日本人の行動パターン その後のメモ

町山さんがpodcastで通過儀礼について話していて、途中から三島由紀夫の「葉隠入門」について解説をしていました。それが、ルース・ベネディクトが日本人について解説していたことと全く同じ事を言っていて、おっと思った。

TBS RADIO 3/31 サタデーナイトラボ「春の推薦図書特集 feat. F.B.B」【後編】 (ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル)
21分30秒あたりから。

菊と刀の「刀」についてですね。「死んでもイイ」と思う選択の自由。死を怖れることからの解放。他人のために責任を負うこと。責任をのがれて得をすることよりも、卑怯者のそしりを免れる方をとること。それにより人生に価値があったと思うこと。欧米人にとって死とは自然の摂理と戦い破れ運命を受け入れること。に対して(戦前の)日本人にとっては、死とは自分で自分の人生をデザインしたいという欲望を満たすもの。

戦前は(武士にしろサラリーマンにしろ)そういう考え方がありました。(明治生まれの祖父母はよく「だって」という言葉を使うんじゃありません!と言っていました。そして本棚に「葉隠」があった)。しかしそこには「独善的かもしれない」という面もあります。女性や子どもからすれば「恥をしのんでも生きていてくれた方が助かる」んです。

(いつか見たドラマで、極悪人の処遇を、善良な刑事と天才犯罪者の女性のコンビが、私的な裁きで決定するというシーンがあって、刑事は悪人を「簡単には殺さずに刑務所で罪を償わせよう、その方が悪人にはつらいだろう」と主張しますが、女性の方は「私は殺すわ。だってどう考えても、死ぬ方がイヤだもの。」と言うんです。社会的生き物である男性と、本音で生きてる女性はちがう。)

ちなみにベネディクトのいう「菊」とは倫理の型に固定された心のことで、よく菊の展覧会なんかに出品されている、一鉢に一本の茎、一輪で大輪の花、それは針金で支えられている。。。あの不自然に矯正された菊の花のことですね。

よく建前と本音っていいますけど、世間の目がきびしい環境で育つと、もう自分が型にはめられていることさえ気がつかないというか、自分では心からそう思っているつもりでも、実は用意された型どおりにしているだけのことがあるということで、これは現代でもあります。

そういえば、菊花展とか菊人形とか、いつの間にか見なくなりました。昔はあちこちでやっていたようです。今では千駄木の「菊見せんべい」という店名にその名残があります。菊を見るためにものすごい人が押し寄せたという。それをわたしは「谷根千」で古老の思い出話として読んで知っているだけなのですが。(フェルメールや阿修羅像の人気を後世の人が知ったらどう思うかな。変わらず人気だといいけど。。。)