キーボードのある景色 Scene 5
IkeShop Users Group Magazine MacTalk no.18 (1990.11.30)


僕が脳死と心臓死の問題について興味を深く覚えたきっかけはゴルゴ13であった。第何話の何というタイトルだったかを留めておけばよかったと後悔しているのだが、残念ながらそれはわからない(どなたか次のストーリーで思い当たる方がいれば連絡していただけるとたいへんうれしい)。

こんな話だった。ある男が心臓病でもうこれは助からないとなって、心臓移植を受けるのである。移植された心臓はそのポンプをカートで引いて歩かなければならないという人工心臓であった。この話がこのままある男の話だとしたらゴルゴ13の出る幕はない。実はこの人工心臓の男はギャングのボスで、確か公判中だった。そして死刑確実の男だったのだ。

ここで心臓死の問題が浮上する。この州では心臓死を「人の死」としていた。そうなのだ。男の心臓が肉体から切り離され止まった時、彼は法律上死んでしまったのである。死んだ人間を死刑にできるだろうか。しかも彼は人工心臓という最先端の医療技術の証として英雄になってしまったのだ。

彼を死刑に追い込みたいと努力してきた警察側は法律という自らの武器の前に立たされてしまうのである。そこでいよいよゴルゴ13の登場である。ゴルゴへの依頼はこういったものであった。ボスを撃つことなく殺してほしい。なぜなら彼は英雄であるからだ。さらに人工心臓を破壊することなく彼を殺してほしい。なぜなら人工心臓もまた英雄であるからだ。もちろんゴルゴ13はこの依頼を成し遂げて、「………」と言って去って行くのである。彼がどんな手を使ったかはあえて伏せておこう。それよりもここで注目したいのは心臓死についての?である。

電脳惑星(3)「脱走サイボーグを追え!」(I.アジモフ、W.F.ウー/角川文庫/訳:黒丸 尚)の序文でアジモフは「完璧なサイボーグには二種類あるということだ----A.人間の肉体にはいったロボット頭脳、B.ロボットの体にはいった人間の頭脳」と書いている。

アジモフはもう心臓については眼中にない。このアジモフの指摘A.B.で面白いのは、どちらが人間社会でなじめるだろうかという点にある。人工頭脳をもつサイボーグAの究極の姿は脳だけが人工で肉体は人間。人間の頭脳をもつサイボーグBの究極は体のすべてが人造物という姿。ある魅力的な女性と恋に落ちたとき、青年は彼女が本当に人間だろうかと悩むときが来る。でも果たして脳が人工であることは心臓が人工であるのとどれくらい違うのだろう。もし人工脳の彼女に愛を感じたとしたら、いったいその心はまやかしなのだろうか。

ある男は体が箱でできている。歩くのではなく、タイヤで動く。脳を維持するための栄養素を取り入れるタンクと機器を維持するためのバッテリーがある。バッテリー不足はのどの乾きにも似た感覚で脳神経に伝えられる。彼は社会的な業績も地位もあるとしよう。しかしそれが何かの役に立つだろうか。

「ソフトウエア」、「ウエットウエア」(ルーディ・ラッカー/ハヤカワ文庫/訳:黒丸 尚)はいわゆるサイバーパンクもので、文章がめちゃくちゃ読みにくいのが難点だが、人工知能(ソフトウエア)と肉体(ハードウエア)についてをあらためて考えさせてくれるよい作品だ。

月にロボットだけの社会があり、人間社会と貿易を行なっている。ロボットたちは自分の体を修理することで自らを維持し、高めていく。肉体つまりハードはバージョンアップするものであってハードにアイデンティティはない。自我は頭脳に走るソフトウエアに存在すると考えているのである。つまり、ロボットたちは肉体に価値を見ず、ソフトウエアこそが至上の価値をもつと考えている。

ところが古いハードウエアはいつか総とっかえしなければならない。そこで新しい肉体に自分のソフトウエアをコピーし、継承する。それが生き延びることであり、子孫を作ることなのだ。しかも単純にコピーするのではなく、2つのロボットがあたかも結婚するように、互いのソフトウエアをマージ(融合)して、それを新しい個体にコピーするのだ。この行為によって新しいアイデンティティが誕生するのである。

ところが最新型の新しいハードを購入することは容易ではない(Macユーザーは身に染みてわかるだろうなあ)。そこでロボットたちが注目したのが、なんと人間の生殖行為だったのだ。人間の体はロボットにとってみれば単なるハードなのである。問題は自分の頭脳を人間の頭脳にソフトウエアとしてコピーできればよいのだ。そうすれば、自分の子孫はバコバコできるのである。

「ソフトウエア」は人間に永遠の肉体を与えるというテーマをもち、科学者の頭脳をキューブに納めてしまう。「ウエットウエア」は、逆にロボットに永遠の肉体を与えるというテーマでロボットの頭脳を人間に納めてしまう。しかもウエットウエアという技術(概念)は、何もかもがある薬によってドロドロに溶け合って、だけど意識はあって、たとえば二人の男女がドロドロに混ざって気持ちよくて、一緒にその辺の家具やら機械やらもゲロゲロになって、そうやってトリップして、薬が切れると自然に元の分子構造に戻るというものである。「ニューロマンサー」のウイリアム・ギブスンもたじたじなのだ。

こういったサイバーパンクを読むと、先のゴルゴ13がギャングのボスをどうやって殺したかといったことなんかはもうどうでもよくなってくる(人工心臓にコンピュータウイルスを感染させたというんでもないのだから)。何を論ずるにも究極があって、究極には魅力がある。でも、なにもサイバーパンクのような究極のところでコンピュータと人間のことを考えなくてもいい。まして脳死や心臓死について機械と人間がドロドロに融合した場合のケースを考慮する必要なんてない。

しかし僕はやっぱり究極が魅力的だ。Macの新製品が出る度にそれが究極のマシンだろうかと思う。しかしそれは究極ではない。新製品はアランケイのダイナブックでもないし、スカリーのナレッジナビゲータでもない。そして、ダイナブックもナレッジナビゲータもやっぱり究極ではない。

そんな未来を慕ってどうするのだと言う人がいるに違いない。しかしそれでもやっぱり、僕は誰かがドロドロに溶け合うコンピュータを考えるというのならば、いったいそいつはどれくらい刺激的だろうかと悩んでいたい。究極でないものは手ぬるいのだ。手ぬるいものはつまらない。それがMacユーザーというものだと思う。


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