第二次大戦中、アメリカ戦時情報局、海外戦意分析科勤務の文化人類学者、ルース・ベネディクトにより提出されたレポート。日本における倫理の型の研究。その後一般向けに「菊と刀」という名の書物に書き直されて出版される。「本土の人間は知らないが...」の中にあった、「菊と刀」は日本の文化がアジアの他の国々とは異なる特殊なものであると日本人に思い込ませ、中国をはじめとするアジア諸国と外交的に離しておくために、アメリカが意図的にばらまいたプロパガンダだという説。あれは、本当なんだろか?と読み始めた。
「菊と刀」は元々は敵国研究だった。それを前提に、占領した国民を効率よく治めるには?というアメリカ側に立った視点で読んでいくと、興味深い。著者は日本に一度も行ったことなく、さまざまな書物や在米日系人、日本兵捕虜からの取材でこのレポートを書いたらしい。
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まず日本人の倫理体系が恩に対し義務で返すという構造であることの説明があり、天皇と国民の関係の特殊性についてえんえん説明される。1,2章のすべてが、ひとつの結論にいきつくよう、念入りに設計されている。つまり
・日本人の倫理観の最高位は天皇
・天皇は他のものでは取り替えられないが、中間の為政者は交代可能。
・もし天皇を他国の支配者グループが冒涜すると、想像を絶する事態に陥る
・汚名がそそがれるまで国民一人ひとりの判断により永遠に攻撃が続く
・運命を受け入れてあきらめるということはなく、為政者によって制止することもできない
・日本人の倫理的態度は天皇にかかっている
・天皇制はたまたま戦時中は軍事に利用されているが、本来その力は他のことにも流用可能
・今(当時)は天皇制を維持した方が占領側にとっては得策
・天皇が日本人の倫理価値のトップに今後もずっといるわけではない。過去には主君や将軍だった時期もあり、将来的には変容していく可能性がある。
ベネディクトは日本と欧米の倫理観の全く違う点、文化人類学的な共通点を織り交ぜながら、予想される反論の芽を丁寧に摘みながら説いている。ここまで60ページ。
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あとはオマケな感じで短い章が3つ
複雑で厳しい倫理上の責務を全うしながら日常生活を送るために、日本人は自己鍛錬を必要としている。一点集中により無我の境地になることで、無用の恐怖を感じず無敵になれる。
日本人は子どもの頃から人様の目から見て自分の行為の是非を破断するよう徹底的に訓練されるので、傍観者としての傷つきやすい自我を抱えている。精神修養によって、そのわずらわしい自我を排除できる。
キリスト教の精神修養やインドにおける行の目的が、神秘的な体験を経て特別なパワーを獲得することであることと対照的。
(ここで、はっと思い当たるのはカスタネダの「呪術師とわたし」。ドラッグと禅ってその目的は一緒?傍観者という言葉も最近目にしたよ。。。。)
(そして偶然、目を通していた日経ビジネスオンラインにも似たような記事が
現代人が駄目な原因は、反省の過剰さにある。:日経ビジネスオンライン)
日本人にとって完全に無我の状態を「死んだつもりで生きる」ともいう。障害と自意識を排して全力を尽くす、という意味。それは「あらゆる不安を取り除くこと」を意味する。(安全神話。。。?)
日本の厳しい倫理基準を維持するための精神的な負担はさまざまなかたちで表面化する。幼いうちから多くの厳密さを受け入れ、徹底して慎重な行動に専念しているため(自重)、日本人は愛情面で空虚さを感じやすい。きちんと暮らしていくために、大儀、変節、予言者、危機などを必要とする。1900年から30年代にかけての近代文学ではかならず倦怠について述べられている(対照的な例:アメリカにおけるヒーロー像)。
なんらかの大儀という刺激がないと、教養ある階層の日本人は倦怠と欲求不満に悩まされやすい。この不安定さは西洋文化の導入による混乱のせいとされてきたが、同じような影響は中国人にはおよぼしていない。中国には宗教的な予言者が存在したためしがないが、日本はカルト天国。(反原発も大儀の一つ?)
日本人は高度に形式化された礼儀正しさと倫理観では対処できない状況を怖れており、その謎を解き明かすためには、あらゆる努力を惜しまない。「規則」がわからなければ、安心感を得られないと日本人は教育されている。未知のものを支配したいという願望はこれによる。
日本人特有の独善性
自分に多くを求める人々には、世界を「救う」という使命感から独善性と固定観念に陥りやすいという傾向がある。救済しているつもりが、相手に受け入れられない場合「屈辱」に変化し報復に出る。自らの倫理観の正当性について疑うことはない。(例:大東亜共栄圏)この独善性は戦後の世界における大きな脅威となるだろう。
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侮辱と報復か。。。パソコン通信の時代、あるフォーラムの管理人からのお達しに、「ほう」と思ったことがある。それは「名誉を挽回するのはあきらめてください」というもの。ネット上の発言でやってしまったことや、小さな誤解は、ほとんどの場合他人にはどうでもいいもの。汚名をそそぐためにしつこく長々と書き込みをされてはかえって迷惑。時間がたてばみんな忘れちゃうし、他人はそれほど興味持ってないんだから。それ以来「ネットではあきらめが肝心」を忘れないようにしている。またblog炎上が話題に上っていた時期は「ネット上の評価は自分ではコントロールできないと割り切ること」も追加された。
自己鍛錬については、よく話題にされる「強いコントロール願望」と関係があるとおもう。それは特にネット時代特有のものというわけではなく、もともと日本人の中にあるものなのか。どう見ても物量的に無理な戦争を精神力で乗り切るとか。近年では、高レベル放射性廃棄物の問題が解決していないのに次々原発を作っちゃうとか。「普通の家族がいちばん怖い」という本が話題になったけど、言葉と現実が乖離してるってあるよ〜。
あと、世間の目について。自らの属する集団だけでなく、外側の集団からも認められなければならない。外の集団に侮辱されると、内部集団によりきびしく罰せられるか。。。いつも不思議に思う、テロ組織に人質になった人が無事解放されると、なんだかんだ因縁付けられて非難されるって構図は、このためか?または国内でヒットを出すために、先に無理矢理海外の評価を作る風潮ってあるよね。
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最初の疑問に戻って、「菊と刀」はアメリカによる対日プロパガンダなのか?という点。このレポートからは、著者の、アメリカ当局が日本人の倫理体系を理解できないためにドツボにはまるのを防ぎたい、という政治的な意図を感じる。世界の中のアウトサイダー日本を偏見の目から救い、公正に扱うことで、平和を実現したいという。そして市民レベルで相手をよく知ることができるようにと、アメリカ人の一般向けに書き直した「菊と刀」を世に出した。
著者は、日本的な倫理基準では、個人の幸福を追求する民主主義は急には根づきにくく(日本人は自由・人権・個人の幸福などは完全に見下していて、それよりも責任を全うする・人から必要とされる人間になる・などの方に重きを置く)、終戦直後は、まずは社会主義的なシステムにするのがのぞましいと言っている。また人種の偏見を取り除く啓蒙パンフレットを作成するなどの活動もしていたために、当局から共産主義者ではないかと疑がわれた時期もある。
日本の文化がアジア諸国と違うかと言えば、霊的な存在である絶対権力者(天皇)と別の為政者(政府)が存在する権力の二重構造は、似たようなシステムがポリネシア諸島(マオリ族)にある。侮辱と報復、貸し借りの精算に関する教えが道徳体系の基礎と成っているのは太平洋諸島メラネシア、ニューギニアなど。日本において多少変化はしたが、仁、忠、孝などは中国から伝わったもの。日本文化の独自性は、欧米のキリスト教文化に比べてであって、アジア各地にはその原型と思われるものがある。
結論:ルース・ベネディクトは日本の文化がアジア諸国と際だって違うとか言ってないし、むしろ欧米と徹底的に違う点を強調している。彼女の望みは、異なる文化の種族間でも互いの違いをよく知れば平和に共存していけることを示すこと。
わたしにとっては、特殊なものとされる日本の倫理基準が、南太平洋の島々と共通するところがある、というのが印象に残った。
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以下メモ
●日本人は宿命論者なのか?
日本人には「アラーの意志」のような考え方はない(例:源氏物語)。進路の分岐点では、個人の責任で進むべき道を選ぶ。避けがたい未来という宿命観を日本人は認めない。個人で責任を取る形式が行き届いていて、現在の事例をその都度解決すべきで、歴史の前例は適切な手本にはならないとされる。敵に対して180度態度を変えて、相手から学ぶようになることも(例:幕末における薩摩・長州藩)。
パッと見、日本人は従順で抑圧を受け入れるように見えるため宿命論者かとおもわれがちだが、実は逆。日本の政治は専制的な規則より、行動指針のキャンペーンにより成り立っている。日本人は心から納得しなければ意欲を抱けない。軍隊においても、戦闘時の方針は単に上から押しつけられるものではない。(例:農民一揆)
日本人にとって死とは、欧米人のように運命を受け入れるということではない。どのように死ぬか個人の意志によってコントロールされるべきもの。切腹は究極の選択ではあるが、周到に計算された自己主張。
●日本人の責務体系
恩:親や教師や目上の者から受けた献身的な情け。日本の倫理体系は善意によって売られた恩を献身的に返すという根本原理に乗っ取っている。欧米社会では自己犠牲の精神によって救いの道が開かれ務めを果たすことで心の充足が得られるとされるが、日本人にとっては務めを果たすこと(恩に着る)は充足を永遠に放棄することを意味する。(例:夏目漱石「坊ちゃん」)
義務:天皇の臣民として自動的に負う務め。どの程度果たすかは個人の判断でなく、強制による。
忠:天皇への義務
孝:祖先や父親に対する務め
任務:仕事に対する務め
義務の体系は儒教に遡るが、日本に伝わって変化が起きている。中国に比べて日本の家族は小規模なので孝の適用範囲が狭い。例:寡婦とその子たちを祖父・父親・兄弟が扶養するのは"孝"(目下の者の面倒を見ることで目上の者への務めを果たす)。おじやおばが引き取るのは"義務"の範囲ではなく"義理"。さらに縁の遠い人が援助する場合は"仁"。
権力の二重制度:天皇の代弁者たる統治者はいるが、臣民一人ひとりは天皇に対して直接忠誠を感じている。国民は政府の政策に反対することができるが、それは自分の方がより愛国心があるという主張にすぎない。
忠と孝が衝突する場合は、孝は道を譲る(例:平重盛)
義理:日本固有のもの。義務がよそよそしいものなのに対して義理は熱烈に尊ばれた美徳(例・四十七士)。一方、婚姻で結ばれた両家が互いに負う務めにも義理という言葉が使われ、日本人には重く煩わしいものと思われている。また一般的に、本来の個人の希望と対立する、世間への責務。義理は受けた恩と同じ量を返せばチャラになる。受けたのより多く返してはいけない場合も。年月が経て利息がついて多めに返さなければならない場合もある。無限の務めである義務とは対照的。
義理は他人にたいする責務だけではない。名に対する義理も存在する。もし侮辱を受けた際は復讐によって汚れを落とさなければ元通りにならない。名誉を重んじる人=義理を知る人=恥を知る人であり、恥は徳の根幹にある。侮辱、中傷、敗北に報い汚名を晴らすのは、侵害ではなく、美徳。こうした責務体系は世界でもっとも厳しく、形式ばった部類に属する。この体系ゆえに求められる厳しい規律を日本人は美化している。
神道に聖典はなく、日本の仏教は文字による教典を認めないことで知られている。そのなかで明治の軍人勅諭と教育勅語はまさしく聖書。軍人勅諭は日本のさまざまな責務を定義して、その序列を定めるもの。すなはち義務(特に忠)を重んじ、義理は軽視。
しかしながら、この当局の教えに反して、日本人の行動は義理に左右される。本来個人の間で交わされる義理が、国家間の関係にも向けられる。日本人は他の大国から侮辱を受けたと感じると、国家として対応し、借りを精算しようとし、性急な攻撃性を結集させる。全ての臣民が心を一つにして外部の世界に立ち向かい、たがいの力を補強し合う。このことは日本の統治者にとって大きな意味を持つ。日本では従来、この義理の作用が領主間や将軍と外様大名のあいだで武力衝突を引き起こしてきた。
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解説1(福井七子:訳者)
このレポートが提出された事情。1944年12月ニューヨークで日本に対する戦後政策をめぐって「日本人の性格構造」と分析するための臨時会議が開かれた。40人を超す学識者が集まって討議がなされたが、それに参加し、欧米人の倫理観では日本人の行動は矛盾に満ちていて理解されにくいと感じたベネディクトは、日本人独特の倫理基準を説明する必要があると考えた。
日本研究にベネディクトが選ばれたのは、日本となんの縁もしがらみもなく、公正で自由な立場からの研究を期待されたから。彼女が日本人の複雑な倫理体系を構築できたきっかけは夏目漱石の「坊ちゃん」を読んだときだったらしい。
戦後の占領政策は、ベネディクトのレポートが勧めるとおりになされ、成功した。天皇制を残すこと、日本人を侮辱しないことで、一億層玉砕を防ぎ平和をもたらすことができた。文化人類学が現実の和平のために尽力できた例。
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解説2
ルース・ベネディクトの生涯
高等教育を受けた才媛ながら、母子家庭に育ち、幼少期の病気による難聴、男性中心の職場で女性、同性愛者、ベネディクトは保守的な社会からの偏見と差別に悩まされていたと想像する。彼女が出会ったのは、文化人類学という新しい研究分野。従来常識と思われていたものを、外側から客観的に観察して、新しい知識と理論を構築しようとする学問だった。
1930〜40年代アメリカで主流だった「文化・パーソナリティ学派」の中心の一人。文化相対主義の提唱者。優劣の基準で文化をとらえる「自民族中心主義」と対立するもの。異なる文化も平和的に共存できるとの理想をもつ。彼女が師事したボアズ(ドイツ移民)が弟子たちに残した学問的遺言は「けして人種差別をゆるしてはならない」というもの。ベネディクトはこの信念を受け継いだ。