原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―

原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語― [単行本] 安冨 歩 (著)

エネルギー問題に関して文化系の出版物が出てくるにつれ、ああまたか、もういいや、自分には関係ない、という気持ちがわいてくるのを感じる。こういう機会に、社会的な問題にメスを入れるのは大事だとはおもうが、肝心な問題から遠くなると言うか、とらえ方は人それぞれだよな、という方向に落ち着いてしまう。すると、原発事故で地に落ちた科学信仰が、いや科学の前では人は平等だし、人々に共通する問題を扱えるのは科学しかない、科学ってありがたいなとおもえてくる。その科学を語っているのは、社会的な生き物、ヒトであり、ヒトの言語なのだけど。

この本をパラパラと見て、ああーまたちっちゃいことをウジウジと。。。どうでもいいジャンと読み飛ばし、ふと気になった箇所は、終わりの方の「原発に反対する人がオカルトに惹かれる理由」。TBSラジオのLifeで「好き好き大嫌い★アメリカ西海岸」のustを見ていたというのもあるとおもうが。。。

著者は一応、反原発原理主義とオカルトの関係を考察しているのだけど、著者の思い込み、または独走した推測?、そうかなー?という感じだ。にしても、反原発、脱原発を訴える人でオカルトまたはカルトの人が多いのも事実。単にそういう業界が、人々の不安につけ込んで顧客層を拡大しようとしているだけなのか?

本当に脱原発を実現したいなら、デモをするにしても、変な音楽や服装は抑えた方がいいと思う。普通の人に「あの人たちは自分らとはちょっと違う」と思われると逆効果なのでは?アクセサリ、ファッションとして身にまとわれたカルチャーは、あきたら捨てられる。過去にも反原発運動があったらしいが、自然に消えていったのはなぜか?

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ところで、今日この記事を見てまた震え上がってしまった。

朝日新聞デジタル:4号機、工事ミスに救われた 震災時の福島第一原発

あのとき、わたしは逃げなかったけど、甘かった。本当は逃げていた方が正解だったのだ。。。