今年の敬老の日は何もしませんでした。去年までは祖父の妹に当たる「友子」大叔母(わたしたちは「トモコオバチャン」と呼んでいました)に毎年手紙を書いていました。結婚した年に、トモコオバチャンにお祝いをいただいたお礼のお手紙を出すと、たいそう喜んでくれたのがきっかけでした。単純に計算すると32通書き送ったことになります。内容はわたしたち夫婦のなんと言うことない日々のこと、クスッと笑えるエピソードをイラストで描いたもの、小野家の最長老にして良心の番人であるトモコオバチャンへの感謝など。
トモコオバチャンは若いときに誓願を立て、カトリックの修道会に入りました。仏教でいう出家のようなものです。戸籍も家族から独立し、私物は一切持たず、人生の全てを神に捧げるという厳しい道です。トモコオバチャンの最初の仕事は、カナダで幼稚園の経営に携わることでした。帰国してからは、修道会の日本支部を立ち上げ、カトリック幼稚園を経営。長年勤めた園長を退任後は、ベトナム難民の子どもを引き取って育てるプロジェクトを実施(トモコオバチャンは日仏バイリンガル)。子供たちが成人して自立するまで育て上げました。
晩年はケガや病気の試練と戦い何度も死の淵より復活しました。神様の前では謙虚に、しかし実生活では常に自分に何が出来るか考え主体的に実行する人でした。トモコオバチャンにはモノを送っても受け取ってもらえませんでした。わたしなんかにモノを送るより恵まれない人に施しなさいといって。それはそれで大変なことで、トモコオバチャンを喜ばせるには言葉を、それも本当に心のこもった言葉を贈るしかありませんでした。しかし相手はその道のプロ、どんな言葉もトモコオバチャンにとっては聞き慣れた言葉だったでしょう。
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わたしたちにはトモコオバチャンの他にも、トモコオバチャンの姉にあたる「啓」大叔母が居て(こちらは「ケイおばあちゃん」と呼んでいました)、ケイおばあちゃんは一度嫁いだ後、子どもを置いて家を出、カトリックの信仰に出会って再び生きることができるようになった人でした。
祖父と祖母が亡くなってからも、わがやが大叔母たちの実家でした。お盆やお正月にはみなで集まって過ごしました。大叔母たちは私たち姉妹に子ども向けの聖書やオメダイ(お守りのようなネックレス、語源はメダルだと思う)をくれたり、お祈りのしかたを教えてくれたりしました。大叔母たちはクリスマスに日本には身寄りの無いイタリア人の神父様を連れてくることもありました。当時のわたしと妹は猿に等しい存在で何も分かっていませんでしたが、神父様には猿が走り回る家庭の雰囲気を味わえていただけたかもしれません。
大叔母たちが神様について話し始めると、親戚の叔父や叔母たちは苦笑いしながら聞いていました。特にケイおばあちゃんは、原理主義者か?というほど信仰が深く、キリスト教の他宗派への批判なども口にしていました。
ケイおばあちゃんは一度わたしとわたしの友人を、カトリック別府教会のミサに連れて行ってくれたことがありました。その日は日曜のミサでありながら、ミサの中で信者さん同士の結婚式も行われるという珍しい日でした。あの二人は身寄りが無いので、教会に来る人全員が家族として出席できるよう、ミサのなかで結婚式をするよう神父さんが取り計らってくれたんよ。ということでした。新婦さんが、ドレスなのかとおもいきや文金高島田だったのにびっくりしつつも、典礼歌を歌ったり、お祈りの言葉を唱えたり、さまざまなことをクリアし、その都度ケイおばあちゃんから「その調子」「いいよ!」と励まされ、エセ信者がばれることなくミサが終わりました。ミサは誰でも来ていいし、今日は人数が多い方がにぎやかでいいんよとケイおばあちゃんは笑っていました。
それから10年ぐらい経って、ケイおばあちゃんは病気で入院しました。一度手術をするも、余命幾ばくも無いという診断でした。わたしは一緒にミサに出た友人の結婚式で帰省し、式に出席する前にケイおばあちゃんの病院へお見舞いに行きました。病院と友人の結婚式会場であるカトリック大分教会はすぐそばでした。今日はこれからあのときの友人の結婚式なの、大分教会でお式を挙げるのと言うと、とても喜んでくれました。
ケイおばあちゃんはそれからしばらくして静かに天命を全うしました。ケイおばあちゃんにも手紙を書いたり、電話で話したりしていました。目が見えなくなる不安や、長く生きすぎたわという言葉に、若かったわたしはどう答えていいかわらずただ話を聞くだけでした。それが入院してからは、早く回復するようがんばるわ!と明るく生き生きした声でした。
ケイおばあちゃんは、少ない蓄えからカトリック墓地に小野家のお墓を立ててくれました。そこには家父長制に反旗を翻しカトリックに救いを求めた小野家の女性3人が分骨されて入っています。
ケイおばあちゃん。若い頃は東京でタイピストとして働いていました。オシャレで美しい人でした。
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同じカトリック信者でも、トモコオバチャンは宗教者と言うよりは、実業家、経営者、戦う修道女のイメージでした。小さい体ながら、よく通る明るい声ではっきり話す人でした。仕事上は成功した人でしたが(お金や名誉を得たという意味ではなくてライフワークを貫徹したという意味で)、親族から見ればやはり家族の居ない寂しい人という印象でした。教会や修道会というわけのわからない秘密結社のような団体の中に居てコンタクトを取りにくいという面もありました。
トモコオバチャンは、ときどき早くに亡くなったわたしたちの祖父の子ども時代の話をしてくれました。祖父と大叔母たちの母であるわたしの曾祖母は体が弱かったこと、白木の海岸に夏に子どもたちだけで過ごすための家があり、ばあやが居たこと、パンを買いにおつかいに出された祖父が若草公園のベンチでパンの中の白いところだけ食べてしまったことなど。とにかく、あなたのおじいさんは暴れん坊でワルかったのよと笑いながら話してくれました。そのときは、トモコオバチャンは信者という殻から出てきて、肉親として直に接してくれているという感じがしました。
数年前に、いよいよ死期が近いと訴えるトモコオバチャンのために、両親と妹と4人で会いに行きました。トモコオバチャンはたいそう喜んでくれましたが、別れの寂しさも感じていただろうと思います。しかしわたしたちの前では明るく振る舞い、悲しい顔は見せませんでした。シスターたちとは初めてお会いしましたが、トモコオバチャンがベッドに貼った私からの手紙で似顔絵を見ていたらしく、ああ、あの人ねと笑っていたのが恥ずかしかったです。
95歳を過ぎてお電話で「わたしね、週2回デイケアセンターっていうところにね、行くことになってね。。。」と今までに無い弱々しい声で報告をしてくれましたが、その2ヶ月後には「どこに居ても神様のみこころを実行することはできるわ。ここにも助けがいるひとがいる、私はこの人たちの話を聞いているの。ただ熱心に耳を傾けるの。すると、いろいろ話してくれるのよ。そんなことでも、まだできることがあるの。」と語っていました。
その2年後、4月のある日、母から「今、修道院から電話でトモコオバチャンが亡くなったそうなんよ」と知らせがありました。両親は公式な連絡先になっているものの、高齢で耳が遠くなり、対応が難しいので、折り返し修道院に電話をかけると、いつもトモコオバチャンのお世話をしてくださっていたシスターがすぐに出て、最後の様子を話してくれました。
トモコオバチャンはこのところ調子がよくお元気だったのに、ちょっとしたかぜで高熱が出て入院した夜に亡くなってしまったそうです。最後は修道会の隣の敷地のマリア病院の医師でもある神父様が看取ってくださったと。
修道会の院長さんにお電話を代わり、お式の段取りを打ち合わせ、シスターたちにトモコオバチャンがお世話になったお礼を言うと、院長さんが「わたしたちにとっても、シスターオノは大先輩でありパイオニアでした、偉大な人がいなくなってさみしいです」とのお言葉でした。シスターたちと話している内に次第に涙があふれてきてそれ以上話し続けることができなくなってしまいました。
トモコオバチャンがいかに長生きで不死身だといえ、もう他界するだろうとは思っていました。そのときがきたら、老いによる体の痛み、苦しみや寂しさから解放されて、神様に召されてトモコオバチャンは幸せになれるとも。そのときは静かに訪れて、穏やかに死を悼むのだと思っていました。それが、こんなに悲しいとは。
大分から父の従姉妹の伯母さんたちが、お葬式に行くことになったので、親戚の人数は足りると判断し、わたしはお花だけを贈ることにしました。両親の名で小野家一同のスタンドと、妹と連名で小さめのアレンジメント。トモコオバチャンが生きていたら怒られそうな、ピンクの百合にしました。「わたしなんかのためにもったいないわ、世の中には困っている人がたくさんいるのよ」という声が聞こえてきましたが、トモコオバチャンはもう反論できないので、わたしたちの好きにさせてもらいました。
トモコオバチャンに最後に会いに行ったとき、トモコオバチャンを支えるシスターが居ました。二人の会話から、この人がいつもトモコオバチャンの面倒をみてくれているのだと思い、お礼を言うと「いえいえ、助け合って生きていますから」という言葉が返ってきました。おいとまして、バスの時刻に遅れそうで、修道会の建物の前の小さな川沿いの道を走って出て、振り返るとそのシスターが道に出てわたしを見送ってくれていました。
そのシスターと私は会ったのは一度、もしかして二度?少ない言葉しか交わしませんでしたが、その夜、とても強い心のつながりを感じました。たぶんシスターは一人で静かに祈っていたのではないかと思います(修道会の生活ではそれしかできないし)。わたしは冷蔵庫の料理用のワインを飲んで泣いていました。妹とはLINEでオバチャンのために祈ろうよと言いつつ、実は姉は飲んでいました。ほんとにダメな姉です。
トモコオバチャンの居ない敬老の日。毎年秋に、母は修道会のトモコオバチャン宛に大分名産のカボスを送っていました。トモコオバチャンは居なくなったけど送り続けようかどうしようか?わたしもあのシスターにお手紙を書きたい気持ちだったけど、それはキッパリやめようと思いました。物事にはケジメがあるという祖母の言葉が頭に響いてきたからです。
祖母は、親戚の誰より大叔母たちを受け入れ、大叔母たちが子どもや孫に布教をすることも大目に見ていましたが、本人は無神論者でした。「神様に祈ったってどうもなりゃしないよ、いざというとき助けてくれるのは人間さ」祖母は江戸っ子でした。
トモコオバチャンを喜ばせることができたなら、それはわたしたちがカトリックに帰依し信仰を持つことだったろうと思います。または、子どもの居ない私たちが、難民の子どもを引き取って育てるなど。でもそこまではできませんでした。トモコオバチャンからきかされた言葉でこころに残ることがたくさんあります。けどわたしには実行できていません。
トモコオバチャンが亡くなってからしばらくして、家の電話回線を解約しました。トモコオバチャンはわたしの周りで携帯電話を持っていない唯一の人でした。家電はトモコオバチャンとのホットラインになっていました。トモコオバチャンがいなくなれば、もう誰もこの番号にかけてくる人はいないのです。
それと時を同じくして、修道会のシスターから、トモコオバチャンを悼むカードが送られてきました。「シスターオノの遺品を整理していたところ、あなたとの思い出が深かったようでしたのでお送りさせていただきました」と。
トモコオバチャン最後に会った96歳の夏
カナダ、ケベック在住時
誓願の儀式のとき34歳
教会の人たちと?真ん中は当時大分教会にいた神父さま
神父様と大叔父
娘時代、自宅前にて