相模川河口の自然を守る会 活動20周年記念誌

相模川河口の自然を守る会 活動20周年記念誌

 図書館にてふと手に取った冊子。かつて相模川河口は渡り鳥の一大中継地点だったそう。自然探偵と消えた干潟(平塚市博物館のページ)わたしたちが行徳から越してきたとき、すでにもうその面影はなかった。神奈川の海って鳥いないなあという印象だった。

 これは相模川河口の干潟の保護に取り組んだ活動の記録。どのような活動が行政を動かすのに効果を上げるか、多くの市民に知ってもらうには、など、参考になることが。下水処理水の排水口を河口の外側に変更してもらうなど成果も上げるが、結局、上流にダムなどができた影響で流砂が減り、砂州そのものが海側からの波の浸食に負けて、地形が変化してしまった。

 読んでいくと、ここまでやったのか!それなのに。。。と悲しい気持ちにもなるが、今後の自然保護活動の貴重な参考になるのではと思う。藤沢の辻堂市民図書館に1冊。茅ヶ崎図書館に1冊ある。平塚図書館にはなし。相模川河口は平塚市なので、平塚の地方資料なのだけど。

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 浜口さんのシンポジウムで、学芸大学の小川潔さんという人が寄せられた「浜口哲一さんと同時代に生きて」という追悼文に、浜口さんが学生時代、新浜保護運動のメンバーだったとありました。

 一面の干潟&葦原として「あおべか物語」にも出てくる浦安〜行徳一体は、わたしが住んでいた1980年代はすでに埋め立てられていました。ある日、行徳野鳥観察舎の蓮尾純子さんが書かれた本を読んで、1960年代に新浜一帯の保護運動があったこと、あっけなく敗退したことを知った。それでも蓮尾さんは静かに活動を続けられ、野鳥観察舎が残った。浜口さんは平塚博物館に勤務しながら、たくさんの自然保護活動家に影響を与え、アマチュアの自然愛好家を育てた。

 小川さんの文には「保護運動はたかだか2年で負け戦のまま終息してしまいましたが、私たちが一生、自然保護を背負って生きていくことを決定づけたのです」とありました。19~20歳の多感な時期に出会い、成果は出なかったけれど、その後の生き方を変えた、干潟の保護運動。浜口さんは、どんな思いで相模川の河口の保護に取り組んでいたのでしょうか。

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 「相模川河口の保護運動を振り返って」という浜口さんの文を読むと、中西準子さんの名前が出てきます。自然保護・環境問題について考えると必ず、海(漁業)ー河口(護岸)ー中流(下水)ー上流(ダム)という水のつながりと人の営みの問題が出てきて、中西さんの名前が出てくる。

 浜口さんの著書によく出てくる、自然はみんなつながっているという言葉。それはいくら河口の自然を保全しようとしても、上流の土木工事、建造物によって大きく影響を受ける、それらの前では無力に等しい、ということと無関係ではないのではとも思います。

 とはいえ、浜口さんはこのことに関して、「河口の自然の保全のみに力を注ぎ、下水の問題までは目を向けなかった。その方向から働きかけるやり方もあったかもしれないが、結局上段からかまえて大事にしなくてかえってよかった」という風に振り返って感想を述べられています。また、市民運動にして大騒ぎにするよりも、行政の担当者個人と直接会って話した方がうまくいく場合もある、とも。