去年の秋、大分(豊後)に帰る直前、高校時代を同じ大分で過ごした友人から司馬遼太郎の「街道をゆく 中津・宇佐のみち」を読んだという話を聞いて、私もそれを読み、飛行機に乗った。
私の祖母の祖父の家は、中津藩の御抱えの両替商だった。「うちは武家ではなかったけれど、お殿様から名字帯刀を許されていた」とちょっと自慢気に祖母は語るのだけれど、高校生のとき日本史の教科書で「これはまさにそのことだ」という記述に出会った。
江戸末期になると地方の小藩は財政が悪化し借金地獄・リストラなどで武士は大変困窮した。その一方、低い身分の商人が金の力に物言わせ、のさばり、借金のかたに名字帯刀の権利をもらって武士の物まねをして悦に入る馬鹿者まで出現した。。。とまでは書いてなかったが、あーこれだったのか、トホホ、と思ったのでありました。ま、そんな祖母の家も廃藩置県で全てを失い、江戸に上京しています。
中津藩からは福沢諭吉が出ています。小学校時代に同じ大分県の出身ということで、先生が話してくれました。「君たちの先輩の福沢諭吉は、オランダ語を勉強して第一人者になったのに、これからの時代は英語だとわかると、それまで学んだ事を全て捨てて、一から英語を勉強し直したんだ。君たちも一度身に付いた知識にしがみつかないで、必要ならまた一から勉強する勇気を持つんだよ」
大分には有名な銘菓「ざびえる」があり、駅や空港でその単語をたびたび見かけた。それから南下して宮崎に行き、姪がスペインに旅行するという話を聞き、スペインという単語がすり込まれた。というわけで、茅ヶ崎に帰ってきてからなんとなく司馬遼太郎の「街道をゆく 南蛮のみち」を手に取り読んでいました。
若い頃のフランシスコ・ザビエルは神学とは無縁で、将来は哲学の研究に捧げようと思っていたのに、カルチェラタンでイグナチウス・ロヨラに出会ったばっかりにイエズス会に入り、ポルトガル王の支援で日本に伝道に来る事になった。。。人の運命って数奇なものだなと思います。司馬遼太郎一行はザビエルの出身地、スペインのバスク地方を訪れ、実家のお城を見学します。
茶道の所作は、キリシタンの司祭のミサの所作に影響を受けているのは?、とか、秀吉以後、港湾部に首都を作るようになったのはリスボンをモデルにしたのでは?、とか、当時のスペイン・ポルトガルが日本に与えた影響について語られます。
歴史や文明についてはすばらしい文章を書いている司馬さんですが、食べ物の事になるとちょっと。。。料理研究家の長尾智子さんはバスクに魅せられ、何度も訪れ郷土料理などを記録しています。そのとき必ずバッグに入れて持ち歩いていたのはこの「街道をゆく」だったそうです。