少年使節がヨーロッパに行っている間に、キリシタンを保護した信長は暗殺され、秀吉の天下となった。
信長は、当時としては非常に珍しい、近代的な合理主義者だったと著者は分析しています。がゆえに暗殺されてしまった。明智光秀のバックにいたのは誰だったかについても書かれています。信長暗殺のいきさつを読み、その夜フリーチベットの集会の中継の再放送をオーマイニュースで見、うーむ日本は呪術によって保護支配されている島国だなあと感じました。
日本に最初に布教に来たカトリック宣教師たちが属するイエズス会は、司馬遼太郎の「南蛮の道」を読むとよくわかるが、スペインバスク地方出身の元城主、元騎士団の隊長などで結成されたエリート集団だった。
もともと支配階級の軍人たちだったので、日本で布教をするにあたっても、まず領主に会い許可をもらってできればその人物を改宗させ、そうすれば領民も自然と改宗者が増えるだろうという、垂直型伝播方式をとった。それに対して、その後に来たフランシスコ会は、まず社会の底辺の人から布教を始める、水平型伝播方式だった。
イエズス会がトップダウン方式だったのは、元々自分たちがエリートだったからで、人は知らず知らずのうちに、振る舞いや判断において、生まれ育った環境の影響を受けるものだと著者は語っています。
そういう彼らだったので、日本の諸国の武将たちは、宣教師たちを外国人であっても自分と同じ職種・階級の者だと感じ軽んずる事はしなかった。宣教師は当時の日本の権力者にやすやすと近づく事ができ、日本社会の序列の外に居たので対等な立場で、倫理や宗教という深いテーマについて話をし、彼らの世界観を知る事が出来た。
それらは逐一ローマへ報告され、当時の文書は今も残っていて、現代イタリア語で読めるそうです。その筆致は、冷静で客観的で、キリスト者というよりはジャーナリストに近いと著者は言います。
さて、信長が死んでしまったので、国内で安全に布教をできるという許可が無効になってしまった。それで宣教師たちは、秀吉に面会して許可をもらう。秀吉は、信長のアジア戦略構想をそのまま引き継いだ。しかし、信長に比べていくらかは信心というものを持っている、普通のタイプの人間だった。
宣教師のうち、コエリョとフロイスという2人は、秀吉が九州を平定するのに苦慮していると知ると、協力できる事を示して取り入ろうとして、大友、有馬などキリシタン大名を動かしましょうと請け合う。それどころか、朝鮮半島に討って出るときは、ポルトガル船を用意しましょうとまで言う。
それを聞いていた、日本人というものをよく知っているオルガンティーノ、ヴァリニャーノたちは、2人が非常に危険な発言をしていると思って焦った。秀吉は上機嫌な顔をしながらも、キリシタンが戦力になること、いつかは自分を脅かす勢力になるかもしれない事を、その瞬間に確信したと悟って。人間関係を「支配」「被支配」という形でしか結べず、自分に自信がない支配者だった。。。と著者は秀吉を評しています。
猜疑心の固まりで、いつかは自分を越えるかもしれないものを許す事ができない。宣教師たちは、そのような性格を秀吉に限ったものでなくて、当時の日本の武将たち全般に感じていた。というのも、当時の日本では、家臣による裏切り、寝返り、だまし討ちが横行していた。例外は高山右近などキリシタン大名で「デウスを信じるものは、主君に忠実で正直です。キリシタンの家臣は絶対に裏切りません。」というのが、宣教師たちのウリ文句だった。
秀吉はキリシタンの家臣を利用して九州の島津を征伐した。しかしその後。。。つづく。