2004年3月27日
キッドナップ・ブルース
先日、CATVで「キッドナップ・ブルース」を観た。
日本映画専門チャンネル番組詳細ジャズ・ミュージシャンの中年男(タモリ)と鍵っ子の女の子(大和)が日本列島を旅し続ける姿を淡々と撮った、カメラマン・浅井慎平の映像詩的劇映画。
大人が子供を連れ回すという設定は多くの映画に見られる。
中年男が男の子を連れ回す場合は、男が少年に自分の子供時代を投影するという話になる。
では、中年男が女の子を連れ回す場合はどうだろう?
人には最初、男の子と女の子の2つの自我が同じようにあるのではないだろうか。
そして子供のうちに、少しずつ大きくなるにつれて、自分の中にある異性を捨てなければならない。
男の子は自分の中の男の子だけを育てて大人の男になる。だから、自分の中の女の子は大人になっても女の子のまま残ってしまう。
男性の中に少年が居るのはうそっぱちで、それは単に未成熟な男性というだけの話だ。
そうではなく、男性の中には育てることをやめた少女が住んでいるような気がするのだ。
ぼくは男性だからわからないが、女性もきっと自分の中に子供のころに忘れてしまった男の子がいることに大人になって気付くということがあるのではないだろうか。
中年男が少女を連れ回しているうちに感じたものは、親子愛とかロリコン趣味的な愛情ではなく、自分が知らずに捨てていた自分への戸惑い、愛おしさのように思う。
男親が息子よりも娘を大事に育てるというのは、もしかするとそういう理由があるのかもしれない。
投稿者 oshige : 2004年3月27日 16:59