立は成り立たない。
日本の都市は海からつくられた—海辺聖標の考察 中公新書
上田 篤 (著)
風土学序説—文化をふたたび自然に、自然をふたたび文化に
オギュスタン ベルク (著), Augustin Berque (原著), 中山 元 (翻訳)
が芋づる式に出てきた。読みたい本が山積み、でも時間がない、ああ。
1 皆と群れることができない人へ(ソクラテス)
2 充分なお金を持っていない人へ(エピキュロス)
3 思うように事が運ばない人へ(セネカ)
4 自分自身を好きになれない人へ(モンテーニュ)
5 恋にやぶれてしまった人へ(ショーペンハウエル)
6 困難にぶつかっている人へ(ニーチェ)
6人の先生がそれぞれのお部屋でお待ちしています。先生方の壮絶人生のお話を聞くだけでも、参りました、と頭を下げたくなります。悩んでいる人にかけてあげる慰めの言葉のヒントもあると思います。あくまでもなぐさめであって、解決にはならないですけどね。
「人が恋に落ちるのは、自分の遺伝的な欠陥を埋め合わせてくれる要素を相手に見いだすから。それは優秀で美しい子孫を残すための人間の本能である。しかし、その相手が毎日を楽しく居心地よく共に過ごすに適しているとは限らない。」だそうです。ということはですよ。。。最良の子孫と、最良の伴侶、その両方を手に入れるのはそもそも無理ですか?ショーペンハウエル先生。
自分がコレだと思った男の子供を産んで一人で育て、晩年は気の合った男性と生活。桐島洋子のような人生が女の王道なんでしょうか。高校時代、女子の間で桐島洋子の本が流行りまして、ああいう人生スタイルで結婚せずに自活して生きていこうと誓い合いました。そして真っ先に親友たちを裏切って結婚したのは私です。当時の話が出るたび裏切りモノォーと責められます。それに、体が弱かったのでたぶん30歳までに死ぬと宣言していました。いまだに生きています。実生活は頭で考えたようには運ばないものですね。
寒くて眠い雨の夜は本の世界に逃避行。
縄文時代の海水面は今より高く、東京の低地は水没していた。当時海の中に尽き出した岬状の土地は、霊力が宿る特別な場所と考えられ、神社・仏閣・放送塔などの形となって現代に残っている。それは東京タワーの周辺や上野の山などに顕著に見られる。丘の上と低地を結ぶ斜面に何か特別なものを感じるというのはよくわかるな。タモリもそう言ってるし。
急な斜面を下ると、草木の根が見えたりして、地の底に降りていくように感じることもあるし、長い階段を上がると平地から離れていくような気がすることもある。坂道は現実からちょっと離れる感じを作り出す装置になっている。
海をじっと見ていると、水の底に川の流れがありその川筋だけ水面の色が違っていたり、海底に段丘があって外洋から押し寄せる波がそこで変化したりするのがわかる。海岸線から向こうは単なる無というわけではなくて、海の底にも別の世界がある。
別の世界を覆っている水面の光の反射の中に立つことができる岬のような土地は、やはり特別な場所だと思う。不安と陶酔が入り交じる場所。未知の世界へ飛び立つための滑走路のような。
私のホームページのBBSに「同じような写真がたくさんあったので、へっへえ・・・!と少し驚きました。」と書き込んでくれた方がいて、同じ風景に価値を見いだす人がいた!という不思議な感動に包まれたのですが、近所の茅ケ崎はともかく、稲村ケ崎の何でもない普通の家屋と空き地を撮ってしまうのはなんでなんだろう。その地形に引き寄せられる何かがあるんでしょうか。とすればその要素は具体的に何なのか?
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わたしの学生時代の美学の先生は、長らくギリシャ美術を研究されていましたが、近年その延長として現代における「環境美学」というものを研究してらっしゃるそうなのです。人が、ある超現実的・非現実的光景に引き寄せられるのは、神話的な考え方や感じ方と関係があるのではないかということなのですが。。。また学生に戻って、あれから20年後の先生の講義を聞きたいです。
日本の惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワに着地しました。数年前、この小惑星にあなたの名前を届けませんか?というキャンペーンに応募して家族とシャミの名前を積んでもらったのもあって、無事着陸したと聞いた時は「おおうう〜〜」と思いました。この本は火星探査機「のぞみ」の開発、運用をめぐる12年間の克明なドキュメンタリー。技術系の本なのに泣いた。これを読んで、今の「はやぶさ」のニュースを見ると、感動100倍です。
「はやぶさ」88万人の「星の王子さま」たちへ
著者のblog
松浦晋也のL/D
ところで、この方は「スペースシャトルの落日」の著者でもあるのですが、blogによると、私たちが自転車を買った店でこの方も自転車を買われているようです。もしかして、ご近所?となると宇宙飛行士野口さんともご近所?宇宙度高し!茅ケ崎市。
8月にTUP-Bulletinで読んで、忘れられなかった。
トニー・ブレアに敬意を表して、私はガンジーの有名な金言を次のように読み 換えた——「先ず、彼らはあなたを無視する。次に、笑い者にする。そして、 あなたに敵対する。やがて、彼らはあなたの主張を取り込み、以前から自分た ち側のものだったように装う。それでも、あなたがすっかり取り乱さなければ、 あなたが勝つかもしれない」。引っかかることがひとつ——それが勝利には見 えないこと。勝利がもたらすとされる満足感がない。栄光の爆発ではなく、小 出しにやってくる。見分けも覚束ない、予想もしないような形で姿を現わす。 変化は、まるでコソ泥であるかのように忍び足で訪れ、日常世界をコッソリ動 かす。勝ったとたん、あなたの勝利はあなたのものではない。まず、嫌な以前 の敵方のものになり、今では、彼らはそれがもともと自分たちのものであるよ うにして取りこんでしまい、次にそれは歴史に属するようになる。 (レベッカ・ソルニット著 井上利男訳)
この本を読んだ後、著者の手に触ったような気がした。
すぐに結果が出なくても、諦めないでいよう。
わたしたちが生きているうちに望んだ光景をみることができなくても。
いつも家に帰るのが早すぎる。いつも成果を計算するのが早すぎる。母乳や 乳歯から検出される放射性降下物を撒き散らしていた地上核実験の終結を実現 した1963年の大勝利に寄与したアメリカ初の大規模な反核兵器運動「女性 のためのストライキ運動(WSP=the Women's Strike for Peace)」のメン バーの手記を私は読んだことがある。その女性は、ある朝、抗議行動としてケ ネディ大統領が執務するホワイトハウスの前で雨のなかに立っていて、ばかば かしい、なんてくだらないことをやってるんだろうと思ったという。何年もた ってから、彼女は、核兵器問題の活動家たちのなかで最も著名だったベンジャ ミン・スポック博士[世界的ロングセラーの育児書を著した小児科医]が、女 性たちの小さなグループがホワイトハウス抗議して、雨にうたれて立っている を見かけたのが、自分にとってのターニング・ポイントになったと語るのを聞 いた。その人たちがそれほど熱心になっているのなら、自分もこの問題につて もっと考慮しなければならないだろうと博士は思ったのだ。
ランスの奇跡の7連覇を可能にしたトレーニング方法です。ランスのコーチ、クリス・カーマイケルによると「トレーニングの目的とメニューはシンプルなほどよい」だそうです。最低4週間1つの目的だけに絞ってメニューをこなし、それが終わったらまた次の目的のために4週間やると言う風に。
あと、ほほうと思ったこと抜粋。
空気抵抗は高さより幅。
登りでは深く息を吐く事に集中する。すると心拍数が下る。
スタンディングで漕ぐと余分に消耗してしまうので、ギヤを軽くして座って漕ぐ。
ランスが登りで、ものすごい速さでペダルを回しているのを毎年スゲ〜と思いながら見てましたが、
彼はあのスタイルを身に付けるために何年もきびしいトレーニングをしたそうです。
やることをシンプルにする。
きびしく自分を管理する。
感情や感性を抑え、理性で行動する。
ラテン系の選手にはむずかしいだろうなあ。
あたしはロードを自分ではやらないけれど、いやあ、人間の体っておもしろい。
オサレ海の家のカタログです。茅ヶ崎市立図書館にリクエストして買ってもらいました。で、最初のページを見てびっくり。これ見たことあるわ。去年、海水浴場で見て、何だろう?と思ってました。なんと、茅ヶ崎戯曲なんつう名前までついていたとは!
海の家を利用するのは小っちゃい子がいる家族連れも多いと思うんですよね。子供服メーカーが海の家を作ったらどうでしょうねえ。
ここで偶然、森山開次の名前を見て思い出しました。先月、日本映画チャンネルで「茶の味」という映画をやっていたんですけど、それに森山開次くんが出て踊ってました。奇妙でおもしろい映画でしたよ。

平安の気象予報士紫式部—『源氏物語』に隠された天気の科学
講談社プラスアルファ新書
石井 和子 (著)
といっても、紫式部が天気予報をしていたということではありませんで、現代の予報官もびっくりの、気象現象に対する観察眼があったというお話です。気象予報士の資格を持っている著者は、源氏物語のなかの雨や風や季節のうつろいの正確な描写を読むと、その時の気圧配置図までもが頭に浮かぶそうです。なるほど、時代とともに言葉や風俗は変わっても、気象と地形と男と女は変わらないのね。
ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 - 40歳の童貞フィギュア・コレクターの映画が全米No.1ヒット!
なんですが、i-morleyで河野麻子さんが「自分に自信がない男性はとりあえず筋肉を付けてみることから始めたらいいんじゃないかしら」なんておっしゃってました。たしかに、やればやるほど確実に結果が出ることって、自信をつけるのに最適。ランニングとか、マシンの操作とか。でもハマって抜けられなくなることもあるし。。。てなことを思いつつ。
いつだったか、フローラン・ダバディがblogで「情熱はダークサイドへと通じる」とスターウォーズのヨーダの言葉を引用していましたが、今日それに似た言葉に出会いました。
憎悪と権力はともに、それぞれ異ったかたちで、情熱である。違いは憎悪は純粋にネガティブなものであるのに対し、権力は本質的にポジティブだというところにある。人は憎悪に屈するが、権力を渇望する。
これはジェノサイドの丘〈上〉(フィリップ・ゴーレイヴィチ著 柳下毅一郎訳)p.162の著者による言葉です。
映画好きな方なら今年のアカデミー賞でいくつか賞の候補になった「ホテル・ルワンダ」という映画のストーリの概略をご存知でしょう。民族大虐殺という狂気の中で、ホテルマネージャーが千人以上の命を救った話です。これは実話で、そのエピソードが本文の中にあります(ホテルの実名はオテル・デ・ミル・コリン)。国連のPKOさえ出来なかったことをなぜ彼はできたのか?
大衆を煽るのは憎悪によってであるように思われる事が多いが、真に人を動かすのは力への欲望である。ポール(ホテルマネージャー)はそれを利用した。と、著者は分析して述べています。
ある日突然隣人がゾンビのようになって襲ってきたら?家族を皆殺しにされて生き残ってしまった人は、その狂気が醒めた後、かつての加害者とまた隣人として暮らしていけるのか?この本が出版されたのは事件の4年後1998年。著者はその後、「コールド・ケース」という犯罪の未解決事件を扱った本を書いています。
美しいものを見た時、その瞬間の体験をずっと所有していたいという衝動は誰でも持っている。それで記念品を買ったり、カメラでその場を記録したりする。ずっと長く深く所有できる方法は、その美を理解すること。そして最も理解できる方法は、それを書いたり描いたりすること。by ジョン・ラスキン(1819-1900)
旅モノもう1冊。先日読んだ「クックブックに見るアメリカ食の謎」に、米国全土のダイナーの写真集が載っていました。昨日あるサイトで同じ企画の本を見て、amazonで購入。ううむ、おいしそう。おねーさんたちも素敵です。これはペーパーバック版で、パーフェクト版というのもあります。そっちは表紙の題名が「CUTIES AND CALORIES」になってます。
だらだら書き足しています。
ツール・ド・フランスで7連覇という偉業をなしとげたランス・アームストロングは「ツールで総合優勝するには、2回のタイム・トライアルと1回のアタックでいいんだ。」と語っていました。つまり21日間のうち本気を出すのは3日でいい、というわけです。
(もちろんそれが楽だというわけではありません。3回の力の爆発のために、その他の18日間をアシストに支えてもらいながら、慎重にミスをしないよう集中して過ごさねばなりません。個人の感性や能力を抑えて、エースという役回りを徹底的にこなす、その気苦労、プレッシャーは大変なものでしょう。)
そういう戦略は特にランスの属するディスカバリーチームのオリジナルというわけではなくて、総合優勝を狙うチームにとっては基本なのですが、7連覇をとげた歴史的な日のインタビューで、ランスからこの言葉が出たことに「ああ、アメリカ人だなあ」と思わずにはいられませんでした。「〜のためには、〜するだけでいい。」という言葉を何度アメリカ人から聞いたことか。
そしてこれ。
しかし、マクドナルドだけを食べて、ただ痩せたわけではない。メラブさんは、マクドナルド商品のカロリーを全て暗記していて、一日のカロリーを1200~1400kcalになるように計算していたのだ。
なるほど、マクドナルドはどこでも同じメニューなのでカロリー計算が簡単。適性カロリーを摂るという基本的なことをクリアしやすい。栄養のバランスが心配ですけど、難しいことをあれこれ考えずにすむので続けやすい。マクドナルドダイエットはダイエット界の公文式?
このようなことを考えつつ、図書館でイタリア料理の本を探していて、ふと目に付いた本。アメリカにおける食材と料理の歴史なんですが、出てくるメニューがちっともおいしそうじゃない笑。食を楽しむというよりはサバイバルの手段としての料理なんです。それはそれで非常に興味深いのですが。
アメリカにおける食の価値とは「おいしい」よりも「いつでもどこでも同じ味で安心」らしいと著者は言います。それは、自由、平等、機会均等といった建国の精神によるものかもしれない、そしてこの食の普遍化に対する欲求を実現可能にしているのは、冷蔵庫とスーパーマーケットと輸送体制だと。
とても読みやすくてわかりやすい、目からウロコの読み物である。スペースシャトルの問題点、今後の宇宙開発のあるべき姿、といった著者の主張したい点が明確に伝わってくるだけでなく、技術開発、特に巨大プロジェクトを進める上で、このスペースシャトル計画を反面教師として見るための教科書としても悪くない出来だと思う。
というのを読んで、図書館で借りて読みました。今度のシャトルに乗る予定の野口さんは茅ヶ崎出身で、地元では打ち上げ時に烏帽子岩をライトアップするとか、盛り上がっているようなのに、不吉なタイトルの本なのですが。。。そもそもスペースシャトルって何ですか?どうやって宇宙まで行くんですか?そんな基本的なこともとってもよくわかる本。
スペースシャトルはアポロ計画の次のステップとして、地上500kmの低軌道(ちなみに月は380,000km)と地上を何度も往復するために開発された。そのためアポロのように使い捨てでなく、同じ機体を何度も使い回すことにして翼を付けた。全部で6機が建造され、博物館にある試験機が1機、2機を事故で失い、現役は3機。シャトルの製造ラインは1992年にすでに閉鎖されていて、シャトル計画は2010年で終了予定だそうです。
そもそも有翼の多目的機という設計コンセプトが間違っていた上、アポロ計画終了後の業界の雇用を維持するためという政治的な干渉が入ったために無駄に巨大な計画になってしまい、方向の修正ができず責任の所在もうやむやになってしまった。。。と著者はこの計画の全体を冷静に分析しています。シャトルダメージから再起するためには?日本の宇宙開発はこれからどうあるべきか?この本の結論は。。。
(茅ヶ崎図書館でタッチの差で予約した方、これ明日返しますからね〜)

安家達也 著『ツール 伝説の峠』
(未知谷 刊/ISBN4-89642-137-X)
今日のゲストは「ツール100話」の著者でした。この本は明日発売だそうです。きのうのガリビエ峠の熱狂的な観客、レース当日は一般車両通行止めなので、みんな徒歩か自転車で峠まで上ってきているのですね。標高2600mですよ。走るのもすごいけど、見に行くのもすごい。超級の峠ポイントの1日を朝から夕方までそこにいて見てみたいですね。選手が通るのは一瞬だけど、そこに来る人たちのいろんなドラマがありそうです。
今日のクイズはハズレた〜
連日放送中のジロ・デ・イタリア。じっくり見ている暇がないのですが、13,14ステージと山岳を制したバッラのコロンビア・セッレイタリアはツールには出ないそうですね。あと、チーム全員宿の食事で腹痛になってしまったCSC。前日134号線で、CSCのジャージを着て颯爽とトレーニングしている人を見たんですけど、あの人ガックリしちゃったかなあ。全然知らない人なのでいいんですけど。CSCは珍しかったので。やっぱりファッサのジャージが多いです。
ところでDiscovery Channelのページの隅に小さく
特別番組のご案内 「ツール・ド・フランス特集」 (PDF)
とあるのを見つけました。
ツールを連覇したアームストロングが所属するチームは、スポンサーがUSポスタルからディスカバリーチャンネルに変わりました。Pro Cycling :: Main(このチームには今年から22歳の日本人選手、別府君もいるのです!)ツールそのものの放送はディスカバリーチャンネルではないものの、やっぱり特別番組があるのですね。
6/27(月)20:00〜21:00 サイエンス・オブ・ランス・アームストロング
超人の心肺機能を作っているトレーニング方法が明かされます。
ディスカバリーチャンネルは今週、映画「オープン・ウォーター」ウィークです。

http://content.collegehumor.com/img/s/shark2.w492.jpgより
ヒエ〜〜!

Martin J. Wells 著
長野 敬+野村 尚子 訳
主にタコやイカなど頭足類の研究をしている生物学者による、海洋生物の博物誌。
最終章の「科学者は有益でなくてはならないか?」より。
生物を研究する意味について。生物学的現象は非常に複雑な場合が多く、完全な解答を出すことは困難。だが、統計的記述が理解できるようになるので、不確実性の量を計ることはできる。「何パーセント確実だ」という風に。その点が形而上学的世界観を追及する数学や物理学とは違う点である。生物学者は絶対的な確信を装わない。人の考えることは誤りやすいという前提から出発しているので、現実的なアセスメントに適している。
第10章「ウバザメと政治・経済」には海洋資源の乱獲について記述があります。
わが家では、カニをお歳暮に贈ったり、フカヒレスープ食べたりするのをやめました。どちらもムチャクチャ乱獲されているから。結局消費者が食べるのをやめて需要をなくすしかないでしょう。たった一軒でやっても意味がないと言われたって、一人ひとりがやらなきゃいつまでたっても乱獲はなくならないので。
サメについては、水銀の蓄積量も心配です。
農林水産省:平成15年6月3日に厚生労働省が公表した「水銀を含有する魚介類等の摂食に関する注意事項」について(正しい理解のために)
キンメダイやメカジキだって、インド洋産と書かれていても、本当かどうか消費者にはわかりませんから、たまーにしか食べません。バンドウイルカにいたっては「妊婦は2ヶ月に1度、60〜80グラムぐらいにしときなさい」という危険度。イルカなんて誰が食べる?とお思いでしょうが、スーパーなどに並んでいる鯨肉はイルカが多いそうです。あと、海の大型捕食動物といえば、マグロですが、マグロについては調査対象ではない(!)と聞いたことがあります。
人が代謝によって体から排出しなければならないのは、魚に含まれる有機水銀だけではないというのもあります。ダイオキシン、農産物の残留農薬、水道水のトリハロメタン、汚染大気、住宅建材や家具の化学物質。。。人体の代謝部門は重労働で大変なんじゃないでしょうか。自分の体と話したことがないのでわかりませんが。
第14章「イルカ」より。イルカは知能が発達している、その根拠は脳が大きいから。という説があるが、そもそも知能の高低は人間同志でも定義しにくい。それは人が属する文化によるので、西洋人が考える知能テストと、アボリジニが考える知能テストではかなり内容がちがうだろう。
イルカは視界の利かない水中で高周波を出して周りや自分の位置を確認する。そのエコーの分析に大きな脳を必要とする。しかし特定の計算処理のために脳が大きいからといって、知能が発達しているとはいいがたい。著者は鯨類を保護する立場だが、それは鯨類が高い知能を持っているからではない。
以下は私の考えですが、陸上にしろ、海中にしろ、食物連鎖の頂点にいる大型捕食動物は、環境の指標になります。汚染、乱獲などの問題に正面から取り組むことなく、鯨類を駆除することでつじつまを合わせようとする考え方には賛成できません。
妄想に取りつかれた揚げ句一線を越えて偽造までしてしまった人たちの話。義経は大陸に渡ってジンギスカンになった。天皇家は14世紀の南北朝時代に北朝と南朝に別れ、今の天皇は北朝だが、正当な天皇は南朝で本当の天皇は別にいる。など。今聞くと「ハー?」ですけど、戦前はそう信じていた人も少なくなかったらしい。義経説は日本政府による大陸支配の口実になり、南朝説は戦後進駐軍が日本を支配するために利用されるところだった。歴史って後世の人によって都合よく書き換えられる危ういものなのですね。
そういえば、イエスは日本で死んだって説ありますね。世界各地にあるようですが。アレなんかもそういうことにしたかった、いやそうであるに違いないと思い込みたかった人たちの強い希望が大金を集め、ハンパじゃない規模の偽造が行われたのかもなあと思ってしまいます。
なぜ人は坂道に魅かれるのか。江戸の街は京浜東北線より東側は平地の下町で碁盤目上の道が整備され、西側は山の手で尾根道と谷道を坂がつないでいたそう。平らな下町もベネチアのように水路が引かれ、水面と路面の段差があり、橋を渡るたびに上がり下がりしていたんじゃないでしょうか。
羽根ペンによる手書きから、パソコンのキーボードへ。技術の進歩とともに生きた著者の「手仕事」に関する考察。手作業にもそれを繰り返すうちに機械的な反復の要素が出てくる場合があるし、オートメーション化された作業にも紆余曲折や思考や技術の鍛練が要される場合がある。
blogも毎日少しずつ編んで行く所とか、ある程度までやり方が準備されている所、徐々に技術を習得して行く所、などが「手芸」の一種のようだと思うことがあります。大掛かりなサイトを構築して管理する男性的なメディアとは対称的じゃないでしょうか。
学生時代に読んだデリダの言葉で「物質の抵抗」というのがあります。作家が何かを表わそうとする時、そこには物質の抵抗がある。文筆家には紙とペンの、画家には絵の具と筆の。。。
私はAdobe Illustratorというソフトと出会った時、なんて知的なソフトなんだろうと思いました。。道具による制限がなく、頭で考えたことをそのまま再現してくれる。しかし逆に言えば、ツールによって引き起こされる偶然性にたよることはできません。すべての責任は操作する人間にあるのです。この厳しさがAdobe Illustratorを敬遠する人が多い理由だと思います。
物質の抵抗に遇って時間と労力を費やすのはいやだ、けどそれから自由になってゼロから何かを作るのもつらい。ある程度制限されたツールの方が心地よかったり、便利なツールを選択しながら、実はそのツールによる癖や偶然性にたよってしまう。そういうこともあると思います。
CGで復元された晩餐図をニューヨークの街頭に持ち出して、何の予備知識も持っていない普通の人に見てもらった感想がおもしろい。イラクから政治亡命したタクシー運転手は「故郷での人権について話しあう集会を思い出す。議論が白熱するが何一つ決まったためしが無い」といい、バーテンダーは「バーのカウンターを内側から見た風景だ」という。たしかに!テーブルの片側にだけ人がいるなんて変。TVのホームドラマの手法の起源はこれだったか。またあるイタリア人はマフィアの会合だという。「この中に裏切り者がいると親分に告げられてみんなびびってるところ。情婦をのぞいて」その情婦とはヨハネのことらしい。それはこの女だと指さしたそうだ。ダ・ヴィンチは市井の人びとをデッサンしてモデルにしたそうなので、12使徒はイタリア人のサンプルでもあるか。
ところで、わたしはミラノでこの実物を見た事がある。向いの壁にその時代の別人の作品が描かれており、その絵もすばらしい絵なのだが「何もかもが画期的だったダ・ヴィンチの絵と比べられて500年間ボロクソ言われ続けている不運な絵なのでございます」とガイドさんに言われていた。
小さな世界シリーズ。春になると西から飛んでくる黄砂。ゴビ砂漠の黄砂はジェット気流に乗ってアメリカのシアトルまで達するらしい。その名も「アジア直送便」。このごろでは工業地帯から排出された有害な物資もオマケとしてくっついてくるそう。春雨には濡れないよう気をつけよう。あと、「ハウスダストの生態系」などアレルギー持ちには興味ある話など。
アリの社会では、働かずただダラダラしているだけのヤツが全体の何パーセントかは必ずいるらしい。
去年あたり話題になったアリ学者の本。ついにわかりましたよ!どうやって個体識別したか。プラモデル用の塗料を背中につけたそうです。その際アリが暴れると困るので、マーキング作業中はアリを冷やして動けなくしたそう。作業場所は熱い砂漠。アリを冷やすのに使ったのは、冷凍しておいたアイスクリームメーカーだそうです。(たぶんコレ)。この著者の本があるのはわかっていたのですが、すでに絶版になっていて(早)藤沢の図書館で借りました。
調査されたアリはアリゾナの砂漠に住む「アカシュウカクアリ(Pogonomyrmex barbatus)」というアリさんたち(体長約1cm)。1匹の女王は生涯に1日だけ複数のオスと交尾し、そのときの精子を体内に保存し卵を産み続ける。1匹の女王につき1つのコロニーが作られ、女王の寿命=コロニーの寿命である。その寿命は15〜20年!
できてから3〜4年の若いコロニーと、5年以上の成熟したコロニーでは、非常事態に対する反応がちがう。働きアリの寿命は1年ほどなので、経験で得た教訓が生かされているとは考えられない。何がコロニー全体の意志を決定するのか?
働きアリの仕事は担当が決まっているが、状況に応じて変わる。ただしそれは一方通行で、巣の保守→偵察→食糧収集と出世して降格することはない。そのアリが何担当かという情報は、アリの体表についている匂いにあり、アリ同士が出会った時、匂いで相手を判別する。
巣穴の周囲、または内部で、ある時間内に何担当のアリと何回出会ったか、そのカウントがアリの行動を決定する、と著者は仮定した。コロニーの年齢による行動パターンの違いは、コロニーの規模、アリの総数によるのではないかと。。。
あと、ニューロン相互作用とか複雑系とか難しい用語が出てきたんですけど、すっ飛ばしてしまいました。「アリの全体の何割かはいつもダラダラしてる説」については言及がありませんでした。この本が書かれたのは2000年、ダラダラ説が発表されたのは去年 (2004年)あたりです。
この本の訳者(池田清彦氏)は、自らも研究者で、あとがきで「ほとんどの社会性昆虫の研究者はネオダーウィニズム論者なので、この著者も無意識のうちに「無意味に思えるアリの行動にも危機回避などの意味があるはず」と考えているようだが、構造主義生物学者の私(訳者)はそうは思わない」とチクっと一言書いてありました。
著者:デボラ・ゴードンの研究室
The Gordon Lab
「構造主義生物学」って何ですか?
進化研究と社会:構造主義/構造生物学/構造主義生物学
あと、偶然数日前に見たサイト
なお、六月ころ結婚飛行を終えたサムライアリの新女王は、クロヤマアリの巣を捜して潜り込み、その女王をかみ殺して働きアリごと巣を乗っ取り、 新生活を開始する。虫の世界はまさに何でもありの感が深い。
「ムコンド」はアンソニー・ドーア著「シェル・コレクター」に収められている短編の一話です。ムコンドは少女が自分に課したゲームの名前。野山をどこまでも走って行って、もうそれ以上行けない所まで来た時、目を閉じてさらに1歩踏み出すこと。主人公の博物学者は少女に恋をして、ムコンドに挑戦して彼女を妻にしましたが。。。
越えるのをためらう境界は、ある時は人生における選択にあり、ある時は具体的な場所にあります。ムコンドというテーマでアルバムを作って見ました。お暇だったら見てやってください。 http://fotologue.jp/surf/ (ムコドノじゃないよ)

fotologue.jpに写真をアップするのはマジびびった!まさにムコンド。
石積みの坂道。階段がある路地。丘の上からの見晴らし。坂道がある小さな街に魅かれるのはなんででしょう?さらに、そこが何らかの理由で村民に放棄された廃虚だったりすると、もうたまんないですね。
本日のジョギング:3km
海岸沿いのサイクリングロードは、いつも半分砂に埋まっているので、自転車用というよりはジョギング&犬の散歩用ロードで、コンクリートの道と平行してウッドデッキの道もある。数日空いて走るとヘロヘロで(いつもヘロヘロだけど)足腰への衝撃を和らげようとウッドデッキの方を走っていたら、木の継ぎ目につま先が引っ掛かって、あっああー転んでしまいました。潔くステーンと転べばよかったのに、なんとか体勢を建て直そうともがいたのが裏目に出て、お尻を強打。なんで前のめりに倒れたはずなのに、お尻を打ったんでしょうねえ、て感じ。それがちょうどトイレの便座に座るとジャストミートなポイントなんですね。あたたた。
トイレといえば、以前左手が腱鞘炎になったことがありまして、一番困ったのが、トイレでパンツ上げられないってことでした。他のことは片手でなんとかできるんですが、パンツをはくってのが難しいんですよ。こればっかりは他人にもたのめませんしねえ。何かを履くという動作はとっても複雑な行動だと教育学の先生が言っていたことを、この年になって、トイレで実感したのでした。
二十代の頃、フリーマン・ダイソンの息子、ジョージ・ダイソンについて書かれた本「宇宙船とカヌー」を読んで、その生き方に激しく憧れた。(憧れというのは、そういうことは自分には無理だというあきらめでもある)図書館でふと背表紙のお父さんの名前を見て、そういえば、息子さんお元気ですか?というノリで借りて読んだのだ。
第1章目は、科学技術と失敗の話。かつて、帝国主義というイデオロギーによって後押しされ保護された技術は、国家の威信が掛かっていたため失敗が許されず、結局無理がたたって大惨事を起こした例がある。技術が競争にさらされ、小さな失敗を重ねながら淘汰されて行けば、それは安全な技術となる、という話。
地球に衝突しそうな彗星の進路を変える装置とか、ジョージが今どんな人になってどんな仕事をしているか、とかの話をはさみつつ、第5章は倫理について。「この何十年かの間、科学が貧しい人に恩恵をもたらすことに失敗してきたのは、二つの要因による。純粋科学者が人類が抱える俗世のニーズから縁遠くなったこと、応用科学者がますます目先の利益にとらわれるようになったこと。」
(以下要約)
核軍備競争が終わった今、人類社会を襲う新時代は3つ
1.情報社会
2.バイオテクノロジー
3.ニューロテクノロジー
この3つの技術を理解し制御する人は富と権力を得、古い技能を持った人を無用にしてしまう。富の分配の不平等を拡大する傾向を持つだろう。
一方、人類の貧しい人びとは誰でも利用できて高品質で安い、家・医療・教育の3つを必要としている。未来社会の問題は、3つの新しい技術と、3つの基本的なニーズとのミスマッチである。技術が貧しい人のニーズを無視し、一部の人にのみ恩恵を与える限り、貧しい人びとは技術の圧制に対して反逆し、非合理で暴力的な手段に訴えるだろう。そして過去にそうだったように、将来においても、最も貧しい人びとの反乱は、貧富を問わず人びとを貧しくするだろう。(この本が書かれたのは1997年)
中野不二男氏の本2冊。なんでたびたびロケットの打ち上げに失敗しちゃうの?という疑問の答えがわかったようなわからないような。「環境にいい自動車はなぜ、なかなか誕生しないのか」にはいろいろ考えさせられました。
対してこちらは肩の力を抜いて楽しく読める。「宇宙からやってきたウィルスが地球を襲う!?」など。シュレディンガーの猫も出てきます。長谷川洋一著。
メモ
戦争のテクノロジーを3段階に分類し建築との関係で見ると
第1段階:防御ー都市の要塞化。城壁など
第2段階:攻撃ー火薬の登場。垂直方向の防空
第3段階:情報ー抑止のための監視。監視社会になるほどガラスなど透明なイメージが溢れる。
戦争は技術の母といわれるが、フラーやイームズの機能的で無駄のない美しさは、戦時下の物資が制約された状況と関係があった。そして今それは限られた資源を有効に使うという意味でエコロジーにも通じるものがある。
世界貿易センタービルを設計したミノル・ヤマザキは後年サウジアラビアのダーラン空港を設計した。それはイスラム建築に敬意を表したアラブ風だったので、国王はたいそう気に入り紙幣の絵柄にまで採用した。もしかしてゼネコンのビン・ラディン一族も建設に関わったかもしれない。911のテロリストの主犯格の一人は建築を学んでいた。世界は多様なモザイクでできている。
ガンコ親父の孤独な戦いの記録。この本が出たのは1996年、著者の必死の抗議のおかげか?、当時と比べるとあちこちで無意味なアナウンスが減った気がする。筆者は大学の先生で専門分野は哲学。先週まで読んでいたリスク管理の本と比べると対照的でおもしろい。
これも環境問題の一つだと思うけど、「水俣病などのひどい公害を経験したという事情から、日本で一般的に環境リスクとは、イコール人間の死や病気である。だから、人に被害がないと問題にされにくい、そこが日本以外の国における環境リスクの捕らえ方と違うところである。」から始まる環境リスク論のスマートさとは正反対。人を説得するにもいろんなやり方があるもんだと思う。
坂本龍一が「人間の五感のうちでもっとも制度化されやすいのは耳だ」と何かで書いていた。フィルターやフタがついてるのかと思うほど、慣らされやすく、意図的に聞かないこともできる。初めての場所では人はいろんな音に注意をはらうけど、毎日同じ音を聞いている人はその音を聞いていない。そして不特定多数に対する音の呼びかけは、それが自分に言われているとは人は思わないんだな。
ふう、やっとクリスマスも終わり。甥と姪にプレゼントを選んで送りました。甥っ子のリクエストは「セブンスタワー」の3〜5巻。7歳の姪っ子の希望は「チョウチョの図鑑」で、いろいろ調べているうちに自分がはまってしまいました。私はシジミチョウ、特にヤマトシジミが大好き。あのどこにでもいる小さい紫のチョウを見ると、とっても幸せな気持ちになります。海風がゴーゴー吹くうちのベランダではたぶん無理ですけど、もしも花壇を作れる庭があったらいろんな蝶が来る庭をつくってみたいな。ちょっとした現実逃避でした(^^;)
中西準子さんの本3冊。タイトルは堅そうですが、とってもわかりやすい。ただむやみに不安がるよりは、リスクを計算しようという本です。
NHKの日曜美術館を見ていて、「島尾伸三」と「潮田登久子」と「しまおまほ」が家族なのを知ってびっくり!潮田さんの「冷蔵庫」という写真集を見たくてずっと探していたのです。ミトゲーまで行けば本物のプリントが見れるか。。。あーでも遠いなあ。
水戸芸術館現代美術ギャラリー
「まほちゃんち」
2004年10月23日(土)〜2005年1月10日(月・祝)
島尾伸三(小説家・写真家)、潮田登久子(写真家)夫妻とその娘しまおまほ(まんが家)という、アーティスト一家による展覧会。
言葉で説明しにくいものを、説明したいのです。他人に伝えるために。でもやっぱり借りてきた言葉では説明できない。借りてきた言葉は、借りてきた考えなので、本当には人に伝わらないのです。
わお、同時に同様の本を読んでいた人がいることを知ってビックリ。あたしも読んでましたよ。前半ちょっと退屈ですけど、3章のエコロジカル・リアリズムあたりからおもしろくなります。
うちでこれを読んでいる時、のぞき込んで「何でこんなの読んでるの?」と訊いた、夫もすでに読んでいたのでした。
これもオハイオです。魂が震える8つの物語。お風呂で1話づつ読みました。「ハンターの妻」と「ムコンド」は読んだ後、なかなかこっちに帰って来れませんでした。「長いあいだ、それはグリゼルダの物語だった」は、”赤い州”の人たちの気持ちを表しているかも。
映画の裏方さんのお話を読むのが好きです。マトリックスIIのレイヴシーンの振付方法とか、ロード・オブ・ザ・リングの小道具の作り方とか。「シネマきもの手帖」をパラパラと見ると、すでに見た映画ももう一度じっくり見たいと思ってしまいます。徹底的にボロボロな着物を用意するのは、豪華絢爛な着物を用意する以上に、時間もお金もかかるのだと言われれば、「七人の侍」をもう一度見なくてはと思ってしまうし、「極道の妻たち」シリーズを着物を見るだけのために見るのもおもしろそうです。
タモリ倶楽部で鳥瞰図をやってましたね。あたしは「お土産何がいい?」って聞かれると「地図!」と答える地図好きです。数年前INAX ギャラリーであった「鳥瞰図絵師の眼 Bird's-eye Dream」の図録です。番組で紹介されていた「バイカル湖」や「富士山パノラマ」も載ってます。

今、イラクで捕まっている日本人の青年の姿をニュースで見ると、数カ月前には同様の事件で憤慨したり痛いと思っていた心が、今はそれほどでもなく、あの時と同じく今も自衛隊はイラクに居て、イラクの民間人は死んでいるのに、その報道に慣れてしまったということを思い知らされます。
世の中で起こっているもめ事をテレビで見るたび、「イスラム教徒とどうつきあいますか?」と言われている気がします。この本の著者は移民としてヨーロッパに移り住んだトルコ人(=イスラム教徒)とヨーロッパ社会との関係をドイツ、オランダ、フランスの3国で取材しています。
ヨーロッパとイスラーム―共生は可能か
内藤 正典
ドイツでは、人口が減少して労働力が不足した時期に大量の移民を迎え入れ、のちにベルリンの壁が崩壊し東ドイツから安価な労働力が流入すると、今度は移民がじゃまになったという経緯があります。また「郷に入れば郷に従え」とばかりに、ドイツ社会に適応するよう強要するくせに、移民のトルコ人が言葉も教養も完璧にドイツ人のようになっても、ドイツ人として受け入れないという面があるそうで、日本と似てませんか?異質なものを徹底的に排除しようとするところ。移民2世として、生れた時からドイツで暮らし教育を受けても、ある日自分はドイツ人ではないと思い知らされる時が来て、強烈にムスリム(イスラム教徒)として覚醒する若者が多いそう。
オランダではドイツと対照的に移民の文化やコミュニティを受け入れ、参政権などにも差別はない。しかし、それは異文化を理解すると言うよりは、互いに無関心だから成り立っているともいえるそう。
フランスでは、人種や宗教によって差別はないが、それはフランス語を話しフランス流の啓蒙思想を持っている人に対してのみである。フランスではキリスト教に支配された時代があり、その後、宗教から人間が自由になって今日の社会を築いたと言う歴史がある。なのでフランスの社会では「政教分離」が必須なのだが、イスラム教とは、そもそも宗教と社会活動が一体になっていて、それらを分けるという概念そのものがない。
ムスリムにはフランス人が言う政教分離と言う考え方が理解できないし、フランス人はなぜムスリムが宗教と社会生活を分けて考えられないのかわからない。という平行線の対立がある。問題は「イスラム教:キリスト教」と言う宗教同志の対立なのではなく、「イスラム教という宗教による社会:脱宗教した世俗主義の社会」だという。両者とも同じなのは、自分たちの主義主張が唯一無二の正しいものであり、それ以外の道はあり得ないという信念。
フランスでは、学校で女の子がスカーフをつけるのを禁止するという事件がありました。学校とは子供を啓蒙主義に教育する機関です。そこに宗教によって抑圧された姿の子供が通うのは好ましくないというわけです。そこにはいろいろな経緯があって、スカーフを禁止すればムスリムの子供が学校に来なくなってしまい、結局啓蒙思想を学びフランス社会に同化する機会を失うから、禁止すべきではないとか、そもそもスカーフ着用の是非を法で決めるのは女性の服装の自由の権利に対する侵害だとか。著者は男性ですが、スカーフについて女性の視点からも詳しく書かれています。
ドイツ、オランダ、フランス、各国のムスリムに対する対応はそれぞれ違うのですが、共通しているのは、異質なものを排除してむりやり同化しようとすると、必ず反発が起きてかえって分裂、対立してしまうということです。人の持っている文化的背景を力で押さえつけることはできないのだなあと思います。
日本人はみんな同じじゃないと安心できなくて、自分たちと違う人に冷淡だったりしますが、派閥間の微妙なバランスをとったり、他人を思いやったりすることができると思います。将来、日本の少子化問題を解決するためにも、食べるのに困っている北朝鮮の人を何万人単位で受け入れるなんてことがあるかもしれません。
をyo氏がoshige.comにインストールしてくれた。(株)インターワークのサーバにある、このblogのデータを移すことはできないので、ジャンルを限定した新しいblogを作るとかかなあ。
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ツールドフランス6連覇を狙うLance Armstrongも、休息時の心拍数32-40(普通の人の平均が72)、肺活量83ml/kg/min (かなり運動している人で40台、50で相当高い)という、常人とはかけ離れた能力だが、この辺りもアヤシイ。
10年ぐらい前、ウイルス進化論の本を読んだ時はヒョヘーと思ったけど、いまではもう常識なんですね。。。
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ウイルス進化論―ダーウィン進化論を超えて 中原 英臣 , 佐川 峻 |
「辛酸 なめ子」は、本当に知り合いだった。 (- -;;池松さんの「サーヤと私」だったかな?小冊子を読んでなんて面白い人なんだ!と思いました。有名になってしまったらあれはもう表には出ないだろうな。どこ行ったっけ。絶対うちにあるんだけど。

あった
字幕はすべて池澤夏樹。ギリシャ語ができて文芸の心得がある人なんて、そうそういないだろうなあ。
わたしが池澤夏樹の名前を初めて知ったのは、ジェラルド・ダレルの著作の翻訳者としてです。ダレルは「積み過ぎた箱船」の著者として有名ですが、彼の著作で一番人気が高いのは、ギリシャの島でいろんな生き物と暮らした少年時代の話の三部作。
池澤夏樹はその中の1冊「虫とけものと家族たち」を訳した後、この本の中のあまりの幸福感に魅せられてギリシャに移住してしまいました。そして、そこで過ごした2年半の間に後の2冊を訳したのです。
今アマゾンで見ると続編の「鳥とけものと親類たち」は品切れ、続々編「風とけものと友人たち」はなんと廃刊になっていますね。残念です。とってもいい本なのに。ぜひ復刊してほしい。
ちなみにジェラルド・ダレルのお兄さんもロレンス・ダレルという有名作家ですが、ギリシャの同じ体験を書いていても、全くジャンルが違います(^^;)
マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」にも登場するバリー・グラスナー教授の著書「アメリカは恐怖に踊る」は、「恐怖商人」たち、そして恐怖商人がつくりあげる「恐怖の文化」の解読書といえます。ちょうど読もうと思っていた。こういう危機に対する恐怖がじわじわ来ている気がする。今うちは保険の見直しをしている。これもTVで保険のCMばっかりやっているのと、年金問題が全然解決されそうにないから。保険会社だって掛け金を国債に投資してしている。他人に投資を任せるより、どうせなら自分でやった方が経費がかからなくていいんだけど、もしものときに・・・と思うと怖くて保険金額をなかなか削れないのです。あう〜。
香りで癒すのがアロマテラピーなら、飲んで改善するのがフラワーレメディらしい。
このお花の汁で解決という手もある!このレメディ一覧、あたしにはすべて必要に思えて来ちゃう。
JSPORTSで放送されているジロ・デ・イタリア。自転車で走るイタリア1周旅行。きのうの放送は須賀敦子の「トリエステの坂道」のトリエステ。パンターニ追悼特集で放送された98年のジロもトリエステでタイムトライアルがあって、旧市街を堪能できて感無量だった。
今日はイタリアを出てクロアチアまで。初めて見る、クロアチアという国。緑豊かで、青い海に小さな島がたくさん浮いていて、ローマ時代の遺跡もある。なんてきれいな所なんだろう。マンガ「石の花」に描かれているとおりだ。悲惨な戦争があったなんて信じられない。ユーロも使えるらしいし、物価も安いし、イタリア語が通じるらしい。イタリア好きな方はいかがでしょうか。
今日の放送第14ステージは日本人スタッフ(マッサージャーの中野さん)もいるファッサが一丸となって働いて、ペタッキが優勝。解説は昨シーズンまでファッサのメカニックだった永井さん。で、とってもうれしい結果だった。
ロードレースという競技について詳しく解説されているblogを発見しました。
王者が期待通り美しく勝つ、なかなか出来ることではありません。

ああ、とっても重いメニューだった。
特に最後の元従軍慰安婦のお婆さん3人との食事は。
北朝鮮に拉致された人たちのお子さんたちが来日した日、戦時中に日本に強制連行された中国人が賠償を求めた裁判で高裁が時効と棄却。同じ日にその2つのニュースが並んでいるのを見て「皮肉やなあ」と複雑な思いになったのは私だけでしょうか。
他人にとってはもう忘れるに十分な時間が経ったと思われても、当人にとっては、まだまだ生々しく、普通の人とは違う時間感覚で生きているってこともあると思う。そのことで人生が大きく変わり、「今の自分」が決定づけられているとしたら。負け組のまま人生が終わるのかと思えばなおさらのこと。強制連行された人も、元従軍慰安婦も、拉致された人の家族も、911の遺族もそれは同じだとおもう。
ずっと潮が引いた西浜でアサリがいっぱい落ちているのを見た。落ちてるんじゃない。アサリが砂から出てきてボーっとしてるのだった。砂の下から海水がピューピュー吹き出している。この足元にいっぱいいるに違いない。捕って食べちゃうおかな?と思ったけどサイズが小さいし、ここの水ってだいじょぶ?ってのもあってやめときました。
好きです。ここ。本まで買ってしまいました。
互いに責めるのはもうやめよう。それよりこれから先どうすればみんなにとって一番いいか、そのことだけ考えよう。いや、考えてください。おねがいします。
私たちは地震台風目まぐるしく変わる季節の中に暮らしている。「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」と古典作品にあるようにこの列島においては永遠に不変のものなどない。原理主義をふりかざす人には警戒心をもたずにはいられない。
でもここのとこ、あの人質を無条件に解放してくれたクベイシ氏に私の心の針はグラッと傾いている。だってまともだったのはあの人だけじゃないですか?一瞬イラク人、イスラム教徒ををうらやましいと思った。(まあ、うらやましいと言えば心とお財布の利害が一致しているフランス人も「いいなあ、思いっきりきれいごとが言えて」と思ってしまうんだけど)
「イスラームとは、その存在自体が、一つの「経済学批判」なのだ。」
「イスラームはわれわれの世界にとって、なくてはならない鏡なのだ。」
という中沢新一の言葉がしみる夜
![]() | 緑の資本論 中沢新一 |
J SPORTSでは今日からパンターニ追悼番組その2として、パンターニが優勝した1998年のジロ・デ・イタリア全ステージハイライトを放送。でも解説がいつもの解説陣じゃないの(i_i)。98年ってそうだったっけ?私はサイクルロードレースのファンだと思ってたけど、実は解説陣のファンだったのか?
パンターニは亡くなり方がとってもショックで、その前に三宅島の海洋学者ジャック・モイヤーの自殺もあって、この世界が寂しい灰色に思えた。自分の居場所を追われるのは悲しいね。やっと巡り合えた居場所ならなおさら。
![]() | ぐるんぱのようちえん 西内 ミナミ , 堀内 誠一 ![]() |
連休ですね。134号線下り茅ケ崎付近は大渋滞。上り車線では交通機動隊が取り締まりを実施中。海はフラット。夏になる前に焼いておこうという色白な男子諸君がゴロゴロ寝転がっています。
『抵抗論』(辺見庸)を読んで、もっと怒らなければならないと思った : 福岡発アジア映画行き -北国tv僕が、「ブログでは、圧倒的に政府批判が多いですよ」と、現社の先生に言うと、「でも、それは、地下の世界での話でしょう」という答えが返ってきた。
ここ数ヶ月であっという間に日本中に広まった「ブログ」。ブログで世界はちょっとは変わるんでしょうか?それとも海に浮かぶペレット(プラスチック)のように、自己完結のゴミが増えるだけなんでしょうか。対話するペレットなら?
webの掲示板における管理人対ゲストの関係ではなく、トラックバックを使って対等な立場で会話できるのがブログのシステムですけど、あたしのような怖がりには他人のblogにトラックバック打つなんてようできん。ブロガーの絶対数が増えればなんてことなくなるんでしょうか。
んで、人と人との関係の基本が主従関係ではなく、独立した個人対個人という世界観が占める割合が大きくなるんでしょうか。考えすぎか。。。
ところで、このメールマガジンはバックナンバーが最新号しか見れないので、発行頻度によっては数時間しか見れないときがあります。昨日配信された、読者投稿で秋山 寛さんという方が、
「政府が人質を救出したことは、あくまでも政府の意思です。
たとえ家族が救出を依頼していても、政府には救出をしないという選択肢を選ぶ権
利もあるわけです。今回の事件も、「マスコミで報道され、日本の有権者の多くがこ
の事実を知った」ということがなければ、これほど熱心に救出に力を尽くしたでしょ
うか。人道的見地から、国の責務から、国が救出を行うのは義務だと思っている方も
多いかもしれませんが、北朝鮮の拉致被害者のケースを考えて見てください、いくら
要請しても政府が動かないなんて事はザラじゃないですか。実際、紛争地帯で行方不
明になった援助関係者は他にもいますが、家族が外務省に要請しても捜索を行うこと
すら希で、ほとんどは「現地の大使館に関係した情報は来ていない」という答が帰っ
てくるばかりです。
どのような動機であれ政府の意思決定で行われた活動ですから、政府がそのコスト
を負担するのは当然です。そして、そのコスト負担という意思決定に不満があれば、
株主総会で経営陣の責任を問うように、選挙という場で意思決定を行った政府に対し
て不満の意思表示を行うということになるのではないでしょうか。ましてや、自衛隊
の撤退という超政治マターは、人質となった人間には、責任のない話です。
今回の当事者に費用を負担しろという意見は、「自己責任」という言葉を使い「自
立した個人」を装っていますが、実は、屈折した政府への甘えを示しているのではな
いでしょうか。本当に自己責任というなら救出をする必要はありません。家族の要請
には、「No」と言うべきです(犯人非難の声明を出すくらいはするでしょうが)。
この誘拐事件の影響でNGOを通じた援助も影響を受けるでしょうが、知っておい
て頂きたいのは、援助にはいろいろな方法があるということです。現地へ行く方法も
あれば、日本で行う活動もあります。本当にイラクの人々のことを思うのであれば、
とにかく自分で可能な方法でアクションを起こすこと、続けることだと思います。」
とおっしゃっています。
| オリエンタリズム (上) E.W.サイード , 今沢 紀子 |
アマゾンで「すべてのカスタマーレビューを見る」をクリックすると出てくる「しんじゅ」さんのレビューを読んでください。
国民がシンパシーを感じてはまずい人びとに、一定のイメージをあてはめると言うやり方は、日本でもありました。戦前の被植民地だった朝鮮人や中国人に対する偏見などです。
若いうちに海外旅行に行くチャンスを得られた方は、まずヨーロッパに行ってほしいと思います。そこで感じた事を忘れずに、アジア各国のリゾート地に遊びに行ってください。お願いします。
| ヒトデ学―棘皮動物のミラクルワールド 本川 達雄 |
そうそう、この本には「棘皮動物かぞえうた」が楽譜つきで載っている。「一つヒトデは海の星」(なんとなく「いなかっぺ大将」の大ちゃん数え歌に似てるんだけど)前にもいたな、こういう先生「ゾウの時間、ネズミの時間」だった。。。と思ったら同じ著者でした。ちなみに「歌う生物学 必修編」(CD3枚付)もあるんですね。気になるー。買うほどじゃないけど。
というわけで今はルーディ・ラッカーの「フリーウェア」を読んでいる。昔「ソフトウェア」「ウェットウェア」を読んですんっごく面白いとおもった。続きが出ていたとは知らなかった!その続きの「リアルウェア」ってのが出版予定だそう。
にしてもよ、和書と洋書でこんなに表紙がちがうのはなぜ?
遅ればせながら村上春樹の「アンダーグラウンド」を読んだ。その続きの「約束された場所で—underground 2」「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」と一気に読んで頭痛くなった。ああ、やっぱ心理学とかの本読んじゃダメ。かえって病気になっちゃう。
石井忠「海辺の民族学」を読む。だからというわけではないが、数日ぶりに晴れて気持ちよかったので、国道ではなくて波打ち際を歩いてコンビニまで行った。
本日の収穫
ユーゴスラビア解体の原因の一つは意外にも「自主管理体制」だったという。「ユーゴスラヴィア—衝突する歴史と抗争する文明」によると。ユーゴは他の国の社会主義とはちょっと違っていて、党のおエライさんが特権階級として君臨するようなこともなく、公平で理想的な社会主義だったように思えるのだけど、その末期には職場での殺人事件が異様に多かったそう。成功も失敗もなにもかもが党の指導のせいではなく自分の責任なので、もし自分以外に責任を転嫁するとしたら、同僚とか身近にいる人にハメラレタと思うしかないのだそう。で、みんな互いに憎み合うようになってしまい、民族感情に火が点いたと。首相とか大統領とか権力の頂点を作るシステムも意味があるのかもしれない。そういう人たちに世の中の不平不満の責任を押し付けられるから。で、この話しのオチはなんだったか、そのために前置きを書いたはずなんだけど、、、忘れちゃった。関係あったか思い出せないけど『イラク 戦争と占領』(酒井啓子著)を買った。やっと図書館の順番が回ってきた「石の花」はマンガながら壮大なスケールの人間ドラマだった。これは自信を持ってオススメ。ぜひ映画化してほしい。
「魔女の1ダース」だったか、「ガセネッタとシモネッタ」だったか忘れたが「芋づる式読書法」というタイトルのエッセイで紹介されていたユーゴ関係の本。旧ユーゴスラヴィアでとっても悲惨な内戦があったのは誰でも知っているけど、どうしてそんなことになったのか、ちゃんと言える人は少ないとおもう。
「ユーゴスラヴィア—衝突する歴史と抗争する文明」はそれを明解に説明してくれる本。序章を読んで早くもちょっとグッタリ。言語によるコミュニケーションが閉ざされた相手と交渉する手段が暴力しかなかったセルヴィア。でも欧米経由のニュースで悪者扱いされていたセルヴィア人の立場は、もしかして他人事ではないかも。今の日本の国際語はお金しかない。日本の主張に世界が耳を貸してくれるのは「経済協力」という単語を含む時だけだろう。はー。とおもいつつ、
「バルカンをフィールドワークする」を読む。この本は「言語地理学」の先生が「月刊言語」に連載していた文章だそうだけど、大変おもしろく味付けしてあって、笑ったりへーボタンを押したりしているうちにあっと言う間に全部読んでしまう。お風呂で読んでいて没頭してしまい、私がお風呂場で倒れてるんじゃないかと家人が心配して見に来たぐらい。国際ニュースや映画で知るユーゴスラヴィア人って、何考えとンのじゃ?一体!だけど、著者が調査をする上で知り合ったマケドニア、セルヴィアの人たちは生き生きしている。巻末には著者がよく作る、日本にある材料でできるバルカン料理のレシピまでついている。うまかった現地の味、作ってくれた人の思い出と一緒に。
旧ユーゴの歴史を知るにはこれ!というのが「石の花」だそう。これはマンガで図書館で予約してるのだけど、人気が高いらしくなかなか順番が回ってこない。
図書館でふと借りた。別にたいしたことが書いてあるわけじゃないのに、読んだあとグッタリしてしまう。口の中がツバでいっぱいになって、過去に味わった食べ物の匂い、触感、咬み心地、歯から伝わる音、のど越し、あらゆる感覚が呼び起こされる。取り上げられている食べ物の話し一つ一つに「そうそう!」と相づちを打つ。途中でパタっと本を閉じて冷蔵庫の方へフラフラ行ってしまう。明日あの店に行ってあれを買って食べようとメモに書く。あー疲れる。
やっぱり、あたしって右足と左足の長さが違うんだと納得。足の長さが違う人は結構いるらしい。大体短い足の方を軸足として使う癖がついてしまうそう。そう言われると思い当たる事だらけだけど、だからといって長いほうをちょっと切るわけにもいかないし。。。どうすりゃいいんでしょう。
ミトンの編みぐるみがかわいいので姪へのクリスマスプレゼントに購入。ところがアニメーションの写真で構成された絵本ではなくて、「このアニメがとっても好き」という本だった。編みぐるみの作り方が載っていた。
で、絵本を購入。どんな人も絶対涙が一粒ほろりと出ちゃいますよ。でも、これ読んだら姪は母親(あたしの妹)に「子犬を飼って」って言うだろな。妹は困るだろう。。。とプレゼントの箱に入れるのをやめました。私が手元にもうちょっと置いてながめていたいってのもあるし。こどものための本というよりは、大人がこどものころを思い出してキュンとなる本なのかもしれません。
アニメーションはこの冬ユーロスペース他にて公開。
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「ハルヴァ」はイランあたりが起源で、旧オスマン帝国の領域などアラブ人が行き来した地域に分布しているそう。スペイン、シチリア、ギリシャ、東欧、中近東はもちろん、中央アジア、インド、なんと日本の「求肥」「落雁」も同類のお菓子らしい。てことは経由地の中国にも似たようなお菓子があるはず。。。だよな、と思いつつ寝たら、思い出した!桂林の遊覧船で出たお茶菓子。外見は雷おこしみたい。紙で包んだ長方形のバー。開けて食べようとすると、手で持てないほどボロボロ。指でつかむのはあきらめて、包紙からザラザラと口に入れると、うむむー?焦がした小麦粉とお砂糖を油で固めてみました。て感じだった。たしかにあれはハルヴァと落雁の中間に位置するものかも。あれは14年前だった。あの素朴を通り越して原始的なお菓子はまだあるんだろうか。
包み紙の中央に「ここにお菓子を置く」という目安のカッコが印刷されていました。
著者が子供のころ住んだプラハで、ロシア人の友人がくれた「ハルヴァ」というお菓子が出てくる。当時の著者にとっては忘れられない味だったそう。その幻の味の情報が友人知人によって、旧ソ連イスラム圏、東欧、ギリシャ、シチリア、スペイン、インドと各地から寄せられる。
各地でのレシピを見て、ハッこれは!と思い当たった。トルコ人ペテクさんのお宅で一緒に作った松の実のヌガー。あれにそっくり。大量のバターとお砂糖と小麦粉を火にかけながら混ぜて混ぜて混ぜて腕がクタクタになって4人で交代しながら作ったのだ。空気を含んだやらわかいヌガーに松の実を入れて、冷まして固まったのをサクっと口に入れると、味は強烈に甘く、重かった。
ペテクさんが「おいしい?」と心配そうに顔をのぞき込むので、3人でおいしい!と叫んだけど、たくさんは食べられなかった。たぶん、とっても疲れたとき一口食べるととびきりおいしいだろうな。お砂糖の甘さしかないから飽きちゃうのよね。フレーバーが必要なんだわ。松の実だけじゃなくていろんなナッツや香辛料を入れたらどうだろか。マサラティー味のマサラハルヴァとか。。。あ、でもイギリスにあるというミント味のハルヴァはめちゃくちゃマズイって書いてあったなあ。
筆者が飼っている猫も出てくる。拾ってきた野良猫の兄弟で「無理」と「道理」。この子たちが麺類が大好物と読んで、ちょっと安心。うちの猫だけじゃなかったんだ。茹でたばかりの味のついてない麺類を「あー、たまりません」という顔でツルツル食べるのは。
甥っこに送る本を探して図書館の児童室へ。子供の本は手に取って見ないとわからない。甥っ子のリクエストにかなう本を探し終えて、ふと脇に見つけた本。リンドグレーン、ヤンソン、北欧の作家の本に共通なのはコケを踏んだ時の足の裏の皮膚の感覚。子供のころ好きだったのは、ストーリーより自然の樹や石の触感、白夜の光、風の冷たさ、本の中に満ちている空気だったんだとおもう。
キル・ビルが話題だが、日本でもハチャメチャな復讐モノが公開される。「昭和歌謡大全集」。少年VSオバサンという設定がもう笑っちゃう。原作は村上龍。こんなの書いてたのねー。
にしてもタランティーノはNHKの教育系番組「英語でしゃべらナイト」にまで出てました。BRUTUS買いましたよ。レコードのコレクションの写真が見たかったな。
幻の名著らしい。けっこう高い本で、取り寄せてハズレだったらショックなので、まずは図書館でチェック。パラパラとめくって、購入を決定。毎晩少しずつ読んで楽しむことにする。
いやー、おもしろかった。世界像革命—家族人類学の挑戦。20へェー。言われればそんな気になる、血液型占いのような気もするが。

先週読んだ本。悪の枢軸を訪ねて1時間で読める。読みながらヘエボタンが欲しくなるでしょう。後半のイラクに関しては酒井啓子さんのイラクとアメリカからの引用が多い。
米原万里のロシアは今日も荒れ模様に何度も出てくる独裁者たちへ!!—ひと口レジスタンス459を探していて、翻訳の名越健郎つながりで、世紀末宗教戦争マップ
なぜ世界中に無意味で不毛な戦いが存在するのか?なぜ互いに理解しようとしないの?ゆうべのETVで放送されていたが、養老 孟司 のバカの壁が売れているのは、「なぜなの?誰か教えて(手っ取り早く)」と思っている人がたくさんいるってことだろうか。
サンマが豊漁とかで、安くておいしい。サンマには大根おろし。ところでピルエットのとき、体の重心を感じるためには、背骨がまっすぐで、両肩の高さが同じであることが必要。私は姿勢が悪くてどうも背骨が曲がってる。ゆがんだ体をまっすぐにするには、利き手ばかりでなく意識して両手を均等に使うのがいいそう。大根おろしも両手を半々に使っていたが、今日、気づいた。今までは右手で始めて、後半左手でやってた。でも左はやっぱり不器用なんで、小さくなった大根もろとも自分の指をガッてすっちゃったりして痛かった。左手で始めて、右手でフィニッシュすればいい。どうでもいいことだけど、早く気づいてれば痛くなかったな。

ちなみに学生時代に脳の右側で描けと言う本を読んで以来、そうすればデッサンが上手になるのかと思って、両手を均等に使うよう心がけてきたが、絵の場合効果は??? 美術科の同期の学生は左利きの人が多かったけど(50%)。血液型がB型の人も異様に多かった(70%)というくらいキモチの問題かも。