幻獣ムベンベを追え

幻獣ムベンベを追え (集英社文庫) 文庫 - 2003/1 高野 秀行  (著)

フィールドに出かけることができないので、本を読み倒しています。

「謎の独立国家ソマリランド」の高野秀行氏のデビュー作。あまり期待していなかったが、おもしろかった!こういう本は、果たして幻獣は存在するのか?という謎が物語を引っ張って行くものだけど、その結果が最初からわかっていても、おもしろい。著作の中では枚数が割かれていないが、現地に出かける前の準備(日本に滞在している現地人を探して現地語を習うとか、装備を提供してもらうために企業を訪ねてプレゼンするとか)の方が、時間も手間もかかっている。

コンゴの奥地の湖の1ヶ所に若者たちが40日間も滞在し、やることは湖の監視(そこまで行くのが大変だっのではあるが)。食糧不足や虫やマラリアとの戦いなどもあるが、何が辛いって、探検しに来ているのに、風景が変わらずやることが単調なこと。分かるわー、わたしも若い頃(探検には行かなかったが)退屈な時間がつらかった。だから双眼鏡を持ってでかけてもフィールドに長時間いられなかった。

今の私はこの本を読みながら、他の爬虫類を調べて!とか、その虫をもっと観察して!とか、植生を調べて!とか、とかとかいろいろ注文をつけてしまう。彼らは学生の探検部なので学術調査隊とは違うのは仕方ないんだけど、ところがそれでもおもしろい。それは高野氏の人間観察力によるもの。結局、一番面白いのは人間なんだなあ。(特にこの男子だけの合宿状態は、三浦しおんさんが好むシーン)

著者は、現地ポーターと一緒に湖を調査しているとき、彼らに見える動物の声や姿に全く気がつかなかったそうだ。視力や聴力といった五感の能力でアフリカ人に勝てるはずもないが、著者は現地の人が何かを発見するとき、何を見ているかをその都度観察した。すると、彼らが集中するとき、それは対象の動物と時間帯や地形がセットになっていることに気づく。いつ、どこなら何が居るという前提があるわけだ。そのことに気がつくとは、著者の人間に対する観察眼はすごい。

ちなみに、著者ら一行が彼の地に滞在した、ちょうど同じ時期、少ししか離れていない場所で、京都大学の研究者が人跡未踏の地「ンドキの森」を発見していたそうだ。ンドキの森についてはナショナルジオグラフィック日本版1995年7月号で読んだのをおぼえている。

見たことがないものを見たい(未確認生物を発見したい)という欲望と、すでに存在は知られてはいるがそれについて詳しく知りたい(霊長類の生態を研究したい)という欲望はどう違うのか?

あと、現地民が何となく怖れている物に、外部からの情報が具体的な姿形を与えてしまった場合、現地の伝承がどのように変化してしまうのか?それが経済的な効果を伴っている場合は?などいろいろ考えてしまう。

このムベンベがいるとされるテレ湖は、画像検索すると出てくるが、人工的にも見えるきれいな円形をしている。著者の報告によると、湖は広さの割に全面にわたり浅い底が続き(1〜2m)、ふちだけが急に落ち込み、外側は周囲よりも水はけがよい、つまりふちが少し高くなっている。それを読んで連想されるのは月のクレーターのような形。そして植生も生物も単調で種類が少ない(さほど離れて居ず気候も変わらないンドキの森とは大違い)。

高野氏は、この湖は隕石が落下した跡では?と推測している。そのようなことがあって周囲が一瞬にして焼失するようなことがあったなら、生物の種類が単調なのもわかる。もしかしてこれは隕石のかけらなのでは?という石を持ち帰ろうとするが、現地ポーターに止められてしまう。多くの企業に資材や装備を提供してもらった手前、ムベンベが空振りだったとしても、なんらかの発見という成果が欲しかっただろうな。

けど現地の人にとっては、古代から残る謎の生物が存在しない決定的な証拠になってしまう→探検客が来なくなってしまう。ここらへんの駆け引きというか、探検客をもてなしてリピーターになってもらいたいが、客がハメをはずさないように監視し行動を誘導もしなくてはならず、そのさじ加減が難しい。。。レンジャーだね。

子どもの頃、ドリトル先生や「積み過ぎた箱船」を読んで、大きくなったら獣医としてアフリカに行きたいとずっと思っていた。でも高校の生物の授業は退屈で退屈で耐えられなかった。わたしもどっちかというと、生物の研究派では無くて、未確認生物発見したい派なのかもしれない。特に若かった頃は。年齢とともに落ち着いてきて、一つのことに集中できるようになってはきたが。