96になっちゃうんじゃない?って陰口を叩かれていたWINDOWS 95が8月24日に発売になった。その日、ニューヨークのパソコンショップには深夜0時に人があふれ、そしてなんと、イギリスではマイクロソフト社がタイムズ紙朝刊全紙を買い取り、無料で配布された。この騒ぎすべてが大がかりな宣伝であることは言うまでもないが、確かにそれはニュースであり、日本の朝刊そしてテレビニュースでも、トップニュース扱いでWINDOWS 95の発売を伝えた。よほどのことがないかぎり、日本でも11月には日本語版のWINDOWS 95が発売になる。ぼくたちMacユーザーもSystem 7をずいぶん待たされたものだった。でも、System 7がリリースされたからと言ってパソコンショップに行列はできなかったし、新聞もTVもそれを話題にすることはなかった。それを思うとWINDOWS 95の注目度というか露出度はハンパじゃない。
ではWINDOWS 95が世の中をひっくり返すほどのOSなのかと言えば、はっきり言ってそんなことはない。行列してまで買おうというのは、よっぽど今までがひどかったんじゃないの?って皮肉ってもみたくなる。業界筋というか、わかった振り系のジャーナリストは、WINDOWS 95の注目点は独占禁止法に抵触するかどうかでも宣伝効果抜群のマイクロソフトネットワーク(MSN)にあると指摘するのだが、法律的な問題はともかくとして、MSNがすべてを独り占めできるわけもなく、ましてや人々をコントロールできるはずもない。というよりも、そういう発想やシステムが今は否定され、崩壊している最中なのだから。
それにMSNの出来だってふたを開けてみなければわからない。どうもサービースを開始したはいいものの、いたるところ「工事中」らしくて、ひょっとするとMSNはWINDOWS 95の最大の失敗になってしまう危険性だってはらんでいる。
こんなことを書くとMacユーザーのWINDOWSバッシングのように受け取られるかもしれないが、このことはMac OSにしたって同じこと。もし、Apple社が来年発表のCoplandをWINDOWS 95に負けてなるかと大キャンペーンを張ったとしたら注意深くなることだ。
OSの進歩とは技術の競い合いに違いないが、ものごとの考え方や進め方、とらえ方をデザインすることにある。言うなれば、人が思ったり感じたりすることを上手に受けとめて、それをあるときは押し広げ、あるときは冷静に整理する技術に他ならない。
そもそもOSというものが表だって目に付くようではいけないのだ。人はときどきふとした瞬間に自分の心の存在に気付くように、OSもまたパソコンの内に秘めてときどき感じるものであればいいと思う。