ロイヤルバレエ。あの「白鳥の湖」。プリマはスター、シルヴィ・ギエム。チケットは熾烈な争奪戦だった。発売日の午後、ほとんど諦めて神奈川県民ホールに電話したら、偶然最後の一枚が手に入ったのだ。3階C席。何ヶ月も前からときどきこのチケットを取り出してはながめていた。

高い位置の席から遠くに小さく覗き込んだ舞台のほうが印象に残っているのはなぜだろう。装置と衣装は重く深く輝いていた。暗い所で開ける宝石箱。

白鳥たちの衣装はクラシックチュチュではなくて丈の長い羽のようなスカート。白鳥にされたお姫様たちというよりはトリそのもの。もう人間らしい感情も少ししか残っていない、運命に支配されている。そんな存在。

そしてギエム、どんな役でもギエムはギエムだった。ギエムは人間じゃない。バレリーナでもない。ギエムはギエム。その存在感は、これが本当の白鳥だったのだ、もともと白鳥とはこういうものだったのだ、と思わされるほどだ。

ギエムは、勝ち気で自分の運命を自分で切り開く力のある黒鳥の方が似合うと思われていると思う。でも今回は白鳥の時の方が合っていたと思う。白鳥、人生の不条理、人間の不実というものがよくわかっていて、悪魔をとりこにする美しい容姿を持ちながら、老婆のような諦観をも持っている、冷たい女。オデットにはあまり感情移入できない方が、オデットという存在を際立たせるのではないかしら。

もしも同じロイヤルの他のバレリーナ、吉田都やダーシー・バッセルならまた違うオデットになっただろう。生き血の通う、愛情というもの、悲劇の中でも失われない気高さというものが感じられる女性を演じたのではないかと思う。そんな女はゴマンといるし、誰の中にもそう言う一面はあるけれど。

舞踏会のシーン、歪んだ鏡がある広間、黒鳥の誘惑に王子が負けた瞬間、オデットの姿が鏡に映される。映像とパフォーマンスを同時に舞台に進行させた時の照明はどうしているのか、いつも考えてしまう。先月のフォーサイスの舞台でもビデオ映像も使われていたけどまったく成功していなかった。

最後、オデットが(目の前にいる王子に絶望したのではなくて、もう王子など彼女には見えてない感じ)湖にスポンと身を投げて(スッパリだった。まるでずっと前から自分が死ぬのを知っていたようだ)王子が後を追うと、白鳥たちが悪魔を囲む。そのフォーメーションの美しさ。悪魔さえも逆らうことのできない定めと言うもの。絶望。喪失。生気を吸い取られてゾっとした。

王子様とお姫様はこの世では不幸だったが、あの世では結ばれて幸せになりましたとさ、チャンチャン・・・では終わらない徹底的な悲劇。これはギエムの計算なのか、それとも振り付けのダウエルの方針なのか。来日公演直前に、デュランテとダウエルは振り付けの方針の違いから決裂し、とうとうデュランテは公演に参加しなかったときいた。

幕がおりるとすごい拍手。ギエムがカーテンコールであらわれる度、お客は熱狂。とうとう3階の人まで全員立って拍手していた。場内に明かりがついても誰も帰らない。わたしはひとりロビーに出ると頭を抱えて座り込んだ。打ちのめされて吐きそうだった。

これ以上美しい物はないという空間に悲しい物語、現実に戻るまで2、3日かかった。子供の頃にこのように究極に美しいものを見てしまったら、ろくな大人になれないだろうと思う。

99/04/11