中国は本当に脅威なのか?政府がナショナリズムを煽っているだけではないのか?実際のところどれだけの軍備を持っているのか?ラジオのpodcastのタイトルを見て、そもそもそれを知りたかった!と聞いてみました。ラジオに出演した著者の話で記憶に残っているのは、「今アジア地域が平和でたいした脅威がないのが脅威」「今現在、中国はどこの国とも戦争状態ではない=国際的に脅威と見られていない」「中国の海軍力はアメリカの十分の一」「中国は軍備を増強する計画を発表してはいるが予定より遅れている」「軍備を持つ効果を発揮するには、相手が何をすれば、こっちは何をすると、相手に明確に知らせることが必要」
ラジオでは時間がなくて話が途中だったりして、ちゃんと一冊読もうと思いました。イラク戦争の時、酒井啓子さんの著書を読んでかなり事情がわかったので、女性の研究者なら信用できるかもというのもありました。
番組情報:2015年07月30日(木)「中国の脅威を安全保障の専門家と分析」(分析モード) - 荻上チキ・Session-22
youtube:SS22 植木千可子×小原凡司×荻上チキ「中国の脅威を安全保障の専門家と分析」2015.07.30
番組情報:2015年08月20日(木)「安保法案は一体、何を実現しようとしているものなのか?」(ディスカッションモード) - 荻上チキ・Session-22
youtube:荻上チキSS22 安保法案は一体、何を実現しようとしているものなのか?
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この本について
読後にamazonでチェックすると、久しぶりに見た5つ星評価。わたしもそう思う!とレビュアーのみなさんに敬意を感じた。
著者は、戦争は無いほうがいいが、現実には起こるものという事実を受け入れた前提で、戦争が起こるメカニズムについて冷静に研究している。その上で戦争は天災のように避けがたいものではなく、予防の努力をすれば避けられるものとしている。
論理的で明確な文章・公平な態度で、読みながら不安を感じない。保守派にもリベラル派にも納得出来る。安全保障についてのすべての議論の前に読むべき本だと思う。戦争だけでなくあらゆる交渉ごとにも応用できるので、ヤクザ・公安・警備担当者・離婚裁判中のみなさんも参考になると思う。社内政治のビジネス書としてもいける。
歴史上の例から一般的に戦争が起こるメカニズムと、抑止が有効になる条件を説明した上で、2014年7月の集団的自衛権行使容認に関する閣議決定を受けて、著者が危険に感じていることを説いているので、今現在の日本の安全保障問題を考える助けになる。概論から目の前の現実の問題まで一気に行き着く構成。
平時はマイナーとも思える分野におけるコツコツとした研究が、いざというとき物事を考える助けになってくれるという例にまた遭遇した。このような知識を一般向けに書いてくれた著者に感謝する。
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この本を読んだあとのわたしの感想。
やはり日本人自身による、日中戦争と太平洋戦争の検証・総括なしに、これからの戦争の話はできないな。
謝罪とか反省は置いておいて、日本人自身のために事務的にただ事実だけを検証すべきという著者の提案に、膝を打った。過去の分析なしに未来を選択することはできないと著者は言う。それが結果的には関連国との関係改善につながるかもしれない。(「紛争屋の外交論―ニッポンの出口戦略」伊勢崎賢治(著)にあった「真実和解委員会」の話を思い出す)
著者によると、日本人が戦争の総括をした上で、関連国との関係を修正するのは、多大な政治的エネルギーを必要とするので困難だろうと。
ということは、それを出来る政治家はかなり有能で国民にとっては役に立つ人ということになる。ちなみに今の首相は出来ないどころかマイナス点。
著者によると、現政権による安全保障政策が威嚇に偏っているため、安全保障のジレンマに陥り、抑止の効果がかえってなくなる可能性があるという。
しかし、政府による政策に不安を感じた国民から反対の声が上がり、それが国会前デモという国外からも見える形になったという予想外の出来事は、結果的には他国に対して日本国民が慎重であること・民主主義による政権を監視する機能が効いていることを示し、応急処置ではあるが政府の政策の短所をカバーしたとも言えないか?。(中国ウォッチャー福島さんの報告によると、国会で議員が殴り合う姿をTV中継などというのは独裁国家ではありえないので、中国国民はかなり驚いたらしい)
かつてのソ連のような強大な敵に対するという共通の利益がなくなった今、その代わりに周辺各国とどのような利益を共有すればいいのか?それぞれの国において政府と国民は別プレイヤー、相手国の国内問題に配慮することで相手国の政府に恩を売れるという伊勢崎さんの話を思い出すが、長期的に使える手ではないな。それに中国の国内問題=人権問題で中国政府に手を貸すというのは、国際的にかえって孤立しそうだし。和解の仲立ちなら感謝されそうだけど、誰かが犠牲を払って平和が実現されてからの話なので国際協力と同じくやはり次元が違う話なのかもしれない。
著者は安全保障に関して政府がどのようなビジョンを持って政策決定をしているのかわからないという。
集団的自衛権行使容認の決議をするにあたって、政府は最初、国際的貢献を理由にしていたが、のちに中国の脅威に対するためと理由を変えた。ところが法案が通ると自衛隊の最初の任務がPKOにおける中国軍との協力とは、国民に対する説明がなさすぎる。(抑止というのは威嚇と信頼関係がセットでないと機能しないので、中国軍と自衛隊が共同任務にあたって現場の交流を増やすべしという著者の提案を参考にしたのか?笑)そもそも日本政府が自分で政策を作っているのかさえ疑わしい。閣僚たちが政策の意味を理解していない可能性があると思う。
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日本人は八百の神を持ち、臨機応変で物事に対処しようとする。国内においては、その場・その集団の壁の中で最適な発言・説明ができることが政治家の力量の一つとして評価されていたかもしれない。しかし国際的には政府によるダブルスタンダードは通用しない(政府と民間が別の考えを持ち行動するのはあり)。
インターネットの普及とともに、若者が大資本によるテレビや新聞から離れてネットで情報を得るようになると、情報は与えられるものではなく自分で解釈するもの、それをもとに指図を待たずに個人で行動するものへと変化したと思う。今回、国会前に集まった人たちはそういう人たちだった。
今までは日本語の壁、ドメスティックなメディアという壁、所属する団体という壁に仕切られた小部屋の集合体だったと思う。インターネットの世界では時間の経過とともに壁は消えて発言のすべてが白日の下にさらされる。あの時はああだったからという前提は無しにチェックされる。たとえ何処であろうと誰の前であろうと揺るぎない信条による政策を語れるか?古い世代の政治家はその変化に対応できているか?
この情報の扱いに関する感覚は、なかなか根深いと思う。政治家の失言が何度も話題になり、住民の避難に関して政府の情報隠しが露呈し、行政や議会の記録が公開されないどころか残されてもいない、そういうことが繰り返し起こるのを見ると、政治家や官僚個人が変わるのは難しく、世代が交代しないと無理かなあという気もする。