喧嘩両成敗の誕生

「世界の辺境とハードボイルド室町時代」で出てきた本を片端から読んだ。

喧嘩両成敗の誕生 (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) - 2006/2/11 清水 克行 (著)

室町時代は自力救済社会だった。理不尽な目にあっても自分の実力で解決しなくてはならず、それが一人では難しかった(孤独なヤツは狙われる)。なんらかの団体に属していないと安全が保障されない(背後団体がないヤツには何をしてもいい)。小さな紛争がやがて互いの属する団体同士の大規模な抗争になることがあった。。。って現代のソマリアと一緒やん(先の文のカッコ内は「謎の独立国家ソマリランド」より著者がソマリアの社会について語っている言葉)。外国人にはなかなか理解できないアフリカの内戦の事情を「源氏 vs 平氏」に見立てて解説している「謎の独立国家ソマリランド」を読んでいると、室町時代の日本との共通点が見えて来る。。。これは「謎の独立国家ソマリランド」の記事の方に書いた方がよかったかな。同時進行で読んでいるとどっちがどっちかわからなくなる。

室町時代は、社会に紛争が起きた場合、双方の主張の間をとる「折衷の法」が取られていた。それは「真実」や「正義」の究明よりも、紛争によって失われた社会秩序を取り戻す方が最善と考えられていたため。当時の人々の心性である「衡平感覚」「相殺主義」に基づくもの。どちらのメンツも保たれ禍根を残さないという利点があった。日本の中世だけでなく、ヨーロッパの中世においてもそうだった。

戦国時代に日本を訪れた外国人が本国に書き送ったレポートによれば「日本人はすぐにはキレず、その場では礼儀正しいが、怨みを忘れず復讐の機会を虎視眈々と狙っている」ものらしい。当時の人々は地位や状況にふさわしい振る舞いをし私的な復讐心を内に秘める術を身につけていたと。こういう粘着質な性格の人々の間で紛争を円満に解決するために、正邪の判断よりも、体面や損害の均衡を図ることに重点が置かれるようになった。

現代においても、裁判所の裁定が厳格に法律に基づくものであっても、結果が偶然双方に同等の補償を求めるものであると、メディアなどでは「両成敗」「大岡裁き」などと報じられる。現代日本人のメンタリティに「勝ち負け」よりも「痛み分け」をよしとする傾向がある。「まるく」おさめる「柔和で穏やかな日本人」像を現代日本人は自己イメージとして好むが、必要以上に「調和」が優先され「事実」が軽視されるのはそれはそれで問題。

おだやかな日本人像の裏には、凶暴性を内面に抑えた執念深さがある。その心性の産物とも言える裁定方が現代にもかたちをかえつつ生き残っているという事実は。。。どうなの?


耳鼻削ぎの日本史 (歴史新書y) 新書 - 2015/6/4 清水 克行 (著)

耳鼻そぎは女性向けの刑。女性は男性より責任能力がない存在と思われていた。女性を殺害または死罪にするのはよくないという共通理解があった。死罪と労役の中間の刑。死罪よりは軽い。現代人にとっては残酷な刑だが、当時の人にとっては死罪となるべきところを減刑した温情的な処罰。

中世人にとっては、身分を表す大事なアイテムとして「髷」「烏帽子」があった。髷を切られること・烏帽子を取られることは死よりも屈辱だった。髷・烏帽子を持たない女性、僧侶、乞食はその代わりが耳・鼻だった。耳・鼻は人格を表す。当時非人だった癩者と同様の外観になることで非人の身分になることも含まれていたかもしれない。また処刑人の手加減によりそぐ程度もいろいろあったかもしれない。

しかし戦乱の世が終わると、残酷な刑は世の中の風潮に合わなくなる。耳鼻削ぎの廃止は「文明化」の象徴。中華文明においては耳鼻削ぎ・刺青などの肉刑は禁止されていた。日本は古代においては中華文明の影響を受けていたが、中世に独自の文化・政策を持つようになり中国の影響が薄れると、耳鼻削ぎが行われるようになった。

アジアにおいて「中国隣国型」と「周辺型(対外的脅威がなく低コスト)」という二つの類型がある。日本は古代においては「中国隣国型」、中世は「周辺型」だった。耳鼻削ぎは周辺型社会の習俗。耳鼻削ぎが行われていた中世は、古代に中国の律令制に習って一度は捨てた習俗が復活した時代だった。

近世になり、中世〜戦国時代に耳鼻削ぎが見せしめの刑として多く行われたことへの反動(と著者は考える)もあり、中華文明への回帰ではない方向で、「周辺型」文明からの脱却が起こった。それは戦国の世との決別であり、きっかけは西欧文明との接触だったかもしれない。現代人が耳鼻削ぎに嫌悪感を抱くのは、もうわれわれが当時の人々とは違う社会に生きている証拠。


大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー) 単行本 - 2008/6 清水 克行  (著)

「世界の辺境とハードボイルド室町時代」で語られていたことが次々出てくる。


【新版】 雑兵たちの戦場 中世の傭兵と奴隷狩り (朝日選書(777)) 単行本 - 2005/6/10 藤木 久志  (著)

清水克行氏の大学時代の指導教官、藤木久志氏の名著。

歴史で習うのは大名同士の華々しい戦いだが、これまで語られなかった末端の現場の事情が最近の研究でわかってきた。

恩賞も名誉も武士道もない雑兵たちにとってのモチベーションは略奪。戦争に加担すれば故郷に富を持ち帰れた。特に人身売買は利益が大きかった。転売されポルトガル船に乗せられ海外へ送られた女子供も多かった(イエズス会の記録にはおおっぴらには出てこないが現実にはあったらしい)。

それを全国的に禁じたのは秀吉。それからもたびたび権力者によって人身売買の禁止令が出されるが、それは戦争態勢が解除される段階とリンクしている。戦闘が終わっても戦場における悲惨な戦争状態を終わらせるには、人身売買の禁止令が不可欠だった。

秀吉による全国統一後、朝鮮出兵が行われ、国内に残る戦場のエネルギーが放出された。日本の平和と朝鮮出兵は対になっている。朝鮮半島においてももちろん奴隷狩りは行われた。その数、数万人。連れ帰った朝鮮人の多くが、ポルトガル船に捨て値で売られた。長崎・平戸は世界有数の奴隷市場として知られていた。

著者はこの朝鮮半島における惨禍を調査し一冊にまとめたが(「小田・豊臣政権」日本の歴史15 小学館 1975)そのときは、外国の戦場ゆえの逸脱、侵略戦争ゆえの退廃とみていた。実は日本国内の戦場における人取り習俗の持ち出しであったとは、当時は信じられなかった。

飢饉で飢えていた農民たちは、村を捨て戦争に参加するしか生きる術がないときもあった。戦争は出稼ぎ。上杉謙信は農閑期に北関東へ出兵している。雪に閉ざされる地方の口減しでもあった。中世の農民は築城や武装の技術を持っていた。食えなくなれば土地にこだわらず流浪する。

日本国内の戦場が閉鎖し、稼ぎ場がなくなった人々は、海外の戦場に出て行く。外交上それを阻止するため禁輸例が出されるなど。

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中世が非情な世の中だったことは「山椒大夫」や映画「雨月物語」などで想像はしていたが、こうはっきりデータで見せられると、やはり衝撃だ。戦争で海外に遠征したときに出てくる日本人のダークな部分、それは過去に日本国内で普通に行われていたことだった。現代でも窮地に陥りお上からの締め付けが外れれば、また表れるかもしれない。中東やアフリカの周辺国で起きている非情な事件を見て、なぜこうなるんだろう?なんて人たちだと思う。けどわれわれにも過去にそれが普通だった時があった。今がそうでないのは、目に見えにくい方法で飢餓を輸出しているからかもしれないと思った。

巻末に用語の索引、各章の終りに詳しい参考資料名がある。この分野はまだまだわからないことが多いので、若い人たちに研究を引き継いで欲しいという著者の気持ちだそう。


刀狩り―武器を封印した民衆 (岩波新書 新赤版 (965)) 新書 - 2005/8/19 藤木 久志  (著)

NHKの大河ドラマ「真田丸」を見ていたら、秀吉による刀狩りで社会の変化に適応できずに酒浸りになった男(門番役)が出ていたなあと思いつつ読み始め。

日本には3度の刀狩りがあった。秀吉による刀狩り、明治政府による廃刀令、戦後GHQによる武装解除。秀吉の天下統一以来、日本の一般民衆は武装していなかった、それにより平和な世の中が維持できた、と日本人は思い込んでいるが、近年の資料からそのイメージは間違いだったとわかってきた。映画「七人の侍」の弱い農民像は事実とは違うらしい。

実は昔からみんないろんな武器を持ってたし、戦っていた。侍に限らずすべての民衆にとって、武装権は名誉権であり、人の尊厳そのものだった。

そういえば、今の大河ドラマで、農民同士が山林の境界をめぐって村単位で激しい戦をするシーンがあった。本筋とは関係無いのに何故こんなシーンが?それは脚本家がこの「刀狩り」を読んで、従来の農民のイメージを変えたかったから。。。なんてことはないと思うけど、あのシーンが思い出される。

農民が鉄砲をはじめとする武器を必要とし、お上もそれを認めていた第一の理由は、鳥獣の害と戦うためだったらしい。イノシシ、シカ、サル、クマなど(一方鳥は厳重に保護されて無許可で鳥を獲ったものは厳罰。鷹狩の餌の小鳥が減ってしまうため。鷹狩は大名の特権だった。また鷹狩に使える領地の広さが国のステイタスを表した)。

秀吉の刀狩りにおいて民衆を説得する決め手は「大仏の釘に使う」だった。1558年のイエズス会年報によると「彼(秀吉)はこれを安全にやりおおせるために、宗教を隠れ蓑に用いた」ってさすが同業者は見抜いてる。刀狩りは兵力でなく知力でやってのけるという秀吉の身構えだった。秀吉の政策の核心は「惣無事例(そうぶじれい)」



秀吉が具体的にどうやって大名諸侯を武装解除しつつ天下統一を成し遂げたかという話になり、各地域ごとに事例が紹介される。徳川の時代を経て(帯刀権は金銭で買えたーうちのご先祖様もこれで買ったのか)と思っていたら、戦後のGHQによる武装解除の資料によると、没収された武器の記録から、三軒に一軒の割合で大刀が庶民の家にあったことになるという。結構みんな刀を持っていたんだよ。うちが特別だったわけじゃない。

つまり秀吉の刀狩り以来、庶民は国家により武器を一切封印されたというイメージは間違い。実はみんな家に持っていた。自主的に封印して使わなかっただけ。日本人の武器の封印は、お上からの強制ではなくて、民衆の合意からなる共同意思に基づくものだった。

後半ざっと読み飛ばしたが、兵力を使わず平和を維持するには、相当タフな政治力が必要。有能な政治家ほど武力を封印する力を持つ。


室町時代の人々は、現代の人々とは違う価値観を持っていたらしい。日本は古代においては中華文明という巨大な文明に接し、近世以後はヨーロッパ文明との接触があり、現代はアメリカの影響下にある。室町時代は周辺国からの影響の少ないガラパゴス化した時代だった。またソマリアの話に続いてしまうが、今は平和な日本も極限状態になったら、また室町時代のような世界が出現するかもしれない。中東やアフリカの周辺国のように。ヨーロッパにおける中世の時代も似たようなものだったかもしれない。過去の時代の検証が現代の問題の解決に役立つかも。