レット・イット・ビー

レット・イット・ビー 単行本 - 1988/11 若桑 みどり  (著)

若桑みどりにしては珍しくエッセイ集。女性画家列伝 - r2を出版した後の反響について書かれた一文がある。

    この本(「女性画家列伝」)かへの反響から私が学んだことは、女性の自立と解放なしには、男性の解放も自由もないのだということを、最も切実に知っているのは、実は妻子を持った壮年か老年の男性なのだ、という事実である。そのことは同時に、女性の解放という問題は、男女を越えて人間性そのものを圧迫し差別しているあらゆる桎梏(しっこく)の取り壊しによってしか実現されない、ということを意味している。p163

まさかと思ったが、このほんのタイトルは、ビートルズのあの「Let It Be」のことだった。

    私は美術史家だけれども、ほんとうに悲しいときは、音楽を聴くのであって、絵を見るのではない。打ちのめされている心には、絵など何の役にも立たない。だれでも生きているうちには、この夜の明けるまでとうてい生きていられまいと思うような夜がある。

    "夜の空に雲がたれこめても、わたしの上に射す一筋の光はある。その光は朝まで続き、消えはしない。わたしは音楽によって目覚め、聖母マリアがわたしのそばでささやくのを聞く。すべてをあるがままにあらせなさい。きっといい日がくる。" p218

    どうしようもない状況を暴力的に変えようというのではない、さりとて、それに従えととか、満足せよというのでもない。そういう状況の中でも、やけを起こさず、希望を捨てないといういうのである。 p219

小学生の頃からそらんじていたこの歌詞。中学で卒業したと思っていたビートルズ。若桑さんのテキストを読み、久しぶりに聴いて涙が。。。子どもの頃は知っているようで、本当の意味がわかっていなかった。

日本人は何を考えてきたのか 昭和編 戦争の時代を生きる 単行本 - 2013/6/22 NHK取材班 (編集)

福岡伸一、西田哲学を読む――生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一 - r2 を読んで、この本を読もうと思った。

    プロローグに、福岡伸一が西田幾太郎に興味を持ったきっかけは、NHKの番組「日本人は何を考えてきたのか 第11回 近代を越えて〜西田幾多郎と京都学派」に参加したことだったとあった。その番組のテーマは、第二次世界大戦前夜における日本の代表的な哲学者たちの戦争責任についてだった。

学生時代に美学美術史の先生に言われたことを思い出す。
「哲学(美学)とは、楽しみであって、それで世界を変えるための手段では無いんだよ」
先生は、わたしが世界に対する怒りをもって哲学(美学)に接していると感じられたのかもしれない。

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三木清だけが二十世紀の戦争の現場を経験した。当時の首相東条英機も陸海軍首脳の多くも日米戦争の現場経験が無かった。戦争の現実を体験した人が指導層にほとんどいなかった。政治指導者も軍人も知識人も二十世紀型の戦争の難しさと恐ろしさを十分に想像できなかったのではないか。哲学者だけではどうにもならなかった。言論の自由がないのが致命的で、各分野の専門家・実務家と一緒に議論して日本の未来を構想していくことができなかった。そのような状況では沈黙していることが政治的には賢明だが、京都学派の人たちは一縷の望みを抱いてどうにかしようと飛び込んでいった。(植村)

世界を語る言葉が求められた時代に、言葉を政治利用に差し出すか、自重して普遍的な物として留めておくか、その判断が個々の哲学者に試された時代だった。西田本人は持ちこたえたが、弟子たちの中には積極的に言葉を時局の中で踊らせてしまった、あるいは巻き込まれてしまった人たちがいた。言葉を信じ、言葉を操るものとしての哲学者のスタンスが厳しく試された時代だったと感じる(福岡隆)

西田哲学は時代の激流に飲み込まれてしまった面があると思うが、「日本文化の問題」を読んで大事なことに気がついた。それは類希なる生命論がそこで語られているということ。西田は「全体」と「部分」についてその二つは同時的なものだと言っている。「全体」と「部分」が呼応しているというのは、現在の生命科学が直面している重要な問題。西田は、一つ一つの部品は全体でもあり、全体は一つ一つの部品でもあり、生命はある種の関係性のなかでとらえなければならないと言っている。これは非常に古くて新しい生命観。生命というのは「合成」と「分解」という一見矛盾することが同時に起こっている。西田の言う「矛盾的自己同一」がそこで起きている。こうした生命のあり方を「動的均衡」と呼ぶ。このビジョンがすでに「日本文化の問題」に書かれている。関係性や同時性、「全体」と「部分」の不断の連続性によって生命が成り立っていると。(福岡隆)

哲学とは何か。私たちには固定したものの見方がある。そのフレームに対して批判的であり得る「知」だと考える。従来の枠組みを越えて出ていく自由を持った学問。越えて出ていくためには、自分がフレームを持っていることに気づかなければならない。そのために大事なのは異なった考え方をする人との対話。東アジアに限らずアメリカ、ヨーロッパ、イスラム圏など様々な考え方の人たちが対話する場が出来上がってくればそれぞれが自分のフレームの限界に気づくと思う。そこから新しい哲学が生み出されていくのではないか。(藤田)

決められたこと、決まったように見えること、それは全てではない。もっと別なことがある、その外があるというセンス。それが非常に大切。(上田閑照)

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哲学の門から入るとよく理解できないことも、生物学の門から近づくと、それは結局こういうことなのかと理解しやすいことってあるのね。応用編(部分)を理解できて、初めて概論(全体)が理解できるという手順。哲学者がたどった道を一緒に歩いて到達点に着けるというか。

日々悩まされる些末な問題を背負って耐えながら生き、他人とそれについて話して共通することに気づき、ふーんこの荷物はそういうものなのだと問題が自分だけのものではなくなり気にならなくなった時、それを壊す言葉や出来事が現れ、自分たちが絶対と思っていた理は本当にそうなのだろうかと疑問が起きる。そのとき!未知の価値観に対応できる力があるか?その力を鍛える筋トレが哲学という学問なのかな。

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私は、911の報復でアフガン空爆〜イラク戦争が行われたとき、哲学や宗教に激しく落胆してしまった。全世界の良識ある人々(特に宗教界、学界)は報復行為が間違いであり無意味な殺戮がゆるされるわけがないと分かっていたと思う、なのにあのような行為が実行されるに至ってしまったとは。異文化を紹介することを生業とするナショナルジオグラフィックス社が黙っているのにも腹が立った。

悲劇が起きて、被害に会った当事者・当事国の悲しみ怒りの最中に、報復という手っ取り早い解決が採用されようとしているとき、それを諫める上から目線の情報を降らせるのは、多くの人にとって時期的に受け入れられないときもあるかもしれない。哲学・学問が人間にできることって何なんだろうか?

福島の原発事故が起こったとき、不遇に耐えて原発の危うさを啓蒙し続けた学者たちが再評価され、逆に政府寄りの見解の裏付けを提供していた学者は御用学者と罵られたが、あれから数年のうちに節電という言葉もきかれなくなり、事故のことも、あのとき怒りとともに語られたことも、すでに忘れられつつある印象がある。

戦前、戦時中に起こったことは、他人による愚かな行為、自分とは無縁の遠い出来事とは言い切れない。その後も学問が試される出来事は続いている。やっかいなことに、やって失敗してみなければ(部分)、本質(全体)にたどりつけない。悲劇を回避するにも、あらかじめ血を流さなければならない。またかたくなに真理(全体)だと思っていたことが、(部分)でしかなかったということもある。

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学問・哲学が、希望やみちしるべになり政治的に人々を導くという面もあると思うが、逆に、具体的に何の役にも立たずただあるだけという面もあると思う。むしろその方が多い。しかしそういうものの中に、過酷な人生のなぐさめがあると思う。「はー自分が悩んでいることは、そういうものか、みんなそうなのか」という。

わたしが今一番、宗教界、学界に頑張って欲しいと思うのは、老年期のあるいは人生の終末に関すること。日本の歴史上いや世界でも、名を残す人は大体早死だった。長生きした人も、今ほど高齢でなかったと思うし高齢者の人数も多くなかった。キリストも若死だったので老人の心はわからないままだったと思う。どうか名だたる宗教者・学者は長生きして、老年期にこそ頑張って、それも若い頃からの研究を続けるのはすっぱりあきらめて、老年期の心の研究をして世に発表してほしい。私の大叔母(シスターT)は宗教者としてキャリアのある人だったが、老年期の心の問題は当事者としては初めて対面することのようで大変だったようだ。若い頃の時間を支えてくれた宗教(価値の体系)が、ずっと老年期まで支えてくれるのか?「学問すること」がその人を支えていた場合、それができなくなった時、何が残るのか?

*このblogに出てくる私の大叔母は二人いて、どちらもカトリック信者でまぎらわしいので、イニシャルを付けました

10万個の子宮:あの激しいけいれんは子宮頸がんワクチンの副反応なのか 単行本 - 2018/2/9 村中 璃子  (著)

反ワクチン運動の真実: 死に至る選択 単行本 - 2018/5/8 ポール オフィット (著), ナカイ サヤカ (翻訳)

SNSで、ワクチンが危険という記事や、著書の紹介や、映画上映のお知らせなどが、タイムラインにあらわれる。投稿する人は善意で、しかし何も考えずに情報をシェアしている。元の情報をシェアした人が、自分が信頼できる人だから、同業者だからという理由で。

ワクチンが有害なのか、無害なのかは、科学的に検証すればすぐわかる。でも、だからといって人々がその事実を受け入れるかどうかは別だと言うことが、この本には書かれている。日本における事情を書いた本では、レビューを読むとほぼ高評価だが、少ないながら徹底的な(長文の)低評価が頑なにある。一方海外での歴史上の経過を書いた本では100%高評価だ。

ワクチンに疑惑を感じる理由として
・自閉症や、思春期の少女の神経症が、多数存在するとそれまで世間で知られていなかったため、急に増えたと感じる。
・ワクチンが高価すぎる。製薬会社・行政・医師が結託しているのではないかという陰謀論に陥りやすい。
・過去に、実際にワクチンの薬害があった。
などがあるという。

「自然」という幻想: 多自然ガーデニングによる新しい自然保護 単行本 - 2018/7/16 Emma Marris (原著), エマ マリス (著), 岸 由二 (翻訳), 小宮 繁 (翻訳)

「自然」という幻想 | 話題の本 | 書籍案内 | 草思社

【立ち読み用公開】「自然」という幻想 ――多自然ガーデニングによる新しい自然保護(エマ・マリス 著 岸由二・小宮繁 訳) - 草思社のblog

翻訳者がラジオに出演し、「手つかずの自然」とは、アメリカ発祥のカルト思想、と断言しているのを聞いて、読んでみました。

外来種×、在来種○、みたいなのをよく聞くけど、フィールドに出ていると、なにもかもそうとは言えないんじゃ?と思う場面がある。耕作放棄地に茂るアレチウリが、何もかもを飲み込んで低木をも覆ってしまっているのを見ると、嫌な気持ちになるが、冬になって里に下りてきたミヤマホオジロがそのタネをついばんでいるのを見ると、アレチウリがあってよかった!と思ってしまう。晩秋の花が少ないときに、コセンダングサやセイタカアワダチソウの花は、蝶たちにとって貴重な蜜源になっているし。

里山って、大陸からイネが渡ってきて、ヒトによって変えられた人口の自然ですよね。日本のそれ以前の自然からかなり変えられたはず。田んぼも残したいけれど、米の需要がないのに里山風景だけ維持するのは無理な気がする。

この本で著者は、現代人が思うところの「古き良き自然」に何が何でも戻すべきという考えが、ナンセンスだと論じていますが、だからといって何もしなくていい、というのとも違います。必ずしも過去の自然に戻す必要はないが、生物多様性は管理して守るべきと言っています。

(訳者は例として、池の水を抜くテレビ番組を挙げていますが、あれを見て楽しいのは外来種が駆除されるからでは無くて、ふだんよく見えない池の中に実はこんなのがいた!という単純な驚きだと思います。あまり心配しなくてもいいと思いますけど。。。)

辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦 単行本(ソフトカバー) - 2018/4/5 高野 秀行  (著), 清水 克行 (著)

「ゾミア」「ピダハン」について語られていたそれぞれの元本を読んでから感想を書こうと思っているうちに時間が経ってしまった。

高野秀行氏が、「西南シルクロードは密林に消える」に書いたコースを、彼より先に体験していた日本人、吉田敏浩さんから聞いた話。「原始的な焼き畑農業も鍬などの鉄器が無ければ難しい。彼らは文明を避けているのでは無く、交易し文明と関わることで生きている」みたいなことを聞いたというのが記憶に残った。

メモ:

ゾミア 国家支配から逃避する人たち。文字を持たない、文明から取り残されたのではなく、自らの意志で山岳で暮らす。しかし交流が無いわけでは無い。竹製品を作ったり焼き畑農業をするには鉄製品が不可欠(吉田敏浩さん)。それは交易によって得られる。国民国家に依存しなければ続けられない社会でもある。

ピダハン アマゾンの奥地に暮らす少数民族。数の概念が無い。過去や未来の概念も無い。

秘島探検 東京ロストワールド

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NHKスペシャルご覧になったでしょうか?
NHKスペシャル | 秘島探検 東京ロストワールド第1集南硫黄島

ふだん鳥や虫に興味が無い、友人・知り合いの男子諸君に大ウケでした。

まさに!
鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。 - r2
を映像で見ているようでした。著者の川上和人さんも映ってましたね!

そして今夜は
NHKスペシャル | 秘島探検 東京ロストワールド第2集孀婦(そうふ)岩
が放送されます。「そうふいわ」じゃなくて「そうふがん」だそうです。後者の方がかっこいい。

知り合いがドローンパイロットとして取材に同行したそうです。「山階鳥類研究所の佐藤さんにアホウドリの生態を超絶感動的に解説してもらったり。。。」だそうです!うらやましい!!

女性画家列伝

女性画家列伝 (岩波新書 黄版 318) 新書 - 1985/10/21 若桑 みどり (著)

有名医大の入学試験の点数に、性別によって一様に加点または減点されていたという事実が発覚した事件があり、単純に「ゆるせん!!」と怒りをあらわにする人々、「建前ではそうだが、過酷な医療の現場では女性は使えない」という人々、「じゃあさ、政府の働き方改革って何なの?」SNSは大賑わい。単純に考えると、
・今のままの体制を変えないために、女性医師を増やさない(それほど優秀でない医師に、がむしゃらに働かせる)
・女性医師の絶対数を増やして、医療現場を改革する(優秀な医師に適度に働かせる)
のどっちかだと思うけど。。。

わたしの大叔母(K)は娘時代に先生について絵を習っていたが、お見合い結婚した相手は、大叔母が絵を描いていると女のくせに生意気なと殴ったという。それに耐えきれず大叔母は乳飲み子を置いて家を出た。都会でタイピストとして働き自立できたが、子どもを置いて出たことで自分を許せず苦しんでいたときにカトリックと出会った。大叔母は自分をゆるしてくれる、神(父の代理であり夫の代理でもある)を手に入れ、心の平安を得た。

この本は帰省中に母の書棚に若桑みどりの名前を見て、おっと思って読んだ本。12人の女性画家についてその作品と生い立ちと人物についての考察。画家という仕事も女性にとってはきびしい仕事。若桑みどりは、女性が画家になる条件として、父親の存在または不在が大きいという。父が娘の才能を理解し男性と分け隔て無い教育を与えた場合、または最初から父が居ず家父長制の圧力から自由だった場合。そして仕事を続ける条件として、家族の理解と協力、または家族の不在があったという。

女性画家は男性画家より少ない。では女性には創造性が無いのか?そんなことは無いですよね。一人でできる制作はむしろ女性の方が担っている場合がある。でも大人数でのチームワークとなると、女性は排除されがちと著者はいう。

*このblogに出てくる私の大叔母は二人いて、どちらもカトリック信者でまぎらわしいので、イニシャルを付けました

縄文人に相談だ

縄文人に相談だ (縄文ZINE Books) 単行本 - 2018/1/24 望月昭秀 (著)

「ブログのせいで睡眠時間がありません」−>「ブログは現代の貝塚です」みたいな相談と回答がいっぱいのってるわけですが。。。ニヤニヤしながら読んでいるうち、ウッときたページがあった。
相談「植物をすぐに枯らしてしまいます」
回答「鉢植えとヒトは対等な関係です。言いにくいのですが、上から目線になっていませんか?」というページ。「。。。ヒトは自然との付き合いによって生かされている限り、逆に生殺与奪権は森にあると言っても良いのです。たかが鉢植えと思うかもしれませんが、鉢植えの背景には森が控えているのです。」(p24)という言葉がズーンときた。