共感覚者の驚くべき日常

興味本位で読み始めたけど、とてもいい本だった。共感覚についての研究者の日常というべきかもしれない。未知のものを探っていく神経科学者のインナー・トラベル。

よく「黄色い声」なんて言いますけど、共感覚者とは音に色が付いて見えたり、味に手触りがあったり、それをたとえではなくて、本当に感じてしまう人のこと。10万人に一人と書かれていますが、著者の研究によって、頭が変なのでも病気でもないことが公になって、カミングアウトする人が増えたのか、ある本では何千に一人などとも言われています。カンディンスキーやスクリャービン、ナボコフもそうだったそう。私が知っていたのは(フィクションですけど)ライアル・ワトソンの「未知の贈りもの」に出てくる少女。

共感覚には様々なタイプがあるそうで、聴覚→色覚が多いそうなのですが、現われ方は人さまざま。そしてある感覚からある感覚へ共感する方向は一方向で、逆はないそうです。(たとえば、ある音を聞くと視野の一部が赤くなる人が、赤い色を見るとその音が聞こえるということはない)

人の感覚という機器で測定しにくいものは、従来の医学では取り上げられなかった。それが「気のせい」や「思い込み」ではなくて実在することをどうやって証明するか。

異種の感覚を関連づけることは、普通の人が日常で行っている。「クールな音だ」とか。比喩は人の脳に特有で、他の脊椎動物では起きない。それは言語など抽象的なことを処理する「皮質」という器官で起きる。そこではある刺激は五感の全てに渡される。

一方共感覚はこの皮質を通さずに、「辺縁系」で、特定の感覚間のみで起こる。。それは共感覚時の脳内の血流を調べることで客観的に証明された。(ちなみに共感覚は共感覚者でなくても、神経系の病気の発作時やLSD服用時に現われることがあるそう。現代では法的、倫理的に実験できないが、過去に記録がある)

脳における神経伝達は直線的に起こるのではなくて、液状に広がるように起こっている。たぶん共感覚はわれわれには意識できないだけで、誰の頭の中でも起こっている。共感覚者とは、それがひょんなことから意識にのぞく人だと著者は推測し、「認知の化石」と名付けます。元々脳内で起こっている事だが、それを大多数の人は意識することがなくなってしまった感覚。

ここから、著者は人の意識について考察を重ねる。そしてコーンヒューバーという人の自己意識は幻想的であるという実験結果を紹介する。自分の意志によって決定を下したと思っていることも、実は意識外の何者かによってなされたものであり、意識は自分で決めたと思い込まされている(。。。!)

情動、確信、直感、などが無意識下において起こることは誰でもわかる。われわれには自己意識がアクセスできない部分がある。現代人は意識の部分を重要視して、情動など無意識下で起こることを軽視しがちだが、両方をバランスよく使うことが大事。

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約1ヶ月この本とつきあっているうちに、著者と旅をした気持ちになりました。「型から入る」という言葉や「暗唱」「お稽古」という教育方法を知っている、われわれ日本人にとっては、長い旅路の果てにたどり着いたのは意外と近所?な感じなのですが、旅の過程は非常に興味深く、退屈しません。ただ、2〜3ページ読むごとに考えることがあって、私的オプショナルツアーに出かけてしまうので、なかなか目的地に到達しませんでした。ああ、やっと図書館に返せる。貸出期限大幅オーバー。

著者は研究を進めるにつれ、医師としての訓練を受けた神経科学者である自分が、分析的な性格や先入観に支配されていたことを振り返るのですが、このように冷静で誠実な思索をできるのは、やはり分析的な物の見方が大切なわけで、それを言葉によって見ず知らずの世界中の他人に伝えることができ、人の心の内的探究の助けになる。それはそれですばらしいことではないでしょうか。

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オプショナルツアー1 エクソシストについて。
エクソシストとの対話」によると、悪魔払いはカトリック教会公認で公的存在なわけですが、悪魔つきでは?と連れてこられる人の99%は神経系の病気とかストレスとか判断されて病院を紹介されるそうです。教会が悪魔つきと判断するのは、本人が知るべくもないラテン語や古い言葉で難しい教義について問答を仕掛けてくる場合だそうです。(首が回るぐらいじゃだめ)本人が知らない間に言語や学問体系を習得することが可能なんだろうかと思うのですが、イタリア人に限ると、イタリア語はラテン語に近いし、子どものころから教会で祈祷や典礼歌を聞き流しているうちに、無意識下で習得してしまうことがありうるかも。。。とこの本を読んで思えてきました。

取材されていた悪魔つきの人は、ふだんは明朗な素敵な女性で、ただ難病と肉親の死を乗り越えてきた過去がある。たぶん意識下では克服したつもりでも、無意識下では自分は何も悪い事をしていないのにひどい目に遭わされたという怒りや悲しみが深く沈殿していたかもしれない。教会に近づくと気分が悪くなり、神父に対面すると別人のようになり罵倒し吠え、後でその時の事はおぼえていない。理屈はともかく、その人はその方面において内的嵐をかかえていて、助けを求めている、それにはその線でとことんつきあってあげるしかないんじゃないか。まあ、エクソシストというのは、なりきり療法のような面もあるかも。

昔私はイタリアのパドヴァである教会に入った。そこは悲痛な表情の聖人でいっぱいだった。その晩、同じ食卓になったツアーの初老の男性が「僕はあれを見てこわくなった」と言った。それは私もイタリアを旅する日にちが経つにつれ感じていた。どこに行っても人を見下ろしている天使。壁紙や天井やあらゆるところで見張っている。どこにいても朝夕聞こえてくる鐘の音。上から網をかぶせられるようだ。路地のあちこちにいるマリア像。そういうものが人々に脅しと安息の両方を与え、支配している。そんな環境で育った人が人生の契約違反を訴えるなら、それはやはり教会なんじゃないかな。

日本にだって狐憑きとか厄年とかお宮参りとかある。理屈では説明できなくても、五感が納得する何かがあるんだろうな。ああ、でもクリスマスとお正月両方やるのは疲れる、どっちかにしてほしい。または1ヶ月以上間を開けてほしいな。

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オプショナルツアー2 「高慢と偏見」について。
リメイクされた新作は見ていませんが、ドラマ版をシネフィルイマジカ(CS)で見ました。私はストーリーよりも時代考証に忠実に作られたという衣装や髪形や変なダンスが気になって気になって。。。家人は「これゴスロリ?」と言っていました。

恋愛ではよくありますよね、意識下では反発を感じていたのに、ふと気がつくとものすごーく魅かれていたとか、ある日、なんでこんな男に惚れていたのか?と我に返るとか。恋心は意識でコントロールできない最たるものかも。遺伝子の判断にまかせるのみ。気になるのは身分も性格も違うあの二人のその後ですけどね。

わたしの油絵の先生は古くさーい近代絵画を教えてくれるおじいさんで、若かった私はいつも反発していました。その先生がかけてくれた言葉で忘れられない言葉があります。「愛や恋はやがてなくなる。最後にのこるのは思いやりだよ」。その先生が定年退官する日、教室に奥様もいらして笑っているお二人をみていいなーと思ったのでした。

相手を思いやるには理解することが必要で、それにはやはり分析的な冷静な目が必要です。本当の理解は愛が消えた後に始まるのかもしれません。

ちなみ美学の先生のアドバイスは「パートナーが出来ても自分が二人になる訳ではない、相手はあくまでも他人だということを忘れないように」でした。