あれからまた時間が経ってしまった。(r2: 日本人の性格構造とプロパガンダ)ルース・ベネディクトの「日本人の行動パターン」に影響を与えたという、イギリス人ゴーラーの報告書。3部構成になっていて、第1部と第2部は日本人の性格構造について、第3部は対日プロパガンダはこうすべしと言う具体的な提案になっている。この第3部はアメリカの公文書にも保管されていず、ゴーラーの故郷の大学に残るのみ。それを著者は閲覧して翻訳した。
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記憶に残ったのは、日本人のしつけ、特に清潔さ(トイレ)のトレーニング、礼儀作法など、幼少期のしつけのきびしさが、無意識の反抗心を生むと見ていること。就学年齢になると、癇癪によってストレスを発散することはなくなる。男の子は縦の序列に身を置くことになり、過剰に攻撃的な言動は「嘲笑」により制裁される。日本の社会の規範内では攻撃心のはけ口がない。それを開放できるのは戦争のみ。戦争によって心理的に充足感を得る。と、日本人が国内では礼儀正しいのに戦地では残虐な行いを平気でするのはなぜかということについて、ゴーラーは説明している。
日本人は西洋人のように飢えに対する恐怖を持たない。悲しみ・苦痛は受け入れるべきものであって、個人の幸せは最初から放棄している。日本人が怖れるのは「嘲笑」「あざけり」。
→ 反戦のプロパガンダにおいて、戦争の恐怖や危険・苦痛などのテーマは日本人には効果は無い。効果があるのは、軍人や政界のリーダーたちへの侮辱。ただし天皇に手を出してはいけない。
(西欧で行われているタイプの反戦運動は、戦前のマインドを持つ日本の国粋主義者に対しては全く逆効果ということになる。)
日本人の男性の社会は服従と尊敬によって成り立つ。女性(母親)は感傷的に愛され、冷遇され、憐れまれ、見下されている。家庭内でこのように育てられた日本人は、国際的にも特徴的な行動が見られる。日本人はすべての社会を男女に分け、それに応じたふるまいをする。他の国々や人種を「男か女か」をもとに「服従か否か」という基準で見ている。
日本人は、外部から攻撃を受けた際、仲間同士一枚岩となるということはない。仲間の一人が外部から批判されると、内部の仲間から非難される。他の集団から賛同を得ている場合にのみ自分の集団からも支持を得られる。そのため、仲間内だけでなく外部の目から見ても自分の地位を確立したいという強い衝動をもっている。国際的な貢献など。
(しかしその相手のためという思い込みが拒絶されると、侮辱されたと思って逆上するとベネディクトは述べている)
→ 日本人といい関係をつくるには、対等な仲間・ライバルというよりは、兄と弟のような縦の関係をつくることが望ましい(兄弟と言っても愛し合う必要は無い)。一般的に国際社会において行われるアメとムチの交渉取引は絶対やってはいけない。日本人とは議論をするのではなく、父親のような態度で「文明的な態度とはこうである」という風に命令を下すのが受け入れられやすい。哀れみに訴えるのは絶対に避けなければならない。
(これは裏を返せば、日本にはフェアネスという概念はないので、足下を見られてつけ込まれないように気をつけねばならないともとれる)
日本人は、適当な場所で適当なふるまいをすることをしつけられているので、ルールがわからない場所では非常に不安になり、未知の場所を怖れる。相手の行動のパターンがわかるまで徹底的に知ろうとする。
→ 軍事上の混乱を起こすには、日本人が理解できる程度の複雑さで、一連のパターンが急激に変化するか、二つがお互いに相容れないパターンのいずれかをラジオを通して流すことが効果がある。(サッカーの戦術にも使われそう)
→ 無条件降伏の見返りとして、日本人にとって未知の知識・技術を授けるという提案をするのはどうだろうか?(ベネディクト)
イギリス人であるゴーラーは、アメリカ人は文化の異なる他国を理解し支配することに慣れていないので、植民地支配を通してそういうことに慣れているイギリス人に戦後日本の統治はまかせるべきと言っている。実際はそうはならなかったが、ゴーラーの提言は対日占領のバイブルと呼ばれ参考にされた。
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ベネディクトもゴーラーも、絶対に天皇を攻撃してはいけないと提言している。天皇制がなくなると、国民が「浪人」となり彼ら自身の意志により全員死ぬまで戦いが続くことになると。日本は降伏したが、文化人類学者・社会学者の分析と提言により、天皇制は残された。
わたしは、敵国を研究分析することで、無駄な流血を防ぎ平和に占領政策が行われた、その学者たちの仕事を尊敬する。おかげでわたしたちにとってかけがえのない天皇制が残った。
これによって民族が消滅することは避けられたが、責任の大元が罰されることがなかったことと引き替えに、今も占領時の体制が続いている。そのせいで敗戦の事実がなかったように錯覚している人たちもいる。
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日本の基準と他国の基準は違う。「話して分かる相手じゃない」というのは、相手に対する研究分析が足りないから。同時に自国の研究を十分にして、国際的な立場から見た日本社会の特殊性を言葉にして子どもにあらかじめ教えておくべきだと思う。道徳の時間にやってほしい。でないと、他国と接するときに自分でもわからない矛盾に苦しみ、時間やチャンスを無駄にしてしまう。日本の基準と他国の基準のどちらがいい悪いではなく、違いを知っておくことが大切。その違いを言葉で説明できることも。
ゴーラーによると、日本人の性格の全てを決定しているのは、幼少期のトイレットトレーニングだそう。彼に今の日本のトイレの進化を見せたかった。
ベネディクトやゴーラーが分析する戦前の日本人像は、今も同じか?変わったか?大政翼賛風の発言をする人全員に、紙おむつで育てられたかそうでないか聞いてみたい。誰か調査してくれないかな?
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日本と他国(特に一神教の国)の価値観の違いは、絶対的な善悪があるか否かだと思う。日本においては倫理は債務の大系をなしている(ベネディクト)。日本においては、ある場面・状況におけるふさわしい行いが決まっている(ゴーラー)。
たとえば、日本では(当時)ふだんは禁欲的でも特定の場所(遊郭など)では快楽にふけることが出来る。大事なのは、ふさわしい場所でふさわしい行いをするということ。キリスト教の世界では、場所や状況により倫理基準が変わると言うことはない。(慰安婦問題や、現代の日本の人身売買問題の根底にはこれがあるかも)
外資系の企業に勤めているとき、職場であの人はいい人だという時、それは誰に対してもフェアだという意味だった。その後勤めた古い体質の日本企業では、いい人とは自分にまたは自分たちのグループに便宜を図ってくれる人という意味だったなーと思いつつ。。
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翻訳者 福井七子さんの研究(pdf)
研究論文
ルース ・ ベネディクト、ジェフリー ・ ゴーラー、 ヘレン・ミアーズの日本人論・日本文化論を総括する
Benedict's, Gorer's and Mears' view of Japan and its people
福 井 七 子
FUKUI Nanako
外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部・外国語教育学研究科より
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ラジオのポッドキャストを聞いていたら、突然ルース・ベネディクトの名前が出てきてびっくりした。あまり話題にならない本だけど、読んでいる人いるんだね。