インターネットの世界が、フィルタリングやパーソナライゼーションによって、狭い閉鎖空間になり、複雑ではあるが重要なこと=社会や政治の問題から、人々が遠ざけられてしまう事への警鐘。著者はリベラル系市民政治団体MoveOn.orgの人。
フィルタバブルについては、ムカッとする情報の中に真実があることもある。いやなことを遠ざけてしまっていないか?常に内省することを忘れないようにしなくては。具体的には、google, yahoo, facebook, などの広告フィルタ機能は切っている。ブラウザのクッキーはときどき削除する。やりかたは本書のサイト
http://www.thefilterbubble.com/
にもある。
著者は、プログラマー・技術者に倫理観を持つよう要請しているが、難しいだろうなあと思う。パーソナライゼーション、セルフブランディングが進むのは、この世界が脱物質主義社会へ移行していることの結果であって、誰に責任があるわけではないし。でも高木仁三郎氏は、遺作「原発事故はなぜくりかえすのか」で、「仏師の公共性」にたとえ、技術者のパブリックの意識の重要性を説いている。IT技術者だけでなく、あらゆる業界のあらゆる職業の人にもいえることだけど。
最近twitterが、特定の人からのリツイートを表示しない設定を追加したのは、その意味でいいことだと思う。twitter側の意図はわからないけど(この意図がわからない点が問題だと著者は強調してるのだけど)。
facebookも特定の人の「いいね」を表示しないオプションがあればと思う。facebookにとっても、かえってマーケティングの精度があがると思うけどな。
この本では語られていないが、情報は受け取るだけでなく、自分の意志で言葉で発信することも重要。その際、それが他人に貢献したいからか、自分を演出したいからなのか、冷静に自分に尋ねてみることも。企業広告に利用されていることを知りつつ、ユーザーである自分が他の企業に対して、このような世界になればいいのに(こんな製品なら買う)と望んでいることを知らしめるという積極的な使い方はできないのかな?
著者が警鐘を鳴らすのとは逆に、わたしのタイムラインでは政治や社会問題について語ることを怖れない人が実社会でのふれあいより多い気がするけど。。。もしかしてこれもフィルタバブルによるものなのか?日本においては、個人ジャーナリストの情報をSNSで直接取得できるようになって、今までの大手メディアの偏りが逆にただされるという現象が起きた。
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わたしは閉所恐怖症なので、変化のない世界は閉じ込められるようで息苦しい。若い頃に聴いた音楽を後生大事に聞き続けている人もいるが、そういうのはちょっと信じられない。ところが、今この世界を同時に生きているこの人の音楽が好きだ、今の私は昔の私とは違うと得意になっていると、ある日偶然そのミュージシャンのインタビューを聞いて、その人も若い頃、自分が若い頃に好きだったアーティストを信奉していたことを知って、結局同じ音楽を選んでいたのかと愕然としたりするね。。。結局、人の好みは変えられない。でも自分でそれを受け入れていいのか?今の自分は過去とはちがう時間を生きているのに。
われわれ年寄りは情報を分類して小さな箱に慎重にしまう。そして箱を足したり積んだり並べたりする。今の若い人はそんなことしない。あらかじめタグをつけたらそこらへんに放っておき、必要なときに網をかけて引っ張る。アンカーを打つ、タグをつける、というのは、デジタル処理が一般的になってはじめて可能になった処理方法。今までとは決定的にちがうものが出現することもある。
環境保護活動に有効な手段として、トコロジスト活動というのがある。環境政策では、生物学、教育文化、都市計画、経済、さまざまな専門家の利害が対立する。そこで、その土地について全ての分野にわたり詳しい人、またはグループを育て、調停役になってもらうというシステム。これが、SNSでの情報収集にも役立つのではと思う。
facebookではメンバーの出身学校別、会社別、居住地域別などに自動的にグループ分けされるが、学校や会社はわりと似たような考え方の人が集まりやすい。ところが地域となると、様々な業種の人がいて、ある出来事に対する見解も立場によって様々。それでも基本、IT系の人が多いんだけど。
というまえに、SNSをやっているという前提ですでにフィルタがかけられているのだけど。わたしの仲のいい女友達でかなり高いITスキルを持ちながら、「ああいうのアタシ無理」とアカウントはとっても自分では一切発信しない人がけっこういる。SNSに出てくる人=世間ではないというのも忘れないようにしなくては。
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先日ラジオで、菊地成孔がリズムには、大まかな間隔を決めてそれを割っていく「微分」という手法と、小さなピースを積み上げていく「積分」という手法がある。前者がファンクで後者がプログレ。と言っていて、わたしは深くうなづいてしまった。わたしとしては、前者にアフリカ音楽、バレエ音楽、後者にバッハなどバロック音楽を加えたい。
この本の手法は「積分」だなあという感覚が、書かれている言葉の意味より、時には本全体から受ける印象の50%を越えて迫ってきた。集めた資料をピースに分ける。それにタグをつける。グループに分ける。全体のバランスを見ながら配置する。という作業の過程が読みながらすっごく感じられる。畳みかけられるかんじ。連射を浴びるというか。
積分的手法というのは、細部にこだわるかのように見えて、実は全体を注意深くコントロールしなくちゃならないのだな。それに対して微分的手法というのは、その時々の判断、次々と絶え間なく決断していく瞬間の積み重ねだね。とか、この本の主題と平行して別のことを考えながら読んだのだった。
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ところで
ふと思ったこと。わがやはさまざまな業者からの勧誘の電話に悩まされた時期があったが、相手が誰であれ、ある言葉を言うとすぐに会話をやめてくれて、それ以来電話もない。それは「そちらのリストからこの電話番号を削除してください」というもの。もしかして何か法的な根拠があるのだろうか?
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以下メモ
プロの編集者は高コストだが、プログラムは低コストである。このソフトウェアは、パーソナライゼーションの力に深く依存したもので、少しずつプロの編集者に取って代わるだろう。p68
2000年代=中抜きの10年(ジョン・ペアレス)「メディア」とは、もともと「中間層」というラテン語からきた言葉。新しいゲートキーパー、キュレーター(amazon、facebookなど)はすさまじい影響力を持っているが、それらがどういう意図を持っているのか、ユーザーには知るすべがない。報道の内容や姿勢について糾弾することもできない。p78
facebookの基本は「アイデンティティはひとつ」。しかし現実では人は複数の自分を持っている。例:未来の自分への望み(やせたい) vs 現在の望み(食べたい)。なりたい自分 vs いまの自分、という緊張関係を保持し、バランスを取ろうとする。これを「現在バイアス」という。143
「説得のプロファイル」。午前3時頃は、1日のうちでもっとも差し出されたものを買ってしまう時間帯。懸賞やなどでお得感をだした売り込みに弱い人々のリストが「タダに弱い客」として販売されている。150
googleの野望。人が検索をおこなう前に何を調べたいのか、スマホがわかるようになってほしい。検索しない検索の時代。151
「最適化」につきものの「極大現象」。たまたまあることに反応する→facebook側はそれをユーザーが興味あることととらえ、関連事項の表示頻度を上げる→ユーザーはそれについてますます知る→ユーザーのウォールはそればかりになる。(ネットで公開されている情報を知っているからといって、実はよく知らない人のことを、長年知っているかのように勘違いしてしまう人は現実にいる。)154
アルゴリズムの問題点。銀行によるローン審査、米陸軍による入隊促進にソーシャルデーターが使われ始めている。決定を下した理由を説明する義務が会社側にない。161
ネットフリックスによってcinematchより10%優れたアルゴリズムに100万ドルという懸賞が発表される。誰でも参加でき、競合するチームに共通の問題を検討できるよう、掲示板を設置した。その3年分のログを読むと、過剰適合、ステレオタイプの問題が繰り返し登場。160
人間の行動は予測可能なアルゴリズム通りではない。過去のクリック履歴が未来を規定してしまう。ウェブ履歴を消去しなければ、我我はその履歴を繰り返し生きる運命にある。165
検閲とは情報を遮断することでなく、キュレーション、文脈、注意力の方向性などを操作する二次的なものが増えている。インターネットは中央集権を破壊するものと草創期に期待されたが、ある意味、中央集権を助ける働きも持つようになってしまった。ごく少数の企業がフィルターバブルを操作している現状。172
アルゴリズムを使って国民感情を動かすことが可能。パーソナライゼーションが政治の世界で使われるとき、有用なのが「類語辞典」。状況に適した表現で承認に向けた流れを作る。174
巨大な個人情報を一網打尽にできる、クラウドの危険性。178
facebookは無菌状態の友好的世界。副作用として重要な社会問題が消えることが挙げられる。すぐに結果が出にくい(複雑でゆっくりとしか変化しない)問題の多くはとりあげられにくい。184
不足するものに主観的価値が置かれる。脱物質主義者に共通する性質。パーソナライゼーションはブランド細分化の原因であると同時に結果。195
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民主主義は対話から。デイヴィッド・ボーム「ダイアローグー対立から共生へ、議論から対話へ」。
クリストファー・アレグザンダー「パタン・ランゲージー町・建物・施工 環境設計の手引き」