だーの反逆
テクニカルライターは何を書くべきなのか。書くべきでないのか。それを考えるときがある。

MacPowerのような雑誌は、いうまでもなくマスコミである。出版物の中でも、テクニカルライターが寄稿する雑誌の多くは、ニュースや真実といったものをできるだけ正しく、公平に伝えようというジャーナリズム的な色合いを強く持っているように思う。ところが、テクニカルライターの多くはジャーナリストの自覚をほとんど持ち合わせていない。それを意識したこともないし、実に要求されたこともない。そもそも編集者の口からジャーナリズムという言葉を聞いたことがないから、そういう要素はあるもののという程度のことかもしれない。

ジャーナリストではないにしても、テクニカルライターは事実を書くことを求められている。嘘は書くべきでない。あいまいな表現や作為的な内容も嫌われる。文学やレトリックもいらない。スリルやサスペンスもなしだ。

レビュー記事というものがあるが、あれはいったい何だろう。詳細なニュースリリースというものではなさそうだ。かといって、ライターには思うことや感じることを多くは求められてはいない。主観はできるだけ排除し、客観的に分析する。だから、テクニカルライティングの末尾に「そう感じた」「と思う」「気がする」などの言葉は少ない。まして、「だー」「よーん」「(笑い)」はない。しかしそうすると、客観的だとして、「〜はよくない」「改善すべきだ」「〜が優れている」と言いきる根拠はどこにあるのだろう。本当は「〜はよくないと思う」ではないのか?

評者の能力と中立性も問題だ。世の中に中立という立場があるとは信じ難い。中立だとして片寄った報道こそ問題だ。商品レビューには、どうもそういう傾向がある。いや、誤解されては困るが、ライターに意図はない。評価というのは難しい。ほめ過ぎてもだめ、けなし過ぎてもだめ。中立であろうとするほどそう成りがちだ。あるいは、辛口が評価だと思われる向きもある。レビュー記事が記名原稿であるのは、そういった要素のバランスをとるための情報である。誰がそう評価したのか、それが大事なのだ。評者はもともと辛口なのか、商品のコンセプトを重視するタイプなのか、マーケティングセンスから分析するのか、ユーザーとして意見する人なのか、そういったことを読者は読み取らなければならない。

となれば、編集者は編集と称して記名のレビュー原稿にむやみに手を加えるべきではない。ライターもまたそれに甘んじるべきではない。でなければ、記名である意味がなくなり、原稿の中立性が隠れてしまう。ライターも逆に迷い、カタログのようなレビュー記事ばかりになるだろう。

最近の「だぴょーん」なライティングというのは、このカタログ的テクニカルライティングに対するカウンターカルチャーなのではないかと思う。パソコンをつまらなくしているのはテクニカルライターだ。そう彼らは言っているのではないか。


ASCII MacPower 1994.9月号掲載
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