9 06, 2008

日本語の外へ

日本語の外へ (単行本)

片岡義男によると、日本語とは、時間や空間を越えて人類に共通な何かを求める道具としては適していなくて、どっちかというと、空気を読んだり相手を思いやったりという微妙な作業を伴いながら、とりあえずその場の利害関係を調整するのに向いているらしい。そういう言語を使うからそういう思考様式になるのか?そういう世界観だから、そんな言語に発達しかのか?ニワトリと卵のようだけど。

すると日本語を使っている限り、日本の政治はずっとこういうものでありつづけるしかないってことか?

この本が出版されたのは1997年。第一次湾岸戦争の後。当時、職場の同僚のアメリカ人と論争になった。私がブッシュ(父)の政策を理解できないというと、同僚は「大重さんは平和主義者なのよ」と言い、「ダンの弟だって(前線に)行ってるしね!」と決めゼリフのように言い放った(ダン=われわれの上司)。それがなんで決めゼリフになる?ずっと不思議だった。この本を読んで、アメリカ人の戦争に対する心理構造がちょっとわかったかもしれない。「job」と「home」という言葉に代表される。。。

ある言語には、特有の思考様式がある。母国語の中にいる限り、その呪縛から逃れられない。著者は日本語と異質な言語として英語をあげているけれど、その英語も、英語を母国語としている人が話す英語は参考にならないという。第2言語として習得した人の話す英語が、母国語の外に出るヒントを与えてくれるそうだ。具体的には、ダライ・ラマやネルソン・マンデラが話す英語がイケテルという。

片岡義男が述べている事を、わたしは日本語で読んで「人から聞いた話」として自分にインプットした。

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