ふんどし屋
システィーナ礼拝堂の天井に描かれたミケランジェロの傑作「最後の審判」に描かれた人物像の腰布が消去されるそうだ。「最後の審判」の原画はキリストをはじめ、みなスッポンポンだった。ところがこれでは神を汚すという批判が上がり、教皇の命令で後世の画家が腰布を描き加えたのである。誰が命名したかは知らないが、腰布を加筆した画家は「ふんどし屋」と呼ばれたそうだ。ひどい言われ方だが、言う側にもせつなさが漂う。

人が人に行なわせる仕事として創造的でないものは悲しい。どんな仕事もそれには意味があって、価値があって、何かを生み出すものであるべきだ。4世紀前のふんどし屋は原画を損ねないように一流の仕事をした。何も知らない人は腰巻が加筆されたものであることにも気付かない。僕も「へーそうだったの」と驚いた口だ。彼等はそれが礼拝堂を飾る絵として後世に残ることを強く受け止めて仕事をしたのであろう。それは誰にどう言われようと創造的な仕事であったはずだ。それを誇りとして絵筆を走らせたと思う。

ところが、4世紀経ってその仕事の跡が消去される。確かに4世紀といえば十分に長い時間である。ふんどし屋というありがたくない呼び方をされるはめになった画家達の仕事は、その間十分に役割を果たしたと言えよう。しかし、だから消去しても構わないという理由もない。

僕は少しわからなくなっている。絵を元に戻す。それは正しいことだろう。でもそれでは腰巻を描いた画家の仕事はどこへ行くのだろう。そして今度は人の絵を消すという仕事のことを考えなければならない。原画に修復するという大義があるとはいえ、人の絵を消すことのパワーはどう昇華されるのだろうか。それは創造的なことだろうか。人はまた人に対して不条理な仕事を与えてはいないだろうかという疑問に答えが見つからない。

現代にもふんどし屋がいる。映像にモザイクを入れる人だ。僕はちょうど今、モザイク処理のために上がってこないビデオテープと写真データを待っている。僕は待ちながら疑問に思う。この時間は誰のためのものだろう。誰かが彼にモザイク処理を頼み、彼はそれを仕事として行なう。果たして現代のふんどし屋はモザイク入れに創造的な意義を見い出すことができるだろうか。この仕事を誇らしく思うだろうか。

人は無修正の映像と処理済みの映像のことを議論するが、処理を行なう人のことを考えない。あるいは検閲する人のことを考えない。そういう仕事を作ってしまうことを考えない。そして将来、そのモザイクを除去する仕事が生まれるかもしれないと考える想像力をもたない。

「モザイク処理にもコツがあるんです」と彼は言うかもしれない。でもそれは、打ち込んだ杭をすかさず抜くような、そういう努力をさせてるのではないかと彼を心配するのだ。


ASCII MacPower 1994.2月号掲載
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