やっと上巻の順番が回ってきた。1日で読了。てゆうかスキャン。下巻を先にじっくり読んでいたので、もう上巻は教科書を読む気分で目を通しただけ。
巻末に、地中海沿岸各地に遺された「サラセンの塔」の写真がある。ジロ・デ・イタリアの放送を見ていると、人里離れた海岸線にポツンと円筒形の要塞みたいなのがあって、なんてかわいい!海辺に小さいお城が。。。なんて思っていたが、あれは海賊の来襲を見張るための塔だったのね。
JMMの海外レポートも合わせて読むとおもしろい。
図書館で予約していたら、下巻が先に来てしまったので、下巻から読み始めました。最初の4行でブル〜〜っと来た。その4行で、いろいろ考えることがあり、意識はあっちこっちへと。。。
町山さんのポッドキャストを聞いて、アメリカっておもしろい社会だなあと常々思っていて、そのネタは町山さん本人が「師と仰ぐ」という越智道雄という人の著書にあるのではないか?と勘ぐった私は、越智道雄氏の本を続けて読んでみました。秘密結社とか、WASPとか、キリスト教右派とか、CIAとか、もうたくさんというほど読みました。その中で、これは軽い。キリストと同じ時代の物を食べて健康になろうという、地中海式ダイエットの本。
巻末の解説がおもしろい。それによると、最近はキリスト教右派の勢力も、無知蒙昧な人々ではなくなりつつある。ジャンクフードで健康を害するなど、
産業主義の弊害に目覚め始めたアメリカ人の多くは、今、懸命に自分の方向修正を図りつつあります。例えば、ガソリンによる汚染と温暖化への反省から起きた「スポーツ汎用車(SUV)反対運動」に則して書かれた「イエスは普段、どんな車に乗るのか?」、あるいはスクール・シューティングなど異様な行動に走る子どもの登場に怯えて「イエスは普通、どんな子育てをするのか?」など、似たような主題の本が。。。
ここまで読んで私はブハっと吹き出したが、スミマセン、それってホント?
昨晩、NHKの爆問で歴史人口学の話を聞いていた。それによると、日本の人口は奈良時代に爆発的に増えた。旧来の狩猟採集から稲作に移行して食糧が増えたといっても、縄文時代の人口から自然に増えるには無理がある数値。ということは大陸から多くの移民が来たと考えられる。その数は、全人口の8割(って言ってなかった?)。奈良時代の日本は超移民社会。今のアメリカと、奈良時代の日本って似てない?どうだったんですか?阿修羅像にきいてみたい。
阿修羅といえば、今発売中のBRUTUSは仏像特集ですね。
BRUTUS「仏像特集」メイキング〈阿修羅像撮影編〉 (フクヘン。- 雑誌ブルータス副編集長、鈴木芳雄のブログ)
読む順序を間違えたみたい。「いち・たす・いち (脳の方程式)」から読むべきだったのか。。。それでもよく理解できないかもしれない。いいんですよ、わからなくても。「天才は冬に生れる」が絵本なら、この本は叙事詩かな。
本書でほうと思ったことは2つ。
1.局部麻酔と全身麻酔では、薬が効く仕組みが違う。そして全身麻酔の理屈はいまだによくわかっていない。
2.生物の形態や機能は、外部の誰かがデザインしたのではなく、自分自身の物質としての性質による。
ダーウィンの進化論は、進化の要因が、環境とか生存競争による淘汰とか、やはり外側にあるという点で、むしろカトリック教会の教えに近い?
先週の爆問の先生、中田力氏。この人の研究の内容について、肝心なことが全くわからんかった。図書館で著書を検索して、とりあえず在庫があったのを読んで見た。
コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ハイゼンベルグ、ラマヌジャン、ノイマン、ホーキング。なぜか天才は冬に生れているという序章。けどそれがこの本のテーマではないことはじきわかる。
「哲学のなぐさめ」と同様の構成。歴史的な科学者の生い立ちと業績について、難解な用語を使わずに、簡潔に述べられている。科学史の絵本ともいえる。その絵とは1ページを使って表わされる公式だけど。明解で美しく、ほっとする。あっという間に読み進むうち、科学と世界の関わりについてなんとなく感じる仕組みになっている。
印象に残ったのは「核兵器の拡散に最終的なブレーキをかけたのは、アインシュタインの手がけた平和運動ではなく、ノイマンのゲームの理論だった」という部分。
昨年末に初めて知ったショックな事実を思い出す。広島はともかく、長崎への原爆投下はデータを取るための実験だった、という。
ノーベル賞を勘違いした日本人:日経ビジネスオンライン
(以下はコラムニスト伊東 乾氏の推測)ノーベル財団は、核開発に関わった科学者にノーベル賞を授与するにあたり、被害国の日本人にも与えてバランスを取った。川端康成の自殺はその事と無関係ではない。
岸本佐知子翻訳。のっけからして、ええ?そそんなって。。。という設定。ぐっとつかまれたところで、孤児になった主人公が灯台守にもらわれてきた夜のこと、はじめて内部に入った灯台の暗闇の描写に、ああ、やられた。。。もうダメ。骨抜きになった。
はずみがついたところで、著者の自伝的小説「オレンジだけが果物じゃない」を読んでみた。かなり風変わりな育ての母親との格闘と自立の物語。 映画「キャリー」を思い出すんだけど、主人公は超能力で親や世間に復讐することもなく、淡々と自分の道を歩み始める。
主人公は思春期の多感な時期に、他人から見れば大変な状況になってしまうのだけど、その自分の置かれた状況を1歩下って客観的に眺めているような、事実を受け止め、やるべきことをやる冷静さに共感が持てる。これは岸本さんの訳だから?このニュアンスは原語だとどんな感じなのかな?「灯台守の話」の闇の描写も英語で読んでみたい。
主人公も、母親も、周囲から「イカレテル」と言われながらも自分の信念を通す。自分の判断を信じ、努力を惜しまず、かなりやり手だ。信じるものは違っても、そのスタイルは同じ。
小さいころから、母親にカルト宗教の伝道師となるべくたたき込まれた、そのやり方によって、主人公は親から独立した。主人公は、親の望む姿には成長しなかったが、生きる力は親からしっかり受け継いだ。
親って大変だな。私の年齢のせいか、または自分も親の期待を裏切ってがっかりさせた類だからか、つくづく思う。子どもが最終的にどういう人間に育つか、親には選べない。基本的な生き方のスタイルしか叩き込めないんだな。
宮本常一、12人との対談集。丸谷才一の芭蕉に関する考察。杉本苑子の平家落人村伝説はいかにして生成されるかについての仮説。中西陸の牛の分布から、当時の街道や交易の範囲がわかるという話。などがおもしろかった。
「愛される事、快楽に対して貪欲」なのは女性の特質、らしい。それはそっくりうちの猫にもあてはまる。猫のような気性を持った人は、男性にも女性にもいる。子どものころは誰でも「愛される事は死活問題」だし、ヒトの基本的な性質だけど、大人になっても愛に貪欲な事を自覚していない、またはコントロールできない人の方が生命力にあふれていて、結局長生きだったりするんだな。
女性が愛に貪欲なのに対して、男性が執着するのは権力。と著者はいうが、じゃあ、女性が権力に無関心かというと、けしてそんなことはないと思う。あの韓流ドラマだって、ラブロマンス風につくってあるけど、実は権力闘争の物語で、女性たちはそれを喜んで見ている。チャングムでも篤姫でも、男性は権力を手に入れるための道具でしかない。
この長年女性たちが巧妙に隠してきた真実を暴いた本が「できそこないの男たち」。この著者の訳による「Yの真実」も読むとわかりやすい。本を読む時間がない人には、本人がラジオに出演して著書の内容を話したものを、ポッドキャストで聞ける。
TBS RADIO 11/14(金)コラムの花道 (小西克哉 松本ともこ ストリーム)
アクセス特集・田中康夫+福岡伸一・12月8日(月) - アクセス
ベストセラーの「生物と無生物の間」のダイジェスト
TBS RADIO 12/10(水)スペシャルウィーク・賢者の花道 (小西克哉 松本ともこ ストリーム)「コラーゲンがお肌に効くというのはウソ」という衝撃の発言が。
Yahoo!ポッドキャスト - サイエンス・サイトーク - 2007年11月25日:生きているとはどういうことか
「生物と無生物の間」も「できそこないの男たち」も固い内容だけど、著書のところどころに挟まれる、同業の研究者の生き様に関するエピソードがじわ〜っと来る。
LOHAS TALKによると、福岡先生が2008年の「今年一年のロハスな本」に選んだのは「銀むつクライシス」だったそう。あたしも読みましたよー。
表紙がいいです。中身もQ&A形式でわかりやすい。カフェインレスコーヒーはどうやって作るのですか?の答えに、ホエー!と感心しました。
にしても、ネットのニュースに「コーヒーに何々病を予防する効果がある事がわかった」みたいな記事が定期的に出てくるのはなぜなのか?コーヒー、バナナ等プランテーション作物の業界は情報操作に大金を投じてる?
情報といえば、わたしはELLE a tableという雑誌のメルマガを取っているのですが、先日そのメールのタイトルに度肝を抜かれました。
【ELLE a table mail】#174 排卵期に駆けつけたい"生肉"の名店とは?
レオナール・フジタ展
修復が終わった幻の大作と、晩年に焦点を当てた展覧会。今回のドヒャー!は、宗教画としての地獄絵。「ヨハネ黙示録」。それを見たとき、前に見た地獄絵を思い出した。
いつだったか、国立近代美術館で日本の近代絵画の大回顧展があって、日本の至宝の絵画が一斉に陳列された。その際、美術界でタブーとなっていた「戦争画」というジャンルが初めて公開されたのです。有名な画家が当時の政府に協力して描いた戦場の絵。
「近代日本美術の名作−100年の軌跡」所蔵作品による全館陳列
この構成中、戦前と戦後に挟まれている「�社会の中の芸術家」というのがそれだったんじゃないかな。小磯良平などはどんなテーマでも小磯良平だったが、藤田嗣治のは見た事がない画風で驚いて記憶に残った。これが本当に藤田嗣治?
南の島で一般人、女性や子どもたちが集団自決している「サイパン島同胞臣節を全うす」。181*362という大画面の前に立つと、自分がその絵に吸い込まれるというか、その場に居るような錯覚に陥る。火薬の匂いで鼻の奥がつんとなる感じ。運命に翻弄される人々の断末魔の叫びが聞こえてくるようだった。
同時期の作品「アッツ島玉砕」↓
第7回「戦前」と「戦後」は断絶しているのだろうか?:社会メディア論 II
「藤田嗣治「異邦人」の生涯」によると、藤田はその題材を、芸術として描く事に熱中した。巡回展示された地方で、絵に手を合わせて拝んでいる人たちを見て、ふだん芸術に縁のない人の心をそれほどに動かした事に、自分でも驚いたという。
フジタは若いころ、西洋美術の真髄を理解すべく、毎日ルーブルに通って、古代〜中世〜ルネサンス〜とあらゆる絵画を研究したらしい。
フジタの目には、西洋絵画にいやというほど出てくるテーマ「キリストの殉教」「最後の審判」の図が焼き付いていたのでは。そして自分も過去の大作家と同じように、画家としての究極の仕事「最後の審判」の場面を描かなければならないと思っていたんじゃないかな。キリスト教徒でない日本人の自分は戦争画によって。。。
きっと戦利品の美術館であるルーブルの呪いにかかってたんだと思うな。
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フジタは、非常に勤勉で、酒も飲まず賭事もせず、ただただ絵を描いていたらしい。制作の時間を確保するのを怠ることを戒めるため、手首に腕時計の入墨を入れていたそうだ。アトリエでの写真を見ると、そんなフジタを休ませようと「生産効率低下委員会」が盛んに活動しているのがわかる。膝に乗ったり、スケッチブックの上に寝そべったり。しかし彼らの活動も、フジタのいっそうの制作意欲をかきたて、裏目にでてしまったようだ。

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フジタが晩年を過ごしたパリ郊外の家は、インテリア雑誌に載っていそうなカントリースタイル。そのオシャレなキッチンの隅に、なにやら見慣れた白いモノが。。。電器炊飯器でした。:)
片岡義男によると、日本語とは、時間や空間を越えて人類に共通な何かを求める道具としては適していなくて、どっちかというと、空気を読んだり相手を思いやったりという微妙な作業を伴いながら、とりあえずその場の利害関係を調整するのに向いているらしい。そういう言語を使うからそういう思考様式になるのか?そういう世界観だから、そんな言語に発達しかのか?ニワトリと卵のようだけど。
すると日本語を使っている限り、日本の政治はずっとこういうものでありつづけるしかないってことか?
この本が出版されたのは1997年。第一次湾岸戦争の後。当時、職場の同僚のアメリカ人と論争になった。私がブッシュ(父)の政策を理解できないというと、同僚は「大重さんは平和主義者なのよ」と言い、「ダンの弟だって(前線に)行ってるしね!」と決めゼリフのように言い放った(ダン=われわれの上司)。それがなんで決めゼリフになる?ずっと不思議だった。この本を読んで、アメリカ人の戦争に対する心理構造がちょっとわかったかもしれない。「job」と「home」という言葉に代表される。。。
ある言語には、特有の思考様式がある。母国語の中にいる限り、その呪縛から逃れられない。著者は日本語と異質な言語として英語をあげているけれど、その英語も、英語を母国語としている人が話す英語は参考にならないという。第2言語として習得した人の話す英語が、母国語の外に出るヒントを与えてくれるそうだ。具体的には、ダライ・ラマやネルソン・マンデラが話す英語がイケテルという。
片岡義男が述べている事を、わたしは日本語で読んで「人から聞いた話」として自分にインプットした。
移民・難民・亡命者の物語と故郷の味。なつかしさとせつなさと。著者はパリで小さな独立レーベルを経営していた経験があり、自身もバンド活動をしていたそう。ル・モンド・ディプロマティークの翻訳スタッフとしても名前を見かけます。
わたしにとっての故郷の味は。。。それは子どものころ母が作ってくれたハンバーグ(笑)。以前、WIREDで、日本人の本当のソウルフードはカレーライスだという、日本に留学経験のあるアメリカ人による記事を見た事があります。自分で思っているイメージと真実は違うことってあるよね。
あと、懐かしいのは高千穂の釜炒り茶。義母が毎年送ってくれていました。実家は宮崎市内なのですが、実家のご近所さんがそのお茶の卸売りをしていた縁で、実家のお茶は釜炒り茶でした。今はそのご近所の奥さんが引っ越してしまったので、もう手に入りません。
あるとき、中華街で飲んだ台湾のお茶が、味といい葉っぱといい、そっくりだった。調べると、釜炒り茶は中国からお茶が渡来した当時の製法で作られるらしい。高千穂には神話やお神楽も残っているし、九州の山奥に、大陸からやって来た当時のものが、そのまま、まだ残っているとは。
大分のわたしの実家の母は、健康食オタクで常に新しいものを追及する人で、昔ながらの定番の味、というのはあまりありません。祖父母と同居していましたが、祖母は東京出身だし料理が出来ない人だったので。ちなみに、祖母はキャベツのことを「カンラン」と言っていました。
能のエクササイズって、バレエと共通なところが多いとまたまた実感。「すり足」が深層筋をつくるというのを読んで、バレエレッスンでロンジャンアテール(片足を軸にし、もう片足をすり足で回す)をやる意味がわかったし。
そして、この本を読んだ収穫は、姿勢を決めるスイッチが指先にある、とわかったこと。図解の通りに、親指と人さし指を軽く合わせる、能の「カマエ」の形をすると、自然に骨盤の角度、体の重心の位置が決まるではないですか。それをバレエの指の形(広隆寺の半跏思惟像の右手の中指だけをふっとのばした感じ)にすると、自動的に重心が20cmほど上に移動する。そして元に戻すとまた重心が下る。指の型のスイッチを変えるだけで、自動的に!
無理にダイエットしなくても、必用な瞬間だけ痩せて見える方法がある、それは体を縦に伸ばす、姿勢をよくするってことなんですが、姿勢をよくするっていったって、具体的にどうすればいいのか素人の人には難しい。
わたしは子どものころからずっと姿勢が悪いと言われ続けていました。今も気を抜くと、いやほとんどの時間は気を抜いてますが、猫背です。バレエを習って初めて、いい姿勢とはどんななのかがわかりました。これは自分ではなかなかわからないものだと思います。
生まれつきの身体上の弱点も含めて、外見について情け容赦なく指摘され、くせを直され、それを自分でも認めることができて、やっとわかったのです。(オオシゲさん、あなたはカオがダメ!って何度も言われた^^;)人はなんとなく、そうは言っても自分はイケテルと根拠なく思い込んでいるところがあると思います。それを打ち砕かれるのに、相当な時間と投資が必用でした。
それがですよ、体幹を意識するなんて難しい事をしなくても、指の型だけでも、ある程度はできる。そこにもっと早く気がつけばよかった。
指の型が決まっているといえば、仏像ですけど。あれはやっぱり仏像のモデルさんが、長時間同一のポーズを続けられるよう、指のスイッチを入れてたんだと思うな。
今度、国立博物館の法隆寺宝物館に行くことがあったら、指の型と体の重心の位置の関係を見てみよう。あの暗い部屋に小さな仏様がずらりと並んでいるのを見ると、圧倒されて吐きそうになるけど。いや、あそこはすごいですよ。
日経ビジネスオンラインで連載中の「中国"A女"の悲劇」を読んで、むむ〜!と思った私は筆者の近著であるこの「中国動漫新人類」を読んで、またまた「えーそうなの!うーむ」とうなった。
著者は中国育ちで、日本に帰国後理論物理学を専攻、大学教授となったが、80年代に中国から大量に留学生が来るようになると、自分の過去の経験を生かして留学生たちの世話をするようになった。その数、数万人単位。たくさんの中国の若者に接するうち、ある年代から急に変化が見られるようになったと感じた。
それは、日本のマンガ・アニメの影響を受けているということらしい。一方で、その同じ若者は江沢民の愛国教育による激しい反日感情も持っている。反日と、日本アニメ大好き、その相反する感情が一人の中に矛盾する事なく同居する、これは一体どういうことだろうかと調査した結果がこの本。
調査はすべて著者自身による直接インタビューという形で行われた。対象は中国人留学生から、本国の大学生、街頭の人、海外に住む華僑、中国共産党幹部、などなどありとあらゆる分野の人たち。著者の顔の広さと根掘り葉掘り本音を聞きだす話術に脱帽。66歳になる著者は、調査のために孫とその友人から「スラムダンク」全巻を借りて読破したそうだ。
前半は、知られざる中国のアニメ事情。中国の子どもたちに日本アニメを浸透させたのは、安価な海賊版だった。たかが子供向けのマンガと政府が見逃していた間に、子どもたちは、上から押し付けられたものでなくて、自分のお金で自分の好きなものを選ぶという資本主義の基本を学んだ。という説。
後半は、江沢民の愛国教育が反日暴動に至った事情。共産党がやばくなったので国民の目をそらすために政府が裏で糸を引いてたんでしょう、という単純なものではない、という著者の解釈。特に第6章に書かれている、反日の発火点はサンフランシスコ、クパティノの反共華人からなる人権保護団体による署名活動だった、というのには驚いた。
中国の人権問題に向けられるのと同じ視点で、旧日本軍による慰安婦問題が告発されたという事実。チベット問題などで中国の人権の状況を非難するのと同様に、世界は日本の慰安婦問題も見ている。自分はシリコンバレーとは無縁ではないと思う人は、この章を読んでおいた方がいいんじゃないかな。
あと、なんで中国はああなのか?と平行して、なんで日本はこうなのか?という疑問に答えてくれる一撃な回答を得た。それは「日本人は、アメリカに負けたと思っていても、中国に負けたとは思っていない」。言えてる。戦後、アメリカは日本に対してメディア戦略をして「アメリカに負けた〜」「絶対かなわない」と強く印象づける事に成功した。著者はここで「日本テレビとCIA」という本を参考に挙げる。
近所に要塞のようなあやしい家がある。あるとき、その家の前に黒い街宣車が停まっているのを見た。それ系か!なんとなく納得したのだが、その後、またまた謎は深まった。ときたま電動のガレージが開いて家主を乗せた車が出てくるのを見るのだが、それがものすごくウエスタ〜〜ン♪なのだ。でっかいオープンカーのハンドルを握る年配の家主さんは、ヒラヒラのついたバックスキンのジャケットにカウボーイハットで、助手席にはでっかいお犬様たち。街宣車系の人って、国粋主義者じゃないの?外出時には羽織袴、乗り物はTOYOTAじゃないの?右翼にしてアメリカ大好きって本人の中で矛盾しないのか、不思議。反日でアニメ好きな中国の若者より理解しがたい。
ーーー
この本を読んで、またまたクアトロ・ラガッツィを思い出した。若桑みどりさんも、この本の著者、遠藤誉さんも、専門は別分野ながら、語学に秀でていて、根気よく集めた1次情報から、異文化の交流について考察している。そしてそのテーマの根底には、若いころの衝撃的な体験があり、今、時代の変換期にあたり、自分の使命を果たそうとしている年配の女性。
人は、今現在自分に起こっている事はなかなかわかりにくい。なんでなんだろう?と苦しみ悩んでもやもやした状態に耐える。時間がたてば、ああ、あの時の自分はああだったんだな、とわかることもある。それが、他人を横で見ている時は、それはこういうことだから、こうすればいいのに、と歯がゆくおもったりする。
国際問題も、同時代の他国、または他国から見た過去の自国を取材する。すると、今現在のことなのに、遠くから俯瞰するように自国を客観的に理解できることもあるんじゃないかなと思う。
私は最近「"現代家族"の誕生―幻想系家族論の死」という本(女性の著者によるインタビューから構成された本で、別名「親の顔が見てみたい調査」)と「中国"A女"の悲劇」(日経ビジネス オンライン)の
第8回 私が出合った<A女>たち(1) 〜年収2000万円相当、人柄最優先、でも結婚は"怖い"
第9回 私が出会った<A女>たち(2) 〜「漢民族の男とは結婚したくない!」を読んで、自分、母、祖母について考えてしまった。
「戦争とジェンダー」のアマゾンのレビューで、家父長制が戦争の原因なら、それがなくなって平和が来るのはいつの時代のどこなんだ?というのがあったが、わたしはそれは今の日本じゃないかと思う。
平和はいいことだ、でもそれはそれで男性にきびしい状態なんだろうか?
「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
ならさ、男性たちが非生産的な戦争なんつうものに行ってくれれば、その間に女性たちに仕事のチャンスが回って来るとも期待できるよね。
もし今の社会が戦前の日本のような家父長制で女性に経済力が無ければ、女性はあんな人イヤこんな人イヤと言わずに、生きるために誰とでも結婚するんだろうか?
三砂(みさご)ちづるさんは、i-morlyのインタビューで、「女性の高学歴と社会進出には、娘たちにそうするようにとの母親たちの強い希望があった」とおっしゃっています。「自分たちの結婚生活がよっぽどイヤだったんでしょうね!」と。
女性から経済力を奪えば、多くの男性に結婚のチャンスが来るだろうか?いいや〜、経済力を持つ少数の男性が愛人を何人も囲うだけだと思う。で、愛人がいる男性の家庭がうまくいくはずもなく、家の中は地獄。そんな家庭に育った息子はグレて(わたしの祖父)娘たちは、結婚を恐れて修道院へ(わたしの大伯母たち)。
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ジェンダーとかフェミニズムとかの本を読むと、女性VS男性という構図しか見えない事が多い。でも、生物的には、男性のY遺伝子は大して情報を持っておらず、男性の役割は女性が持っているX遺伝子を運ぶ事だ。結婚は男女で1組だけど、遺伝的には、女性と、男性の母親との遺伝子交換になる。
男性は、その母親である女性の出先機関、遺伝子を残すための手先。だから、男対女の戦いは、実は女対女のたたかいでもあると思う。息子に出世してもらいたい、お金持ちになってもらいたい、功徳を積んでもらいたい。それは他の女性の遺伝子(を運ぶ男性)に勝つためだ。
遺伝子そのものにまるで意志があるかのような言い方はまちがっている、と福岡伸一先生はおっしゃっているけど。
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なんか、全然まとまりなく何を言いたいのかわからなくなってきた。あの911以後、女性が書く異文化の本が変わってきたなと思う。かつては自慢系、説教系が多かったと思う。こんなに素敵な外国生活、それにひきかえ日本はダメねえ、みたいな。
私は911とそれにつづくアフガン空爆、イラク戦争、自衛隊の派遣を絶望的な気持ちで見ていた。そういうときにこそ何かを発言してくれるはずの地誌雑誌「ナショナルジオグラフィック」が文明の衝突問題に及び腰なのを見て、定期購読をやめた。
その一方で、地道な仕事で、使命を果たそうとした人がいた。若桑みどり、本書の遠藤誉、それからblogやメールメディアで情報を(無料で)発信してくれる女性たち。その仕事を読む事の出来る幸せを今かみしめている。
それにくらべると、男性が書いた本は相変わらず主観と幻想にたよっているものが多いと思う。
ーーー
ところで、秋葉原の事件の記事を見るたび、「このことについては町山さんに聞け」と思ってしまう。
EnterJam 町山智浩のアメリカ映画特電
第10回 2006/12/06up『ザ・ワールド・イズ・マイン』
そうそう、AEDについて調べたんですよ。器具の使い方はなんとなくわかった。しかし、新たな心配事が。。。それは、AEDを使用する場合、胸部をはだけるので、特に救助されるのが女性の場合、人目をさえぎらなければならない。やじ馬を遠ざけ、目隠しを設置する係を任命すること。らしいのです。だよな、そうだよな、「あ、そこのあなた!人目を遠ざける係をやって」とテキパキ言えるだろうか?それに誰を選んだらいい?やっぱり腕っぷしの強そうなカリスマ性のありそうな人か?それも女同士じゃないと。。。むずかしいなあ。電車に乗るたびに、この車両の中で任命するとしたらこの人だ、と10秒で決断する訓練をやっとくか。。。アホやな。
ーーー
その後の「中国動漫新人類」 〜「中国同人事情----オタク、何やってる?」:NBonline(日経ビジネス オンライン)
3ヶ月読んでいたことになる。最後のページをめくると、旅が終わってしまった時のような寂しさでがっくりしてしまう。空港から家に帰るために普通の電車に乗ったときのような。
かつて少年使節だった4人のそれぞれの最期。。。国外追放、病死、棄教、殉教。棄教した一人は、キリスト教か仏教かという以前の問題として、宗教に対する信仰心そのものがなくなってしまった。彼はわたしだ。と思う。
16〜17世紀の80年間に、日本にカトリックの布教の波が来て引いて行った。それはカトリック国スペイン・ポルトガルによる世界帝国の拡大と、やがて覇権がプロテスタントのオランダ・英国に移って行った事と関係している。そうです。
やはり宗教と経済は切り離せないと思う。しかし日本では、隠れキリシタンという、世界でも類を見ない信仰の形が残った。
神父の追放令が出たとき、ある神父たちは本国スペインの軍事力で威嚇し武器をとって戦おうとした。またある神父たちは、信者たちを見捨てるわけにはいかないと国外に逃げずに地下に潜って活動を続けた。
前者の神父たちの行動は、時の権力者のいっそうの猜疑心を呼び起こし、弾圧に拍車をかけた。後者の神父たちは全員処刑され教会が破壊されても、民衆の心に信仰を残した。
違う文明が出会い影響を与え会うということ、自分たちの文化を分かってもらうということについての、失敗事例と成功事例がここにあると思う。
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文庫もあります。
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青春と読書 本を読む「クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国」
少年使節がヨーロッパに行っている間に、キリシタンを保護した信長は暗殺され、秀吉の天下となった。
信長は、当時としては非常に珍しい、近代的な合理主義者だったと著者は分析しています。がゆえに暗殺されてしまった。明智光秀のバックにいたのは誰だったかについても書かれています。信長暗殺のいきさつを読み、その夜フリーチベットの集会の中継の再放送をオーマイニュースで見、うーむ日本は呪術によって保護支配されている島国だなあと感じました。
日本に最初に布教に来たカトリック宣教師たちが属するイエズス会は、司馬遼太郎の「南蛮の道」を読むとよくわかるが、スペインバスク地方出身の元城主、元騎士団の隊長などで結成されたエリート集団だった。
もともと支配階級の軍人たちだったので、日本で布教をするにあたっても、まず領主に会い許可をもらってできればその人物を改宗させ、そうすれば領民も自然と改宗者が増えるだろうという、垂直型伝播方式をとった。それに対して、その後に来たフランシスコ会は、まず社会の底辺の人から布教を始める、水平型伝播方式だった。
イエズス会がトップダウン方式だったのは、元々自分たちがエリートだったからで、人は知らず知らずのうちに、振る舞いや判断において、生まれ育った環境の影響を受けるものだと著者は語っています。
そういう彼らだったので、日本の諸国の武将たちは、宣教師たちを外国人であっても自分と同じ職種・階級の者だと感じ軽んずる事はしなかった。宣教師は当時の日本の権力者にやすやすと近づく事ができ、日本社会の序列の外に居たので対等な立場で、倫理や宗教という深いテーマについて話をし、彼らの世界観を知る事が出来た。
それらは逐一ローマへ報告され、当時の文書は今も残っていて、現代イタリア語で読めるそうです。その筆致は、冷静で客観的で、キリスト者というよりはジャーナリストに近いと著者は言います。
さて、信長が死んでしまったので、国内で安全に布教をできるという許可が無効になってしまった。それで宣教師たちは、秀吉に面会して許可をもらう。秀吉は、信長のアジア戦略構想をそのまま引き継いだ。しかし、信長に比べていくらかは信心というものを持っている、普通のタイプの人間だった。
宣教師のうち、コエリョとフロイスという2人は、秀吉が九州を平定するのに苦慮していると知ると、協力できる事を示して取り入ろうとして、大友、有馬などキリシタン大名を動かしましょうと請け合う。それどころか、朝鮮半島に討って出るときは、ポルトガル船を用意しましょうとまで言う。
それを聞いていた、日本人というものをよく知っているオルガンティーノ、ヴァリニャーノたちは、2人が非常に危険な発言をしていると思って焦った。秀吉は上機嫌な顔をしながらも、キリシタンが戦力になること、いつかは自分を脅かす勢力になるかもしれない事を、その瞬間に確信したと悟って。人間関係を「支配」「被支配」という形でしか結べず、自分に自信がない支配者だった。。。と著者は秀吉を評しています。
猜疑心の固まりで、いつかは自分を越えるかもしれないものを許す事ができない。宣教師たちは、そのような性格を秀吉に限ったものでなくて、当時の日本の武将たち全般に感じていた。というのも、当時の日本では、家臣による裏切り、寝返り、だまし討ちが横行していた。例外は高山右近などキリシタン大名で「デウスを信じるものは、主君に忠実で正直です。キリシタンの家臣は絶対に裏切りません。」というのが、宣教師たちのウリ文句だった。
秀吉はキリシタンの家臣を利用して九州の島津を征伐した。しかしその後。。。つづく。
内容(「BOOK」データベースより)
戦争の足音が忍び寄る昭和九年、軍部の暗躍から実用自転車を使用した前代未聞の本州縦断レースが開催される。多額の賞金を狙い寄せ集めチームを結成した響木、越前屋、小松、望月の四人は、各々異なる思惑を秘めつつ、有力チームと死闘を繰り広げるが...。一攫千金を目論む出場者の悲喜劇、ロードレースの戦略や駆け引きを、日本推理作家協会賞作家が圧倒的なリアリティで描く、感動の自転車冒険小説。
「復讐なんてあなたのような人がすることじゃありません」か。「復讐は人をダメにするんだよ」カンフーハッスルで大家のオバサンも言ってたな。
本日より、シャミ先生は、ふわふわのジャグジーではなくて、アマゾンの段ボール箱でお休みになるようになった。あったかくなったのね。
少年使節は修業の旅を終えて日本に帰って来た。でもまだページが半分残っているので、これからがまた大変なんだろなあ。
使節を派遣したイエズス会の宣教師は「日本で布教をするなら、神父は日本語を習得し、日本の慣習や日本人の心情を理解しなければならない」と考えていた。
一方、そうは思わない神父もいて「われわれは後進国の未開人にありがたい教えを授けてやっているのだから、こっちが日本語をおぼえるのではなくて、日本人がこっちの言葉を理解する努力をするべき」という態度だった。
どっちが布教の成果を挙げられたか。そりゃ前者だった。
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今朝、シドニー(*じゃなくてキャンベラだった)の聖火リレーに中国人1万人が集まったというニュースを見て「負けた」とつぶやいた私。聖火リレーなんてどうでもいいじゃんと思っていたのに。なんていうか、その生物としての力に圧倒されたというか「ひえーこりゃかなわんわ」というか。その10秒後に「なんて下品な」とつぶやき、その5秒後に「っちゅうのも負け惜しみやな」と自分を嘲笑する。
北京在住のふるまいよしこさんが、JMMのコラムで(日本人が中国人に対して反感を持たないよう配慮しているのだと思うけど)、中国にも反仏デモとか国内の行きすぎたナショナリズムに危機感を持っている人がいると紹介しつつ、このごろ中国人がストレスに思っている事について書いています。
それは「マナーマナーってうるせーよ」。。。これは私の曲解ですが。オリンピックを前にして政府から「民主化」だの「グローバル化(全球化!)」だの欧米由来のスローガンを押し付けられてその上、その西欧から「なっちゃいない」と批判されてキレた状態。
その気持ちはわかる。私も高校時代に先生や世間に対して「受験受験ってうるせーよ」と思っていたから。そして告白すると今は「エコエコってうるさいよ、言われなくてもわかってんだよ」と思っている。。。
長野の聖火リレーの映像には、中国政府への抗議をするにせよアルファベットではなくて、「慈悲西蔵」みたいな漢字が映っててほしい。「人権」とか欧米のスローガンではなくて。(漢字の教養がないので、もしかして「偶然だぞ」事件みたいなことになる可能性もあるが)ああ、明治生まれの祖母なら、いい言葉を教えてくれたのに。おばあちゃんの机の上には、カナがない漢字だけの本が並んでいた。
今日テレビで中国・台湾・香港・韓国・日本・共作の「墨攻」という映画を見ていたら「兼愛」「非攻」という言葉が出てきた。これってどうなんだろ?検索してみると。。。「兼愛」=「人類愛」、対するのは特定の集団に対する愛、たとえば「愛国心」、か。え?「兼愛」は孟子には否定されてるの?それじゃ博愛を説くキリスト教とはぶつかるな。てことは、それを下敷きにした「人権」なんてものは儒教に反する?ああわかんない。今日はもう限界。
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「ふだんはおとなしい人たち」が一線を越えるとき、それは自分の子供や身内の弱者が飢えているのに、隣の家で宴会をやっていて「パンがなければお菓子を食べればいいじゃないの」と言われたとき、じゃないかなと想像する。「ベルサイユのばら」で、オスカルが無断欠勤している部下(平民)の家を訪ねると、餓死した子供の死臭がして、その体験が、恵まれた貴族である自分の境遇に気づき、革命で民衆の側に立つことになった、という場面があった。。。(と記憶してるんだけど、時々勝手にストーリーを作り変えて記憶しているので)
西蔵自治区で食糧が足りてないんじゃないのかな?拘束されたチベット人たちは食事を与えられてないっていうし。中国国内の食糧の値段が上がっている。オリンピックを前に問題が起きないよう地方に大勢の軍隊が配置されている。軍に回す食糧の確保か、輸送が追いつかなくて、または誰かが横流しして、現地の食糧が不足または高騰している。とか。
私はダライ・ラマの「チベットのみなさんへ」という声明を読んで、西蔵自治区の実質的な責任者は誰なんだろうと思った。この張慶黎と言う人は軍閥らしい。
asahi.com : 国際 : AAN
アジア関連書籍の紹介です
『胡錦涛ーー21世紀中国の支配者』
チベット問題は宗教や民族というよりは経済の問題だと思う。やっぱり中国に、労働に見合った対価が必要だと思う。一部の沿岸の人たちが豊かになったとは言え、それは鹿鳴館でしかないと思うし。私は10年以上前バリ島で出会ったフランス人に言われた言葉「日本円で○○円がインドネシアで○○ルピー、それっておかしいと思わない?」が消化されずにずっと残っている。
想像してごらん、国境のない世界を
「それは中華世界だ」と中国人は言うだろうか?「グローバル化された世界だ」とアメリカ人も言うかもしれない。成功しているのはEUだろう。民族も宗教も違うのにトルコはEUへの加盟を切望しているし。どこが違うんだろう?言葉や宗教は各国そのままで、人の往来と通貨だけを統合してるから?そうだよ、通貨の統合。世界中の。ダメ?
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こんな寄り道ばっかして、全然ページが進まない。。。
で、不思議なのが、中国ってなんでああなの?てゆうかああせざるを得ないの?この本は手っ取り早くそんな疑問に答えてくれる本。「週刊こどもニュース」大人版て感じ。(著者には同じシリーズで「街場のアメリカ論」というのがあり、アメリカはなんでああなのか?という似たような問題に答えを出そうとしています。)
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ところで、今の中国政権とアメリカのブッシュ政権は似ていると思う。アメリカがイラクに対してとった行動と、中国がチベットに対してとっている行動は、そう変わらないと思うけど(どちらも資源目当てに、いらん世話を焼くふりをして、罪のない人たちを弾圧している)。
日本ではそれぞれに対して抗議行動をする人たちが重ならない。イラクは見殺しだったのに、チベットでは抗議するのはなぜ?またイラクで気勢を上げた人たちがチベット問題に距離を置いているのはどうして?
著者は、日本人保守派の人々の、米国に対する屈折した感情を述べています。太平洋戦争で負けて、本来なら相当憎んでいいはずなのに、無意識のうちに抑圧されている。首相が靖国に参拝したなら、まずアメリカが抗議するはずなのに、そうならないのはなぜか?などについても書かれています。
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印象に残ったのは、著者の父親の話で、戦時中、中国に居て終戦を迎え、現地の中国人にひどい目に遭わされるかと思ったら、逆に帰国の日まで親切に面倒を見てもらった。しかし、その後、その中国人たちは、日本人に親切にしすぎたという罪で処刑されてしまった。戦後、中国を訪れたお父さんは思い出の街並みを歩きながら「街は当時と変わっていないが、あの人たちだけが居ない」と語ったという。
ひとたび負けを認め、自分たちの作法に従うものには篤い保護を与えるが、内部の裏切り者には苛烈な罰を与える。。。(イラクで人質になった人たちを非難する日本人を欧米人が不思議に思ったという事実を思い出します。)
イエズス会の宣教師は中国人と日本人について、世間知らずの割りに異様に自尊心が高い、とローマに報告したらしい。中国人と日本人って世界から見れば似ているのでは?
この本にはローレンス・トーブという東京在住の未来学者が書いた「性・年齢・最後のカースト」という本が出てきます。トーブ氏はベルリンの壁崩壊やイラン革命を予測した事で有名だそうです。その彼が、2020年に東アジアに儒教圏ができると予測しているそうです。ヨーロッパのEUみたいなものでしょうか。
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著者は、13億人の巨大国家をまとめて運営して行くには、シンプルで力強い幻想が必要、それはシンプルなほどよい。と述べています。
先日NHKのETV特集「ロシア」についての番組で、亀山郁夫氏がインタビューしたロシア人の学者が「民主主義っていうのは投票による数の原理でしょ?わたしたちは夢がないと生きて行けないのです」と言っていたのを思い出します。
中国人の人たちが、みな判で押したように同じ事を述べるのは、自分で考える力が無いからとか、情報を統制されているからとか、ではなくて、むしろ積極的に幻想を共有しようとしているからなのでしょうか?
中国近代史は、日本や欧米に分割統治されるなど不幸な事だらけで、全国民で団結して成功した幸せな思い出が、抗日戦線での勝利しかない。ので、内部の結束が危うくなると、その思い出を反芻する。日本の政権内部はその事情を分かっているので、まああまり苦情も言わない。と著者は解釈しています。
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著者は「文明の内容そのものは時とともに変わっても、文明が崩壊・再生されるときの方法は変わらない」という梅棹忠夫の「文明の生態史観」を紹介して述べているのですが、中国の場合は、政権の交代はクーデターなどではなくて、疲弊した農民の反乱から始まる。人口が増えすぎてその土地が養える限界を越えると、農民の反乱が起き、流民化し、地方にカリスマ的な指導者が現われ、王朝が交代する。それを「易姓革命論」と言うそうです。その際、飢餓や戦争で人口調整もおこなわれる、その繰り返しだと。
(日本の場合は、王朝は天皇家しかありません。為政者は変われども、王家は一つです。)
今、中国では農民の不満が高まっています。チベット問題とは民族間の争いという問題ではなくて、政府vs農民の問題なんでしょうか?チベット以上に非道に弾圧されているウイグル自治区の現状は、あまり話題にならず、知る人も少ないようです。中国全土で起こっている事が、チベットに限って報道されているだけなのか?
先日テレビでアメリカの南北戦争を題材にした映画をやってまして、それを見ていた家人が「この単純すぎる戦い方は何?戦術も何もない。三国志を読んだ事がないのか」とあきれていましたが(彼が読んだのはマンガ三国志だったのですが)、中国の現政権が交替すると、三国志のような乱世になってしまうのか?
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毛沢東が文革で医者や教師など専門職の人を迫害したのは、オールラウンダーな人材を育成したかったから、と著者は書いています。組織が巨大になると、人材が専門化してしまい、全体に対して責任ある考えを持つ人がいなくなる、それが不満だったと。
幕末〜明治にかけて、日本がすばやく近代化できたのは、多くの小藩がそれぞれ政治的にも経済的にも自治権を持っていたからだと著者は言います。いずれは藩主になるために、子どものころから経営者としての帝王学を学んだ人がたくさんいたから。
教育の権限を中央に集権化せず、現場の判断に任せた方がよい、とする(たびたびblogで読む)著者の教育論は、そういうとこから来ているのか。。。
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と、ここでまた出た、若桑先生のあれですよ。個と全体が調和している世界にいると感じる場合と、始まりも終わりもなくとらえ所のない茫漠な世界にいると感じる場合の、人間の感覚の差。
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梅棹忠夫の「文明の生態史観」を読んでみました。気候風土によって、文明は2つのタイプに分けられる。日本やヨーロッパなど大陸の端っこに位置するものと、インド・中国・ロシアなどユーラシアの真ん中の乾燥地帯を含む地域。
文明にも、生物のように生態がある。という考え方。わたしも文明の盛衰は人の成長過程に似ているのでは?と考えた事があった。こんな突拍子もない事を考える人はいないだろうと思っていたのに。しかもこの本は前の世代ではベストセラーだったらしい。
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チベット騒乱の背後に地下資源問題:NBonline(日経ビジネス オンライン)
2007年10月21日の第17回中国共産党全国大会において胡錦濤国家主席は、過去5年間の政権運営の活動報告を行った。その冒頭で胡政権が抱える"困難と課題"を列挙し、その第1番目が「資源・環境・格差」であった。資源は国家の最重要課題なのである。
チベット問題で抗議の声は上がっても、中国での事業から引き上げるとか、中国製品をボイコットしようという声は聞こえてこない。われわれが安い中国製品にたよって暮らしているという事実が、周り回って中国の底辺の人々に対するしわ寄せになっている、ということも忘れてはならないと思います。
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以下、怒りのオプショナルツアー
人権問題と、捕鯨問題って似てるなと思います。イラク戦争の時、世界のリベラル活動家はアメリカに反対した。けど、その意見は聞き入れられなかった。そこに利権があったから。金の亡者とは呼ばれたくない、けど「いらないの?じゃ、オレがもらう」と他人がむざむざ持って行くのはもっとイヤなわけで、結局みんな派兵した。日本を含めて。
利権に直接は関係ない貧乏人である大半の人たちは「そんなの関係ねえ」「金より道理だ」と仁侠心を見せるかと思えば、逆にナショナリズムに踊らされた。
捕鯨問題が起きとき、わたしはマンガに影響されて、鯨は日本の伝統食だと思い込んだ。今、鯨が伝統食だと言っているのは水産庁のホームページだけだ。正当性のない主張を、無理やり一般的なものにしようとするとき使われるのが、ナショナリズムだと思う。「私たちは一緒ですよね」と。
どうしてグリーンピースは「クジラってかわいいでしょ?」なんてトンチンカンなキャンペーンをやるんだろう?日本人には逆効果なのに。。。と思う。でも報道される日本人の行動は、「クジラが座礁したのを多くのボランティアが集まって助けた」(そのとき手に手にノコギリと包丁と皿。。。は持ってなかった)「水族館でこどもがイルカのショーを見て喜んでいる」(おいしそー。。。とは言わない)行動から見る日本人は、みんなクジラを愛でているようだ。が、なぜ外国人に言われるとムキになるのか?
このごろ、水産庁は捕鯨に関して路線変更をたくらんでいるらしい。これまでの捕鯨推進は最近退職した官僚一人の独断だったというシナリオにして。それは、ホエールウォッチングがお金になるとわかったからです。鯨がかわいそうとか、伝統食だとか、そんなの本当は関係ないようです。
真に人を動かすのは、怒りや悲しみではなくて、「ポジティブな」ステータスへの欲望。ルワンダの元ホテル支配人ポールはそれを利用して困難な仕事を遂行した。
ジェノサイドの丘〈上〉(フィリップ・ゴーレイヴィチ著 柳下毅一郎訳)p.162
ステータス。お金でも、権力でも、その他の場合でも。(ポールが使ったのは高級な酒でした。)
われわれ無力な人間の主張を、ちょびっとでも確実に世間に反映させる方法は「投票」と「消費」しかありません。
もう寝なきゃ。ネコ温度計はラサにしました。
ーーーーーmemo
個人競技でありながら、チームワークがなければ勝てない自転車ロードレースの光と影。元々陸上選手だった主人公は、勝つ事の意味を見いだせず競技から去る。その後出会ったのが自転車だった。そしてエースではなくてアシストという役回りに自分の存在意義を見いだし、この世界で成功していく。そのチャンスをくれたのは。。。
前半に小さな疑惑とチクチクした心理描写が続き、後半に大事件が。ついつい、ストーリーの盛り上がり度をロードレースの高低図にたとえてしまうんだけど(この高低差は映画「アダプテーション」に似てる)。
淡々とした筆致に浪花節なストーリー。これはミステリーに分類されるんですか?どっちかというと昼メロぽい。絶対向いてるとおもう。ぜひ昼メロでやってほしい。イケメンのみなさんで。
ジャニーズのみなさんで「シャカリキ」も撮ってるらしいし。
Web R@dio Station"くりらじ" "BICYCLE21PODCAST"
自転車選手が現実にはどういう仕事か、何を考えているのかは、ここを聞くとよくわかります。特に今週はおもしろかったです。
Web R@dio Station"くりらじ" "Massas Channel"
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ツバメ初認。
ー天正少年使節と世界帝国ーという本を読んでいます。若桑みどりさん渾身の1冊。16世紀の日本文化とヨーロッパ文明と接触した際の克明な記録。当時の日本が元スペイン・ポルトガル領の南米の国々のように植民地化されることを免れたのは、イエズス会の宣教師が「当地は非常に貧しく占領する価値はない」と母国に報告したからだったらしい。
アフリカを出て大陸で生存競争をしながら移動してきた極東の地、この先は太平洋でどこにも逃れる場所はない、ここでどうにか生きなくてはという場所。チベットもアイスランドも同じような環境だったと思う。生産性が限られた厳しい土地で、淘汰してくれる天敵もいない人類が、殺し合わずに生きて行くというシステムを作り出した、チベット仏教はすごいと思う。
モノがなけりゃどっかから獲ってくればいいじゃないか、いらなくなったらそこら辺に捨てときゃいいじゃないか、いやになったら出て行けばいいじゃないか、生き残るために他民族から略奪するのは仕方ない、というスタンスのキリスト教に比べて。
西欧文明と接触するたびに影響を受けて、日本も何度か大陸に略奪に出かけている。秀吉の朝鮮出兵とか、明治以降の植民地政策とか。だから日本人だって善人というわけではない。それに宣教師から見てどうしても許せなかった日本人の悪徳についても書いている。
この本は重く厚く読み通すのが難しいと著者自身思ったのか、ちゃんと飴とムチで読者を誘導してくれる。その飴は「当地は占領する価値はないので無敵艦隊を寄越さないでほしい」と報告した宣教師は、中国人と日本人は野蛮な未開人ではなく、西欧と同等の高さの文明を持つので、暴力で支配したり子供扱いして指導するには適さないと判断した、という部分。
550ページ中、今やっと160ページ。まだ天正の少年使節はユニット結成もしていない。少し読んではいろいろ考える事があってなかなか先に進めない。昨日今日はチベットの暴動のニュースを見てまたオプショナルツアーに出てしまった。
ラサにはもう行けないんだろうか?西川一三の「秘境西域八年の潜行 上・下・別巻」、木村肥佐生の「チベット潜行十年」を読むとチベットだっていい事ばかりじゃないらしいけど、いつか行って見たいと思っていたのに。そういえば、西川一三さんって今年までご存命だったのですね。チベット式: 【訃報】西川一三さん、チベット暦元日に逝く
ダライ・ラマとは特別な人なのか?図書館で著書をパラパラと立ち読みした事がある。めぼしい記事には当たらなかったが、これは?と思った一言があった。それは「あなたは他人が一目見てあなたが何者であるか判断できる身なりをしなければならない、でないと人は後であなたが第一印象とは違う人物だとわかると、だまされたと思って憎しみを抱くから」というもの。難しいです。こんなことは他の宗教家は言ってなかった。
まず自分が何者なのかわからなくてはならないし。普通の人は「ほんとの自分」より「なりたい自分」を服装で演出してると思うし。「本当の自分」って何?ときかれれば、自分を全く知らない初対面の他人が情け容赦なく観察した結果が「本当の自分」だ、と思っている、自分の事に関しては他力本願な私には特に。
昨日今日とチベットのニュースを見てると、ふとあれはもしかして公安のスパイのことを言っていたのか?そんな具体的なことやったん?とも思えてきた。
日本は資源のない貧しい国。今までどこの植民地にもならなかったのは、その価値がなかったから。もしもすんごい天然資源が発見されたら。。。チベットみたいに他国の餌食になっちゃうのかな。それはいやだ。そのとき、アニメを愛する世界のオタクが抗議行動をしてくれるだろうか?
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所からのアピール/日本の皆さまへ
1章と2章は「現代思想」1987~1990に「日常の図像学」というタイトルで連載されたもの。懐かしいトピックも。これを見てもういいや。。。と思うかもしれない。
そう思いつつ、3章に進み、ちょっと眠くなりそうになるのを、お茶を飲んだり声に出したりしながら最後まで読むと、えもいわれぬ幸福感に包まれます。この本は絶版ですが、3章はCiNii - 東京芸術大学音楽学部年誌 5 に「人間的空間の系譜 : 人文主義的文化における建築と都市の理論」というタイトルで収録されていて、幸いな事に、インターネット上で読む事が出来ます。
都市のイコノロジー―人間の空間 という本を読んだ。人が幸福感に包まれて暮らすには建築や都市計画はどうあるべきかということについての本。図書館で見かけてパラパラと見て、その巻末にあった小論文「人間的空間の系譜」に感動して、ぜひ手元にほしいと思った。だがすでに絶版。ネットで古書を手に入れた。
その小論文は当時芸大に勤めていた著者が、旧奏学堂を保存するために、関係者を説得する目的で書かれたと後書きにあった。しばしば研究者に引用されてきたが、一般には知られていなかったと。そしてその小論文で引用されている、更なる元ネタ「視覚芸術の意味」(E・パノフスキー著)という本を読みたくなったが、これも絶版。
amazonのマーケットプレイスで5600円より(元々の定価は7500円)。一度どこかの図書館で立ち読みしてから購入するかどうか決めよう、と県立図書館の横断検索をやってみた。県図書は貸出中、あと在庫しているのは厚木市と小田原市の図書館。この本は岩崎美術社の「美術名著選書」というシリーズだった。そのシリーズごと開架している小田原の「かもめ図書館」というところに行ってみる事にした。
初めて降りる鴨宮(かものみや)という駅。私の前を歩いていた若いカップルは「何もない。。。」と絶句していた。駅から「かもめ図書館こちら」というプレートに沿って歩く。本当にこの道なんだろうか?こんなさみしい。。。と思っていたら、目が合った。
住宅街の中に突如あらわれるきれいな建物。
閲覧席でふと脇を見ると、目が合った。
目的の本の「第2章 様式史の反映としての人体比例理論史」35ページ分をコピーさせてもらって、安心して談話室(休憩室)でコーヒーを飲んでいると、隅に座っていたおじいさんがナイフでリンゴをむいて4等分し、そのリンゴを素手で持って、その場にいた人に配り始めた。周りにいたおじいさんたちは、当然のように素手で受け取って食べた。私の近くに座っていた若い男性は逃げて行った。私の所には来なかった。リンゴは4切れしかなかったのだから、もしどうぞって渡されたらどうする?なんておびえなくてもよかったのに。
図書館を出ると砂嵐だった。帰り道でまた目が合った。
鴨宮の駅のホームで遅れた電車をずっと待った。強風のためではなくて、電車が小動物と接触したためらしかった。小動物って何だろう?西湘バイパスで「鹿飛び出し注意」の看板を見た事あるけど。大磯まで線路沿いの山側に梅が見えた。花は5分ぐらい。まだ咲いていないのか、風で散ってしまったのかはわからなかった。
カルチェ・ラタンで思い出したが、小林秀雄の有名な言葉「花の美しさはない、美しい花はある」は、バルザックの「ゴリオ爺さん 」からの引用だ、というのを読んだ。
丸谷 才一・三浦 雅士・鹿島 茂、三氏による、もし今文学全集を作るとしたらどういうのにする?という対談。作家を目指す若い人が、これを読んでおけば息の長い作家活動を続けられるのではないか、文学作品を書く技術、基礎体力をつけるなら、という選考基準。前半が世界文学編で、後半が日本文学。文学賞メッタ切りぽくバッサバッサ。各人の個性が出ていておもしろい。
ロシア通、バレエ通の三浦雅士さんが挙げるロシア文学は、読んだ事がなくてもバレエ作品になっているものは大体見ているので、その世界がワーっと蘇って、採用されるとうれしい。
三氏とも理屈に関係なくこれは絶対入れたいと合意したのがリルケ。三浦氏は「ありがとうございました」とまで言う。バーチャル全集なのに!
そして人気なかったのが三島由紀夫と小林秀雄、埴谷雄高。堀辰雄に至っては「恥を知れ」とまで罵倒されている。堀辰雄はわたしもいらないと思うけど、立原道造は入れてほしかった。。。人に何と言われても好きなんだもん。いやでも、この文学全集の意図を考えると、ハンパに立原道造風な詩人が出てきたらいやだな。簡単に真似されたくない。
去年の秋、大分(豊後)に帰る直前、高校時代を同じ大分で過ごした友人から司馬遼太郎の「街道をゆく 中津・宇佐のみち」を読んだという話を聞いて、私もそれを読み、飛行機に乗った。
私の祖母の祖父の家は、中津藩の御抱えの両替商だった。「うちは武家ではなかったけれど、お殿様から名字帯刀を許されていた」とちょっと自慢気に祖母は語るのだけれど、高校生のとき日本史の教科書で「これはまさにそのことだ」という記述に出会った。
江戸末期になると地方の小藩は財政が悪化し借金地獄・リストラなどで武士は大変困窮した。その一方、低い身分の商人が金の力に物言わせ、のさばり、借金のかたに名字帯刀の権利をもらって武士の物まねをして悦に入る馬鹿者まで出現した。。。とまでは書いてなかったが、あーこれだったのか、トホホ、と思ったのでありました。ま、そんな祖母の家も廃藩置県で全てを失い、江戸に上京しています。
中津藩からは福沢諭吉が出ています。小学校時代に同じ大分県の出身ということで、先生が話してくれました。「君たちの先輩の福沢諭吉は、オランダ語を勉強して第一人者になったのに、これからの時代は英語だとわかると、それまで学んだ事を全て捨てて、一から英語を勉強し直したんだ。君たちも一度身に付いた知識にしがみつかないで、必要ならまた一から勉強する勇気を持つんだよ」
大分には有名な銘菓「ざびえる」があり、駅や空港でその単語をたびたび見かけた。それから南下して宮崎に行き、姪がスペインに旅行するという話を聞き、スペインという単語がすり込まれた。というわけで、茅ヶ崎に帰ってきてからなんとなく司馬遼太郎の「街道をゆく 南蛮のみち」を手に取り読んでいました。
若い頃のフランシスコ・ザビエルは神学とは無縁で、将来は哲学の研究に捧げようと思っていたのに、カルチェラタンでイグナチウス・ロヨラに出会ったばっかりにイエズス会に入り、ポルトガル王の支援で日本に伝道に来る事になった。。。人の運命って数奇なものだなと思います。司馬遼太郎一行はザビエルの出身地、スペインのバスク地方を訪れ、実家のお城を見学します。
茶道の所作は、キリシタンの司祭のミサの所作に影響を受けているのは?、とか、秀吉以後、港湾部に首都を作るようになったのはリスボンをモデルにしたのでは?、とか、当時のスペイン・ポルトガルが日本に与えた影響について語られます。
歴史や文明についてはすばらしい文章を書いている司馬さんですが、食べ物の事になるとちょっと。。。料理研究家の長尾智子さんはバスクに魅せられ、何度も訪れ郷土料理などを記録しています。そのとき必ずバッグに入れて持ち歩いていたのはこの「街道をゆく」だったそうです。
猫グッズのコレクションや、味のあるイラストがページをめくるごとに出てきて楽しいです。
ほうと思った事2つ。一つ目は、著者の飼い猫が、捕ってきたネズミは食べるが、ヒミズ(小さなモグラの一種)を食べない事。ヒミズは死んでいるが目立った外傷がない事。そういえば、うちのシャミもそうだった。シャミは簡単に捕れるというヒミズしか持って帰らなかったけど。ヒミズは本当に死んでいたのだろうか。
二つ目は、たとえば猫が机の上を歩くとき、置いてあるノートやペンケースは踏まないよう律義によける。けど、本やキーボードの上はかまわず歩く。踏んでいいものといけないものの境目はどこにあるのか?ある期間動かずに同じ場所にあればいいのか?足の裏に不安を感じないものなのか?
シャミは台所のカウンターに飛び乗る。カウンターには皿とかまな板とか包丁とかボウルとかいろんなものがあり、毎回配置が違う。床からはカウンターの上が見えない。とりあえず飛び上がり、着地するまでの一瞬にどこに脚を着けるか判断するようだ。置いてあるものを踏んでしまう事はない。すごい能力だと思う。
あるとき珍しく何かの袋の端に脚が着いてしまった事がある。そのとき、シャミは「しまった、大変なことをした!」という感じでそそくさと隅の方へ行きしばらく遠くを見て時間が過ぎるのを待っていた。私に「コラ」としかられても全然へーきなくせに、シャミ自身によるルールには弱い。
シャミは自分で自分に複雑な規律を課している。椅子に乗る時はまずその周りを左回りにグルグル回るとか。わざわざ必要のない約束事を果たす事で、昨日の世界と今日の世界が同じ事を確かめているのか?
ああ、耳が痛いです。いつだったか冷蔵庫が故障して数日使えなかったとき、冷蔵庫の中身を全部出してみて、いろんな物を発掘した身としては。それを戒めとして、今ではちゃんと食材を循環させているけれど。それはクックパッドのおかげもあるかなあ。つまり、レシピのレパートリーが大事なのです。今ある材料を使ってちょうどいいものを作るっていう。ほんと助かりますよ、クックパッド。
本書は、本を読むというよりも居酒屋で先輩の話をきいているような、ライブで曲を聴いているような感じです。軽快な語り口なんだけど、著者は「昔はよかったなあ」式の懐古主義者でもなく、「あいつらにはわかんねえ」式の国粋主義者でもなく、現実を経済的な裏付けから分析し、消費者としての自分の感情も客観的に観察している、非常に合理的な精神の持ち主だと思います。
皮膚は臓器。
皮膚は電気システム。
皮膚は脳。
著者は医者ではなく民間企業の研究員です。「皮膚は考える」は概論。「"第三の脳――皮膚から考える命、こころ、世界」はさらに図解で詳しく書かれ、著者の私的な考察もついています。著者の研究は、何か具体的な病気の治療に役に立つとか、目の前の何かをどうにかしたいというものではありませんが、人間って、生き物って面白いなあと思えます。
最先端の研究なので、目次だけ見るとトンデモ系かと誤解されるかもしれませんが、著者はそうならないよう注意深く言葉を選んで誠実に書いています。内容が非常に面白く、文章の手触りも繊細で心地いい本です。
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お風呂から出て私は暑いと思っている、扇風機の前に立って冷風を浴びると1秒後にくしゃみが出る。わたしはまだ暑いので体を冷やしたい。でも体は「ダメダメ」とくしゃみを連発させる。花粉の季節には体の中で嵐が起こる。頭はぼうっとして判断力が鈍る。自分の体の免疫システムに自分自身を乗っ取られる感覚。
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わたしは子どものころ、慢性扁桃腺炎でお医者さんから患部を切除するしかないと言われ、手術の日取りも決まっていた。その前日、母がノドの腫れに効くお灸をしてくれるおばあさんがいるという話を聞いて、わたしをおばあさんの家に連れて行ってくれた。おばあさんは鍼灸医ではなくて無料のボランティアだった。両ヒジのくぼみに小さなモグサを乗せて火を点け、アチッと思った一瞬に終わった。家に帰って熱を計るとすっかり下っていた。
翌日、手術前の診察でわたしのノドを見た先生が「あれ?すっかり腫れが引いてる。切らなくていいかもしれないよ」と言った。ほんとですか!手術が怖かったわたしはうれしくて余計な事を言った「やっぱりお灸が効いたんだ」その言葉を聞いた先生は「またあのバアサンか!」と険しい顔になって、手術は決行された。後で看護婦さんに「あーあ、先生はああいうの信じないからね」と同情された。
何ヶ月も薬を飲み続けて改善されなかった症状に、お灸が劇的に効いた。その効果には医者も驚いた(認めなかったが)。お灸を据えた場所はノドとは関係ない場所だったのに。熱を加えたのはほんの一瞬だったのに。
ずっと不思議に思っていた事のしくみが明らかにされるのを読むことができるのは楽しい。
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Yahoo!ヘルスケア - ニュース - ストレスで皮膚の抗菌能が弱まる
「墓の彫刻―死にたち向かった精神の様態」というタイトル。著者はE・パノフスキー。ということは「あれ」が見れるのではないか!と期待して手に取った本。
人は何を価値あるものと感じるのか?パノフスキーの「イデア」と澤柳大五郎の「ギリシアの美術」は、そういうことを考えるということはどういうことか、という実例を教えてくれた。特に「ギリシアの美術」のアッティカの墓碑の章は、それを読み終わった後、感動で長く長くため息が出た。
前5世紀半ばから4世紀末までに、アッティカ地方で作られた墓碑。それは石の板に彫られた浮き彫りなのだが、そこに掘られているのは、死者の生前の姿。故人の業績を記念する姿でもなく、死後の楽園に暮らす姿でもなく、日常の生活の一場面。
その場面には、まだ生きている家族や従者も一緒に登場することもある。しかし、その人物たちのうち誰が死者なのかは、表情を見るだけですぐわかる。死者は周りの誰の声も聞こえず、誰の顔も見えず、視線を遠くに投げ、静かに死を受け入れている。生者の人物たちはそんな死者を見つめたり手を握ったりして愛情を示している。
エジプト人のように死後に旅に出るでもなく、キリスト教徒のように天国(または地獄)に暮らすでもなく、日常の中に永遠が、死と生が同時に存在するというギリシア人の死生観。それは故人の本質とは何だったかを記録し永遠に残そうとした、墓碑の彫刻を見ることによって、私の心に刻まれた。岩波新書の数ページに小さくモノクロで印刷された写真ではあったが。
「美とはどういうことだろうか?」「それは、ある人にとっては美だが、ある人にとっては美ではない、というものであってはならず」「ある時は美しいが、またある時はそうでない、というものではあってはならない」。。。という会話によって定義されていく、プラトンのイデア論を読むよりも。
この「ギリシアの美術」を25年ぶりぐらいに読み返してみて、墓碑の章の次章に鉛筆で傍線が引かれているのを発見した。自分で引いた以外に考えられないのだが。
しかし全期を通じてギリシア人にとってはこころと身体とは一つであった。こころは眼に見えるものであった。また顔と身体は一つであった。
ギリシア人にとっては眼のみならず、全身がこころの窓なのである。
「全身がこころの窓」という言葉にあっと思った。今、同時に読んでいた別の本とつながったからだった。それは「岩波科学ライブラリー 皮膚は考える」にて。。。
パノフスキーの「イデア」は新訳が出たんですね。少しは読みやすくなったのかな。
町田 康の猫との生活と愛情の記録。猫たちのキャラに爆笑しながら、猫との別れでは自分の経験を思い出して不覚にも落涙。ヘッケと子猫の頃のシャミはそっくりだ。拾われた時の状況も、名前の由来も、おもちゃをくわえて持って来る所も。幸いシャミは私が拾った猫では珍しく長命だった。シャミチャン、ひしと抱き寄せる。愛とは悲しく苦しいもの。
「暮しの手帖」で推薦されていて読んでみました。食品報道だけでなく、情報一般とのつき合い方を啓蒙してくれる本です。わかりやすく食情報を提供してくれるおすすめサイトのリストもあり。
ああ、おもしろかった!私はさきに「ゴシップ的日本語論」を読んでゐて、その最後
「どこかエロな所はないかと探しながら小説を読むのでいいんだ」
みたいな(詳細は忘れた)文が気に入っていました。この本「輝く日の宮」は全編エロです。
その上、ハーレクインロマンス風あり、チャンバラものあり、怪談あり、小津映画風あり、文学の楽しみの「物尽くし」にもなっています。説明が面倒くさそうな源氏の解釈については、女流研究者同士が壇上で対決というコメディの戯曲風に仕立ててあって、読者を退屈させません。松尾スズキにお芝居にしてもらいたい。紫式部と道長の部分は花組芝居がいいな。ちょっとキモイ感じがちょうどいい。
主人公の恋の行方はどうなるのか?意外なライバルが現われたりして、ありゃーますますややこしくなってきたよ。と思っていると、最後の章は。。。最初の1行を読んで、この章は作者からの贈り物だと瞬間わかって、感動でちょっと涙ぐんでしまいました。ほんと期待を裏切らない。至れり尽くせり。
そしてすべては語らず1番おいしい所は読者にまかせています。ここまで来たら、もう安佐子と紫式部の生霊が読者に乗り移っているので、その続きを想像するのは難しくないでしょう。てゆうか、気がつかないうちにすでに作者が全部説明してくれているんです。こっちが自分で想像したと勘違いできるぐらいに。まったく町山智浩さんかと思っちゃう。
ゴシップ的日本語論は、泉鏡花の解釈とか、柳田国夫と折口信夫の業績とか、源氏物語をめぐる瀬戸内寂聴との対談などが載っていて、ある意味「輝く日の宮」の解説書ともいえると思います。
「日の名残り」のカズオイシグロの作品。限定された境遇を受け入れながら生きるということについて。この小説の場合の主人公たちの境遇は「提供」という言葉が出た時点で薄々わかってしまう。その秘密は、読み手を物語の最後まで連れて行ってくれる動力になっているが、読み進むうちに、彼らが過酷な運命の中に生きていることを忘れてしまう。主人公たちの子供時代、思春期と物語を読み進み、主人公の心にぴったりと寄り添ううちに。
以下は本作を読まれた後に
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この小説の中には登場人物の容姿についての記述がないのです。欧米の作品を読む時、うっとうしく思うのが、髪は、目は、何色で。。。というくどくどとした表現なのですが、この作品では登場人物の具体的な外見については語られません。
彼らにとっては外見は単なるコピーでしかない?外見には意味はないのか?
もしこの作品を映像化するとなるとそこら辺が問題だろな。この作品を読んだ人は電器羊(ブレードランナー)とかを思い出すんでしょうか。私はメアリ・スチュアート・マスターソン主演の映画「恋しくて」です。
それから、三角関係といえば、古いけど、やっぱり私には「冒険者たち」ですね。アラン・ドロンのあの最後のセリフ・・・。
キシモトワールドです。最初の犬の話で、やめとこうかと思ったが、次の心臓移植の話で、もう少し読んでみようと進むうち、またまたドップリ浸かってしまい、一気に読了。不公平で不条理な現実世界に対する、皮肉とささやかな復讐。
ところで、「ひにく」はどうして皮と肉なのか?とすれば血と骨は?ん、そういえば「血と骨」ってありましたな。
これも打ちのめされるようなすごい本より。ミステリーです。クライマックス近く、ある一文を読んで、いやある形容詞を見た瞬間、ウオオオオ!!!恐怖が背筋を走った。読者に対して、念入りにしかけられていた罠。まんまとはまりましたよ。ああ怖かった。
「気をつけるのよ」
「愛を必要としすぎないように」
その言葉の意味も最後まで読むとわかります。そしてそれは特別なことではなくて誰にも起こりうると考え直すと、またうっすら怖くなる。。。でも気をつけろって言ったってさ、気をつけようがないよ。落石注意の標識か。。。やはりメロドラマは苦手です。
打ちのめされるようなすごい本から本命、丸谷才一の「笹まくら」。図書館で借りた新潮現代文学全集63巻。「笹まくら」「年の残り」「思想と無思想の間」「横しぐれ」と一気に読んだ。「打ちのめされる」というよりも「吸い取られた」感じで消耗した。
「恋と女の日本文学」に書かれていた、「恋愛という個人的な事と、社会との関わりという公の事、どちらかだけを描くのではなく、双方が密接にかかわり合い切り離せないストーリー」(私のつたない解釈による)そのものですね。
過去と現在が交互に同時進行するスタイル。素晴らしいラストシーンは香港映画「ラヴソング」を思い出した。わたしの印象に残ったのは、その少し前、陽子が実は。。。で、主人公が妻の寝顔を見るシーン。主人公はその時初めて、妻を女としてでなく同じ人間として見た、と思う。普通の人には理解できない(と主人公が思っている)特別な孤独と悩みを持つ人間として。
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徴兵忌避というと思い浮かぶのは、イラク戦争への従軍を拒否して裁判になっている、米国陸軍将校、ワタダ中尉の事件だ。中尉はハワイ出身の日系人。
暗いニュースリンク: ワタダ中尉の従軍拒否に関するタイムズ紙報道
太平洋戦争時、日系人の部隊は戦闘の激しい前線に送られた。日系人がアメリカ市民として社会に受け入れられるため、収容所に入っている家族や同胞のため、命令通り戦い戦死者も多数出た。
一方、その子孫であり生まれた時からアメリカ人として育ったワタダ中尉は、状況を自分で判断し、行いを自分の意思で決めるというアメリカ人らしいスタイルを通した。どちらもアメリカに忠誠を尽くしアメリカ市民であるための行動だ。
もし日本国憲法第9条が変わったら、徴兵制が復活すると思うけど、そのとき夫や息子が招集されたらどうするだろう?ワタダ中尉の母のような立場になったら?
あらゆる情報が国境を越えてネットであっという間に世界に知れ渡る今、個人個人の信条や判断を認めないことで成り立っている軍隊という組織は維持するのが難しくなるだろうな。軍需産業は衰退して行くだろう。これからの国家規模の公共事業は戦争から他のもの(たとえばゴア式環境ビジネスとか)に変わっていくのかな。
「笹まくら」で主人公は「国家は何のためにあるのか」という問いに「戦争をするためさ」と答えている。「スイスなど特別な例を除いて」。著者がこの文を書いている時は、その例外に日本も入っている。9条のような憲法を持つ国は希有な存在だ。世界の宝だとおもう。
軍事産業が縮小されるとすると、在庫品をどこで処分するかが問題になる。アフリカとか中央アジアとか世界の目が届きにくい所が選ばれるんだろう。意外と極東の日本ということもありうる。経済的にはともかく、言語によるコミュニケーションという点では世界から孤立しているから。
ゴミ箱にされるのを慎重に避けなければならない時に、わざわざ戦争を出来る国に変えたりするなんて、不法投棄のトラックが出入りしやすいように、山の中に舗装路を造るようなもんだ。
「打ちのめされるようなすごい本」に紹介されている本から、すぐ読める軽い本をパラパラ見る。「ネコのこころがわかる本—動物行動学の視点から」は犬猫のマッサージで有名なフォックス先生の本。著者は動物の行動の研究のため猫をたくさん繁殖させる仕事をしたことがあった。最初単純に考えて、オスメス1匹ずつのペアをそれぞれケージに入れておいたが、子猫は全く生れなかった。そこで大きな部屋に猫たちを放すとオスたちの間に階級が生じ、トップのオスがすべてのメスを妊娠させてあっと言う間に子猫だらけになったという。
数ある中から選べることが大事なのね。そしてメスのみなさんの「ミーハー力(りょく)」もあなどれない。「彼ってよくない?」「えー、あたしもそう思ってたの」。。。結局、サッカーにしろ音楽にしろ宗教にしろ女性のミーハーの力によって維持されているのだ。
。。。という部分を読んだところで、丸谷才一の「恋と女の日本文学」に移る。いやあ、著者の言葉は非常にわかりやすい。しかし気持ち良く読んだ後、自分で消化しようとすると言葉が見つからない。それはつまりわかった気になっているけど本当はわかってない。んだろうな。中西準子さんの本を読んだときも思ったけど、上手い人が書いた文章を読むとものすごーく納得する。でもそれを誰かに伝えようとすると、あれ?うまくできない。自己開発セミナーか?「とにかく○○さんに会ってみて」「そんなにいいなら今自分の口で説明してみてよ」「。。。」「できないでしょ、内容じゃなくて言い方にだまされてんのよ」ってことになる。
というわけで、納得したつもりになっていることを説明できないが、平行して思いついたことがあった。わたしは911以後、人は権力とどう関わりながら生きていくのか?ということに興味を持つようになった。そのサンプルを並べて見せてくれたのは「ナイロビの蜂」だった。
ル・カレといえば、「パナマの仕立屋」が映画化された「テイラー・オブ・パナマ」を先月テレビで見た。(手嶋龍一の「ウルトラダラー」にも「パナマの仕立屋」のパロディが出て来る。勇気あるなあ。)配役からしてもうゲラゲラ笑いながら見た。私は最高だと思ったけど、007モノが好きな人にはウケないだろうな。
と脱線してばかりだけど、「恋と女の日本文学」の後半に収められていた「女の救はれ」は非常に興味深かった。そうか、源氏物語のオチはそこにあったのか!恋の煩悩から解き放たれた快感。女人成仏 nyoninjobutsu 。それある。世間体とか向上心とか自分探しとか女の道はプレッシャーだらけだ。祖母は晩年いろいろなことから解放されて本当に幸せそうだった。シワが増えたり体が衰えたりしてもそれとひきかえに手に入る幸せもあると思ったのでした。丸谷先生ありがとう!
アリステア・マクラウドの名前は池澤夏樹のメルマガで知った。響きから女性の作家なのかと思っていたが、実は男性、しかもかなりガテン系の経歴のある人らしい。この短編集に収められているのは著者が子どものころの思い出、家族や家畜の生と死にまつわる話、農民だった祖父母や父母の物語。飾りのない簡潔な言葉で語られるその話のあらすじのみを取り出すとかなり激しい話ともいえる。なのに読後に思い出すシーンは繊細でかけがえのないもの。
1冊読み終えた後は、お遍路の旅から帰って来たようだ。何も持たず誰とも会話せず自分の心の中と向き合うとき、最後に残るのはやはり自分が子どものころに関わった人たちの物語かもしれない。それは強い印象を残し、後々大きな物事について判断を迫られたとき影響を及ぼす。成長した後に得た情報はそれを裏付けるための補強材に過ぎないのだと、このごろ思うようになった。結局人は愛され大切にされた記憶と共にあるものを選ぶ。だから大切な人には大切なものを残さなくてはならない。
名著です。野口晴哉は70年代に亡くなっていますが、この人が今生きていたら、アレルギーに対してどのような対処をしたんだろう。養老孟司と対談しだたろう事は間違いない。
武闘は舞踏。バレエダンサーも体中の筋肉を細かく使い分けています。筋肉の総量は少ないけれど、たくさんのパーツを使い分けることで、ダイナミックな動きができるのです。
どうしたら、細かく使うことができるか?それは運動神経、つまり脳を鍛えるしかないのですけど、私が思うに体の各部分を独立して動かせるようになる速い方法は、ストレッチだと思います。静かに息を吐くと、全身の力を抜くというのはわりと簡単にできます。
ある動作をしながら息を吐くと、動きに必要ない個所がふっと緩むのを感じます。ある場所を選んで力を入れるというのはなかなか難しいけれど、全身に力を入れた後、緩んだ個所を感じるのは誰でもできますから。
江戸時代までは「敵討ち」が認められていた。ただしそれにも決まりがあった。たとえば、父、兄など目上の身内の敵を取るのは許されたが、子供や弟など目下の者の敵は許されなかった。「敵討ち」は、支配層が武士である社会では全く禁止するわけにもいかない存在だったけど、大人数の戦闘になったり、復習の連鎖が無限ループしたりしないよう、最低限の流血ですむようなシステムになっていたらしい。
非常に興味をそそられたのは、冒頭に出てくる「後妻打ち」。妻を離縁した夫が、1ヶ月以内に後妻をもらった場合(たいてい先妻より若くてきれいな後妻だとおもうけど)屈辱と嫉妬の炎に燃えた先妻が親戚や知人の女たちを連れて、後妻宅を襲撃するという行事があった。
その作法は、「何月何日何時ごろ、何人で伺います。武器はこれとこれを持って行きます(たいていは竹刀や木刀)」と書状で通達し、その際の両家の使者は男性だが、あとは全部女性だけ。先妻チームは相手の家に乗り込み、台所用品や障子を破壊。その後双方の代表者で言いたいことを言い合ったのち引き上げる。流血なしのストレス解消劇。当時は女たるもの一生のうちに2,3度は参加経験があったという。ヒェ〜。
後妻にとっては理不尽なことだと思うけど、正妻だというだけで、すでに先妻に勝ってるんだから、まあしようがないか。いきなり銃で乱射されるよりはいいかも。
「24」と「エイリアス」と「NUMBERS」(数学デカ)と「ミディアム」(霊能者デカ)をミックスしたような展開。
ドラマ化を望む。
まだぼんやりしていて言葉にならないが忘れそうなので記録。
ちょっと昔までは、有名な科学者や思想家といえども、物事の結果には必ず原因があるという考え方が一般的だった。悪い事が起こるとその影には何か陰謀が潜んでいるのでは?と考えずにはいられない人はまだ多い。(私がメルマガをとっている「田中宇の国際ニュース解説」もそうだし。一応目を通すけど、氏の国際情勢に関する予測はけっこうはずれる。
しかしそれは、万能の救世主のような存在を望まずにはいられない人間の善の部分と対になっている。(私家版・ユダヤ文化論より)
人種、文明にかかわらず多くの人が似たような考え方をするというのは、ヒトの脳がそういう風にできているからだと思われるけど、今ふと思いつくに、ある文明における成長と衰退の過程は、人間の成長過程に似ていないだろうか。
子どものころは親の存在が全てで万能な親に生活の全てを支配される(中世暗黒時代)。思春期を経て親から独立する頃、言動が暴力的になりケンカが強いと思い込む(大航海と植民地支配時代)。30を過ぎる頃多少落ち着き、自分は何もかもわかってるもんねといい気になっている(現代)。
または車の運転だ。教習所では教官に頼らざるを得ず一人で路上に出るなど怖くて考えられない(中世暗黒時代)。免許を手にして1年ぐらいは、車を自由に操る万能感に浸ってスピードを出しすぎて事故を起こす(大航海と植民地支配時代)。自分はベテランドライバーだといい気になって初心を忘れている(現代)。
さて問題は老人期なんですが、どうなるんでしょう?イスラム、インド、中国文明に学びたいところだけど。。。
私家版・ユダヤ文化論を読むと、ユダヤ人って、いじめられっ子の転校生みたいだなあと気がついたんだけど、ユダヤ陰謀説など「根拠はないけど、もしかしてすべての根源はアレでは?」という人類に共通した感じ方はいじめの構造と関係あるのか?
・身の回りで起きる不快な出来事はすべて時の権力者のせいだ
・天災や政変の際にUFOが現われる
なんかも、いじめの構造と関係があるんだろうか。
ノンフィクションです。永江朗氏のブックレビューを聞いて読んでみました。
TBS RADIO 小西克哉 松本ともこ ストリーム powered by ココログ: 12/13(水)ストリーム・ブックレビュー
地下鉄サリン事件の実行犯の一人、豊田亨は教団や元教祖の批判はするが、自己弁護は一切行わず被害者への償いとして自分の死刑を望んでいる。著者は豊田の元同級生で現代音楽家。普通の人だった同級生がなぜあのような団体に入って犯罪を犯したか?
著者はマインドコントロールについて検証するうちに、これは特殊な例ではなくて、誰にも起こりうることだと思い始めた。母校に戻り若い学生を指導する立場になった著者は、後の世代がまた同じ過ちを繰り返さないよう、事件の詳細を保存する必要を感じる。
そのために、黙して語らない豊田に接見し、あのとき何があったのか話してほしいと懇願する。黙っていなくなるより、情報源として生き続けてほしい。個人が裁かれ事件が世間から忘れられるのを防ぐため、著者は数年かけて原稿を二つ用意した。一つは最高裁に提出する上申書。もう一つが社会に出すためのこの本。
著者はわたしと同じ60年代生まれです。読後に残ったのは、著者の不器用さ、かっこ悪さ。それを隠さず訴えてくる必死さ。amazonを見ると「著者の自己顕示欲が。。。」というレビューもありますが、わたしはそうじゃないと思います。
無味無臭の人が語る言葉より、生い立ちや家族のことまで明らかになっている人が語る言葉の方が心に残ります。著者が豊田に「取るに足りないと思われることでもいいから話してほしい、なんでもない小さなことが大事なんだ」と語りかけるシーンがあります。本質は思いもかけないところから訴えてくる、それを逃さないためには語り手自身が取捨選択しないことが大事だと著者は述べています。
それを著者自身も実行しつつ、もしかして自慢?ともとられかねない事も総動員して、読者を説得にかかっているんだと思いました。その点で著者は村上春樹の「約束された場所で—underground 2」を批判しつつ、同じ手法をとっています。
この本には「相棒」というキャラクタが出てきて著者と会話しますが、その仮想読者に親しく普通の言葉で語りかけることで、難しく抽象的になりがちな話しの内容をわかりやすく伝えています。
この本の題名「さよなら、サイレント・ネイビー」は、「個人が黙って責任を取ることで事件を忘れるのはやめよう。全てを明らかにして、後の人が同じ過ちを繰り返さないようにしよう。」という意味らしいです。
人口密度が高い日本では他人の主張がストレスになります。客観的な言葉より感情や空気が優先される。けどそれはその場、その瞬間のものだけで、時間が経てば消えてしまいます。国家的な犯罪の責任者が言葉による詳細な記録を残さないと、後の世代は過去から学ぶことが出来ずまた同じ過ちを繰り返すでしょう。
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■マインドコントロールについて
新興宗教、マルチ商法、自己啓発セミナー、違う分野のはずなのに、なぜか勧誘してくる人の口調はとっても似ている。先日、ある人から、それらには共通のモデルがあると聞いた。アメリカでベトナム戦争の帰還兵を治療する必要から、大量のセラピストが養成され、マインドコントロール法が授けられた。戦争が終わり、失業した彼らはその手法を使ってビジネスを始めた。というわけだ。ほんまかいな?と検索したらこんなのがありました。
Folklores of LGAT: 自己啓発セミナーの都市伝説自己啓発セミナーの周辺では、「自己啓発セミナーは、
ベトナム帰還兵のリハビリテーションに起源を発している」
という都市伝説があります。
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いつだったか親友がくれた手紙にあった言葉を思い出す。
「一体自分はどうしたいのか、それをいつも自分でわかっていないと、他人を傷つけてしまうの。」
ああ、ほんとに。でもむずかしいよね。自分は何を恐れ、何を欲しているのか?客観的に観察し事実を認めるのは。いつも幽体離脱して上から見てるわけにはいかないし。
川柳や4コマ漫画を趣味にするってのもいいかもね。宗教の敵は「お笑い」って「薔薇の名前」でも言ってたしね。
金属類のリサイクルは有用だが、ペットボトルや紙のリサイクルは、かえって環境を悪化させるという説。著者は材料学の研究者です。
で、ほんとのところどうなのか?私にはわからない。
ただ、リサイクル出来るからと安心して、資源やエネルギーを使い続けることに疑問を抱かないでいるよりはいい。
材料をリサイクルできたとしても、そのためにかかるエネルギーがそれを一から製造するよりもかえってかかっているとしたら?
白熱電灯を禁止しても、それに代わるものや器具を製造するエネルギーが必要だし、車をハイブリッドに買い替えたとしても、そのハイブリッド車を製造するために、古い車に乗り続けるよりも多大なエネルギーが使われていたとしたら?
自分は環境にいいことをしていると思い込んでいても、見えないところでは実際どうなのか?そもそも楽してしかも環境にいいなんてありうるのか?
この人のサイトに掲載されている文章より。「へーなるほど」と思っちゃいました。
一夫多妻の論理人間がいかに自分に都合が良いように解釈するかという見本のようなものに「一夫多妻」がある。世の男性に「一夫多妻はどうですか?」と聞くと、ほとんどの男性は「うらやましい」と答える。妻1人でも大変なのにとも思わないでもないが、それが人情というものだろう。そして婦人団体は眉をひそめる。
この「一夫多妻」に対する男性の反応こそ、「人間は事実をそのまま理解するのではなく、必ず自分本位に解釈する」ことの典型的な例である。
一夫多妻というのは1人の男性が複数の女性を妻に持つということである。そして男と女は結婚年齢に達した時にはほぼ同数である。ということは、例えば一夫多妻が男性1人に妻10人とすると、男性10人の内、たった1人が妻を持ち、子供を持てるのであって、残りの9人はあぶれる。
だから男性に一夫多妻を聞けば、9人は「イヤだ」と言い、1人だけが「うらやましい」と言うはずである。それをほとんどの男性がうらやましいというのは自分が10人の内の1人になると錯覚しているからである。
一夫多妻制度は男性には厳しく、女性にはまだましな制度である。男性は10人のうち1人しか子孫を残せないのに対して、女性はとにかく全員が子孫を残せるのだから。
自分に都合の良いことが真実であり、実際には不利であっても錯覚の限度一杯に錯覚しようとする、そんな可愛い存在が人間なのだ。そしてその性質を利用してズルをしてやろう、儲けたい、自分が当選したい・・・などと考える不埒な奴もいるから困る。
おわり
名古屋大学 武田邦彦
マニアックな本です。ワシ・タカ類は見分けるのがむずかしい。それ以上に撮影するのはほんと大変。なのにこの写真はよく撮れてます。その写真をじっと見ていると、あることに気がつきます。それは、この撮影されているワシ・タカのみなさんがカメラ目線なこと!こっちが鳥を見ている以上に鳥はヒトを見ているのですね。
ノードとリンク。何を見てもそう見える〜。今まで読んだ本の背表紙に隠されていた新しいページがバタバタと開いたイメージ。アリの社会も、構造主義進化論も、みんなこれだったんだよ。
「スモールワールド・ネットワーク」と重複する内容が多いが、こちらの方が私のような一般ピーポーにはわかりやすい。図書館で「スモールワールド・ネットワーク」は社会学に分類されていたが、「新ネットワーク思考」はPCの棚にあった。アプリケーションの使い方とか、web2.0とは何かとか、そういう実用書の類いに分類されていたというのも、読んだ後で納得した。この本が発するメッセージは「理系」のなかに留まらず、人の生活に直結していて、具体的。
経済、言語、物理、生物の細胞、あらゆるものに現われるネットワークのモデル。西洋文明「ネットワーク」に出会う。かな。本の後半になるにつれ、「ツボと経路」とか「因果応報」とか感覚的に持っている東洋人であるわたしには、ええー?今更何を言う?というところもあったけど。
芸術の批評の分野では個々の人間性(作家の内面)に重点を置く価値観の次に来るのは、「ネットワーク」だろうと思われてきた。だからなのかよくわからないけどコンセプトがどうのこうのというアートがたくさんあって、装置があるのはいいけど「それが何か?」(by オオマエハルコ)みたいな感じがしちゃうんだけど。
ところで、「ハケンの品格」を見るたび「木枯らし紋次郎」を思い出すのはわたしだけでしょうか。
木枯し紋次郎 - Wikipedia
(お若い方はDVDや時代劇チャンネルなどで)
「スクールボーイ閣下」を読み終わってから、ジョン・ル・カレは私にとって一級の小説家になった。スパイ小説というジャンルであるにもかかわらず。あれから20年。またル・カレと出会った。
私の亡くなった祖母は言った「男には社会的立場ってものがあるからね。言いたい事を言えないんだよ」「平和を守るのは女の役目だよ」と。子どものころから大事に教えられて来た事が、今踏みにじられて(日本はイラクに派兵していて、イラクでは人がたくさん死んだ)それをわたしはただ見ている。
ジャスティンはテッサが死ぬまで不正を知らなかったことになっている。でも本当は知っていたのかもしれない。きっと子どものころからそのようなことを見続けてきたんだとおもう。そしてそういうことに悩むことから自分を守る術も身に付けたにちがいない。
物語の終わりの方に出てくるセリフ。「女たちがアフリカ唯一の希望なんだよ」「女は家庭をつくり上げ、男は戦争を生み出す。アフリカ全土が男女の戦いなんだよ」男性は女性のように強くは生きられない。でも女性だってむずかしい。実際テッサは死んでしまったし。
ル・カレの「Absolute Friends」がはやく翻訳されないかな。されてるかもしれないけど、あと二年は刊行されないかもしれないな。
(ナイロビの蜂は映画化されたらしいけど、まだ見てないです。)
10年ぐらい前「ウイルス進化論」の文庫版を読んだとき、あとがきに書いてあった事を思い出した。ウイルス進化論とは、遺伝子が血縁の無い個体同志で水平方向にも伝わる事がある、それを介するのはウイルスだという、新しい進化論。今では遺伝子組み換えなどバイオテクノロジーでウイルスが使われているように、実用化されている。
「ウイルス進化論」が書かれた当時はまだ新しい理論だったため、いろいろな研究者から著者に問い合わせが来たそうだ。あるとき、生物学とはまったく無縁の研究室から参考にしたいという問い合わせがあった。著者がおどろいて会って見ると、それは交通システム、具体的にはカーナビのシステムの研究室だった。そして「ウイルス進化論に基づく制御充足問題の解決」というタイトルの発表が情報処理学会で行われたといういきさつが書かれてあった。
まったく別の分野にまたがる問題。それまでの学問体系にはなかった分野。「スモールワールド・ネットワーク」は著者が「SYNC」の著者 スティーヴン・ストロガッツと共に、その存在に光を当て、模索したドキュメンタリーでもある。(SYNCにもスモールワールド・ネットワークについての章がある)
ネットワークのモデルは「ベーコン数」が有名だが、そのような現象を理論によって説明できる、いやしようとする試みがすごい。ネットワークを理論化するという試みは、昔は仮説を立てても検証のしようがなかった。それが今は巨大なデータベースを瞬時に処理できるコンピュータというものがあるおかげで可能になったそうだ。
世の中のすべての問題はすでに解決済みで、残されているのはとてつもなく難しく人類には取りつく島も無いような気がするが、世界のどこかで着々と新しい分野の研究が、というか分野が開拓されつつあるのだと思うと、いやあ、世界っておもしろい。
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ウイルス進化論―ダーウィン進化論を超えて 中原 英臣 , 佐川 峻 |
アーノンクールは一体何考えてるのか?著書を読んで見た。何が言いたいのかよくわからない。「音楽と言語」を読んで勉強しなおしか。言語が。。。となると、日本語しか話さない日本人に西洋音楽が理解できるのか?というところに行き当たってしまうのかな。
それでも食いつけそうな単語を見つけてはその周辺をかじっていくと、ヴィヴァルディやモーツアルトについて研究した具体的な成果については、ほほうと思う所があった。でもそれはどちらかというと雑学の類いで、周りをグルグル回っているだけでアーノンクールという人にはちっとも近づけない。
寝る前に2、3ページ読んではパタっと閉じて「あ"〜〜」。そんな日々を過ごして2週間。そして昨日アーノンクール指揮のマタイ受難曲を聴いた。「ああ、そういうことか!」言葉で説明できないけど納得してしまうのはなぜ!?不思議。ということでこの本終了。
数年前ポリーニがアーノルト・シェーンベルク合唱団を日本に連れてきてくれて、私は初めてマレンツィオやジェズアルドのマドリガーレを聴いた。ルネサンス期にこんな変態音楽が!いや失礼。こんな複雑で抽象的な音のための音みたいな声楽曲があったのかと驚いた。ほんとに衝撃だった。聴いているうちに上下左右の感覚がなくなり、曲が終わって拍手しなくては行けないんだけど、さて手はどこに行ったか?まずは足を地面につけなくちゃ。その感覚が忘れられなくて、CDを探して手に入れて聴いたが、あの時の感動はどこへ?ちがう。アーノルト・シェーンベルク合唱団だったから?あのホールだったから?
それから数年して、ジェズアルドの曲に似た音楽を聴いた。それはジャワの宮廷のガムランのCDだった。バリ島のガムランと違って、非常に洗練されていて。。。ていうか洗練されすぎてちょっと変態入ってる感じ。あるスタイルが洗練されてされすぎると、それはむしろ変!になる。この法則はバレエや、オペラや、歌舞伎や、巨大になりすぎた恐竜や、やせ過ぎのモデルさんなどにも当てはまるとおもう。それはそれで私は好きだが、「プリーズ・ミスター・ポストマン」はカーペンターズよりビートルズの方が好き。
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シャミの予防注射。病院の猫はこんがりトースト色。食欲不振で連れてこられていた子猫がかわいかった。
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バルサのみなさんもやっぱり行くのか秋葉原
世界を象徴的に消化=同化する自らに固有のプロセスに他者を巻き込みたいという欲望は普遍的なものである。
不条理が渦巻くこの世の出来事を自分に理解できる大きさと形にして引き出しにしまいたい、そして安心したい。できればすべてを言葉に置き換えてすっきりさせたい。なぜ生きるのか?なぜ死ぬのか?なぜ異性にもてないか?納得いく説明がほしい。その適用範囲の広さにより、宇宙全体をカバーするなら科学、文明共通なら哲学、気候風土内なら宗教や占いといろいろあるものの、人間は常にそういう活動をしないと不安で生きていけないものらしい。
著者は、その過程も言語によるもの(哲学)映像によるもの(美術)身体によるもの(カメラを構えてシャッターを押す動作とか?)様々あり、かつてはすべての過程は最終的に言語に集約されると思われていたが、映像には映像の、身体には身体の象徴化プロセスがある。。。。。って普通そうでは??
それに映像には、自分の脳内にある過去のトラウマや家族の秘密を解放すべく、つまり象徴化しようとする試みの痕跡が残るって、私が大嫌いな近代美術の研究方法、作家の年譜を調べて個人的な出来事が絵画におよぼす影響を調べるという探偵ごっこを思い出してちょっとムカっとした。まったく心理学者や占い師は油断ならない。
著者の他の本、タンタンの冒険旅行シリーズを精神分析したという「精神分析家を訪れるタンタン」には、私自身がタンタンが好きなのでちょっと興味あるけど。ああ、もうやられてる!
ロラン・バルトの「明るい部屋」やソンタグの「写真論」は、写真という映像を見る事についての本だったが、この「明るい部屋の謎」は写真を撮るという行為についての考察を述べた本。序章の6ページだけで考える事が多くて、なかなか先に進まない。
何故人は写真を撮ることに熱中するのか?対象をカタログ化して所有したい、映像の制作者側に回りたい、被写体との力関係で上位に立ちたい、いろいろあるが、著者は「様々な欲望の背後に映像による世界の明瞭化という欲望が浮かび上がってくる」と述べています。
私が何かにカメラを向ける時、それは相手が私を呼び止めるから。薄暮の中に浮かび上がる光と影の言葉を聞き取ろうとするからなのですが、それはやはり世界を明瞭化したいという欲望なんでしょうか?
(いつになるかわからないけどつづく)
読み始めてすぐ、これは「昭和歌謡大全集」の続編なのだと思った。ワカランチン同志の理由なき戦い。村上龍の小説は憎悪と暴力を隠さない。周りに趣味のいいカーテンをひいて、自己完結の世界に閉じこもるのを許さない。すさまじい暴力と爆破のふるいにかけられて、それでも残るものとは?
ああ、アレも読んだしこれも読んだ。もう読むものがない、とうとう仕事をしなくては。。。
ジョウビタキ、ツグミ初認。今年のツグミは早い。ヒメアマツバメは今日も元気。
夏に日本の神話のイラストを描いて、当時の衣装や装身具がわからなくて苦労しました。それを調べているうちに芋づる式におもしろい本に出会いましたので記録しておきます。
きっかけになったのは、サクヤコノハナヒメの話。ニニギノミコト(弥生人)と、もともと九州に住んでいた土着の部族の姫君サクヤコノハナヒメ(縄文人)が出会い結ばれ、しかしいろいろ両家の間で悶着があり。。。、女性側の親が姉も一緒にもらってくれと送り付けてきたのを返したり、女性の妊娠期間が短いので自分の子ではないのではと疑ったり、それを怒った女性が火を点けた小屋の中で3つ子を産むという話。
一夫多妻、早産、多産、産屋の風習、それらが大陸から来た洗練された文化(当時比)を持つ男から見れば、獣ぽいというか野蛮な感じに見えたんでしょうか。愛の力で結ばれた二人ですが、やはりカルチャーギャップがあり、二人の間が長続きするわけも無く。。。ショーペンハウエル先生の言う通り「遺伝子的に最良の組み合わせが、その後の生活を心地よいものにするとは限らない」であります。
「図説 地図とあらすじで読む古事記と日本書紀」は日本の神話の世界を短時間で俯瞰できます。神話のストーリーを地図と合わせて見ていると、神話の舞台が出雲や日向なのはなぜなのかなど、いろいろ考えてしまいます。大陸から来た人々は稲作に適した暖かく湿潤な平野を探していたはず。農地を探して宮崎平野にたどり着いた弥生人の先遣隊と、先住民だった縄文人との間で、いろいろあったかもとか。
古事記と日本書紀を比較対照しつつ、なぜ2つの記紀が存在するのかも解説されています。古事記は国内向けに大和朝廷支配の正当性を確実にするため。日本書紀は外国(中国)にうちはこういう国ですと提出するためだったそうです。
そこらへんの事情をミステリーというか歴史スキャンダルとして書いているのが梅原猛「神々の流竄(ルザン) 」
そして遺伝子レベルで当時起こったことに迫る「Y染色体からみた日本人」と日本におけるDNA研究を客観的に述べた「DNAから見た日本人」
日本人男性のy染色体においては2つの系統があり、それぞれを世界的なy染色体の系統図(というのを調べた人がいたのですね)にあてはめると、両者はかなり離れていた。人類はアフリカで発生し、ヨーロッパ、アジアと移動して(弱いものが追いやられて)きたわけですが、片方のy染色体はアフリカ系に近い。つまり、かなり初期に大陸を移動して、このアジアの辺境の崖っぷちの日本にたどり着いて定着した。その後かなり時間が経ってから、大陸から朝鮮半島を経由して別の系統の人たちが移動してやって来たというストーリーが推測される。
元々日本列島に住んで漁労採集生活をしていた人々(縄文人)と、農耕文明を携えて大陸からやってきた人々(弥生人)、海彦山彦の話しのように、各地で対立が起こっていたのかとおもいきや、遺跡などを調べるとそうでもないそうで、人々はじわーっと混ざり合い、いつの間にか区別がつかないようになった。日本語も混ざり合って一つの言葉になったし(動詞の2段活用が縄文語、5段活用が弥生語の名残だそうです)日本人は単一民族と疑わない人もたくさんいます。
「Y染色体からみた日本人」の著者は、このように系統的にはかなり離れていた民族同志が、諸外国で起こっている民族対立紛争みたいなことにならず、仲良く共存している事実を強調しています。これはなぜなんでしょう。大陸からの落ちこぼれ同志だから?それとも稲作と言う経済活動の力?
職場で知り合った外国人の女性があるとき「夫は私に、日本人はそうはしない、日本人はこうするんだと指図する。わたしは外国人なのに!」とガハハと笑った後ふとマジな顔になって「日本では外国人は外国人のままでは暮らせない」とさしみそうに言ったことがあります。
日本の上空にはなんていうか吸い取り紙のようなものが浮かんでいると思うことがあります。とにかくちょっとでも異質なものは何もかも吸い取ってしまう。いいものも悪いものも。そして適度に油抜きされて粒子が揃ったものが残る。その吸い取り紙状の装置とはやっぱり神社なんでしょうか?あのお払いの時にバサバサふられる紙を切ったヤツ、あれがあやしい。
やっとでき上がった大重シリーズアイコンを持って、夕方yo氏は東京へ。私は車で馬入橋を渡り平塚へ。10月1日までの絵本原画展を見に。平塚市美術館はなんとこの会期中連日7時まで開いています。すばらしい。
平塚市美術館/企画展示
世界の絵本がやってきた
ブラティスラヴァ世界絵本原画展
特別展示 チャペック兄弟、ラダ、トゥルンカ チェコ絵本の黄金時代
静かな夜の美術館。絵を勉強している風の若い人がチラホラいるだけ。たぶん昼間はお子さん連れでにぎやかなんだろうな。絵だけでなくておもちゃの展示もあって楽しい雰囲気です。
グランプリ受賞のイランの作家の絵はマチエールも陰影も深くあたたかくて素晴らしい作品でした。絵本の原画を見て毎回おもうこと、それは「小さい」。絵本の原寸なんです。そこにあんな細かく小さく何重にも技術を重ねて描けるとは。若いうちでないとできませんね。
世界の作家の原画は、作家自身のイメージでビッシリ固められています。対して日本の作家は絵の具が乗っていない余白がきいています。海外の作家の濃い味を見たあとでは、ちょっと物足りないかも?と思うのですが、印刷されて絵本になったものを見ると、それがいーい感じなのです。会場ではソファの上に原画の絵本も用意されていて自由に見る事ができます。
瀬川康男の「ひな」はコラージュのように見える繊細な表現。この方は名作「いないいないばあ」の方なんですね。
宇野亜喜良の「りゅうのおくりもの」は大迫力の飛び出す絵本。ちょっと怖いのがいいですねえ。舞台は江ノ島なんですけど、お土産屋さんなんかにも置いてあるのかなあ。宇野亜喜良の絵本ですよ。なんちゅうオシャレなお土産になることか。これは「とびだす!妖怪のえほん」シリーズだそうです。
◇仕掛け絵本プロジェクト2004 ■第1回
日本絵本賞受賞絵本原画展
「どい かや」さんの「チリとチリリ」は色鉛筆でとってもきれいでかわいい。小さな二人の女の子が自転車に乗ってあちこち行くのがいいわあ。「チリとチリリうみのおはなし」も見たい。
そして今回わたしてきグランプリはこれ長谷川 義史さんです。
この絵の前で、ブホッと声が出て、バッグからメガネを取り出しました。ああ、これは誰かと一緒に見たい。製本された絵本も手に取りまして、じっくり見ました。これおもしろいよねえ。あたりを見回すのですが、若い人たちはあまり興味がなさそうです。オバサンさみしい。
そして第2部はチェコの代表的絵本作家のコーナー。「ダーシェンカ 子犬の生活」のカレル・チャペック、トゥルンカ、ラダなどの有名な絵。おっと思ったのは、セコラのアリさんシリーズが出ていた事。ずっと前、ユトレヒトで面白い絵本を見た。主人公がぎっくり腰のアリで、なんとジャージ着てるんですよ。その名も「アリさんあいたたた」。ずっと気になってたんです。
【polamal se mravenecek】
Josef Kozisek/著 Nakreslil Ondrej Sekora/絵
他にもブタさんの絵のお肉屋さんのポスターや、黒ビールの宣伝用のイラストなどもかわいかったです。
この企画展はこの後地方を巡回するそうです。平塚での図版は売り切れで、どうしてもほしければ出版元に現金書留で申し込むようにということでした。首都圏ですと2007年1月20日〜3月11日、三鷹市民ギャラリーでもあります。
なぜ突然シュタイナーの名前が出たかと言うと、最近読んだから。シュタイナーは学生時代に子安美知子さんの本で知りました。シュタイナー教育は大変すばらしいと思うのですが、それ以外の神秘学関連になると、全く理解できず、この人マジなのか?ちょっと首をかしげることもしばしばでした。このコリン・ウィルソンによる伝記は、私のような者にとっては大変わかりやすいです。
コリン・ウィルソンは前書きで、シュタイナーの著書が大変難解で一度はこの企画をあきらめた、と書いています。そんな正直で率直な著者が、われわれ一般ピープルと同次元から出発してくれる本。これを読んで少しはシュタイナーという人がわかりました。まだまだよくわかりませんが。
もしかしてシュタイナーは共感覚者だったのかなあ?当時今と同じくらい脳神経科学が進んでいて、共感覚についてもきちんとした説明があったら、どうだったんだろう?
そしてゾンネンシュターンに興味ある人はこんなのも買ってますのジョルジュ・バタイユ。バタイユって宗教秘密結社を作ってたんですか!ひええ〜〜。
私の実家は(形だけだが)禅宗で、親戚にはカトリックのシスターがいて、母の実家はプロテスタント、という環境だったので、宗教=清貧、何か現世のものをそぎ落とすような、創造とは反対のイメージなのだけど、主に書簡からなるバタイユの資料を読むと、このひとたち、一から何かを作るのを楽しんでるなという感じなのです。
人はなんで宗教を興そうとおもうのか?(小学生みたいな疑問ですけど)。バタイユにしたって、シュタイナーにしたって、自分と現実の社会の溝を埋める何かを創作したかったのかな?組織力、経済力、いろんな面で現実の社会と遜色ないとまでは言わないけど、かなり代わりになってくれるものを。虚構のミニ国家。
となると宗教の内容よりも、それを興すに至った動機、なぜ現実に絶望したのか?が非常に気になる。タイムマシンに乗ってあらゆる宗教家に会いに行き、なぜそういう考えに至ったのか?そのきっかけは?あなたが絶望したのは何に対してですか?そしてちょっとこれを聴いてみてくださいとR&Bを聴いてもらって、どうですか?何か感じましたか?とインタビューしてほしい。インタビュアーは村上春樹で。
アマゾンから来た「あなたはこういうのが好きですね?」メールで知った骰子の7の目シリーズの復刻。これは河出書房からの増補新版版。70年代、シュルレアリスム、高校の美術室、木炭、イーゼル、油絵の具の匂い、激論を交わした男の子。あーもうやんなっちゃう。なつかしいような、思い出したくないような。
黒人によってかかれたブラックミュージックの本。日本語訳発行は1990年。解説ピーター・バラカン。ある音楽のジャンルが死ぬとはどういうことなんだろう。作曲する人がいなくなる?演奏する人がいなくなる?それとも売れなくなる?著者はR&Bを死に追いやったのはディスコミュージックだったと断言しています。いやたしかに私もあの年代のディスコサウンドは苦手でした。だからワッツタックスでエモーションズが歌うゴスペルを聴いた時は、驚くとともに自分はえらい勘違いをしていたんだなあと思ったのです。ショービジネスでわれわれが知るブラックミュージックは全体のごく一部なのだなあと。この本は音楽についての本なのだけど、内容の真のテーマは黒人社会と他社会との関わりの変遷だと思う。音楽と社会生活が一体となっているコミュニティ、沖縄を題材にして同じテーマの本が書けると思う。
アーシュラ・K. ル=グウィンの4冊目のエッセイ集「ファンタジーと言葉」より 。猫とダンサーは自分の体の始まりと終わりを知っているという言葉になるほど、むふふと相づち。小さくて固くてキラキラ光る物が好き。カラスの美の基準がわれわれ人間と同じなのは不思議。ああ、ほんとに、あたしもカラス級です。
「物語はすでにある、ただリズムが見つからないので外に出せない」か。
日本語や日本社会というコートを脱ぎ捨てて海外に出ていける人は、才能や環境やお金に恵まれた人なんだろうか?恵まれた人にお説教される筋合いは無い?いやでもね、今はインターネットってのがあります。そして逆に、狭く深い世界に潜るほど、遠くの人と触れ合う機会が増すって事もあるよなあ。狭い業界とか、カルトな趣味とか。接点は小さくても、そこから相手の背負ってる大きな世界を知る事もあるかも。
そして1対1という多少リスクを伴う関係でなくても、blogという個人が発するメディアがある。イラクのリバーベンドという女性のblog。ある時、アメリカ人の記者が拉致された言うニュースが報道され、その際イラク人の通訳が殺害されたと小さく付け加えられていた。通訳はリバーベンドの知人だった。彼が生前どんな人だったかを日本語に訳されたblogで読んだ。下のリンクのずっとスクロールした写真の下あたりから。
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Baghdad Burning
2006年1月12日 木曜日
音楽に捧ぐ・・・
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世界中のピンクフロイドファンはこれを読んでどう思うだろう?政治家や大メディアが「イラク人」としか報道しない人。その人がどんな人かを知ったら。
この頃、いろんな知識がたまるほど、空き容量が少なくなって、新しいものへの好奇心が少なくなってるかもなあと感じることがある。古くて肌になじんだ毛布を捨てるのはつらい。このblogもレイアウトを新しくすれば?と言われるけど、なかなか腰が上がらない。エントリーを追加するのは簡単だけどレイアウトそのものから変えるのは勇気がいる。レイアウトを変えるとは根本的な何かを一から考え直さなくてはならないということで、とても骨が折れる。webもblogも最初に作った時は何か湧き出るように自然にできた。それまでが白紙だったからだろうか?自分を白紙に戻すとは、一から始めるよりも大変かもしれない。
男性によって代々受け継がれるY遺伝子。それってそんなに大事なものなんだろうか?という疑問。そんなに大事なら、その塩基配列を調べて記録を取っておけば?遺伝子が解く!万世一系のひみつによれば、生身のヒトの系統が途絶えても同じY遺伝子を持つ男性は日本にかなりたくさんいるそうだから、別に困らないんじゃない?そして世界中の同じ遺伝子を持った男性の分布状況を明らかにしてほしい。そうすれば日本人、特に代々続いている名家の男性が元々はどこから来た人たちなのかわかるだろう。もしもそういうことが明らかになると困ると言うなら、困るようなものなんだから遺伝子など元々どうでもいいものなのだということでは?
訳者は福岡伸一、、、って最近聞いたよなと思ったら、「プリオン説は本当か?」の人だった。訳者あとがきに
「遺伝子の悪しき擬人化」を見ていていささか食傷せざるをえない。遺伝子に目的はなく、淘汰も遺伝子のレベルで起こりうるものではない。
とあるのを見て、なるほどと思った。言われてみりゃその通りだ。なんとなく遺伝子に意志があるような解釈はおもしろいし、手っ取り早く納得してしまう。これから気をつけよう。
立花隆によるドキュメンタリー。重い、長い、字が小さい。これを読む事で日本の近代史の真実を手で触るように生々しく感じて欲しいという前書きだけでズッシリくる。単なるおもしろい娯楽として読んで欲しくない、ここに書かれたことは今現在とつながっていることを考えて欲しいということなんだとおもう。
実を言うと上下巻とも半分ぐらいしか読んでいない。図書館の貸出期限の2週間が過ぎてしまったので。内容が強烈でぐったり疲れた。読んでから1ヶ月忘れていて、やっぱり記録しておこうと思って書き始めて1週間。毎日書いた。そしてその文章を読んでみると、やっぱり自分の言葉ではない気がして全部削除してしまった。
この本を読んだ私の正直な感想、それは「あたしはバカでよかった!」地位とか名誉とか関係なく、自分の心に従って言いたい事を言える。逆に自分自身以外のもの、天皇制とかマルクス主義とか教祖様とかの力を借りて自分を実際の自分以上のなんか意味ある存在であると錯覚したくなったらヤバイね。。。凡人には凡人の理屈がある。そして凡人=庶民の理屈は世界共通。面子や贅沢のための戦争で父親や夫や息子を戦場に送りたくないとか。
ほうろうのバットがほしいと思っています。以前はほうろうは使いにくいと思っていました。重いし、手入れが大変だし。それがやっぱりほうろうがいいと思えてきたのは、私の料理が変わってきたからだと思います。若い時は思いついてすぐ作れるもの、切ってパッと炒めてみたいなのが多かったのです。今は自分の時間を使わずに、材料や道具に仕事をしてもらうことができるようになった。つまり漬け込むとか煮込むとかですね。ほうろうは表面がガラス質なので酸に強い。マリネやジャム作りや酢を使った煮込みはぜったいほうろう。
ただ、表面がガラス質ですから気をつけないといけないことがあります。落とすと欠けて、そこから錆びてしまいます(何度もやった)。空焚き&急冷は禁物(ピキッと不吉な音がする)。あと、水道水のカルシウムが沈着すると曇ってしまいます。別に使う分には困りませんが、せっかくきれいな光沢を維持するためには、洗ったあとと自然乾燥に任せず布巾で水滴をちょちょっとふき取るといいです。
そして、海辺でキャンプやバーベキューの時はほうろうの皿やカップが便利です。風で飛ばないから。実はわたしが愛用しているほうろうの鍋は元々キャンプ用でした。それが便利だったので、小さなミルクパンを買い足しました。ただし、そのミルクパンは今はゆで卵専用で、ミルクをあたためることはありません。ミルクは焦げ付くと洗うのが大変なので。ミルクは電子レンジにおまかせです。
辰巳芳子さんが野田琺瑯と開発した「ミモザ」は、琺瑯の蒸し器。蒸すなら焦げ付くと言うことは無いし、まあるい形、ほんのりあったかいカスタード色で、アレを使うと毎日の料理が楽しくなるかなあと思うのですが、やはり高い。そして収納場所が無い。まずはイタリアで買ってしまった大きすぎるパスタ鍋を処分しなくては。そういえば、人気料理店の店主、落合務さんの本を読むと、パスタはグルグルかきまわしたり、グラグラ沸騰させてはいけない、とあって、ああ、あたしずっとそうしてました。せっかくザラザラなパスタの表面がツルツルになってしまうと、ソースがからまないためだそうです。イタリア製の鍋は沸騰させるとお湯が外に飛び出してしまい、こんなんでパスタ茹でられるの?と不思議に思っていました。沸騰させちゃいけなかったんですね。ゴメン鍋。
今日は気分転換に1日ですぐ読める1冊。
去年の11月に発行された本。BSE(狂牛病)研究の今現在。そもそも狂牛病とはどんな病気か。これまでの研究の経緯。危険部位を除去すれば安全とする説の根拠になっているプリオン説とは?著者はプリオン説の問題点を挙げ、ウイルス説を提唱する。
病原体がいまだ未発見、免疫反応が出ないため、感染しているかどうか確かめる術も無い。潜伏期間が数十年と長く、症状が出た時にはすでに手遅れ、致死率100%。そんなやっかいな病気を一体どうやって研究するのか?というところから、一般の人向けにわかりやすく解説されている。
途中ちょっと感情に流されているのでは?と勘ぐってしまう点もあったけれど、プリオン説への反論は理屈が通っている。長崎大学医学部の実験によると、病気の末期には神経系から脳に感染源となりうる物質が蓄積されるが、感染初期には唾液腺や脾臓などのリンパ組織に感染物質が多く存在した。。。
って、それじゃあ脊髄と脳を取り除いたぐらいではダメじゃないですか?
ウイルスがいかに細胞にとりついて増殖するかとか、特異なウイルスをどうやって発見したかなどの話もおもしろい。実験結果の数値を改ざんするのは違法だが、グラフなど見せ方を変えることで導きたい結論の方へ印象づけることが出来るという話もおもしろかった。
多神教の宗教は、人間側が神を選ぶ権利を持っている。御利益がなければ、ダメな神として人気がなくなり、神も滅びる。
古代のユダヤ人は出エジプト、カナンへの定着をもたらしてくれたヤーヴェを崇拝していたが、生活に余裕が出来ていくると、他の神も崇拝するようになった。ところが前八世紀〜六世紀に、国土の半分がアッシリアに滅ぼされ、残った半分もバビロニアに捕囚されて、ユダヤ人の国は滅びた。ダメじゃん、ヤーヴェ、役立たず!と神は見放されるところだったが、そうなると神がいなくなって困る。
で、新たな状況が出てくる。それは、神は悪くない。神が民を見捨てたのは、みんなが他の神様を崇拝したからだ。悪いのは私たちだったんだ、という罪の意識だそう。この罪のシステムにおいては、神様が期待に応えてくれなくても神を信じ続けることが出来る。
罪を感じることで、相手に失望しなくてすむ、か。
わたしたちがMTBを買った有酸素運動専門店「AID STATION」の店主の著書。ここのお店のガラス戸にはいろいろ貼紙がしてあります。その中に、店主がサイクル雑誌に寄稿したページがあり、私はそれを読んでお尻が痛くなくなりました。それまではどんなサドルを使っても痛かったのに。こんな知識をタダで道行く人に提供しているとは、なんと太っ腹!ということでお礼の意味を込めて1冊購入させていただきました。
にしても、何度も修理したMTB、もう修理にはお金をかけない方がいいって言われたんですよね。そのお店には、私たちが買った当時はいろんな自転車があったんだけど、だんだんお店の路線が硬派になって来て、今、扱っているのはGIOSだけでフレームの色も青に決定、になってしまう。うーん。
「アリはなぜ、ちゃんと働くのか」の解説で知った、構造主義進化論。先日同じ著者の「分類の思想」を読もうとして、まったく歯が立たなかった。数字や記号だけがズラーと並んでいるのを見ると、意識がフッと遠のいて先に行けなくなっちゃうんだな。生物には興味あるけど統計がダメだあ。この本は講義という口語による説明がベースになっているので、ちょっとは付いて行ける。
で、構造主義進化論って何?ということだが、「生物はダーウィンが言うように競争の結果進化しているのではなくて、なるようになるべく進化している。だって生物とはそういうものだから。」らしいんだけど。。。(ちがう?^^;)
ダーウィン以前の進化論の歴史もおもしろかった。昔の人は、たとえばイヌをイヌたらしめているのは、イヌのイデアがとりついているからだと思っていた。イヌが死ぬとイデアも離れるので、肉体が崩壊しイヌではなくなる。とか。プラトンのイデアが、実体のあるものとして使われていたとは。
18世紀末、ヒトが後ろに反って(イナバウワー状態)おへそが頂点になる姿が、ヒトデに似ているので、脊椎動物と軟体動物は元は一緒だったのでは。。。という説が出て、それは言えてる!と非常にウケて、かのゲーテも支持した。ところが内部の構造がちがうんだからありないと解剖学者に反論されて、ゲーテの評判も少し落ちてしまった。とか。
近代以前の暮らしは毎日同じことの繰り返しだったので、進化という概念がなく、種は不変と信じられていた。産業革命が起きて、社会が変化することが当然な時代になったという背景があって、初めて生物も進化するという考え方が現われたそうです。
ダーウィンの進化論は、競争により弱いものは淘汰されて当然という、資本主義の新興階級のセンスにぴったりと合い支持されました。(でもですよ、弱いものは淘汰され、より環境に適したものに進化していくと言うなら、なぜ先進国で少子化が、開発途上国で人口爆発が起きるの?とわたしなどはおもうのだけど。)
科学は客観的で絶対的な真理を追究するものであるはずだけど、けっこう時代の気分を反映しているものなのですね。仮説を立てて検証することによって科学は成り立っているのですが、仮説を考えるのも、検証する道具を作るのも人間ですもんね。学術的な世界は、世俗的な政治や経済とは独立した崇高なものと思いがちですが、学問だからと言って信用出来るとは限らないということでしょうか。サイードの「オリエンタリズム」と、この「さよならダーウィニズム」は、その辺のヒントをくれたとおもいます。
ダーウィンの自然選択説はメンデルの遺伝学の登場により破綻しましたが、今は両者を融合する形で現われたネオダーウィニズムという自然選択説が主流だそうです。けど分子生物学によりこの説もじき主流ではなくなるだろうというのが著者の予測。
構造主義の考え方によると、人はあるルールを作りそれに従って生きているが、そのルールの根拠は絶対的ではない、便宜上とりあえず決まったものであるが、決まった以上はそのルールが人を拘束する。たとえば言語の成り立ちにみられるように。ルール(同一性)の根拠は恣意的なので、常に矛盾が生じる。それを修正するとまた矛盾が生じ修正する、それを原動力にして社会は動いていく。そんなことが全く起こらない完全調和な世界は死の世界だろう。うーん、東洋的。
この本は原理主義やグローバリズムについての批判の書にもなっています。ということは著者の説もまた世間の風潮に反発すると言う意味で時代の影響を受けているのです。
この本は知識を授けてくれるというよりは、考え方を示してくれる。特に構造主義について。シニフェとシニフィアンという単語が出てきた時は、うっ出た。。。とやばいものに再会した気分になりましたが、単なる知識として記憶にインプットされていた時と、それがどう使われるものか応用例を知った後とでは、印象が違います。考え方を学ぶとは、達人が作った道具を、また他の達人がどのように使いこなしているか、その応用例を多く知るということだなあとおもいます。
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(オプショナルツアー)
わたしはこのごろ、iTunesでポッドキャストとか講演とか聞いているのですが、iChatのメンバーリストに今聞いているタイトルが表示されたりするのですよね。んで、偶然クリスマスに「他者の痛みを感じられるか」になってるけど、テーマ重スギ!とか、「朝刊読み比べ」は地味スギとか苦情を受けたりするのですが、ちなみに今日はmixiのNinja tuneのコミュニティで知ったSmall Cast Radio Networks: ZEN TV Ed.を聞いていました。Small Cast Radio Networksの別のエントリーRapperShadeの"NAVIGATOR"を聞いていたら、15分15秒ぐらいからかかるホーカス・ポーカスの73 touchesという曲が気持ち良くて、Amazon.frで検索して全曲試聴してみました。残念ながらすぐに欲しいのはこの1曲だけで、listen.Japan ではダウンロード販売されてるけど、わたしはMacなので買えません。たのむ、iTMS。
で、先日保坂和志さんという作家の講義を聞いていて、このごろの若い人がノートを取らないという話に相づち。ノートとは単なる記録ではないのです。会話や文字列という1次元の情報を聞きながら、同時に分類や構築をして2次元の情報に置き換える作業。情報のパーツを拾いながら全体を推測する高度な技(ちなみにyo氏はその技の天才)。情報のカケラを集め、選び、組立る能力は子どものころに鍛えると効率的。それは物事を創造する力と関係があると思います。
この頃の若い人は先に出来上がり図をほしがる。このパーツで何が出来るか想像してまずは組み立ててみるということに慣れていないし、だいたい組立可能な数のパーツが溜まるまで我慢できないことが多い。たしかに昔に比べれば処理すべき情報の絶対量が多いので、ゆっくり考える時間がないのかもしれないけど。
以前いた職場で若い人に何かを説明する時は、ズバリ核心部をできるだけ少ない単語で伝えるようにしていました。でも、その一人とかなり親しくなって進路を相談されるようになると、わたしは彼女の将来が心配で、情報の断片だけを示して、結論は自分で考えるように促しました。(だって「ソフトの入門書にはこういうことが出来ますと書いてあるけど、何をしなさいとは書いてない」と不満そうに言うんですよ。)彼女は私のやり方を時代遅れで合理的でないと思っていたかもしれません。
そんなわたしたちのやり取りを脇で聞いていたアルバイトのコピー&お茶係の若い女性が、「その話、わたしにはわかる」と入ってきまして、「最初は意味がわからなくてもある程度知識が増えると、ある日突然それがきれいにつながって形になることがある」と。わたしは感激して思わず「そうなのよ!」と握手してしまいました。
聞くとそのアルバイトSさん(私だって派遣だったんだけど)は元SEだったそうで、わたしはその人が安い時給で働いているのはもったいないと思って、そこから引き抜いて彼女の能力を生かせる別の職場を紹介したのでした。
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そういえばわたしも小学生のころ祖母に「意味がわからなくてもいいから古典を読みなさい。読んでいるうちにわかるようになるから」と平家物語を読破するよう命令されました。意味がわからないのによんでもしようがないじゃん?と冒頭の数ページを読んで挫折。翌日また最初から読み始め、数ページで挫折。。。の繰り返しで、結局読みませんでした。ゴメン、おばあちゃん。あのときおばあちゃんが言ってたこと、今の私にはよくわかる。もう遅いけど。
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で、保坂氏はクロソウスキーという作家のことを話していて、あとでamazonで検索したら「ディアーナの水浴」という本があり、訳者は宮川淳だった。最近偶然「ありそうもないこと 存在の詩学」という本を見かけて、冒頭の「ラベンナの墓」を読んで「ああ、はまった。。。」と膝がガクンとなって訳者を見ると宮川淳だった。宮川淳が生きていたらなあとおもう。彼ならこの時代をどう見てどう思ったろう。
学生時代、一般教養の必修で音楽の時間があって、それは大講堂でただレコードを聴き感想文を提出するだけのものだった。わたしは退屈でその曲にまつわる私的な想い出やいいかげんな物語を思いつくまま長々と書いて出した。その学期の終わり頃、音楽科の教授が美術棟の美学の先生のところに遊びにに来て、そういえばおたくに面白い学生がいるねと話題になったときいた。
その音楽の教授はゲジゲジまゆ毛で耳たぶが大きくいつもダブルのスーツを着ていた。そして彼はゲイで、男子の学生にはとってもやさしいのに、女子にはものすごーく厳しいので有名だった。わたしは叱られるんだろうかと心配になった。受講生が多いから全部のレポートの内容まで目を通さないだろうとタカをくくっていたのだ。「ああ、オノ君(旧姓)ちょっと」と呼ばれてO研究室のドアの前に立った。「キミなめてんの?」とか言われるのかな。
ビビった私は先手に出た「あ、K先生、わたし音楽史を勉強したいんです。音楽科の講義を受講させていただけないでしょうか」なんであんなことを言ったんだろう。当時から口から出る言葉を制御できなかった。「ああ〜、全然かまわないよぉ」先生は見かけに似合わず甘い声で歌うようにおっしゃった。それでなぜか(K先生がこわいので)西洋音楽史の講義に出て、スカルラッティなど古楽のビデオを見た。んでまた当時の衣装や髪形がぶっ飛んでいて、ブハッと思ったけど、音楽科の生徒は誰も笑わない。一緒に受講していたH君と美術棟に戻ってから、ダハハと心ゆくまで笑った。H君はオーストラリアに留学して陶芸家になり今も向こうに住んでいる。
当時美術棟の窯芸室にはいつも留学生がいてろくろを回していた。なんで外国人は日本文学を専攻するとついでに陶芸をやりたがるんだろう?とにかく、そのときはサンフランシスコからメアリさんという女性が来ていて、修行の合い間に私たちとお茶を飲みながらいろんな話をした。ある時「私の住んでいた町はゲイの街。周りはゲイだらけ。だから私には誰がゲイで誰がそうじゃないかすぐわかる」と宣言した。われわれ田舎ものの日本人は「へーっ、そんなに潜在的にゲイがいるものなのか」と驚き「で、だれだれ?」ときくと「そりゃO先生、絶対」という。「それはわかるね、ありうる」「でも先生は自分ではまだ気づいてないね」「このまま気がつかない方がいいんじゃない?」もうメアリさんそっちのけで日本語で勝手に盛り上がって、大体他人がゲイかどうかなんて大きなお世話だし。
まあK先生とO先生はむずかしい芸術のことやなんかで話が合ったんでしょう。K先生が美術科の飲み会に加わることもありました。あるとき「オノ君、こっちおいで」と呼ばれて何かお話をしなくてはいけない状況になったときがあった。私は酔っていたのと、K先生のようにとっても偉い教授とサシでお話をするのは気まずいなあという、あまりに気まずいので気が遠くなりそうだった。そして今度もワラをもつかむ気持ちで、でもつかんだワラはなぜか
「先生ゲイってほんとですか?」
ええ、その場の空気は瞬間氷結。だけど先生はかまわず「誰からきいたのォ?ぼくはね、女の子のいるお店には行かないんだよ。あれ飲んでいいかしら、これ頼んでいいかしらって言われるばっかりで、全然楽しくない。お酒を飲むならゲイバーにかぎるよ。今度ね、僕がかわいがっている子がお店を出したんだ。どこにあってどんな内装で。。。」K先生のしゃべり方は歌のようだった。そのときの話はここで記憶がなくなっています。H君が助け船を出してくれてバカ話に戻ったのかもしれない。こいつとは話が合うなあと意気投合した男子の友人はみんな今は海外で暮らしています。なんでだろう。日本の女に幻滅させる何かを私が提供したんだろうか?
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深夜のロケット花火初認
松林のウグイスのさえずりますますさえ渡りのどかで力が抜ける
冷蔵庫壊れて2日目、冷凍食品がだいぶ解けてきた修理人が来る月曜までがんばれ
これも「共感覚者の驚くべき日常」と同様に著者の思考の遍歴がわかりやすく語られています。私はこう思う。だけでなく、いかにして私はこう思うに至ったか。の部分がおもしろい。中沢新一の「アースダイバー」に感じた、イマイチ納得いかない中途半端感が解消されてすっきりしました。
岬の突端や島が聖なる場所として信仰の対象になるのはなぜか?著者は実用的な理由から仮説を立てています。漁民が海上から現在位置を確認するために使う、陸上の目印。それをヤマというそうですが、ヤマは自然の地形の場合もあり、人が建てた建造物の場合もある。海に出ていて悪天候で陸地の方向を見失った時、ヤマを見失わないよう祈りながら海を進み、無事陸に戻ったら命を救ってくれたヤマに感謝しお参りをする。それが信仰の起源だという説です。
ちなみに「試験でヤマをかける」のヤマの語源はこれだということです。初めて知った!
興味本位で読み始めたけど、とてもいい本だった。共感覚についての研究者の日常というべきかもしれない。未知のものを探っていく神経科学者のインナー・トラベル。
よく「黄色い声」なんて言いますけど、共感覚者とは音に色が付いて見えたり、味に手触りがあったり、それをたとえではなくて、本当に感じてしまう人のこと。10万人に一人と書かれていますが、著者の研究によって、頭が変なのでも病気でもないことが公になって、カミングアウトする人が増えたのか、ある本では何千に一人などとも言われています。カンディンスキーやスクリャービン、ナボコフもそうだったそう。私が知っていたのは(フィクションですけど)ライアル・ワトソンの「未知の贈りもの」に出てくる少女。
共感覚には様々なタイプがあるそうで、聴覚→色覚が多いそうなのですが、現われ方は人さまざま。そしてある感覚からある感覚へ共感する方向は一方向で、逆はないそうです。(たとえば、ある音を聞くと視野の一部が赤くなる人が、赤い色を見るとその音が聞こえるということはない)
人の感覚という機器で測定しにくいものは、従来の医学では取り上げられなかった。それが「気のせい」や「思い込み」ではなくて実在することをどうやって証明するか。
異種の感覚を関連づけることは、普通の人が日常で行っている。「クールな音だ」とか。比喩は人の脳に特有で、他の脊椎動物では起きない。それは言語など抽象的なことを処理する「皮質」という器官で起きる。そこではある刺激は五感の全てに渡される。
一方共感覚はこの皮質を通さずに、「辺縁系」で、特定の感覚間のみで起こる。。それは共感覚時の脳内の血流を調べることで客観的に証明された。(ちなみに共感覚は共感覚者でなくても、神経系の病気の発作時やLSD服用時に現われることがあるそう。現代では法的、倫理的に実験できないが、過去に記録がある)
脳における神経伝達は直線的に起こるのではなくて、液状に広がるように起こっている。たぶん共感覚はわれわれには意識できないだけで、誰の頭の中でも起こっている。共感覚者とは、それがひょんなことから意識にのぞく人だと著者は推測し、「認知の化石」と名付けます。元々脳内で起こっている事だが、それを大多数の人は意識することがなくなってしまった感覚。
ここから、著者は人の意識について考察を重ねる。そしてコーンヒューバーという人の自己意識は幻想的であるという実験結果を紹介する。自分の意志によって決定を下したと思っていることも、実は意識外の何者かによってなされたものであり、意識は自分で決めたと思い込まされている(。。。!)
情動、確信、直感、などが無意識下において起こることは誰でもわかる。われわれには自己意識がアクセスできない部分がある。現代人は意識の部分を重要視して、情動など無意識下で起こることを軽視しがちだが、両方をバランスよく使うことが大事。
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約1ヶ月この本とつきあっているうちに、著者と旅をした気持ちになりました。「型から入る」という言葉や「暗唱」「お稽古」という教育方法を知っている、われわれ日本人にとっては、長い旅路の果てにたどり着いたのは意外と近所?な感じなのですが、旅の過程は非常に興味深く、退屈しません。ただ、2〜3ページ読むごとに考えることがあって、私的オプショナルツアーに出かけてしまうので、なかなか目的地に到達しませんでした。ああ、やっと図書館に返せる。貸出期限大幅オーバー。
著者は研究を進めるにつれ、医師としての訓練を受けた神経科学者である自分が、分析的な性格や先入観に支配されていたことを振り返るのですが、このように冷静で誠実な思索をできるのは、やはり分析的な物の見方が大切なわけで、それを言葉によって見ず知らずの世界中の他人に伝えることができ、人の心の内的探究の助けになる。それはそれですばらしいことではないでしょうか。
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オプショナルツアー1 エクソシストについて。
「エクソシストとの対話」によると、悪魔払いはカトリック教会公認で公的存在なわけですが、悪魔つきでは?と連れてこられる人の99%は神経系の病気とかストレスとか判断されて病院を紹介されるそうです。教会が悪魔つきと判断するのは、本人が知るべくもないラテン語や古い言葉で難しい教義について問答を仕掛けてくる場合だそうです。(首が回るぐらいじゃだめ)本人が知らない間に言語や学問体系を習得することが可能なんだろうかと思うのですが、イタリア人に限ると、イタリア語はラテン語に近いし、子どものころから教会で祈祷や典礼歌を聞き流しているうちに、無意識下で習得してしまうことがありうるかも。。。とこの本を読んで思えてきました。
取材されていた悪魔つきの人は、ふだんは明朗な素敵な女性で、ただ難病と肉親の死を乗り越えてきた過去がある。たぶん意識下では克服したつもりでも、無意識下では自分は何も悪い事をしていないのにひどい目に遭わされたという怒りや悲しみが深く沈殿していたかもしれない。教会に近づくと気分が悪くなり、神父に対面すると別人のようになり罵倒し吠え、後でその時の事はおぼえていない。理屈はともかく、その人はその方面において内的嵐をかかえていて、助けを求めている、それにはその線でとことんつきあってあげるしかないんじゃないか。まあ、エクソシストというのは、なりきり療法のような面もあるかも。
昔私はイタリアのパドヴァである教会に入った。そこは悲痛な表情の聖人でいっぱいだった。その晩、同じ食卓になったツアーの初老の男性が「僕はあれを見てこわくなった」と言った。それは私もイタリアを旅する日にちが経つにつれ感じていた。どこに行っても人を見下ろしている天使。壁紙や天井やあらゆるところで見張っている。どこにいても朝夕聞こえてくる鐘の音。上から網をかぶせられるようだ。路地のあちこちにいるマリア像。そういうものが人々に脅しと安息の両方を与え、支配している。そんな環境で育った人が人生の契約違反を訴えるなら、それはやはり教会なんじゃないかな。
日本にだって狐憑きとか厄年とかお宮参りとかある。理屈では説明できなくても、五感が納得する何かがあるんだろうな。ああ、でもクリスマスとお正月両方やるのは疲れる、どっちかにしてほしい。または1ヶ月以上間を開けてほしいな。
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オプショナルツアー2 「高慢と偏見」について。
リメイクされた新作は見ていませんが、ドラマ版をシネフィルイマジカ(CS)で見ました。私はストーリーよりも時代考証に忠実に作られたという衣装や髪形や変なダンスが気になって気になって。。。家人は「これゴスロリ?」と言っていました。
恋愛ではよくありますよね、意識下では反発を感じていたのに、ふと気がつくとものすごーく魅かれていたとか、ある日、なんでこんな男に惚れていたのか?と我に返るとか。恋心は意識でコントロールできない最たるものかも。遺伝子の判断にまかせるのみ。気になるのは身分も性格も違うあの二人のその後ですけどね。
わたしの油絵の先生は古くさーい近代絵画を教えてくれるおじいさんで、若かった私はいつも反発していました。その先生がかけてくれた言葉で忘れられない言葉があります。「愛や恋はやがてなくなる。最後にのこるのは思いやりだよ」。その先生が定年退官する日、教室に奥様もいらして笑っているお二人をみていいなーと思ったのでした。
相手を思いやるには理解することが必要で、それにはやはり分析的な冷静な目が必要です。本当の理解は愛が消えた後に始まるのかもしれません。
ちなみ美学の先生のアドバイスは「パートナーが出来ても自分が二人になる訳ではない、相手はあくまでも他人だということを忘れないように」でした。
二十歳の頃、ある人と話していて、「私は科学しか信じない」というと「しかしその科学も人間の頭の中で作られた言葉によって成り立っている」と言われて、うーんと思ったことなどを思い出した。自分を取り巻くこの世の中の現象を言葉によって単純なものに言い直したいという欲求。それは科学とか宗教とか哲学とか美術評論とか様々な形を持つが本質は共通している。
急速な経済のグローバル化を不安に思う気持ちが、今の世の中にあると思う。企業の買収や証券取引の活況に対して、スローライフとかロハスとかこれも実態のないものが印刷物や音声の商品になって流通している。イタリア発祥のスローフード運動は島村菜津さんの本で有名になった。彼女はイタリアで「エクソシストとの対話」という本も書いていて、その中に忘れられない一文がある。取材した教会関係の女性の言葉「このごろの人はみんなすぐに答えをほしがる。人には理解できないものもあるということを忘れているわ」(だったかな?)私はこの言葉がグローバル化への反発であるスローフード運動の鍵だと思った。貨幣のように数えることが出来ず、言葉のように表わすことが出来ないものの価値を見直そうという。
混沌とした現象を受け入れて暮らすのはとても不安でできれば避けたい。隅々まで明るく照された夜道を歩きたい。人がそう思うのは当然だ。そして極端に脳化された社会システムの中で生きていると、すべて自分の意志でコントロールできると思ってしまう。けれどかつて大文明が栄えた場所が森林資源を使い果たして荒野になり巨大遺跡だけが残っているのを見ると、この脳化社会の行く末はどうなるのかと不安になる。脳のしくみを知ることで脳の限界を知る。という学問に人気が集まるのもわかるな。
芸術と言説について
踊る人を見て、その感動を思い出す。劇場の出口で、道を歩きながら、電車の中で、家に帰ってベッドに入って目を閉じてから。思い出すたび感動の輝きは少しずつ部品が落ちていくように周りから欠けていく。なんとかつなぎとめようと言葉に記録する。しばらくたって、書かれた言葉を読むとその日の感動を思い出す。でもそれはかすかに記憶に残る元の感動とすでに少し違っている。このとき自分はこう感じたのか。。。と思う。またしばらくして読む。もう元の感動はどこかに消えている。残された言葉が代わりになる。そして時間が経つほど確実に元の感動と言葉がすりかわる。
お正月にテレビで白洲正子の世界みたいな番組をやっていて「花の美しさはない、けど美しい花はある」という言葉が紹介されていた。白洲正子は能の人。そして脳の人、茂木健一郎も同じことを言っていた。ノウ同志。
著者について
本の最後に著者から読者に贈られる言葉がある。こうやってお土産まで用意してくれるなんて、なんていい人だろう。この人はいろんな人と対談をやっていて、mp3で聞くことが出来る。これがけっこうおもしろい。
茂木健一郎 クオリア日記: (本日)いとうせいこう × 茂木健一郎
第10章 日本の都市の行方 より
和辻哲郎の風土論より日本の都市の特異性についてー日本人の共同体意識は「家」である。日本の家は、屋内は障子とふすまでゆるやかに仕切られ内部の空間が濃密であるのに対して、外側に対しては敷地が塀や生け垣で囲われ他者を廃するようにできている。玄関で履物を脱ぐのも、それを象徴している。
なるほど。家の共同体感覚は今でもまだある気がする。明治の家父長制度がなくなっても、会社がそれに代わり、それもなくなっても2チャンネルがある。
建築を見ても一つ一つで完結し、隣り合う建物との見た目のつながりを配慮するなんて事はないようだ。みんな好き勝手にメチャクチャなデザインなんだな。
都市学者、上田篤の名言よりー「日本人は自然が好きだというより自然そのものだ。」自身が自然そのものなので、都市対自然、という二元論的対立は成り立たない。
日本の都市は海からつくられた—海辺聖標の考察 中公新書
上田 篤 (著)
風土学序説—文化をふたたび自然に、自然をふたたび文化に
オギュスタン ベルク (著), Augustin Berque (原著), 中山 元 (翻訳)
が芋づる式に出てきた。読みたい本が山積み、でも時間がない、ああ。
1 皆と群れることができない人へ(ソクラテス)
2 充分なお金を持っていない人へ(エピキュロス)
3 思うように事が運ばない人へ(セネカ)
4 自分自身を好きになれない人へ(モンテーニュ)
5 恋にやぶれてしまった人へ(ショーペンハウエル)
6 困難にぶつかっている人へ(ニーチェ)
6人の先生がそれぞれのお部屋でお待ちしています。先生方の壮絶人生のお話を聞くだけでも、参りました、と頭を下げたくなります。悩んでいる人にかけてあげる慰めの言葉のヒントもあると思います。あくまでもなぐさめであって、解決にはならないですけどね。
「人が恋に落ちるのは、自分の遺伝的な欠陥を埋め合わせてくれる要素を相手に見いだすから。それは優秀で美しい子孫を残すための人間の本能である。しかし、その相手が毎日を楽しく居心地よく共に過ごすに適しているとは限らない。」だそうです。ということはですよ。。。最良の子孫と、最良の伴侶、その両方を手に入れるのはそもそも無理ですか?ショーペンハウエル先生。
自分がコレだと思った男の子供を産んで一人で育て、晩年は気の合った男性と生活。桐島洋子のような人生が女の王道なんでしょうか。高校時代、女子の間で桐島洋子の本が流行りまして、ああいう人生スタイルで結婚せずに自活して生きていこうと誓い合いました。そして真っ先に親友たちを裏切って結婚したのは私です。当時の話が出るたび裏切りモノォーと責められます。それに、体が弱かったのでたぶん30歳までに死ぬと宣言していました。いまだに生きています。実生活は頭で考えたようには運ばないものですね。
寒くて眠い雨の夜は本の世界に逃避行。
縄文時代の海水面は今より高く、東京の低地は水没していた。当時海の中に尽き出した岬状の土地は、霊力が宿る特別な場所と考えられ、神社・仏閣・放送塔などの形となって現代に残っている。それは東京タワーの周辺や上野の山などに顕著に見られる。丘の上と低地を結ぶ斜面に何か特別なものを感じるというのはよくわかるな。タモリもそう言ってるし。
急な斜面を下ると、草木の根が見えたりして、地の底に降りていくように感じることもあるし、長い階段を上がると平地から離れていくような気がすることもある。坂道は現実からちょっと離れる感じを作り出す装置になっている。
海をじっと見ていると、水の底に川の流れがありその川筋だけ水面の色が違っていたり、海底に段丘があって外洋から押し寄せる波がそこで変化したりするのがわかる。海岸線から向こうは単なる無というわけではなくて、海の底にも別の世界がある。
別の世界を覆っている水面の光の反射の中に立つことができる岬のような土地は、やはり特別な場所だと思う。不安と陶酔が入り交じる場所。未知の世界へ飛び立つための滑走路のような。
私のホームページのBBSに「同じような写真がたくさんあったので、へっへえ・・・!と少し驚きました。」と書き込んでくれた方がいて、同じ風景に価値を見いだす人がいた!という不思議な感動に包まれたのですが、近所の茅ケ崎はともかく、稲村ケ崎の何でもない普通の家屋と空き地を撮ってしまうのはなんでなんだろう。その地形に引き寄せられる何かがあるんでしょうか。とすればその要素は具体的に何なのか?
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わたしの学生時代の美学の先生は、長らくギリシャ美術を研究されていましたが、近年その延長として現代における「環境美学」というものを研究してらっしゃるそうなのです。人が、ある超現実的・非現実的光景に引き寄せられるのは、神話的な考え方や感じ方と関係があるのではないかということなのですが。。。また学生に戻って、あれから20年後の先生の講義を聞きたいです。
日本の惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワに着地しました。数年前、この小惑星にあなたの名前を届けませんか?というキャンペーンに応募して家族とシャミの名前を積んでもらったのもあって、無事着陸したと聞いた時は「おおうう〜〜」と思いました。この本は火星探査機「のぞみ」の開発、運用をめぐる12年間の克明なドキュメンタリー。技術系の本なのに泣いた。これを読んで、今の「はやぶさ」のニュースを見ると、感動100倍です。
「はやぶさ」88万人の「星の王子さま」たちへ
著者のblog
松浦晋也のL/D
ところで、この方は「スペースシャトルの落日」の著者でもあるのですが、blogによると、私たちが自転車を買った店でこの方も自転車を買われているようです。もしかして、ご近所?となると宇宙飛行士野口さんともご近所?宇宙度高し!茅ケ崎市。
8月にTUP-Bulletinで読んで、忘れられなかった。
トニー・ブレアに敬意を表して、私はガンジーの有名な金言を次のように読み 換えた——「先ず、彼らはあなたを無視する。次に、笑い者にする。そして、 あなたに敵対する。やがて、彼らはあなたの主張を取り込み、以前から自分た ち側のものだったように装う。それでも、あなたがすっかり取り乱さなければ、 あなたが勝つかもしれない」。引っかかることがひとつ——それが勝利には見 えないこと。勝利がもたらすとされる満足感がない。栄光の爆発ではなく、小 出しにやってくる。見分けも覚束ない、予想もしないような形で姿を現わす。 変化は、まるでコソ泥であるかのように忍び足で訪れ、日常世界をコッソリ動 かす。勝ったとたん、あなたの勝利はあなたのものではない。まず、嫌な以前 の敵方のものになり、今では、彼らはそれがもともと自分たちのものであるよ うにして取りこんでしまい、次にそれは歴史に属するようになる。 (レベッカ・ソルニット著 井上利男訳)
この本を読んだ後、著者の手に触ったような気がした。
すぐに結果が出なくても、諦めないでいよう。
わたしたちが生きているうちに望んだ光景をみることができなくても。
いつも家に帰るのが早すぎる。いつも成果を計算するのが早すぎる。母乳や 乳歯から検出される放射性降下物を撒き散らしていた地上核実験の終結を実現 した1963年の大勝利に寄与したアメリカ初の大規模な反核兵器運動「女性 のためのストライキ運動(WSP=the Women's Strike for Peace)」のメン バーの手記を私は読んだことがある。その女性は、ある朝、抗議行動としてケ ネディ大統領が執務するホワイトハウスの前で雨のなかに立っていて、ばかば かしい、なんてくだらないことをやってるんだろうと思ったという。何年もた ってから、彼女は、核兵器問題の活動家たちのなかで最も著名だったベンジャ ミン・スポック博士[世界的ロングセラーの育児書を著した小児科医]が、女 性たちの小さなグループがホワイトハウス抗議して、雨にうたれて立っている を見かけたのが、自分にとってのターニング・ポイントになったと語るのを聞 いた。その人たちがそれほど熱心になっているのなら、自分もこの問題につて もっと考慮しなければならないだろうと博士は思ったのだ。
ランスの奇跡の7連覇を可能にしたトレーニング方法です。ランスのコーチ、クリス・カーマイケルによると「トレーニングの目的とメニューはシンプルなほどよい」だそうです。最低4週間1つの目的だけに絞ってメニューをこなし、それが終わったらまた次の目的のために4週間やると言う風に。
あと、ほほうと思ったこと抜粋。
空気抵抗は高さより幅。
登りでは深く息を吐く事に集中する。すると心拍数が下る。
スタンディングで漕ぐと余分に消耗してしまうので、ギヤを軽くして座って漕ぐ。
ランスが登りで、ものすごい速さでペダルを回しているのを毎年スゲ〜と思いながら見てましたが、
彼はあのスタイルを身に付けるために何年もきびしいトレーニングをしたそうです。
やることをシンプルにする。
きびしく自分を管理する。
感情や感性を抑え、理性で行動する。
ラテン系の選手にはむずかしいだろうなあ。
あたしはロードを自分ではやらないけれど、いやあ、人間の体っておもしろい。
オサレ海の家のカタログです。茅ヶ崎市立図書館にリクエストして買ってもらいました。で、最初のページを見てびっくり。これ見たことあるわ。去年、海水浴場で見て、何だろう?と思ってました。なんと、茅ヶ崎戯曲なんつう名前までついていたとは!
海の家を利用するのは小っちゃい子がいる家族連れも多いと思うんですよね。子供服メーカーが海の家を作ったらどうでしょうねえ。
ここで偶然、森山開次の名前を見て思い出しました。先月、日本映画チャンネルで「茶の味」という映画をやっていたんですけど、それに森山開次くんが出て踊ってました。奇妙でおもしろい映画でしたよ。

平安の気象予報士紫式部—『源氏物語』に隠された天気の科学
講談社プラスアルファ新書
石井 和子 (著)
といっても、紫式部が天気予報をしていたということではありませんで、現代の予報官もびっくりの、気象現象に対する観察眼があったというお話です。気象予報士の資格を持っている著者は、源氏物語のなかの雨や風や季節のうつろいの正確な描写を読むと、その時の気圧配置図までもが頭に浮かぶそうです。なるほど、時代とともに言葉や風俗は変わっても、気象と地形と男と女は変わらないのね。
ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 - 40歳の童貞フィギュア・コレクターの映画が全米No.1ヒット!
なんですが、i-morleyで河野麻子さんが「自分に自信がない男性はとりあえず筋肉を付けてみることから始めたらいいんじゃないかしら」なんておっしゃってました。たしかに、やればやるほど確実に結果が出ることって、自信をつけるのに最適。ランニングとか、マシンの操作とか。でもハマって抜けられなくなることもあるし。。。てなことを思いつつ。
いつだったか、フローラン・ダバディがblogで「情熱はダークサイドへと通じる」とスターウォーズのヨーダの言葉を引用していましたが、今日それに似た言葉に出会いました。
憎悪と権力はともに、それぞれ異ったかたちで、情熱である。違いは憎悪は純粋にネガティブなものであるのに対し、権力は本質的にポジティブだというところにある。人は憎悪に屈するが、権力を渇望する。
これはジェノサイドの丘〈上〉(フィリップ・ゴーレイヴィチ著 柳下毅一郎訳)p.162の著者による言葉です。
映画好きな方なら今年のアカデミー賞でいくつか賞の候補になった「ホテル・ルワンダ」という映画のストーリの概略をご存知でしょう。民族大虐殺という狂気の中で、ホテルマネージャーが千人以上の命を救った話です。これは実話で、そのエピソードが本文の中にあります(ホテルの実名はオテル・デ・ミル・コリン)。国連のPKOさえ出来なかったことをなぜ彼はできたのか?
大衆を煽るのは憎悪によってであるように思われる事が多いが、真に人を動かすのは力への欲望である。ポール(ホテルマネージャー)はそれを利用した。と、著者は分析して述べています。
ある日突然隣人がゾンビのようになって襲ってきたら?家族を皆殺しにされて生き残ってしまった人は、その狂気が醒めた後、かつての加害者とまた隣人として暮らしていけるのか?この本が出版されたのは事件の4年後1998年。著者はその後、「コールド・ケース」という犯罪の未解決事件を扱った本を書いています。
美しいものを見た時、その瞬間の体験をずっと所有していたいという衝動は誰でも持っている。それで記念品を買ったり、カメラでその場を記録したりする。ずっと長く深く所有できる方法は、その美を理解すること。そして最も理解できる方法は、それを書いたり描いたりすること。by ジョン・ラスキン(1819-1900)
旅モノもう1冊。先日読んだ「クックブックに見るアメリカ食の謎」に、米国全土のダイナーの写真集が載っていました。昨日あるサイトで同じ企画の本を見て、amazonで購入。ううむ、おいしそう。おねーさんたちも素敵です。これはペーパーバック版で、パーフェクト版というのもあります。そっちは表紙の題名が「CUTIES AND CALORIES」になってます。
だらだら書き足しています。
ツール・ド・フランスで7連覇という偉業をなしとげたランス・アームストロングは「ツールで総合優勝するには、2回のタイム・トライアルと1回のアタックでいいんだ。」と語っていました。つまり21日間のうち本気を出すのは3日でいい、というわけです。
(もちろんそれが楽だというわけではありません。3回の力の爆発のために、その他の18日間をアシストに支えてもらいながら、慎重にミスをしないよう集中して過ごさねばなりません。個人の感性や能力を抑えて、エースという役回りを徹底的にこなす、その気苦労、プレッシャーは大変なものでしょう。)
そういう戦略は特にランスの属するディスカバリーチームのオリジナルというわけではなくて、総合優勝を狙うチームにとっては基本なのですが、7連覇をとげた歴史的な日のインタビューで、ランスからこの言葉が出たことに「ああ、アメリカ人だなあ」と思わずにはいられませんでした。「〜のためには、〜するだけでいい。」という言葉を何度アメリカ人から聞いたことか。
そしてこれ。
しかし、マクドナルドだけを食べて、ただ痩せたわけではない。メラブさんは、マクドナルド商品のカロリーを全て暗記していて、一日のカロリーを1200~1400kcalになるように計算していたのだ。
なるほど、マクドナルドはどこでも同じメニューなのでカロリー計算が簡単。適性カロリーを摂るという基本的なことをクリアしやすい。栄養のバランスが心配ですけど、難しいことをあれこれ考えずにすむので続けやすい。マクドナルドダイエットはダイエット界の公文式?
このようなことを考えつつ、図書館でイタリア料理の本を探していて、ふと目に付いた本。アメリカにおける食材と料理の歴史なんですが、出てくるメニューがちっともおいしそうじゃない笑。食を楽しむというよりはサバイバルの手段としての料理なんです。それはそれで非常に興味深いのですが。
アメリカにおける食の価値とは「おいしい」よりも「いつでもどこでも同じ味で安心」らしいと著者は言います。それは、自由、平等、機会均等といった建国の精神によるものかもしれない、そしてこの食の普遍化に対する欲求を実現可能にしているのは、冷蔵庫とスーパーマーケットと輸送体制だと。
とても読みやすくてわかりやすい、目からウロコの読み物である。スペースシャトルの問題点、今後の宇宙開発のあるべき姿、といった著者の主張したい点が明確に伝わってくるだけでなく、技術開発、特に巨大プロジェクトを進める上で、このスペースシャトル計画を反面教師として見るための教科書としても悪くない出来だと思う。
というのを読んで、図書館で借りて読みました。今度のシャトルに乗る予定の野口さんは茅ヶ崎出身で、地元では打ち上げ時に烏帽子岩をライトアップするとか、盛り上がっているようなのに、不吉なタイトルの本なのですが。。。そもそもスペースシャトルって何ですか?どうやって宇宙まで行くんですか?そんな基本的なこともとってもよくわかる本。
スペースシャトルはアポロ計画の次のステップとして、地上500kmの低軌道(ちなみに月は380,000km)と地上を何度も往復するために開発された。そのためアポロのように使い捨てでなく、同じ機体を何度も使い回すことにして翼を付けた。全部で6機が建造され、博物館にある試験機が1機、2機を事故で失い、現役は3機。シャトルの製造ラインは1992年にすでに閉鎖されていて、シャトル計画は2010年で終了予定だそうです。
そもそも有翼の多目的機という設計コンセプトが間違っていた上、アポロ計画終了後の業界の雇用を維持するためという政治的な干渉が入ったために無駄に巨大な計画になってしまい、方向の修正ができず責任の所在もうやむやになってしまった。。。と著者はこの計画の全体を冷静に分析しています。シャトルダメージから再起するためには?日本の宇宙開発はこれからどうあるべきか?この本の結論は。。。
(茅ヶ崎図書館でタッチの差で予約した方、これ明日返しますからね〜)

安家達也 著『ツール 伝説の峠』
(未知谷 刊/ISBN4-89642-137-X)
今日のゲストは「ツール100話」の著者でした。この本は明日発売だそうです。きのうのガリビエ峠の熱狂的な観客、レース当日は一般車両通行止めなので、みんな徒歩か自転車で峠まで上ってきているのですね。標高2600mですよ。走るのもすごいけど、見に行くのもすごい。超級の峠ポイントの1日を朝から夕方までそこにいて見てみたいですね。選手が通るのは一瞬だけど、そこに来る人たちのいろんなドラマがありそうです。
今日のクイズはハズレた〜
連日放送中のジロ・デ・イタリア。じっくり見ている暇がないのですが、13,14ステージと山岳を制したバッラのコロンビア・セッレイタリアはツールには出ないそうですね。あと、チーム全員宿の食事で腹痛になってしまったCSC。前日134号線で、CSCのジャージを着て颯爽とトレーニングしている人を見たんですけど、あの人ガックリしちゃったかなあ。全然知らない人なのでいいんですけど。CSCは珍しかったので。やっぱりファッサのジャージが多いです。
ところでDiscovery Channelのページの隅に小さく
特別番組のご案内 「ツール・ド・フランス特集」 (PDF)
とあるのを見つけました。
ツールを連覇したアームストロングが所属するチームは、スポンサーがUSポスタルからディスカバリーチャンネルに変わりました。Pro Cycling :: Main(このチームには今年から22歳の日本人選手、別府君もいるのです!)ツールそのものの放送はディスカバリーチャンネルではないものの、やっぱり特別番組があるのですね。
6/27(月)20:00〜21:00 サイエンス・オブ・ランス・アームストロング
超人の心肺機能を作っているトレーニング方法が明かされます。
ディスカバリーチャンネルは今週、映画「オープン・ウォーター」ウィークです。

http://content.collegehumor.com/img/s/shark2.w492.jpgより
ヒエ〜〜!

Martin J. Wells 著
長野 敬+野村 尚子 訳
主にタコやイカなど頭足類の研究をしている生物学者による、海洋生物の博物誌。
最終章の「科学者は有益でなくてはならないか?」より。
生物を研究する意味について。生物学的現象は非常に複雑な場合が多く、完全な解答を出すことは困難。だが、統計的記述が理解できるようになるので、不確実性の量を計ることはできる。「何パーセント確実だ」という風に。その点が形而上学的世界観を追及する数学や物理学とは違う点である。生物学者は絶対的な確信を装わない。人の考えることは誤りやすいという前提から出発しているので、現実的なアセスメントに適している。
第10章「ウバザメと政治・経済」には海洋資源の乱獲について記述があります。
わが家では、カニをお歳暮に贈ったり、フカヒレスープ食べたりするのをやめました。どちらもムチャクチャ乱獲されているから。結局消費者が食べるのをやめて需要をなくすしかないでしょう。たった一軒でやっても意味がないと言われたって、一人ひとりがやらなきゃいつまでたっても乱獲はなくならないので。
サメについては、水銀の蓄積量も心配です。
農林水産省:平成15年6月3日に厚生労働省が公表した「水銀を含有する魚介類等の摂食に関する注意事項」について(正しい理解のために)
キンメダイやメカジキだって、インド洋産と書かれていても、本当かどうか消費者にはわかりませんから、たまーにしか食べません。バンドウイルカにいたっては「妊婦は2ヶ月に1度、60〜80グラムぐらいにしときなさい」という危険度。イルカなんて誰が食べる?とお思いでしょうが、スーパーなどに並んでいる鯨肉はイルカが多いそうです。あと、海の大型捕食動物といえば、マグロですが、マグロについては調査対象ではない(!)と聞いたことがあります。
人が代謝によって体から排出しなければならないのは、魚に含まれる有機水銀だけではないというのもあります。ダイオキシン、農産物の残留農薬、水道水のトリハロメタン、汚染大気、住宅建材や家具の化学物質。。。人体の代謝部門は重労働で大変なんじゃないでしょうか。自分の体と話したことがないのでわかりませんが。
第14章「イルカ」より。イルカは知能が発達している、その根拠は脳が大きいから。という説があるが、そもそも知能の高低は人間同志でも定義しにくい。それは人が属する文化によるので、西洋人が考える知能テストと、アボリジニが考える知能テストではかなり内容がちがうだろう。
イルカは視界の利かない水中で高周波を出して周りや自分の位置を確認する。そのエコーの分析に大きな脳を必要とする。しかし特定の計算処理のために脳が大きいからといって、知能が発達しているとはいいがたい。著者は鯨類を保護する立場だが、それは鯨類が高い知能を持っているからではない。
以下は私の考えですが、陸上にしろ、海中にしろ、食物連鎖の頂点にいる大型捕食動物は、環境の指標になります。汚染、乱獲などの問題に正面から取り組むことなく、鯨類を駆除することでつじつまを合わせようとする考え方には賛成できません。
妄想に取りつかれた揚げ句一線を越えて偽造までしてしまった人たちの話。義経は大陸に渡ってジンギスカンになった。天皇家は14世紀の南北朝時代に北朝と南朝に別れ、今の天皇は北朝だが、正当な天皇は南朝で本当の天皇は別にいる。など。今聞くと「ハー?」ですけど、戦前はそう信じていた人も少なくなかったらしい。義経説は日本政府による大陸支配の口実になり、南朝説は戦後進駐軍が日本を支配するために利用されるところだった。歴史って後世の人によって都合よく書き換えられる危ういものなのですね。
そういえば、イエスは日本で死んだって説ありますね。世界各地にあるようですが。アレなんかもそういうことにしたかった、いやそうであるに違いないと思い込みたかった人たちの強い希望が大金を集め、ハンパじゃない規模の偽造が行われたのかもなあと思ってしまいます。
なぜ人は坂道に魅かれるのか。江戸の街は京浜東北線より東側は平地の下町で碁盤目上の道が整備され、西側は山の手で尾根道と谷道を坂がつないでいたそう。平らな下町もベネチアのように水路が引かれ、水面と路面の段差があり、橋を渡るたびに上がり下がりしていたんじゃないでしょうか。
羽根ペンによる手書きから、パソコンのキーボードへ。技術の進歩とともに生きた著者の「手仕事」に関する考察。手作業にもそれを繰り返すうちに機械的な反復の要素が出てくる場合があるし、オートメーション化された作業にも紆余曲折や思考や技術の鍛練が要される場合がある。
blogも毎日少しずつ編んで行く所とか、ある程度までやり方が準備されている所、徐々に技術を習得して行く所、などが「手芸」の一種のようだと思うことがあります。大掛かりなサイトを構築して管理する男性的なメディアとは対称的じゃないでしょうか。
学生時代に読んだデリダの言葉で「物質の抵抗」というのがあります。作家が何かを表わそうとする時、そこには物質の抵抗がある。文筆家には紙とペンの、画家には絵の具と筆の。。。
私はAdobe Illustratorというソフトと出会った時、なんて知的なソフトなんだろうと思いました。。道具による制限がなく、頭で考えたことをそのまま再現してくれる。しかし逆に言えば、ツールによって引き起こされる偶然性にたよることはできません。すべての責任は操作する人間にあるのです。この厳しさがAdobe Illustratorを敬遠する人が多い理由だと思います。
物質の抵抗に遇って時間と労力を費やすのはいやだ、けどそれから自由になってゼロから何かを作るのもつらい。ある程度制限されたツールの方が心地よかったり、便利なツールを選択しながら、実はそのツールによる癖や偶然性にたよってしまう。そういうこともあると思います。
CGで復元された晩餐図をニューヨークの街頭に持ち出して、何の予備知識も持っていない普通の人に見てもらった感想がおもしろい。イラクから政治亡命したタクシー運転手は「故郷での人権について話しあう集会を思い出す。議論が白熱するが何一つ決まったためしが無い」といい、バーテンダーは「バーのカウンターを内側から見た風景だ」という。たしかに!テーブルの片側にだけ人がいるなんて変。TVのホームドラマの手法の起源はこれだったか。またあるイタリア人はマフィアの会合だという。「この中に裏切り者がいると親分に告げられてみんなびびってるところ。情婦をのぞいて」その情婦とはヨハネのことらしい。それはこの女だと指さしたそうだ。ダ・ヴィンチは市井の人びとをデッサンしてモデルにしたそうなので、12使徒はイタリア人のサンプルでもあるか。
ところで、わたしはミラノでこの実物を見た事がある。向いの壁にその時代の別人の作品が描かれており、その絵もすばらしい絵なのだが「何もかもが画期的だったダ・ヴィンチの絵と比べられて500年間ボロクソ言われ続けている不運な絵なのでございます」とガイドさんに言われていた。
小さな世界シリーズ。春になると西から飛んでくる黄砂。ゴビ砂漠の黄砂はジェット気流に乗ってアメリカのシアトルまで達するらしい。その名も「アジア直送便」。このごろでは工業地帯から排出された有害な物資もオマケとしてくっついてくるそう。春雨には濡れないよう気をつけよう。あと、「ハウスダストの生態系」などアレルギー持ちには興味ある話など。
アリの社会では、働かずただダラダラしているだけのヤツが全体の何パーセントかは必ずいるらしい。
去年あたり話題になったアリ学者の本。ついにわかりましたよ!どうやって個体識別したか。プラモデル用の塗料を背中につけたそうです。その際アリが暴れると困るので、マーキング作業中はアリを冷やして動けなくしたそう。作業場所は熱い砂漠。アリを冷やすのに使ったのは、冷凍しておいたアイスクリームメーカーだそうです。(たぶんコレ)。この著者の本があるのはわかっていたのですが、すでに絶版になっていて(早)藤沢の図書館で借りました。
調査されたアリはアリゾナの砂漠に住む「アカシュウカクアリ(Pogonomyrmex barbatus)」というアリさんたち(体長約1cm)。1匹の女王は生涯に1日だけ複数のオスと交尾し、そのときの精子を体内に保存し卵を産み続ける。1匹の女王につき1つのコロニーが作られ、女王の寿命=コロニーの寿命である。その寿命は15〜20年!
できてから3〜4年の若いコロニーと、5年以上の成熟したコロニーでは、非常事態に対する反応がちがう。働きアリの寿命は1年ほどなので、経験で得た教訓が生かされているとは考えられない。何がコロニー全体の意志を決定するのか?
働きアリの仕事は担当が決まっているが、状況に応じて変わる。ただしそれは一方通行で、巣の保守→偵察→食糧収集と出世して降格することはない。そのアリが何担当かという情報は、アリの体表についている匂いにあり、アリ同士が出会った時、匂いで相手を判別する。
巣穴の周囲、または内部で、ある時間内に何担当のアリと何回出会ったか、そのカウントがアリの行動を決定する、と著者は仮定した。コロニーの年齢による行動パターンの違いは、コロニーの規模、アリの総数によるのではないかと。。。
あと、ニューロン相互作用とか複雑系とか難しい用語が出てきたんですけど、すっ飛ばしてしまいました。「アリの全体の何割かはいつもダラダラしてる説」については言及がありませんでした。この本が書かれたのは2000年、ダラダラ説が発表されたのは去年 (2004年)あたりです。
この本の訳者(池田清彦氏)は、自らも研究者で、あとがきで「ほとんどの社会性昆虫の研究者はネオダーウィニズム論者なので、この著者も無意識のうちに「無意味に思えるアリの行動にも危機回避などの意味があるはず」と考えているようだが、構造主義生物学者の私(訳者)はそうは思わない」とチクっと一言書いてありました。
著者:デボラ・ゴードンの研究室
The Gordon Lab
「構造主義生物学」って何ですか?
進化研究と社会:構造主義/構造生物学/構造主義生物学
あと、偶然数日前に見たサイト
なお、六月ころ結婚飛行を終えたサムライアリの新女王は、クロヤマアリの巣を捜して潜り込み、その女王をかみ殺して働きアリごと巣を乗っ取り、 新生活を開始する。虫の世界はまさに何でもありの感が深い。
石積みの坂道。階段がある路地。丘の上からの見晴らし。坂道がある小さな街に魅かれるのはなんででしょう?さらに、そこが何らかの理由で村民に放棄された廃虚だったりすると、もうたまんないですね。
本日のジョギング:3km
海岸沿いのサイクリングロードは、いつも半分砂に埋まっているので、自転車用というよりはジョギング&犬の散歩用ロードで、コンクリートの道と平行してウッドデッキの道もある。数日空いて走るとヘロヘロで(いつもヘロヘロだけど)足腰への衝撃を和らげようとウッドデッキの方を走っていたら、木の継ぎ目につま先が引っ掛かって、あっああー転んでしまいました。潔くステーンと転べばよかったのに、なんとか体勢を建て直そうともがいたのが裏目に出て、お尻を強打。なんで前のめりに倒れたはずなのに、お尻を打ったんでしょうねえ、て感じ。それがちょうどトイレの便座に座るとジャストミートなポイントなんですね。あたたた。
トイレといえば、以前左手が腱鞘炎になったことがありまして、一番困ったのが、トイレでパンツ上げられないってことでした。他のことは片手でなんとかできるんですが、パンツをはくってのが難しいんですよ。こればっかりは他人にもたのめませんしねえ。何かを履くという動作はとっても複雑な行動だと教育学の先生が言っていたことを、この年になって、トイレで実感したのでした。
二十代の頃、フリーマン・ダイソンの息子、ジョージ・ダイソンについて書かれた本「宇宙船とカヌー」を読んで、その生き方に激しく憧れた。(憧れというのは、そういうことは自分には無理だというあきらめでもある)図書館でふと背表紙のお父さんの名前を見て、そういえば、息子さんお元気ですか?というノリで借りて読んだのだ。
第1章目は、科学技術と失敗の話。かつて、帝国主義というイデオロギーによって後押しされ保護された技術は、国家の威信が掛かっていたため失敗が許されず、結局無理がたたって大惨事を起こした例がある。技術が競争にさらされ、小さな失敗を重ねながら淘汰されて行けば、それは安全な技術となる、という話。
地球に衝突しそうな彗星の進路を変える装置とか、ジョージが今どんな人になってどんな仕事をしているか、とかの話をはさみつつ、第5章は倫理について。「この何十年かの間、科学が貧しい人に恩恵をもたらすことに失敗してきたのは、二つの要因による。純粋科学者が人類が抱える俗世のニーズから縁遠くなったこと、応用科学者がますます目先の利益にとらわれるようになったこと。」
(以下要約)
核軍備競争が終わった今、人類社会を襲う新時代は3つ
1.情報社会
2.バイオテクノロジー
3.ニューロテクノロジー
この3つの技術を理解し制御する人は富と権力を得、古い技能を持った人を無用にしてしまう。富の分配の不平等を拡大する傾向を持つだろう。
一方、人類の貧しい人びとは誰でも利用できて高品質で安い、家・医療・教育の3つを必要としている。未来社会の問題は、3つの新しい技術と、3つの基本的なニーズとのミスマッチである。技術が貧しい人のニーズを無視し、一部の人にのみ恩恵を与える限り、貧しい人びとは技術の圧制に対して反逆し、非合理で暴力的な手段に訴えるだろう。そして過去にそうだったように、将来においても、最も貧しい人びとの反乱は、貧富を問わず人びとを貧しくするだろう。(この本が書かれたのは1997年)
中野不二男氏の本2冊。なんでたびたびロケットの打ち上げに失敗しちゃうの?という疑問の答えがわかったようなわからないような。「環境にいい自動車はなぜ、なかなか誕生しないのか」にはいろいろ考えさせられました。
対してこちらは肩の力を抜いて楽しく読める。「宇宙からやってきたウィルスが地球を襲う!?」など。シュレディンガーの猫も出てきます。長谷川洋一著。
メモ
戦争のテクノロジーを3段階に分類し建築との関係で見ると
第1段階:防御ー都市の要塞化。城壁など
第2段階:攻撃ー火薬の登場。垂直方向の防空
第3段階:情報ー抑止のための監視。監視社会になるほどガラスなど透明なイメージが溢れる。
戦争は技術の母といわれるが、フラーやイームズの機能的で無駄のない美しさは、戦時下の物資が制約された状況と関係があった。そして今それは限られた資源を有効に使うという意味でエコロジーにも通じるものがある。
世界貿易センタービルを設計したミノル・ヤマザキは後年サウジアラビアのダーラン空港を設計した。それはイスラム建築に敬意を表したアラブ風だったので、国王はたいそう気に入り紙幣の絵柄にまで採用した。もしかしてゼネコンのビン・ラディン一族も建設に関わったかもしれない。911のテロリストの主犯格の一人は建築を学んでいた。世界は多様なモザイクでできている。
ガンコ親父の孤独な戦いの記録。この本が出たのは1996年、著者の必死の抗議のおかげか?、当時と比べるとあちこちで無意味なアナウンスが減った気がする。筆者は大学の先生で専門分野は哲学。先週まで読んでいたリスク管理の本と比べると対照的でおもしろい。
これも環境問題の一つだと思うけど、「水俣病などのひどい公害を経験したという事情から、日本で一般的に環境リスクとは、イコール人間の死や病気である。だから、人に被害がないと問題にされにくい、そこが日本以外の国における環境リスクの捕らえ方と違うところである。」から始まる環境リスク論のスマートさとは正反対。人を説得するにもいろんなやり方があるもんだと思う。
坂本龍一が「人間の五感のうちでもっとも制度化されやすいのは耳だ」と何かで書いていた。フィルターやフタがついてるのかと思うほど、慣らされやすく、意図的に聞かないこともできる。初めての場所では人はいろんな音に注意をはらうけど、毎日同じ音を聞いている人はその音を聞いていない。そして不特定多数に対する音の呼びかけは、それが自分に言われているとは人は思わないんだな。
ふう、やっとクリスマスも終わり。甥と姪にプレゼントを選んで送りました。甥っ子のリクエストは「セブンスタワー」の3〜5巻。7歳の姪っ子の希望は「チョウチョの図鑑」で、いろいろ調べているうちに自分がはまってしまいました。私はシジミチョウ、特にヤマトシジミが大好き。あのどこにでもいる小さい紫のチョウを見ると、とっても幸せな気持ちになります。海風がゴーゴー吹くうちのベランダではたぶん無理ですけど、もしも花壇を作れる庭があったらいろんな蝶が来る庭をつくってみたいな。ちょっとした現実逃避でした(^^;)
中西準子さんの本3冊。タイトルは堅そうですが、とってもわかりやすい。ただむやみに不安がるよりは、リスクを計算しようという本です。
NHKの日曜美術館を見ていて、「島尾伸三」と「潮田登久子」と「しまおまほ」が家族なのを知ってびっくり!潮田さんの「冷蔵庫」という写真集を見たくてずっと探していたのです。ミトゲーまで行けば本物のプリントが見れるか。。。あーでも遠いなあ。
水戸芸術館現代美術ギャラリー
「まほちゃんち」
2004年10月23日(土)〜2005年1月10日(月・祝)
島尾伸三(小説家・写真家)、潮田登久子(写真家)夫妻とその娘しまおまほ(まんが家)という、アーティスト一家による展覧会。
言葉で説明しにくいものを、説明したいのです。他人に伝えるために。でもやっぱり借りてきた言葉では説明できない。借りてきた言葉は、借りてきた考えなので、本当には人に伝わらないのです。
わお、同時に同様の本を読んでいた人がいることを知ってビックリ。あたしも読んでましたよ。前半ちょっと退屈ですけど、3章のエコロジカル・リアリズムあたりからおもしろくなります。
うちでこれを読んでいる時、のぞき込んで「何でこんなの読んでるの?」と訊いた、夫もすでに読んでいたのでした。
これもオハイオです。魂が震える8つの物語。お風呂で1話づつ読みました。「ハンターの妻」と「ムコンド」は読んだ後、なかなかこっちに帰って来れませんでした。「長いあいだ、それはグリゼルダの物語だった」は、”赤い州”の人たちの気持ちを表しているかも。
映画の裏方さんのお話を読むのが好きです。マトリックスIIのレイヴシーンの振付方法とか、ロード・オブ・ザ・リングの小道具の作り方とか。「シネマきもの手帖」をパラパラと見ると、すでに見た映画ももう一度じっくり見たいと思ってしまいます。徹底的にボロボロな着物を用意するのは、豪華絢爛な着物を用意する以上に、時間もお金もかかるのだと言われれば、「七人の侍」をもう一度見なくてはと思ってしまうし、「極道の妻たち」シリーズを着物を見るだけのために見るのもおもしろそうです。
タモリ倶楽部で鳥瞰図をやってましたね。あたしは「お土産何がいい?」って聞かれると「地図!」と答える地図好きです。数年前INAX ギャラリーであった「鳥瞰図絵師の眼 Bird's-eye Dream」の図録です。番組で紹介されていた「バイカル湖」や「富士山パノラマ」も載ってます。

今、イラクで捕まっている日本人の青年の姿をニュースで見ると、数カ月前には同様の事件で憤慨したり痛いと思っていた心が、今はそれほどでもなく、あの時と同じく今も自衛隊はイラクに居て、イラクの民間人は死んでいるのに、その報道に慣れてしまったということを思い知らされます。
世の中で起こっているもめ事をテレビで見るたび、「イスラム教徒とどうつきあいますか?」と言われている気がします。この本の著者は移民としてヨーロッパに移り住んだトルコ人(=イスラム教徒)とヨーロッパ社会との関係をドイツ、オランダ、フランスの3国で取材しています。
ヨーロッパとイスラーム―共生は可能か
内藤 正典
ドイツでは、人口が減少して労働力が不足した時期に大量の移民を迎え入れ、のちにベルリンの壁が崩壊し東ドイツから安価な労働力が流入すると、今度は移民がじゃまになったという経緯があります。また「郷に入れば郷に従え」とばかりに、ドイツ社会に適応するよう強要するくせに、移民のトルコ人が言葉も教養も完璧にドイツ人のようになっても、ドイツ人として受け入れないという面があるそうで、日本と似てませんか?異質なものを徹底的に排除しようとするところ。移民2世として、生れた時からドイツで暮らし教育を受けても、ある日自分はドイツ人ではないと思い知らされる時が来て、強烈にムスリム(イスラム教徒)として覚醒する若者が多いそう。
オランダではドイツと対照的に移民の文化やコミュニティを受け入れ、参政権などにも差別はない。しかし、それは異文化を理解すると言うよりは、互いに無関心だから成り立っているともいえるそう。
フランスでは、人種や宗教によって差別はないが、それはフランス語を話しフランス流の啓蒙思想を持っている人に対してのみである。フランスではキリスト教に支配された時代があり、その後、宗教から人間が自由になって今日の社会を築いたと言う歴史がある。なのでフランスの社会では「政教分離」が必須なのだが、イスラム教とは、そもそも宗教と社会活動が一体になっていて、それらを分けるという概念そのものがない。
ムスリムにはフランス人が言う政教分離と言う考え方が理解できないし、フランス人はなぜムスリムが宗教と社会生活を分けて考えられないのかわからない。という平行線の対立がある。問題は「イスラム教:キリスト教」と言う宗教同志の対立なのではなく、「イスラム教という宗教による社会:脱宗教した世俗主義の社会」だという。両者とも同じなのは、自分たちの主義主張が唯一無二の正しいものであり、それ以外の道はあり得ないという信念。
フランスでは、学校で女の子がスカーフをつけるのを禁止するという事件がありました。学校とは子供を啓蒙主義に教育する機関です。そこに宗教によって抑圧された姿の子供が通うのは好ましくないというわけです。そこにはいろいろな経緯があって、スカーフを禁止すればムスリムの子供が学校に来なくなってしまい、結局啓蒙思想を学びフランス社会に同化する機会を失うから、禁止すべきではないとか、そもそもスカーフ着用の是非を法で決めるのは女性の服装の自由の権利に対する侵害だとか。著者は男性ですが、スカーフについて女性の視点からも詳しく書かれています。
ドイツ、オランダ、フランス、各国のムスリムに対する対応はそれぞれ違うのですが、共通しているのは、異質なものを排除してむりやり同化しようとすると、必ず反発が起きてかえって分裂、対立してしまうということです。人の持っている文化的背景を力で押さえつけることはできないのだなあと思います。
日本人はみんな同じじゃないと安心できなくて、自分たちと違う人に冷淡だったりしますが、派閥間の微妙なバランスをとったり、他人を思いやったりすることができると思います。将来、日本の少子化問題を解決するためにも、食べるのに困っている北朝鮮の人を何万人単位で受け入れるなんてことがあるかもしれません。
をyo氏がoshige.comにインストールしてくれた。(株)インターワークのサーバにある、このblogのデータを移すことはできないので、ジャンルを限定した新しいblogを作るとかかなあ。
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ツールドフランス6連覇を狙うLance Armstrongも、休息時の心拍数32-40(普通の人の平均が72)、肺活量83ml/kg/min (かなり運動している人で40台、50で相当高い)という、常人とはかけ離れた能力だが、この辺りもアヤシイ。
10年ぐらい前、ウイルス進化論の本を読んだ時はヒョヘーと思ったけど、いまではもう常識なんですね。。。
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ウイルス進化論―ダーウィン進化論を超えて 中原 英臣 , 佐川 峻 |
「辛酸 なめ子」は、本当に知り合いだった。 (- -;;池松さんの「サーヤと私」だったかな?小冊子を読んでなんて面白い人なんだ!と思いました。有名になってしまったらあれはもう表には出ないだろうな。どこ行ったっけ。絶対うちにあるんだけど。

あった
字幕はすべて池澤夏樹。ギリシャ語ができて文芸の心得がある人なんて、そうそういないだろうなあ。
わたしが池澤夏樹の名前を初めて知ったのは、ジェラルド・ダレルの著作の翻訳者としてです。ダレルは「積み過ぎた箱船」の著者として有名ですが、彼の著作で一番人気が高いのは、ギリシャの島でいろんな生き物と暮らした少年時代の話の三部作。
池澤夏樹はその中の1冊「虫とけものと家族たち」を訳した後、この本の中のあまりの幸福感に魅せられてギリシャに移住してしまいました。そして、そこで過ごした2年半の間に後の2冊を訳したのです。
今アマゾンで見ると続編の「鳥とけものと親類たち」は品切れ、続々編「風とけものと友人たち」はなんと廃刊になっていますね。残念です。とってもいい本なのに。ぜひ復刊してほしい。
ちなみにジェラルド・ダレルのお兄さんもロレンス・ダレルという有名作家ですが、ギリシャの同じ体験を書いていても、全くジャンルが違います(^^;)
マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」にも登場するバリー・グラスナー教授の著書「アメリカは恐怖に踊る」は、「恐怖商人」たち、そして恐怖商人がつくりあげる「恐怖の文化」の解読書といえます。ちょうど読もうと思っていた。こういう危機に対する恐怖がじわじわ来ている気がする。今うちは保険の見直しをしている。これもTVで保険のCMばっかりやっているのと、年金問題が全然解決されそうにないから。保険会社だって掛け金を国債に投資してしている。他人に投資を任せるより、どうせなら自分でやった方が経費がかからなくていいんだけど、もしものときに・・・と思うと怖くて保険金額をなかなか削れないのです。あう〜。
香りで癒すのがアロマテラピーなら、飲んで改善するのがフラワーレメディらしい。
このお花の汁で解決という手もある!このレメディ一覧、あたしにはすべて必要に思えて来ちゃう。
JSPORTSで放送されているジロ・デ・イタリア。自転車で走るイタリア1周旅行。きのうの放送は須賀敦子の「トリエステの坂道」のトリエステ。パンターニ追悼特集で放送された98年のジロもトリエステでタイムトライアルがあって、旧市街を堪能できて感無量だった。
今日はイタリアを出てクロアチアまで。初めて見る、クロアチアという国。緑豊かで、青い海に小さな島がたくさん浮いていて、ローマ時代の遺跡もある。なんてきれいな所なんだろう。マンガ「石の花」に描かれているとおりだ。悲惨な戦争があったなんて信じられない。ユーロも使えるらしいし、物価も安いし、イタリア語が通じるらしい。イタリア好きな方はいかがでしょうか。
今日の放送第14ステージは日本人スタッフ(マッサージャーの中野さん)もいるファッサが一丸となって働いて、ペタッキが優勝。解説は昨シーズンまでファッサのメカニックだった永井さん。で、とってもうれしい結果だった。
ロードレースという競技について詳しく解説されているblogを発見しました。
王者が期待通り美しく勝つ、なかなか出来ることではありません。

ああ、とっても重いメニューだった。
特に最後の元従軍慰安婦のお婆さん3人との食事は。
北朝鮮に拉致された人たちのお子さんたちが来日した日、戦時中に日本に強制連行された中国人が賠償を求めた裁判で高裁が時効と棄却。同じ日にその2つのニュースが並んでいるのを見て「皮肉やなあ」と複雑な思いになったのは私だけでしょうか。
他人にとってはもう忘れるに十分な時間が経ったと思われても、当人にとっては、まだまだ生々しく、普通の人とは違う時間感覚で生きているってこともあると思う。そのことで人生が大きく変わり、「今の自分」が決定づけられているとしたら。負け組のまま人生が終わるのかと思えばなおさらのこと。強制連行された人も、元従軍慰安婦も、拉致された人の家族も、911の遺族もそれは同じだとおもう。
ずっと潮が引いた西浜でアサリがいっぱい落ちているのを見た。落ちてるんじゃない。アサリが砂から出てきてボーっとしてるのだった。砂の下から海水がピューピュー吹き出している。この足元にいっぱいいるに違いない。捕って食べちゃうおかな?と思ったけどサイズが小さいし、ここの水ってだいじょぶ?ってのもあってやめときました。
好きです。ここ。本まで買ってしまいました。
互いに責めるのはもうやめよう。それよりこれから先どうすればみんなにとって一番いいか、そのことだけ考えよう。いや、考えてください。おねがいします。
私たちは地震台風目まぐるしく変わる季節の中に暮らしている。「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり」と古典作品にあるようにこの列島においては永遠に不変のものなどない。原理主義をふりかざす人には警戒心をもたずにはいられない。
でもここのとこ、あの人質を無条件に解放してくれたクベイシ氏に私の心の針はグラッと傾いている。だってまともだったのはあの人だけじゃないですか?一瞬イラク人、イスラム教徒ををうらやましいと思った。(まあ、うらやましいと言えば心とお財布の利害が一致しているフランス人も「いいなあ、思いっきりきれいごとが言えて」と思ってしまうんだけど)
「イスラームとは、その存在自体が、一つの「経済学批判」なのだ。」
「イスラームはわれわれの世界にとって、なくてはならない鏡なのだ。」
という中沢新一の言葉がしみる夜
![]() | 緑の資本論 中沢新一 |
J SPORTSでは今日からパンターニ追悼番組その2として、パンターニが優勝した1998年のジロ・デ・イタリア全ステージハイライトを放送。でも解説がいつもの解説陣じゃないの(i_i)。98年ってそうだったっけ?私はサイクルロードレースのファンだと思ってたけど、実は解説陣のファンだったのか?
パンターニは亡くなり方がとってもショックで、その前に三宅島の海洋学者ジャック・モイヤーの自殺もあって、この世界が寂しい灰色に思えた。自分の居場所を追われるのは悲しいね。やっと巡り合えた居場所ならなおさら。
![]() | ぐるんぱのようちえん 西内 ミナミ , 堀内 誠一 ![]() |
連休ですね。134号線下り茅ケ崎付近は大渋滞。上り車線では交通機動隊が取り締まりを実施中。海はフラット。夏になる前に焼いておこうという色白な男子諸君がゴロゴロ寝転がっています。
『抵抗論』(辺見庸)を読んで、もっと怒らなければならないと思った : 福岡発アジア映画行き -北国tv僕が、「ブログでは、圧倒的に政府批判が多いですよ」と、現社の先生に言うと、「でも、それは、地下の世界での話でしょう」という答えが返ってきた。
ここ数ヶ月であっという間に日本中に広まった「ブログ」。ブログで世界はちょっとは変わるんでしょうか?それとも海に浮かぶペレット(プラスチック)のように、自己完結のゴミが増えるだけなんでしょうか。対話するペレットなら?
webの掲示板における管理人対ゲストの関係ではなく、トラックバックを使って対等な立場で会話できるのがブログのシステムですけど、あたしのような怖がりには他人のblogにトラックバック打つなんてようできん。ブロガーの絶対数が増えればなんてことなくなるんでしょうか。
んで、人と人との関係の基本が主従関係ではなく、独立した個人対個人という世界観が占める割合が大きくなるんでしょうか。考えすぎか。。。
ところで、このメールマガジンはバックナンバーが最新号しか見れないので、発行頻度によっては数時間しか見れないときがあります。昨日配信された、読者投稿で秋山 寛さんという方が、
「政府が人質を救出したことは、あくまでも政府の意思です。
たとえ家族が救出を依頼していても、政府には救出をしないという選択肢を選ぶ権
利もあるわけです。今回の事件も、「マスコミで報道され、日本の有権者の多くがこ
の事実を知った」ということがなければ、これほど熱心に救出に力を尽くしたでしょ
うか。人道的見地から、国の責務から、国が救出を行うのは義務だと思っている方も
多いかもしれませんが、北朝鮮の拉致被害者のケースを考えて見てください、いくら
要請しても政府が動かないなんて事はザラじゃないですか。実際、紛争地帯で行方不
明になった援助関係者は他にもいますが、家族が外務省に要請しても捜索を行うこと
すら希で、ほとんどは「現地の大使館に関係した情報は来ていない」という答が帰っ
てくるばかりです。
どのような動機であれ政府の意思決定で行われた活動ですから、政府がそのコスト
を負担するのは当然です。そして、そのコスト負担という意思決定に不満があれば、
株主総会で経営陣の責任を問うように、選挙という場で意思決定を行った政府に対し
て不満の意思表示を行うということになるのではないでしょうか。ましてや、自衛隊
の撤退という超政治マターは、人質となった人間には、責任のない話です。
今回の当事者に費用を負担しろという意見は、「自己責任」という言葉を使い「自
立した個人」を装っていますが、実は、屈折した政府への甘えを示しているのではな
いでしょうか。本当に自己責任というなら救出をする必要はありません。家族の要請
には、「No」と言うべきです(犯人非難の声明を出すくらいはするでしょうが)。
この誘拐事件の影響でNGOを通じた援助も影響を受けるでしょうが、知っておい
て頂きたいのは、援助にはいろいろな方法があるということです。現地へ行く方法も
あれば、日本で行う活動もあります。本当にイラクの人々のことを思うのであれば、
とにかく自分で可能な方法でアクションを起こすこと、続けることだと思います。」
とおっしゃっています。
| オリエンタリズム (上) E.W.サイード , 今沢 紀子 |
アマゾンで「すべてのカスタマーレビューを見る」をクリックすると出てくる「しんじゅ」さんのレビューを読んでください。
国民がシンパシーを感じてはまずい人びとに、一定のイメージをあてはめると言うやり方は、日本でもありました。戦前の被植民地だった朝鮮人や中国人に対する偏見などです。
若いうちに海外旅行に行くチャンスを得られた方は、まずヨーロッパに行ってほしいと思います。そこで感じた事を忘れずに、アジア各国のリゾート地に遊びに行ってください。お願いします。
| ヒトデ学―棘皮動物のミラクルワールド 本川 達雄 |
そうそう、この本には「棘皮動物かぞえうた」が楽譜つきで載っている。「一つヒトデは海の星」(なんとなく「いなかっぺ大将」の大ちゃん数え歌に似てるんだけど)前にもいたな、こういう先生「ゾウの時間、ネズミの時間」だった。。。と思ったら同じ著者でした。ちなみに「歌う生物学 必修編」(CD3枚付)もあるんですね。気になるー。買うほどじゃないけど。
というわけで今はルーディ・ラッカーの「フリーウェア」を読んでいる。昔「ソフトウェア」「ウェットウェア」を読んですんっごく面白いとおもった。続きが出ていたとは知らなかった!その続きの「リアルウェア」ってのが出版予定だそう。
にしてもよ、和書と洋書でこんなに表紙がちがうのはなぜ?
遅ればせながら村上春樹の「アンダーグラウンド」を読んだ。その続きの「約束された場所で—underground 2」「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」と一気に読んで頭痛くなった。ああ、やっぱ心理学とかの本読んじゃダメ。かえって病気になっちゃう。
ユーゴスラビア解体の原因の一つは意外にも「自主管理体制」だったという。「ユーゴスラヴィア—衝突する歴史と抗争する文明」によると。ユーゴは他の国の社会主義とはちょっと違っていて、党のおエライさんが特権階級として君臨するようなこともなく、公平で理想的な社会主義だったように思えるのだけど、その末期には職場での殺人事件が異様に多かったそう。成功も失敗もなにもかもが党の指導のせいではなく自分の責任なので、もし自分以外に責任を転嫁するとしたら、同僚とか身近にいる人にハメラレタと思うしかないのだそう。で、みんな互いに憎み合うようになってしまい、民族感情に火が点いたと。首相とか大統領とか権力の頂点を作るシステムも意味があるのかもしれない。そういう人たちに世の中の不平不満の責任を押し付けられるから。で、この話しのオチはなんだったか、そのために前置きを書いたはずなんだけど、、、忘れちゃった。関係あったか思い出せないけど『イラク 戦争と占領』(酒井啓子著)を買った。やっと図書館の順番が回ってきた「石の花」はマンガながら壮大なスケールの人間ドラマだった。これは自信を持ってオススメ。ぜひ映画化してほしい。
「魔女の1ダース」だったか、「ガセネッタとシモネッタ」だったか忘れたが「芋づる式読書法」というタイトルのエッセイで紹介されていたユーゴ関係の本。旧ユーゴスラヴィアでとっても悲惨な内戦があったのは誰でも知っているけど、どうしてそんなことになったのか、ちゃんと言える人は少ないとおもう。
「ユーゴスラヴィア—衝突する歴史と抗争する文明」はそれを明解に説明してくれる本。序章を読んで早くもちょっとグッタリ。言語によるコミュニケーションが閉ざされた相手と交渉する手段が暴力しかなかったセルヴィア。でも欧米経由のニュースで悪者扱いされていたセルヴィア人の立場は、もしかして他人事ではないかも。今の日本の国際語はお金しかない。日本の主張に世界が耳を貸してくれるのは「経済協力」という単語を含む時だけだろう。はー。とおもいつつ、
「バルカンをフィールドワークする」を読む。この本は「言語地理学」の先生が「月刊言語」に連載していた文章だそうだけど、大変おもしろく味付けしてあって、笑ったりへーボタンを押したりしているうちにあっと言う間に全部読んでしまう。お風呂で読んでいて没頭してしまい、私がお風呂場で倒れてるんじゃないかと家人が心配して見に来たぐらい。国際ニュースや映画で知るユーゴスラヴィア人って、何考えとンのじゃ?一体!だけど、著者が調査をする上で知り合ったマケドニア、セルヴィアの人たちは生き生きしている。巻末には著者がよく作る、日本にある材料でできるバルカン料理のレシピまでついている。うまかった現地の味、作ってくれた人の思い出と一緒に。
旧ユーゴの歴史を知るにはこれ!というのが「石の花」だそう。これはマンガで図書館で予約してるのだけど、人気が高いらしくなかなか順番が回ってこない。
図書館でふと借りた。別にたいしたことが書いてあるわけじゃないのに、読んだあとグッタリしてしまう。口の中がツバでいっぱいになって、過去に味わった食べ物の匂い、触感、咬み心地、歯から伝わる音、のど越し、あらゆる感覚が呼び起こされる。取り上げられている食べ物の話し一つ一つに「そうそう!」と相づちを打つ。途中でパタっと本を閉じて冷蔵庫の方へフラフラ行ってしまう。明日あの店に行ってあれを買って食べようとメモに書く。あー疲れる。
やっぱり、あたしって右足と左足の長さが違うんだと納得。足の長さが違う人は結構いるらしい。大体短い足の方を軸足として使う癖がついてしまうそう。そう言われると思い当たる事だらけだけど、だからといって長いほうをちょっと切るわけにもいかないし。。。どうすりゃいいんでしょう。
ミトンの編みぐるみがかわいいので姪へのクリスマスプレゼントに購入。ところがアニメーションの写真で構成された絵本ではなくて、「このアニメがとっても好き」という本だった。編みぐるみの作り方が載っていた。
で、絵本を購入。どんな人も絶対涙が一粒ほろりと出ちゃいますよ。でも、これ読んだら姪は母親(あたしの妹)に「子犬を飼って」って言うだろな。妹は困るだろう。。。とプレゼントの箱に入れるのをやめました。私が手元にもうちょっと置いてながめていたいってのもあるし。こどものための本というよりは、大人がこどものころを思い出してキュンとなる本なのかもしれません。
アニメーションはこの冬ユーロスペース他にて公開。
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「ハルヴァ」はイランあたりが起源で、旧オスマン帝国の領域などアラブ人が行き来した地域に分布しているそう。スペイン、シチリア、ギリシャ、東欧、中近東はもちろん、中央アジア、インド、なんと日本の「求肥」「落雁」も同類のお菓子らしい。てことは経由地の中国にも似たようなお菓子があるはず。。。だよな、と思いつつ寝たら、思い出した!桂林の遊覧船で出たお茶菓子。外見は雷おこしみたい。紙で包んだ長方形のバー。開けて食べようとすると、手で持てないほどボロボロ。指でつかむのはあきらめて、包紙からザラザラと口に入れると、うむむー?焦がした小麦粉とお砂糖を油で固めてみました。て感じだった。たしかにあれはハルヴァと落雁の中間に位置するものかも。あれは14年前だった。あの素朴を通り越して原始的なお菓子はまだあるんだろうか。
包み紙の中央に「ここにお菓子を置く」という目安のカッコが印刷されていました。
筆者が子供のころ住んだプラハで、ロシア人の友人がくれた「ハルヴァ」というお菓子が出てくる。当時の筆者にとっては忘れられない味だったそう。その幻の味の情報が友人知人によって、旧ソ連イスラム圏、東欧、ギリシャ、シチリア、スペイン、インドと各地から寄せられる。
各地でのレシピを見て、ハッこれは!と思い当たった。トルコ人ペテクさんのお宅で一緒に作った松の実のヌガー。あれにそっくり。大量のバターとお砂糖と小麦粉を火にかけながら混ぜて混ぜて混ぜて腕がクタクタになって4人で交代しながら作ったのだ。空気を含んだやらわかいヌガーに松の実を入れて、冷まして固まったのをサクっと口に入れると、味は強烈に甘く、重かった。
ペテクさんが「おいしい?」と心配そうに顔をのぞき込むので、3人でおいしい!と叫んだけど、たくさんは食べられなかった。たぶん、とっても疲れたとき一口食べるととびきりおいしいだろうな。お砂糖の甘さしかないから飽きちゃうのよね。フレーバーが必要なんだわ。松の実だけじゃなくていろんなナッツや香辛料を入れたらどうだろか。マサラティー味のマサラハルヴァとか。。。あ、でもイギリスにあるというミント味のハルヴァはめちゃくちゃマズイって書いてあったなあ。
筆者が飼っている猫も出てくる。拾ってきた野良猫の兄弟で「無理」と「道理」。この子たちが麺類が大好物と読んで、ちょっと安心。うちの猫だけじゃなかったんだ。茹でたばかりの味のついてない麺類を「あー、たまりません」という顔でツルツル食べるのは。
甥っこに送る本を探して図書館の児童室へ。子供の本は手に取って見ないとわからない。甥っ子のリクエストにかなう本を探し終えて、ふと脇に見つけた本。リンドグレーン、ヤンソン、北欧の作家の本に共通なのはコケを踏んだ時の足の裏の皮膚の感覚。子供のころ好きだったのは、ストーリーより自然の樹や石の触感、白夜の光、風の冷たさ、本の中に満ちている空気だったんだとおもう。
キル・ビルが話題だが、日本でもハチャメチャな復讐モノが公開される。「昭和歌謡大全集」。少年VSオバサンという設定がもう笑っちゃう。原作は村上龍。こんなの書いてたのねー。
にしてもタランティーノはNHKの教育系番組「英語でしゃべらナイト」にまで出てました。BRUTUS買いましたよ。レコードのコレクションの写真が見たかったな。
幻の名著らしい。けっこう高い本で、取り寄せてハズレだったらショックなので、まずは図書館でチェック。パラパラとめくって、購入を決定。毎晩少しずつ読んで楽しむことにする。
いやー、おもしろかった。世界像革命—家族人類学の挑戦。20へェー。言われればそんな気になる、血液型占いのような気もするが。

先週読んだ本。悪の枢軸を訪ねて1時間で読める。読みながらヘエボタンが欲しくなるでしょう。後半のイラクに関しては酒井啓子さんのイラクとアメリカからの引用が多い。
米原万里のロシアは今日も荒れ模様に何度も出てくる独裁者たちへ!!—ひと口レジスタンス459を探していて、翻訳の名越健郎つながりで、世紀末宗教戦争マップ
なぜ世界中に無意味で不毛な戦いが存在するのか?なぜ互いに理解しようとしないの?ゆうべのETVで放送されていたが、養老 孟司 のバカの壁が売れているのは、「なぜなの?誰か教えて(手っ取り早く)」と思っている人がたくさんいるってことだろうか。
サンマが豊漁とかで、安くておいしい。サンマには大根おろし。ところでピルエットのとき、体の重心を感じるためには、背骨がまっすぐで、両肩の高さが同じであることが必要。私は姿勢が悪くてどうも背骨が曲がってる。ゆがんだ体をまっすぐにするには、利き手ばかりでなく意識して両手を均等に使うのがいいそう。大根おろしも両手を半々に使っていたが、今日、気づいた。今までは右手で始めて、後半左手でやってた。でも左はやっぱり不器用なんで、小さくなった大根もろとも自分の指をガッてすっちゃったりして痛かった。左手で始めて、右手でフィニッシュすればいい。どうでもいいことだけど、早く気づいてれば痛くなかったな。

ちなみに学生時代に脳の右側で描けと言う本を読んで以来、そうすればデッサンが上手になるのかと思って、両手を均等に使うよう心がけてきたが、絵の場合効果は??? 美術科の同期の学生は左利きの人が多かったけど(50%)。血液型がB型の人も異様に多かった(70%)というくらいキモチの問題かも。